書籍詳細
ツンデレ猫は、オレ様社長に溺愛される
ISBNコード | 978-4-86669-335-4 |
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サイズ | 文庫本 |
ページ数 | 232ページ |
定価 | 831円(税込) |
発売日 | 2020/10/23 |
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電子配信書店
内容紹介
人物紹介
松井亮司(まつい りょうじ)
ヤマネコを先祖にもち猫耳と尻尾を隠し人間界で生活している。
宮内晴樹(みやうち はるき)
亮司の美しさに一目惚れ?IT系社長。
松井翔太(まつい しょうた)
亮司の弟。ドジっこで獣耳と尻尾を宮内に見られてしまう。
立ち読み
松井亮司は、歳の離れた弟の翔太を、目の中に入れても痛くないほど可愛がっていた。
生まれたばかりで目はまだ見えないはずの翔太が、ぱっちりした黒い瞳に亮司を捉えてにぱっと笑ったときから、心を奪われている。
もみじのような手が亮司の指をきゅっと握って放さない。側を離れると泣いて、抱き上げるとぴたっと泣き止む。しかも最初に口にした言葉は「にいたん」だったのだ。
可愛く思わないはずがない。
小さな頭に猫耳、おむつの穴からにゅっと伸びた尻尾。ふわふわの毛並みを優しく梳いてやると、気持ちよさそうにうっとりしている。
可愛い。世の中にこんな可愛らしい生き物がいるだろうか。
自分がずっと彼を守っていく。そう決めて共に成長してきた。守らなければ、翔太が危ういからだ。なぜならば……。
彼らはヤマネコを先祖に持ち、猫耳と尻尾を持つ一族だったからだ。そんな秘密が世間にばれたら、一族ごと存在を抹消されかねない。だから昔からひっそりと人間社会に紛れて、生活を営んできた。住んでいる「里」も、ごく普通の田舎として周囲に認知されている。
猫耳と尻尾を生やして生まれてくる赤子も、自意識が芽生えると次第にそれの出し入れをコントロールできるようになる。
耳と尻尾を隠せるようになって初めて、里から出て人間社会で生活することを許されるのだ。
完全に外での生活を選ぶ者もいるし、里に住んで学校や会社に通う者もいる。いずれにしろ出産と子育ては里でするしかないので、その時期だけはこちらに帰ってくるようになる。
亮司は早くから理性で自身を制御できていたが、翔太はなかなか里を出る許可が得られなかった。感情が昂ったときなどの拍子に、ひょいと耳と尻尾が出てしまうのだ。
残念だが危なくて里から出せないという長老の言葉も理解できた。しかし理性と感情は別だ。
里には高校までしかなく、大学生になった亮司が里を出て一人暮らしを始めたとき、翔太は大泣きをしていた。可哀想で切なくて亮司も辛かった。
しかしどんなに自分の傍に置きたくてもその状態では連れていくわけにも行かず、翔太が里を出てもいいと許可が下りて一緒に暮らせるようになる日を、首を長くして待っていたのだ。
親たちも応援してくれて、
「自制心を身につけて、耳や尻尾が出ないようになってからね」
母親にそう言われ翔太も頑張った。
そしてようやく、里を出ることを許されたのだ。
はれて十八歳。大学生になった翔太との念願の二人暮らし。
広い世の中を見せてやりたいと、亮司は心から思っていた。
ただ日常での心配はなくなった翔太も、未だに不意打ちには弱い。驚かされたりすると、何回かに一回はイケナイものが出てしまうのだ。
本当なら里へ帰すべきだが、自分がフォローすることでここで生活していけるならそうしたいと亮司は思っていた。
◇◇◇
信号は青だった。
とはいえ交差点だから、用心してスピードは落としていた。おかげで間に合ったのだと思う。
いきなり目の前に人が飛び出してきて、宮内晴樹は反射的にブレーキを踏んだ。
際どいタイミングだった。人を跳ねた強い衝撃はなかったが、接触したような微かな違和感はあった。
エンジンを切った宮内は、車を飛び出す。バンパーのわずか数センチ先に、少年が蹲っていた。一瞬心臓が止まりそうになる。
だが、前タイヤが少年のものらしいバッグを踏んでいるのが目に入り、感じた違和感はそれだったのかとほっとする。
まさに間一髪。
宮内はほうっと大きな息を吐き、額に滲んだ冷や汗を拭うと、蹲っている少年の側に屈み込んだ。「大丈夫か」と声をかける。
少年がびくっと身体を震わせ、顔を上げた。真っ青で怯えきった顔だ。これ以上怖がらせまいと、宮内は即座に柔らかい笑みを浮かべてみせる。
精悍で大柄、黙っていれば迫力ありすぎな宮内だが、笑みを浮かべると一転して親しみやすくなるらしい。少なくとも周囲からはそう言われている。
少年は、十六、七歳くらいの、まだあどけなさの残る顔立ちをしていた。造作が整っていて、可愛い子だという印象を受ける。
笑みを浮かべた顔でさらに話しかけようとしたとき、少年の帽子がはらりと落ちた。
現われたものに、宮内は驚愕する。
「なっ……、獣耳!?」
頭部に、まるで猫の耳に似た形状のものが突き出していたのだ。
凝視する宮内の視線に気がついたのか、少年がぱっと頭を押さえる。
引き攣った顔で怖々とこちらを見上げてくるのは、自分の状態を認識しているからだろう。
急ブレーキの音で、周囲に人が集まり出していた。咄嗟に、少年のこの姿を曝すわけにはいかないと判断する。
宮内は地面に落ちた帽子をさっと拾い上げて、少年に被せた。
「押さえていろ」
低い声で囁くと、反対側の腕を掴んで立ち上がらせる。
「やれやれ、大丈夫そうだな」
わざと大声を出して、服についた土埃を大げさに払ってやった。
「急に飛び出してくるから、肝を冷やしたぞ」
けたたましい急ブレーキの音でこちらに注目していた周囲の関心は、たいしたことはなさそうだとわかると自然に逸れていく。先走って警察を呼んだ者もいないようだ。
少年に小言を言いながら腰回りを軽く叩いていた手が、もう一つの異状を認める。臀部が不自然に膨らんでいるのだ。
まるで尻尾がそのあたりにわだかまっているかのように。
信じられなかった。猫耳と尻尾のある人間なんて、見たことも聞いたこともない。ただの作りもので、こちらを何かのペテンにかけようとしているのではないかという疑いもあり、対処に迷う。
が、とりあえずは移動だ。
宮内はさりげなく自分の身体で背後を庇ってやると、少年の腕を引いて自分の車の後部座席に押し込んだ。
「ここを離れよう。人目が多すぎる」
助けてくれる相手だとわかったのだろう、少年が頼りなさそうな顔でこくんと頷く。その様子に庇護欲を掻き立てられると同時に、悪戯ではないと確信した。
これでも人を見る目はあるつもりだ。この少年にそんなことができるとは思えない。
一旦車をバックさせ、タイヤの下から少年のバッグを引っ張り出して助手席にぽんと放ると、運転席に腰を下ろした。エンジンをかけ、車をスタートさせる。もうこちらを見ている者はいなかった。
どこへ行こうかと思案したが、この状態の少年を連れていけるのは自宅しかない。
マンションに向けてハンドルを切りながら、宮内はバックミラーでちらちらと背後を確かめた。少年は蹲ったまま帽子が脱げないよう、しっかりと押さえている。
猫耳と尻尾を持つ人間……。
本当にそんな生物が存在したとは。
マンションに着くと地下駐車場に車を停め、少年を促して直通のエレベーターで上層階に向かう。
住まいは高級マンションの最上階を独占している。高層階からの眺望が気に入って即決した部屋は、リビングルームにある天井から床までの大きな窓が特徴だ。まだ夕闇には早い時間だったから、地上のパノラマが一望できる。
だが連れてこられた少年は周囲に視線を向けようともせず、バッグを命綱のように抱え込んで項垂れていた。その姿を見ると、抱き締めて「もう大丈夫だ、何も心配しなくていい」と慰めてやりたくなる。
もともと宮内は情に篤く、子供の頃は、捨て犬や捨て猫を拾ってきては親にため息をつかせていたのだ。三つ離れた兄は、馬鹿じゃないのかとそれを冷ややかに見ていたが。
それと同じ義侠心めいたものを、少年に感じている。自分が庇ってやらなければ、この子はどうなるのかと案じる気持ちだ。
宮内は「さあさあ、気を楽にして」と少年の肩を押して、ソファに座らせる。そして自分もその横に座り、帽子を取るように促した。
「見せてくれないか? ここなら平気だろ。俺はもう見ているし」
すると少年はこくんと頷き、そろりと帽子を取った。そのまま手の中に帽子を握り込む。
緊張して硬くなっている少年の手を優しく叩き「大丈夫だから」と宥めた。そして少年を怯えさせないように気を遣いながら、猫耳に手を伸ばす。
被毛に覆われた薄い耳はちゃんと温かく、血が通っていることが感じられた。ビロードのような手触りだ。触れるとピクピクと反応するので、つい猫を触るように耳の後ろを掻いてやる。
少年が気持ちよさそうに半眼になり、トロンとした目を向けてきた。どうやら本物の猫と同じく、そのあたりを触られると気持ちがいいようだ。
それがなんとも可愛くて、愛でたい気持ちがさらに湧き上がる。撫で繰り回して可愛がりたい。だがそれはペットに向ける感情で、間違っても人に向けてよいものではない。まずいなと宮内は内心で呟いた。
「尻尾も本物?」
聞くと、少年はうんと頷いた。それからぼそぼそと説明する。
「驚くと出ちゃうんだ。だからなかなか里を出してもらえなくて。ようやく許しをもらって大学に通えるようになったのに」
宮内は密かに目を瞠った。大学へというからには、この少年は少なくとももう十八歳にはなっていることになる。だがどう見ても、十六歳そこそこ。纏う雰囲気がそれだけ幼いのだ。
世間から隔絶した場所で、大切に育てられた子供なのだろう。
そこが少年のいう、里、か。つまり里には少年のような人間が、猫耳と尻尾を生やした彼らが、集団でいる……?
それはなんとも眼福の光景のような気がする。
湧き上がる好奇心を、宮内は無理やり抑えつけた。今はまず、少年のことだ。
「君の名前を教えてくれないか」
優しく尋ねると、少年ははっとしたように居住まいを正した。
「ごめんなさい。助けてもらったのにお礼も言わないで。松井翔太といいます。助けていただいてありがとうございました。……でもどうせ無駄なんだけど」
きちんと躾けられたのだろう。自己紹介をして礼も言い、しかし言うと同時に悄然と項垂れた。
無駄? どうして? 無事でここにいるのに。
ひとまずこちらの名前も告げてから、その理由を問うことにした。
「俺は宮内晴樹だ。せっかく助かったのに、どうして無駄なんだ?」
「だってオレは泡になるから」
「泡!?」
突拍子もない台詞を、翔太は真面目な顔で言った。宮内はその彼をじろじろ見る。
別にどこもおかしなところはない。触れ合った肩先から、人体の温かさが伝わってきた。猫耳がぴくぴくと動き、チノパンのウエストからにょきっと覗いた尻尾の先が、落ち着きなく左右にゆらゆらと揺れている。
これがすべて泡になって消えるというのか?
どうにも解せなくて、説明してほしいと告げた。
「……見られたから」
翔太は、頭に生えている耳を撫で、長い尻尾を前に回して握り締めて言う。
「見たのは俺だけだが、それでも駄目なのか?」
翔太がこくんと頷く。
「家族じゃないから駄目」
「……だがまだ泡になる様子はないが」
指摘すると翔太は、自分の顔をべたべた撫でてから、
「ほんとだ。時間がかかるのかな」
と呟いた。
心細げにぐすっと鼻を啜っている。大きな瞳にじわりと涙の雫が浮かび上がる様は、子猫を彷彿とさせ、どんな大人の心も蕩かしてしまいそうな愛くるしさがある。
駄目だ。抱き上げてぐりぐりしたい。慰めてやりたい。
頼りない様子の翔太が、どうにも宮内の心を擽ってやまなかった。特に猫耳と尻尾を見てしまってはなおさら。
泡になるなんてとても信じられないが、もし本当ならなんとか助けてやりたい。それにはもっと詳しいことを聞かなければ。
「家族だったら大丈夫なのか? 泡になるのは他人に見られたとき?」
翔太が頷く。
「だったら、さっき里と言ったが、里の一族以外と縁を結ぶときはどうなる。つまり、外部の者と結婚するときは、という意味だが。見られてしまうだろ? ……いや、その場合は結婚できないのか。どうなんだ?」
理解したくて、思いつくままに言葉にする。
そのときの宮内には、異質な存在に対する排他的な感情は全くなかった。相手が、庇護欲をそそる翔太だったからだろう。
これが成熟した大人との遭遇だったら、得体の知れない生き物の脅威、という面で捉えて、もっと警戒していたかもしれない。
翔太が涙に濡れた瞳を拭いながら、宮内を見た。
「おじさん、親切だね」
思わずがくっとした。
「おじさんはよしてくれ。これでもまだ三十になったばかりなんだ」
嘆息しつつ訂正してほしいと申し入れる。ぱちっと瞬きしたあとで、翔太は仄かに笑みを浮かべた。
「じゃあ、ええと、宮内さん」
「まあいいだろ。で、どうなんだ?」
「結婚は自由だし、外の人と一緒になることもできるよ。家族になれば、見られても問題ないし。ただ、ちゃんと理解してくれて、ほかに漏らさないような口の堅い人でないと、結婚は難しいと思う」
「じゃあ、俺が君と結婚すればいいのか? そうすれば家族になるから泡にならなくてすむんだろう?」
「ええ!?」
翔太が目をぱちくりさせる。きょとんとしたあとで苦笑して首を振った。
「解決策を考えてくれるのは嬉しいけど、無理。宮内さん、男の人だし、オレも男だから結婚はできないよ」
「できるさ。アメリカでは同性婚が認められている」
「あ……」
宮内の指摘に翔太が口をぽかんと開けた。その頭に、言葉の意味がじわりと染み込んだらしい。
「確かに。じゃあオレ、泡にならなくてすむの?」
恐る恐る尋ねてくる翔太の頭を、宮内はぽんぽんと叩いた。
「とりあえず泡になるのを回避して、それからあとのことを考えたらいいんじゃないか?」
翔太がこくこくと頷き、笑顔を見せる。
「ありがとう。でも宮内さん、どうしてそんなに親切にしてくれるの? 今日が初対面なのに」
「そりゃあ君がそうなったのは、俺の車と接触しかけたせいだろ? そのせいで泡になって消えるなんて聞いたら、とてもそのままにはしておけないさ」
そう言ったときだった。いきなり携帯の着信音が鳴り響く。びくっとした宮内に対し、翔太はパアッと顔を輝かせて、自分のバッグに手を伸ばした。
「兄ちゃんからだ」
嬉しそうにいそいそと電話に出る翔太は、にこにこと満面の笑顔だ。本当に相手は兄貴かと邪推したくなるくらいに。これはかなりのブラコンだなと察しがついた。それだけ兄に甘やかされて育ったのだろう。
世間には仲のよい兄弟もいると知ってはいたが、宮内自身は冷えた関係の兄しか知らないから、翔太の様子は新鮮だった。しかも猫耳に携帯を押し当てて喋っている翔太は、凶悪に可愛い。兄でなくても甘やかしたくなる。
無意識に、翔太の兄に仲間意識を持った。一緒に翔太を可愛がりたい。同志よと、がしっと手を取り合って。
ま、それは単なる妄想だが。うん? そういえば翔太の兄も同族だ。彼も猫耳と尻尾を持っているのだろうか。その場合、彼も翔太に似て可愛いのだろうか?
思いついたらさらに興味が募る。ぜひ会ってみたい。耳と尻尾、見せてくれないかな。あ、駄目か。見られたら泡になるんだったな。
そんなことを考えていると、翔太が振り向いた。
「宮内さん、兄ちゃん迎えに来るって。ここの住所、教えて?」
宮内は住所を伝える。
「……だって。わかる?」
わかるという返事だったのだろう。通話を切り、宮内を見る翔太は元気になっていた。
「すぐ来てくれるって。いろいろ心配をかけました」
ぺこりと頭を下げてくる。
「よかったな」
もう一度耳に触れたくて頭に手を伸ばしたら、翔太はぱっと後ろを向き、天井から床までの窓に駆けていく。意識的に避けたのではないだろうが、宮内の手は宙に浮いてしまい、苦笑して引っ込めるはめになった。
「すごいね、この景色」
心配事を兄に預けてしまったからか、周囲に注意を向ける余裕ができたらしい。翔太は窓にべちゃりと顔をくっつけて、外の眺めを楽しんでいる。
夢中になっている翔太の頭では猫耳が興奮でぴんと突き立ち、ウエストから覗く尻尾も先端が左右にしゅっしゅっと動いている。
目の前で揺れる翔太の尻尾や、周囲の音に反応して動く猫耳に気を取られる自分は、結構アバウトな性格だったんだなとおかしくなった。触りたいと思うだけで、不可解な現象をあるがままに受け入れている。
これからやってくる兄に会うのが楽しみだ。翔太と同じように可愛いければいいな。そうしたら左右に侍らせて愛でるのも一興。
あくまでも愛玩動物を見る楽しみに頬を緩ませながら待ったその出会いが、ハブとマングースなみの最悪の出会いになるとは、そのときの宮内は予想だにしていなかった。
◇◇◇
「翔太、遅いな」
松井亮司は何度も時計に視線を落とす。その様子を目にした共同経営者の桜庭恭平が、笑いながら声をかけた。
「初めてじゃないんだ。翔太だってちゃんとここまで辿り着くさ」
「それはそうかもしれないが、もう約束の時間を過ぎている。寄り道をするはずがないし、連絡もしてこないのはおかしい」
桜庭は約束は何時だと聞き、まだ十分しか過ぎていないことを知ると呆れたように嘆息した。
「過保護すぎ」
「ほっといてくれ」
過保護なのは自分でも自覚している。だがあんなに可愛い弟を持つと、誰だって過保護になるに決まっているのだ。
里で純粋培養された十歳年下の弟は、人を疑うことを知らない。悪意を持って声をかけてくる者がいるなんて、想像したこともないだろう。
うっかり相手の口車に乗って連れ去られてしまったら。そのとき万一、耳と尻尾が出てしまったら。
と、どうしても懸念を抱いてしまう。
「そんなに気になるなら、自分から電話をかけたらいいじゃないか」
携帯、持っているんだろと桜庭に言われ、亮司は苦悩の表情で首を振る。
「翔太に言われたんだ。ちゃんと行けるから、迎えに来たら駄目だと」
「それって、そろそろ兄離れの兆しってこと?」
「言うな!」
思わず振り向いて怒鳴ったら、桜庭が噴き出した。
「どっちもどっちだな。親馬鹿ならぬ、弟馬鹿と兄馬鹿。ま、破れ鍋に綴じ蓋でちょうどいいじゃないか。いいから電話してさっさと迎えに行け。おまえがそわそわしてると、業務の邪魔だ」
桜庭に注意されて周りを見ると、開け放った役員室の向こうにいたスタッフたちが、困ったような顔をしながらも笑っている。
「ああ、すまん」
亮司は携帯を持って立ち上がった。すらりとした長身がドアの向こうに消える。桜庭の勧めに従って、翔太に連絡を取りに行ったのだ。
桜庭と共に起業したセキュリティ会社は、順調に業績を伸ばしている。防犯から会社の危機管理への助言、個人のボディガード、さらに調査部門まで手広くやっていた。
実働部隊に里から有能な人材をスカウトしてきたおかげで、客先からの評判もいい。彼ら全員が、ある意味特殊技能者なのだから、実績が上がるのは当然だ。猫並みの機敏な身体能力、人間よりも優れた聴覚嗅覚等々。この仕事にはうってつけの能力だ。
最初から裏方志望だった桜庭の代わりに代表として、亮司は爽やかなイケメン顔を、各方面に売っている。女子社員たちの中には、白皙の美貌にあこがれめいた視線を向ける者も多かった。
しかし、春に亮司が弟と同居を始めてから、周囲の目は何度も驚愕に見開かれた。クールで何事にも動じないと思われていた亮司が、弟のことであたふたしている場面を一度ならず目撃することになったからだ。
何度か会社までやってきた翔太の可愛らしさに皆納得はしながらも、それまで涼やかな貴公子ぶりを発揮していた亮司のでれでれに蕩けた顔に、居合わせた全員の顎が落ちたらしい。
「松井さんってツンデレだったんですね。デレの部分は弟さんにしか発動されないようですけど」
と女子社員がしみじみ呟いて、堕ちた偶像を惜しんでいたとかいなかったとか。
亮司は廊下の隅で、携帯を操作した。代表といえど、勤務時間中の私用電話は原則禁止、どうしてもというときは皆の邪魔にならないところで、となっている。桜庭と話し合ってそういう社風にした。
「翔太か? 今どこにいる」
迷ったんじゃないかという杞憂が、次の翔太の一言で現実の心配に変わった。
「事故!? 耳と尻尾が出た!?」
思わず声を上げてから、慌ててトーンを落とした。事故はともかく、耳と尻尾の話はまずい。社内には里出身でない社員もいるからだ。
住所を聞き出し、役員室に顔を出して桜庭を呼ぶ。
「翔太がやばいらしい。行ってくる」
「やばいって、どうしたんだ」
「事故にあったらしい」
気が急いているから説明も簡潔になる。だが、事故と聞いた桜庭が、そのまま駆け出そうとした亮司を引き留めた。
「怪我をしたのか。重傷か、どうなんだ」
邪魔をするなと苛立ったが、桜庭が心配するのももっともだ、とかろうじて自分を制す。
「怪我はない。だが、異常が出ている。今は、事故の当事者のマンションにいるらしい」
異常、という言葉で、暗に耳と尻尾が出たのだと知らせる。だがそう言った途端、亮司の腕を掴む桜庭の手にぐっと力が入った。
「相手は人間か」
焦慮を濃厚に漂わせた声に、亮司は頷いた。互いの目を覗き込むようにして、危機感を分かち合う。
「とにかく、行ってくる」
亮司が言うと、桜庭が手を放して一歩下がった。
「何かあったらすぐ連絡しろ」
わかったと返し、亮司はくるりと背を向ける。エレベーターを待つのももどかしい。一階まで非常階段を三段飛ばしで駆け下り、さらに駐車場までその勢いで突っ走った。
人に見られる心配のない夜なら、能力を最大限に発揮して、二、三階分一気に飛び降りることも可能だが、今はまだ明るくてさすがに人の目がある。やむを得ないと思いながらも、もどかしい気持ちは抑えられなかった。
ようやく車に辿り着き、エンジンをかけて駐車場から飛び出した。
赤信号で停まるたびに、苛立ちが募る。
電話の様子では翔太は無事らしい。だがこの目で見るまでは安心できない。そして、猫耳と尻尾が出た状態の翔太を保護しているという男。
何を考えているのか、翔太をどうするつもりなのか。里の秘密が漏れたからには、場合によっては長老直属の隠蔽部隊を派遣してもらうことになるかもしれない。
そして、そうなれば、翔太は里に連れ戻されてしまう。冗談じゃない。
「そんなこと、させて堪るか」
ようやく手許に引き取ったのだ。なんとかうまく解決してやりたい。
「翔太をこちらに来させたのが間違いだった、なんて絶対に言わせない」
亮司はぎりぎりと歯噛みをしながら、アクセルを踏み込んだ。
翔太がいるというマンションは、いわゆるデザイナーズマンションで、さらにそこの最上階とくれば、金持ち臭がぷんぷんする。
翔太を轢きかけたというだけで好意など抱きようもないが、それでもそのあとは保護してくれているのだ。
少なくとも表面上は愛想よくしなければならないと自らを戒めながら、マンションに到着した。来客用のスペースに車を停め、入り口に立つ。
驚いたことにそのマンションにはドアマンがいて、「どちらにご用ですか」と声をかけられた。
マンションなのにと思いながらも宮内の名前を出すと、今度は黒服のスタッフがやってきた。わざわざエレベーターホールに案内してくれる。
「専用のエレベーターなので、許可がないと作動しないのですよ」
スタッフの言葉に、仕事柄興味をそそられた。少なくともセキュリティは万全のようだ。
坪庭付きの重厚な門構えの前で、インターフォンのブザーを鳴らす。
途端に内側からさっとドアが開き、
「兄ちゃん!」
声と共に翔太が腕に飛び込んできた。
が、抱き留めようとして広げた腕は、空を切る。寸前で止められたのだ。
「こら、せめて靴くらい履きなさい」
咎めたのは、甘さを含んだ低めの声だ。耳に心地よく響く。
見ると翔太は、背後から男にひょいと抱え上げられていた。玄関内部が薄暗くて顔ははっきり見えないが、長身で体格もよさそうな男だ。
「あ、ごめんなさ~い」
翔太が照れたように男に笑いかけている。亮司はぎゅっと拳を握り締めた。
俺の翔太を!
その瞬間、亮司の中でこの男は、気にくわないヤツとして認識された。
翔太は人懐こいし他人を疑わない性格だが、こんな短時間でここまで相手に懐いたことはない。それを……!
自分の権利を侵害されたような不快感が走った。
だが、床にとんと下ろされた翔太が、靴を突っかけてあらためて腕の中に飛び込んでくると、亮司の頭の中から男の存在が消える。
抱え込んだ温もりをしっかり味わいながら、見える範囲で無事なことを確かめた。本当に怪我などはしていないようだ。よかった。
だが問題は、この猫耳と尻尾。
可愛いが、間違いなく可愛いのだが、普通の人間から見たら異様な光景だろう。よくぞパニックに陥らなかったものだ、としぶしぶながら男の自制心に感心したとき、翔太の爆弾発言が飛び出した。
「兄ちゃん、俺、宮内さんと結婚して家族になる」
「はあ!?」
まさに青天の霹靂で、亮司はしばらく言葉を失い呆けていた。ようやく意味が理解できて、唖然としたまま呟く。
「結婚? 彼と?」
できるわけないだろと返したら、翔太は一生懸命な顔で見上げてきた。
「できるんだって、アメリカに行けば」
そう言って翔太は後ろを振り向くと、男に笑いかける。
「ねっ、宮内さん」
「その通りだ」
肯定しながら、宮内と呼ばれた男がゆっくりと進み出てきた。
精悍で男前な顔が、はっきり見える。年齢は自分より少し上あたりか。可愛いと思っているのが丸わかりの、柔らかな笑みで翔太を見ていた。
なんだこいつは、とさらなる不快感に眉を寄せていたら、男が顔を上げ目が合った。
途端に背筋に、びりっと電流が走る。敵だ。
亮司は警戒して身構えた。自然に目つきが厳しくなる。
相手も、視線が交錯した瞬間、なにがしかの感慨を抱いたようだ。
一瞬目を見開き、そのあとで亮司の敵意が伝わったのか、眉を寄せて値踏みするような眼差しを向けてきた。
意識しないまま、翔太を抱いていた腕に力が籠ったらしい。
「兄ちゃん、苦しい」
「ああ、悪い」
慌てて腕の力を緩めたところに、男が声をかけてきた。
「とりあえず中に入らないか。玄関先でする話じゃない」
目は眇められたままだが口調は柔らかく、声だけ聞けば歓迎しているように聞こえる。それが翔太に配慮したからだということは、なんとなく伝わってきた。
〝翔太の前では互いの敵意を取り繕おう〟〝いいとも、こっちだって翔太は大事だ〟と。
勧められるまま中に入った。
「この度は弟がお世話になりまして」
白々しいが、一応きちんと頭を下げておく。少なくとも、好奇の目に曝されないよう守ってくれたことは間違いないからだ。
リビングに通され、目の前いっぱいに広がる大きな窓に目を奪われる。
高所恐怖症なら住めない部屋だとの感想を持った。そのあとで、室内のインテリアや家具類に素早く視線をやって値踏みする。
裕福なのは確かなようだが、思ったほどけばけばしくはない。落ち着いた色合いでまとめてあり、センスはいいようだ。
「座って。コーヒーでも?」
「いえ、すぐにお暇しますから」
「そうはいかないと思うぞ。なにしろ俺は翔太にプロポーズした男だからな」
ひょいと肩を竦めてキッチンに向かっていく。
人の弟を呼び捨てかよ、とその後ろ姿を睨んでから、亮司はソファの隣に座った翔太に視線を向けた。
宮内が淹れたらしいカフェオレを、猫舌の翔太はふーふー冷ましながら飲んでいる。危機感の薄い脳天気な弟の頭を、コツンと叩いた。
「こら、説明しろ。なんで耳と尻尾を出しているんだ。結婚するってなんだ。悠長に飲んでる場合じゃないだろ」
「ええっと……」
さすがに今の状況がまずいという自覚はあるのだろう。素直にカップを置き、訥々と説明し始めた。
約束の時間に遅れそうになって、道を渡ろうと飛び出したと聞いて眉間を押さえた亮司は、さらにそのとき翔太の方が赤信号であったことも聞き出した。
「でもその直前まで点滅していたんだよ。だから間に合うかと思って」
一生懸命言い訳をする翔太の言葉を聞きながら、亮司は嘆息する。猫耳尻尾の翔太がそうっと上目遣いで見上げる様は、凶悪に可愛くて、叱れなかった。だがここでがつんと言っておかなければ、また同じ失敗をしてしまうだろう。次はもっと大事になるかもしれないのだ。
したくないがここは厳しい叱責が必要だろう。
そう考えてふと、結婚の話はどこから出てきた? と翔太に尋ねる。
「翔太、なんで男同士で結婚という話になったんだ」
「それは、オレが泡になっちゃうから」
「はあ? なんでおまえが泡になる……」
言いかけて、そういえば、と亮司は思い出した。
そそっかしくて危機感のない翔太には、普通に言い聞かせたくらいでは駄目だと考え、強烈な印象が残るように、『泡になる』と周囲と口裏合わせをした上で脅していたのだった。
親にも否定するなと念を押しておいたから、翔太はまだそれが本当のことだと信じ込んでいるのだろう。
困った。どう説明すべきか。
悩んでいるときに、宮内がコーヒーを運んできた。
「ありがとうございます」
礼を言って受け取ると、宮内はにやりと意味ありげな笑みを向けてきたあと、翔太に話しかける。何を言う気だと警戒する亮司の前で、宮内はあっさりと暴露してくれた。
「翔太、どうやら泡になることはないらしいぞ。俺としては翔太を嫁にできなくて残念だがな」
「え?」
翔太はきょとんとしている。
「つまり、騙されていたんだよ。君の大事な兄ちゃんに」
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