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闇に溺れる運命のつがい

義月粧子 / 著
タカツキノボル / イラスト
ISBNコード 978-4-86669-354-5
サイズ 文庫本
ページ数 240ページ
定価 831円(税込)
発売日 2020/12/18

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内容紹介

…可愛い匂いしてるね
「もしかして発情してる?」オメガとは公言せず、弁護士事務所の調査員として働く祐樹は、エリート弁護士でアルファの倉嶋と目が合った瞬間、身体が震える程の衝撃を受ける。倉嶋から仕事を評価され、もっと彼の役に立ちたいと努力を重ねるが、ある日薬が効かず彼の体臭を嗅いだ途端、急に奥が疼き始め、倉嶋に捕獲されてしまう!? オメガのフェロモンのせいなのに、恋だと期待してしまう自分が惨めでも、彼の手を離すことができなくて…。エリート弁護士×孤独なオメガの発情ラブ
★初回限定★
特別SSペーパー封入!!

人物紹介

麻乃祐樹(あさの ゆうき)

オメガ。調査員としての仕事を認めてくれる倉嶋に一目惚れする。

倉嶋一颯(くらしま かずさ)

アルファ。パートナー弁護士で大企業の顧客をかかえるエリート。

立ち読み

 麻乃祐樹が初めて彼に会ったのは、某高等裁判所だった。
 祐樹は、上司の相田に誘われて研修目的で裁判を傍聴していた。そのときの被告側代理人が倉嶋一颯だった。
 倉嶋は、序盤は不利と思われていた流れを徐々に変えていった。強引だと思わせるようなことはなく、それでも気付いたら検察は追い詰められていた。
 その弁護内容の隙のなさ、目線の配り方から声のトーンに至るまで計算され尽くした振る舞いに、祐樹は目を奪われた。
 一目でアルファとわかる、人を惹きつける整った容姿。洗練されていてどこか冷たさを感じるほどだが、意識的に好印象を与える笑みを浮かべていて、傍聴人もつい彼に見入っている。
 決して声を荒らげるようなことはなく、むしろ淡々とそして穏やかだったが、その内容はどこにも逃げ場を与えないほど厳しい。そしてなにより、すっきりと論旨が整っていて実に気持ちがよかったのだ。
「苦労が報われるね」
 隣の相田が、祐樹にだけ聞こえるようにぼそっと呟く。
 祐樹たちは倉嶋がパートナーを務める法律事務所の調査員で、相田はこの日の訴訟にも関わっていた。
 彼が苦労して集めた情報は、それそのものは証拠としては扱われなかったものの、倉嶋は弁護方針を組み立てる上での鍵となると判断し、充分に役立ててくれたのだ。
 彼らの仕事は、忍耐が必要なのはもちろんのこと、ときには危険なこともある。違法ギリギリの調査をやらざるを得ないことも少なくない。しかしそうやって入手した情報が軽く扱われることはよくあることで、そういうものだと調査員は半ば諦めてはいた。
 しかしたとえ不十分な情報だったとしても、倉嶋のようにその情報の持つ力を見抜く弁護士もいるのだ。情報を活かすも殺すも弁護士しだいだということが、今日の裁判で明らかになったと云える。
 倉嶋が満足のいく展開にも表情を変えることはなく、ゆっくりと席に戻ろうとしたときのことだった。
 スーツのボタンを片手で外しながらふと目線を上げると、彼は祐樹たちが座る傍聴席を見た。
 もろに、視線が合った。…ように祐樹は感じた。
 ぞくんと身体が震えて、一瞬強い眩暈が起こって、慌てて目を閉じる。
 なに…、これ…。
 自分の奥深いところの何かが、強烈に反応している。苦しくなって、目を閉じたままうっすらと口を開いて深呼吸する。
 よく聞き取れないのだが、遠くで人の声がする。隠していたものが暴露されるような恐怖にかられて、慌てて目を開いた。が、視界はどこかぼやけていて、それが徐々に戻ってきたときには、倉嶋は既に被告側の席に着席していた。
「…では、二時まで休廷とします」
 裁判官がそう告げると、ざわざわと皆が立ち上がった。
「麻乃はこのあとどうする?」
 相田に声をかけられて、祐樹ははっと顔を上げた。
「あ、俺、ちょっと調べたいことが…」
「それって、例の…」
 云いかけたた相田の視線が、祐樹から離れて彼の背後に移った。
「相田さん、今回はありがとうございます」
 その声に祐樹は心臓が飛び出しそうになって、すぐには振り返れなかった。
 コロンの匂いだろうか、嗅いだことがない、複雑で濃い匂いだ。
「倉嶋さん! お疲れさまです。今日はお見事でした。検察も今ごろは控訴したことを後悔してるでしょう」
 祐樹はちらりと後ろを振り返ってみるが、視線を上げることもできない。上等な仕立ての濃茶の細いストライプのスーツと光沢のあるペンローズのネクタイが、細身で長身な彼に嫌味なほど似合っている。
「まだまだ油断は禁物です。さっきも裁判官が検察を呼んでたでしょ」
「…見てました。なんか入れ知恵してるんでしょうか。あれ、いいんですか?」
「さあ?」
 肩を竦めてみせる倉嶋に、相田ははっと気づいて祐樹を紹介した。
「あ、倉嶋さん、うちの調査員の麻乃です。今回の調査も協力してくれていて…」
 祐樹は慌てて頭を下げた。
「麻乃祐樹です。よろしくお願いします」
 やや上ずった声で自己紹介して、失礼のない程度に目線を上げた。
 倉嶋はちらと祐樹を見下ろしたが、まったく興味なさそうに冷めた声で「どうも」と返しただけだった。
「相田さん、頼んでおいた資料、今日中に手に入りますか?」
「あ、はい。五時までには何とか…。それより早い方がいいなら…」
「いえ、五時なら大丈夫です。もしかかりそうなら早めに連絡してください」
「了解しました」
「よろしく」
 さっと話を切り上げると、倉嶋は被告である高井やその家族と一緒に法廷を後にする。
 祐樹の存在などなかったようで、そのことに失望している自分に気づいて、祐樹はたまらなく恥ずかしくなった。さっきのわけのわからない反応も含めて、なぜそんな思い違いをしてしまったのだろうか。
「やっぱ、あの人と話すと緊張するなあ」
 相田がこそっと祐樹に耳打ちする。
「ビジネスライクでクールだよな…。態度も言葉遣いも丁寧なんだけどどっか威圧感あるし。いかにもアルファって感じ。俺ら、ベータとはやっぱ違うな」
 相田の言葉に祐樹は曖昧に頷く。祐樹は実はオメガだったが、こういうときには否定も肯定もしないことにしていた。
 たいていのベータは自分の周囲は殆どがベータだと思い込んでいて、ふだんはそれを意識することもない。アルファは特別な存在で親しくなるほどの接点はなく、オメガにいたっては存在すら意識していないようだ。
 それは、オメガの側が自分がオメガであることを公言していないせいでもある。
 ほんの五年ほど前までは、オメガの保護を理由に学校や職場への届けが義務付けられていたのだが、オメガ専用薬の進化によって発情の抑制が可能になるオメガが増えたことで、逆に差別的であるとして申告制ではなくなった。
 それとは別にオメガに対する優遇措置はあって、学校や職場に届け出ることで発情期には公欠として処理されるのだ。薬の効き目が悪く発情期を抑制するのが困難なオメガは届け出てそれを利用することもあるが、そうすることで敬遠されたり暗に揶揄されることがいまだにあるので、多くのオメガはわざわざ申告するようなことはしない。
 祐樹もずっと薬で抑制できていたので、オメガであることは公言せずにこの法律事務所の調査部門でひっそりと仕事をしている。
 祐樹が在籍するR法律事務所は、所属弁護士数が五十人程度の中規模の事務所だが、同規模の事務所の中では大企業や資産家の顧客が抜きんでて多い、所謂セレブご用達事務所だ。海外の法律事務所との業務提携でM&Aなどの国際的な案件も多く扱う。
 都心の一等地にある高層ビルの上層階が弁護士たちのオフィスだったが、調査部の部屋は低層階の倉庫の隣で窓もない。
 そのことに祐樹は特に不満もなく、それよりもこんな立派な事務所で働けることを幸運だと思っていた。
 廊下に出ると、相田の携帯が鳴った。
「おっと、失礼」
 メールが入ったらしく、歩きながら確認する。
「え、今日かよ…」
 呟きながら、ちらっと祐樹を見る。
「麻乃、夕方身体空かない? 四時にS町のカフェで資料を受け取る約束してるんだ。それ貰いに行って、五時までに倉嶋さんに届けてほしいんだ。俺、別件が入っちゃって…」
「え、あ、はい…。大丈夫です」
 倉嶋の名前が出て、祐樹は少し慌てて返事をした。
「よかった。中は確認しなくていい。そのまま倉嶋さんに渡してくれたらいいから」
「…はい」
 相田は手順を説明すると、祐樹を残して急ぎ足で裁判所を出ていった。
 こんな形で、倉嶋とまた会えるなんて。しかしよく考えれば、倉嶋に直接渡すわけではなく、彼の秘書に預けることになるだろうと気付いて、思わず苦笑した。
 同じ事務所で働いていても、調査員の自分たちがパートナー弁護士と顔を合わせることは滅多にない。
 特に調査部でも一番下っ端の祐樹は、先輩たちの手伝いが主な仕事で、弁護士と直接打ち合わせたりすることもなかった。そしてその先輩たちにしても、弁護士と打ち合わせをする場合は、パートナー弁護士の部下であるアソシエイト弁護士とである。
 そういう意味では、パートナー弁護士は雲の上の存在に近かった。
 祐樹は一旦オフィスに戻ると、普段着に着替えてスーツをロッカーに片付けた。調査員はふだんはスーツは着ない。裁判所や堅い会社に行くときに着替える程度なので、スーツはもっぱら事務所に置いている。
 あの人のスーツ、カッコよかったなあと、ふと思い出す。
 祐樹は肩幅も狭く華奢すぎるので、そもそもスーツは似合わない。だからスーツの似合う男性には憧れる。
 そう、スーツは彼のような背が高くて肩幅のある人こそが着るべきだ、と祐樹は思った。上等なスーツは欠点を隠すが、彼のように欠点のない人はいいスーツを更に引き立てるから。
 それにしても、法廷であんなお洒落なネクタイしちゃうなんて…。よほど自分に自信のある人しかできないことだ。もちろん、お金も。
 それにあのコロン…。不思議な匂いだったし、彼に合っていた。どこのブランドだろう? 自分には似合うわけないのはわかっていたが、それでももう一度嗅いでみたいな。
 そんなことを考えながら、予定の仕事を急いで片付ける。
 途中、何度も電話がかかってきて、電話番の彼は何度も仕事を中断させられて、時間ギリギリで相田のお使いに向かった。
 この時間のカフェは学生で混雑していて、祐樹は何とか空いた席を見つけた。
 間もなくして約束の相手が現れたが、男は祐樹を確認するためにラインの画面をお互いチェックしただけで、余計なことは何も云わずにUSBメモリを差し出した。
 そして祐樹が何か云おうとするのを片手で制して、足早に立ち去った。
「…スパイムービーみたいだな」
 ぼそっと呟くと、祐樹も飲みかけのカフェラテを持って店を出た。
 相田はどうやってああいう人物を見つけてきて、取引しているんだろうか。そのあたりの詳しい話は一切教えてくれない。もしかしたら合法的な手段で入手したわけではないのかもしれない。
 元警視庁刑事の相田はいろんなコネを持っていて、その中には前科持ちの情報屋も入っているのではないかと、同僚の岸田が教えてくれた。
 検察の組織力に対抗するには、そういう危ない橋を渡らなければならないこともある。
 祐樹は相田に云われたように、店を出たときにそれとなく周囲を確認する。そして相田にラインを送っておいた。
 事務所に戻ると、エレベーターで最上階まで上がった。
 そこは自分たちのフロアとは別世界で、重厚な空気に圧倒される。エレベーターホールにかかっている絵は最近になって再評価されるようになった印象派画家のレプリカだが、原画は代表がそれ以前に購入していて、彼の部屋に飾られていると誰かが云っていた。
 ホールの先のオフィスはガラス扉で仕切られていて、祐樹は社員証のQRコードを読み取り画面に押し付けてインターホンを押した。
「調査の麻乃です。倉嶋弁護士のオフィスを…」
『…お待ちください』
 ややあって、モニターに秘書らしき女性が映し出された。
『倉嶋のオフィスです』
 麻乃は俄かに緊張して、なぜか持っていた封筒を相手に見せる。
「調査部の麻乃です。相田の代理で、倉嶋さんに頼まれていたデータを…」
「…お入りください。右手奥を左です」
 ガラス扉が開錠されて、祐樹は誘導に従う。左に折れたところで、廊下に立つ女性の姿が見えた。相手は祐樹に気づくと小さく一礼した。
 同じ事務所でこんな世界があったのかと、半ば感心しながら、祐樹も頭を下げる。
「わざわざすみません」
「あ、いいえ…」
 祐樹は小走りに駆け寄ると、メモリの入った封筒を差し出そうとした。
「どうぞ。こちらです」
 彼女は微笑むと、祐樹をオフィスまで案内した。
 てっきり秘書に渡すものだと思っていた祐樹は、ちょっと慌てた。
 え、また会える? いや、でも心の準備が…。ってか、準備って何?
「調査部の方が見えました」
 躊躇する祐樹をよそに、秘書はドアを大きく開いて促した。
「し、失礼します」
 緊張で声が上ずる。入るなり深々と頭を下げた。
「あれ、相田さんじゃなかった?」
 デスクに座っていた倉嶋は、祐樹を見るなりそう云った。
 上着は脱いでいて、無地の薄茶のシャツ姿が理想的な体型を映し出していた。
「あ、相田の代理です」
 そう云って持っていた封筒を差し出す。
「ああ、ありがとう。実は相田さんに急ぎで頼みたいことがあって…」
「相田は別件で、今日は戻らないと聞いています」
「え、そうなの。まいったな」
 倉嶋は眉を寄せると、目尻を長い指でトントンと叩く。そんな仕草も妙に絵になる。
「実はさっき情報提供があって、ある人物に張り付いてもらいたいんだけど…」
 それを聞いて、祐樹ははっとして、そして仕事モードにスイッチを入れた。
「あ、はい。では相田に伝えて…」
「できればこのあとすぐに…」
 すぐと云われて、祐樹は一瞬彼を見た。
「そう、急なんだ。その女性が、ある人物に接触する可能性が高いって。なので少しでも早い方がありがたい」
「…今夜でしょうか」
「云いにくいんだけど、今夜というより、今夜から」
「あ……」
 祐樹は頷いて、ポケットのケータイを探った。
「すぐに相田に連絡とります」
 一礼して一旦部屋を出ると、廊下に出て相田に電話をかける。仕事中だと出ない可能性もあるので、もう一台のスマホで素早くラインを送った。
 暫く待つと既読がついて、折り返し相田から電話がきた。
『俺、今日は十一時までは動けないんだよな…。他に誰か身体空く奴…』
 他と云っても、調査部には祐樹を含めて五人しかいない。しかもそのうちの一人はデスクワーク専門で、張り込みはできない。
「今、みんな出払ってると思います」
『だよな。…麻乃、おまえは?』
 ごくりと唾を呑み込んだ。張り込みの経験はある。ただ、相田かそれ以外の誰かと一緒だったが。
「空いて、ます」
『誰かが合流するまで、一人でやれるか?』
「…はい」
 祐樹は慎重に答えた。
『よし。部長には俺から連絡しとく。おまえ、尾行はうまいから大丈夫だ。とりあえずプランAでいこう』
「…了解です」
 祐樹は電話を切ると、すぐに倉嶋のオフィスに戻った。
「お待たせしました。早速かからせていただきます。詳細をお願いします」
「…もしかしてきみが?」
 倉嶋の表情からは不信感が透けて見える。祐樹は自分の態度のせいだと思って、背筋をしゃんとして小さく息を吸った。
「相田と交代するまでは私がやらせていただきます」
 殊更はっきりと自信を持って云う。それが少し露骨だったのか、倉嶋の目がふっとおもしろがるように細められた。
「そ? それじゃあ、よろしく」
 倉嶋はパソコンのモニターを回転させて、祐樹に見せた。画面には女性の画像が映し出されていた。
「N社の横川涼子。彼女が接触した人物を全部映像で押さえてほしい」
 正面顔ではない上に視線も合っていない。恐らく隠し撮りだろう。
「N社の営業二課ってことくらいしかまだ把握できてない」
「…わかりました。こちらで調べます」
 答えながら、じっと横川の顔を見た。記憶に残すために。
「これ、今の画像」
 倉嶋がUSBメモリを差し出した。
「もしかしたら空振りかもしれないけど…」
 祐樹はそれに黙って頷いた。張り込みが空振りに終わることは珍しくない。
「早速始めます」
「うん、よろしく」
 にこっと微笑まれて、祐樹の心臓は跳ね上がった。
 仕事モードに切り替えていたはずなのに、簡単にスイッチが切れてしまった。
 慌てて一礼すると、急いで部屋を出た。
 廊下に出ると、思わず自分の頬に手を当てた。なんか熱くなってる気がする…。まさか変なふうに思われてはいないだろうな。エレベーターの中で、さっきの笑顔を思い出して、慌てて打ち消す。
 しっかりしろ。仕事なんだから。
 調査部に戻ると、部屋には思ったとおり誰もいなかった。
 引き出しからメイク道具を取り出すと、鏡を見ながらメイク下地を塗り始めた。相田の云うプランAとは、すなわち女装のことだ。
 まだあまり慣れていないので、相田が教えてくれた女装男子向けの初心者用メイクの手順を見ながら、書かれたとおりに進めていく。
 それでも派手にならないように、アイメイクは薄めにした。大事なことはできるだけ印象に残らないようにすること。
 祐樹は造形はそこそこ整っているものの、ぱっと見の印象が薄い。表情が乏しいせいもあるが、なんというか花がない。オメガ特有の可憐さというか愛らしさとかが皆無だ。
 印象の薄さは、女装をすると更に顕著になる。男にも女にも見えて、歳もいくつくらいなのかわかりにくい。すべてにおいてぼんやりした印象しか残らない。
 目撃した相手が特徴を覚えにくい、それは尾行をする上ですごく大事なことなのだ。
 最小限のアイメイクを施して、薄い色の口紅をつける。そしてユニセックスなシャツとパンツに着替えて、セミロングのウイッグを着けた。
 ウイッグの微調整を行っていると、いきなりドアが開いて部長が入ってきた。
「…え、どちらさま…? って、麻乃か!」
「あ、お疲れさまです」
「お疲れさまって、どっと疲れたわ」
 部長は文句を云いながら、自分のデスクの引き出しから小型カメラを取り出した。
「みんな急ぎの案件抱えてておまえのサポートに回れないんだが、一人で大丈夫か?」
「尾行はやれると思います。カメラも…」
 部長が出してくれた高性能カメラを尾行用のリュックに仕込んで、スマホと連動させる。そして大容量のモバイル用バッテリーをリュックに入れると、ローファーに履き替えた。
「いや、普通に女子だな」
「…ありがとうございます」
 なんでお礼を云ったのかよくわからないが、とりあえず女装は成功ということで、祐樹は足早にビルを出た。
 祐樹が女性を尾行するときに女装するのは、女性は同性に対して警戒度を下げる傾向が強いからだ。ふだんから仕草も立ち居振る舞いもどちらかというと中性的な祐樹は、特に意識しなくても女装はすんなりハマる。
 途中タクシーを使って、終業時間の三十分ほど前にN社の本社ビルに到着した。
 セキュリティはかなり厳しくて、入構証がないとゲートの中には入れないし、数人の警備員が監視している。当然防犯カメラも数台が稼働中だろう。
 ビルに入る前に眼鏡をかけると、待ち合わせを装って、ゲートから出てくる社員たちに目を向けた。
 まだ終業時間前なので、人の動きはまばらだ。
 ふと、倉嶋からメールが入っているのに気づいた。
 それは倉嶋からというよりは倉嶋の秘書からで、横川に関しての追加情報だった。
『倉嶋が、麻乃さんによろしくとのことです』
 そんなただの定型文に、また祐樹の仕事モードが崩れた。
 薄茶のシャツに、少し緩んだペンローズのネクタイ。そして、今になって思い出す不思議なコロンの匂い。
 秘書の人たちも綺麗だったし、法廷で彼の隣に座っていたアソシエイトも美人だった。
 …って、なんでそんなこと考えてんだろう。
 そんなことを頭から追い払って、添付ファイルを読み始めた。
 弁護士からの資料は専門用語が多くて、慣れないと把握し辛いものが多いが、倉嶋のファイルは全体像が把握しやすいように工夫されていた。それを基に祐樹は関係者の顔写真を覚え込んでいく。
 終業時間が過ぎるとゲートから出てくる社員が少しずつ増えてきて、小一時間ほど待ったときに、横川が姿を現した。
 倉嶋からもらった画像とは印象が違うものの、祐樹は迷わず尾行を開始した。
 祐樹は人の顔を認識して記憶する能力に長けていた。誰に教えられたわけでもないが、人の顔を覚えるときには顔の中心部だけにフォーカスして記憶していた。髪型やメイクといった変化するものを記憶するのは無駄なことだからだ。
 調査部で研修を受けて、そのスキルに更に磨きをかけた今では、百人の似通った人物の中から同一人物を探し当てることもできるようになっている。顔認識のテストでは百パーセント近い的中率を誇る。
 祐樹の尾行に気付く素振りはまったくなく、横川は途中で同世代の友人らしい女性数人と合流して、商業施設の中にあるイタリアンレストランに入っていった。
 店の規模がわからないので自分も入るべきか迷っていると、スタッフに呼び止められた。
「お客様、ご予約は承っておりますでしょうか」
「あ、いえ…」
「申し訳ありません。今日は予約でいっぱいで…」
 祐樹はフロアの見取り図を見つけると、さっきのレストランに出入り口がひとつしかないことを確認した。そして反対側にあるカフェの窓側席が空いてるのに気づいた。
 急いで中に入って席を確保した。
 店の中は見えないものの、出入り口は見えるし、テーブルにはコンセントもついている。申し分ない。
 祐樹はリュックを置いてカメラ位置を確認したあとに、試しに彼女たちが入った店の名前をSNS内で検索してみた。
「なんだこれ…」
 どうやら人気店らしく、投稿時間の新しい順にずらっと画像が並んだ。どれもここ三十分以内の投稿で、もしかしたら店で食事中の半数以上の客が、SNSで料理の画像をアップしているのではないだろうか。
『○○○は今月三回目~。今日もウニのパスタに大満足~』
『×ちゃんお薦めの○○○。初めてだけど、予約とれてラッキー』
 そんな投稿が次々に投稿されていく。
 なんとも無防備な…。祐樹はそれらのアカウントをひとつずつチェックしてみた。
「これか…」
 ものの数分で見つかった。プロフィールに会社名を入れていて、写り込んでいるスカートの柄は彼女のものと同じだった。
 彼女は会社名だけでなく出身校も入れている。アルファベットによる略語だったものの、彼女にとってはどちらもステータスなので、隠すつもりもないようだ。アイコンも後ろ姿にしているが本人だ。
 名前と出身大学を入れて検索すると、いくつもの画像と他のSNSアカウントも出てきた。辿っていくと、出身高校までわかる。
 SNSの内容は二十代女性のキラキラ日記に過ぎなかったが、自慢が目的であったとしても些か私生活を晒し過ぎていた。書かれていることを鵜呑みにはしないが、それでもこういうタイプは警戒心がないせいか、フェイクがきわめて少ない傾向があるのだ。
 一日の投稿数はそう多くはないものの、遡って読んでいくと、日常の生活の報告記事が多すぎて、ストーカーがいたら一発で住所を突き止められそうだ。
 画像の投稿がやたら多いので、情報量も多い。クリスマスイルミネーションを撮っただけのつもりが、背景が写り込むからそこから多くのことがわかる。祐樹は既に彼女の自宅の最寄り駅を特定できている。本人は駅名は一切投稿していないにもかかわらずだ。
 更に遡って読んでいったが、デザートの感想が新しく投稿されたので、祐樹は冷めたコーヒーを飲み干して席を立った。
 横川は途中まで友人たちの一人と同じ電車で、その後乗り換えて一人になった後はずっとスマホ画面に釘付けで、祐樹は少しもあやしまれることなく、彼女のマンションの最寄り駅まで尾行を続けた。
 横川が改札を出て駅前のコンビニに入るのを確認すると、祐樹は少し離れたところで眼鏡を外して上着を着た。髪も後ろでまとめて同じコンビニに入る。万一、横川が車内にいた祐樹のことをおぼろげにでも覚えていたときに不信感を持たれないためだ。
 初めての一人での張り込みなのだから、念には念を入れる。
 マンションまでの道は人は少ないとはいえ無人ではない。祐樹は横川の後ろ姿が見えるぎりぎりの距離をとって、そして彼女がマンションに入るところを目撃した。
 マンションに近づいて、周辺をチェックする。小規模のワンルームマンションでごく一般的なセキュリティ。裏口はないようだ。
 祐樹は少し離れたところで、手袋を着けてリュックから市販の小型カメラを取り出す。角度を調整して設置台に取り付けると、もう一度玄関に回って適当な位置にカメラを取り付けた。
 これでマンションの前に待機してなくても、人の出入りは確認できる。
 ネットで調べると、周囲には時間貸しのパーキングがいくつかあって、祐樹はその場所を部内のグループラインに送った。
 防犯カメラの画像もラインで共有できるように設定する。
『今日中に合流できそう』
 暫くして、相田から返信があった。
 ほっとして、横川のアカウントを開くと、帰宅して早速投稿があった。
 他愛ない内容だったが、このあとは部屋からは出ることはなさそうだった。
 彼女のようなタイプは追跡がしやすくて本当に助かる。六十代後半以上のアナログ男性だとなかなか簡単にはいかない。
 少し離れたところで相田が来るのを待っている間に、これまでの経過報告をまとめることにした。そして再び横川の投稿を読む。
 どの程度盛っているのかわからないが、彼氏もいて、友達も多く、仕事も充実していて。週の半分は話題のお店で外食をして、本人曰く自分磨きのための英会話やヨガにも通う。そんな日常が垣間見える。
 自分と同世代の女性だと思うと、祐樹は自分の地味すぎる生活とつい比較してしまう。
 祐樹は今はまだ契約社員なので、生活はかなりギリギリだ。中途採用で、高卒、資格なし、経験なしだから仕方ないと割り切ってはいるが、生活が苦しいことに変わりはない。
 それでもうまくいけば、正社員に登用される道もある。それには評価をもっと上げていかないといけない。
 はあっと溜め息をついて、慌てて頭を振った。
 横川の日常は自分には何の関係もない。他人を羨んでも何も変わらない。
 さっき流し読みした、倉嶋の秘書から送られてきたファイルをもう一度読むことにした。
 その間も、数人の住人らしい人たちがマンションに入っていく。
 張り込みは、実はそれほど嫌いじゃない。特に夜はいろんなものを覆い隠すし、少しだけ自由な世界だ。
 そろそろ日付が替わろうとするときに、もうすぐ着くという連絡が相田から入った。
 祐樹はパーキングに移動して、合流した。
「お疲れさまです」
 声を潜めて車に乗り込む。
「違和感なくて毎回びびるな」
 相田は、祐樹を見るなりそう云って笑う。プランAだと提案したのは自分のくせに…。
「着替えた方が…」
「いや。男二人より男女の方が、万一誰かに見られたときにあやしまれにくい」
 祐樹はウイッグを取ろうとしてやめた。
「メシ食ったか?」
「はい。カフェで待ってる間に。コンビニでおにぎりも買いました」
「それもらっていい? 夕方にソバ食っただけでずっと食ってないんだ」
「どうぞ。足りなかったらコンビニ歩いて五分くらいのとこにありました」
「ここ来るまでにラーメン屋があったから寄りたかったんだけど、麻乃が一人で心細い思いをしてたら可哀想だと思ってさ」
 にやっと笑うと、おにぎりの袋を破る。
「…まだ一人で平気ですよ。ラーメン食べて来てください」
「いや、明日にするよ。今日はこれでいい」
 そう返して、かぶりつく。
 祐樹は相田に指示されて、タブレットをダッシュボートに取り付けると、そこに横川のマンションに取り付けたカメラの映像を映し出した。
 相田は食べながら倉嶋のファイルに目を通す。
「…すごい念の入れ方だな。今日の流れならよほどのことがないとひっくり返らないと思うんだけど。…おまえ、倉嶋さんと何か話した?」
「いえ。そういえば、倉嶋弁護士は判事が検事を呼んでたのを気にしておられたようですね」
 祐樹は思い出して、相田に聞いてみた。相田はおにぎりを食べながら苦笑してみせた。
「あれね…。検察が不利になると入れ知恵する判事って、けっこういるらしいんだよな。弁護士のあいだじゃ当たり前っぽい。知り合いの元検事の弁護士が、検事時代に判事からこういう方向で進めなさいって云われたことあるって云ってたしな」
 祐樹は初めて聞くことに驚いた。
「そんなの…、いいんですか?」
「いいわけないよな。有罪率が高すぎるから、検察にもプレッシャーかかってるってことだ。起訴したからには絶対に有罪を取らなきゃならない。地裁で無罪になったもんだから、本筋から離れて被告の人格批判に終始してたしな」
「…そもそも、人格と性犯罪は別ものなのに」
 相田は頷くと、お茶を一気飲みした。
「倉嶋さんは判事がフェアだなんて信じてないんだろうな。特定の事件でバイアスがかかりまくる判事が少なくない。性犯罪はそれが顕著だね。まあ無罪判決出しちゃうとメディアが大袈裟に書き立てて、SNSで裁判官が名指しで叩かれまくったりとかな。正義の暴走ってやつ?」
「自分は匿名の安全な場所にいて…」
「匿名だからって安全とは限らないがな」
 二人はそのあと隠し撮りのカメラの映像を編集したり、横川の投稿をまとめたりして、交代で睡眠をとった。
 翌日も通勤の行き帰りは祐樹が尾行をして、張り込みを続けた。
 尾行を始めて三日目の退社後。
 過去の投稿から推察するとその日はジムに通う日で、会社から出た横川は途中カフェに立ち寄って、新作メニューの写真を投稿していた。そこにパンツスーツの女性が近づいてきて、横川に話しかけた。
 祐樹はその顔に見覚えがあるような気がして、記憶を探る。
 女性はテーブルに何かを置くと、すぐに店を出ていった。
(あ……)
 思い出した。あの日裁判所の廊下で見かけたのだ。誰かと話をしていたような…。
 細い糸が繋がった気がして、にわかに緊張してきた。
 相田にメールを送って指示を待つ。
 話していた相手は誰だったか…、どんな状況だったか、祐樹は更に記憶を探る。なぜ彼女を覚えていたのだろうか。

「え、きみ、麻乃くん?」
 相田の指示で、女装のまま倉嶋のオフィスに駆け込んだ祐樹を見て、倉嶋は目を丸くした。
「あ、これ、…尾行で」
「へえ。可愛いねえ」
 おもしろそうに目を細める。


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