書籍詳細
お稲荷さまはナイショの恋人
ISBNコード | 978-4-86669-432-0 |
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サイズ | 文庫本 |
ページ数 | 240ページ |
定価 | 836円(税込) |
発売日 | 2021/09/17 |
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電子配信書店
内容紹介
人物紹介
狐塚恭成(こづか きょうせい)
神社巡りが趣味な大学生。偶然出会った光輝と狐の石像に魅せられ、那波稲荷神社に通い始める。
光輝(こうき)
那波稲荷神社に祀られている稲荷神。とある理由から孤独に過ごしている。
立ち読み
第一章
愛用の自転車に跨がり、爽やかな春風を切って走る狐塚恭成は、閑静な住宅街にある〈那波稲荷神社〉を目指していた。
半月ほど前に高校の卒業式を終えたばかりで、大学が始まるまでは自由に過ごすことができるため、趣味の稲荷神社巡りに日々、精を出している。
Tシャツに長袖のシャツを重ね、デニムパンツにスニーカーといういたってカジュアルな格好だ。
小顔で瞳が大きく、ショートの髪は茶色がかっていて、ふんわりとしている。
華奢な身体つきのせいか、背負っているデイパックがひときわ大きく感じられた。
「あっ……」
赤い奉納のぼり旗を目にした恭成は、ペダルを漕ぐ足を止めてひと息つく。
「はぁ……あれが〈那波稲荷神社〉……」
自宅から小一時間かかっただろうか。
必死に自転車を漕いできたから、額にはうっすらと汗が滲んでいる。
それでも、念願の〈那波稲荷神社〉を目の前にすれば、疲れなど吹き飛んでしまう。
「駐車場あるかなぁ……」
自転車を降り、あたりを見回す。
神社の中に自転車を乗り入れるのは憚られる。
かといって、初めて訪れた住宅街なのだから、そのへんに駐輪はできない。
駐車場があれば、空いているスペースに停めておくことができる。
「あっ……」
神社の駐車場の場所を示す看板を見つけ、改めて自転車に跨がった。
駐車場はさほど広くなかったが、平日の昼間とあってか一台も停まっていない。
恭成は塀際に自転車を停め、鍵をかけて駐車場を出る。
「どんな神社なんだろう……」
初めて訪ねた神社をお参りするときは、いつもわくわくした。
逸る気持ちを抑えつつ、遙か上に見える鳥居を目指して石造りの階段を上がっていく。
かなり段数があり、なかなか社殿が見えてこない。
「思った以上に大きな神社みたい……」
恭成が神社巡りをするようになったのは、高校受験の際に友人と合格祈願に訪れた稲荷神社で、境内にある狐の石像に強く惹かれたことがきっかけだった。
もともと信心深い祖父に連れられ、幼いころから散歩がてら氏神さまにお参りにいっていたこともあり、稲荷神社には親近感があった。
とはいえ、狐の石像に魅せられたのは初めてのことで、友人から「一目惚れでもしたのか」とからかわれるほどだった。
そんなことを言われたら、普通なら反論しそうなものだが、そのときの恭成はただただ石像の狐が可愛く思え、なにも言わずに友人を呆れさせた。
自分でも不思議だったけれど、稲荷神を祀る塚が村にあったことから「狐塚」という名字ができたと祖父から聞かされていたこともあり、漠然とながら縁のようなものを感じたようだった。
それからというもの、稲荷神社にある狐の石像に興味が湧き、自転車で行ける範囲の稲荷神社をインターネットで調べては、休みの日に訪ねるようになっていた。
それぞれに異なる顔を持つ石像の狐を見るのが楽しいだけでなく、神社の歴史を調べるのも知るのも面白く、いつしか自他共に認める稲荷神社オタクになっていたのだ。
「はーぁ……」
石段を上がりきった恭成は肩で大きく息をつき、一礼して鳥居を潜り、そして目の前に広がる境内を眺める。
いつになく昂揚していた。
早く〈那波稲荷神社〉にある狐の石像を見たくてたまらない。
そして、御朱印を手に入れたい。
「先にお参りしないと……」
恭成は手水舎に足を向ける。
鳥居を潜ったら、まずは手を清めてお参りをすませ、それから拝殿や本殿、狐の石像を眺めて写真を撮り、最後に社務所で御朱印を頂く。
それぞれの稲荷神社ごとに写真と御朱印をファイルにまとめている恭成は、いつもそうしてお参りしていた。
ポケットに入れてきたハンカチで手を拭き、デイパックの中から財布を取り出し、賽銭を握りしめて本殿に向かう。
賽銭箱の後ろにある扉は閉ざされていて、本殿の中の様子を窺うことはできなかった。
神社によっては扉が開け放たれていることもあるから、少し残念な気持ちだ。
それでも、いつもどおり丁寧に拝礼をし、少し離れたところから本殿を眺める。
「綺麗だな……」
大きく屋根を広げた本殿は、歴史を感じさせつつも優美さが際立っていた。
境内に敷き詰められた白い玉砂利や、高くそびえる幾本もの銀杏と相まって、神秘的にすら感じられる。
「さーてと……」
恭成は期待に満ち満ちた顔で、狐の石像を見上げた。
本殿に向かうまでにその存在にはもちろん気づいていたが、楽しみをとっておきたい思いからあえて見ないようにしていたのだ。
「うわぁ……」
端正な狐の顔を見た瞬間、大きな声が出てしまい、慌てて口元を手で押さえる。
参拝客は他に誰もいないとわかっているのに、照れくささから思わずあたりを見回した。 幾つもの稲荷神社を巡り、暇さえあればインターネットで検索し、数え切れないほどの狐の石像を見てきたけれど、こんなにも感動したのは初めてだ。
「なんだろう……すごい……」
石で造られた狐なのに、惹きつけられてやまない。
胸がざわざわしている。
探し求めていたものに出会えたような、そんな感じだった。
「やけに熱心に眺めているが、その狐がどうかしたのか?」
背後からいきなり声をかけられ、狐の石像に見惚れていた恭成は思わず息を呑む。
「あっ……あの……」
気を取り直して振り返ると、仰ぎ見るほど長身の男性が訝しげな顔で恭成を見ていた。
「あれになにか問題でもあるのか?」
男性が理解しがたそうに、狐の石像に目を向ける。
(すっごいイケメン……こんな格好いい人、見たことない……)
恭成は男性に目が釘付けになった。
三十代半ばといったところだろうか、背が高くて驚くほど端正な顔立ちをした彼は、手脚はすらりと伸びていて、腰までありそうな長い茶色の髪を後ろでひとつに束ねている。
シンプルな白い長袖のシャツに、黒い細身のパンツを合わせているだけで、派手派手しさの欠片もないのに、眩しいくらいに輝いて見えた。
けれど、近寄りがたい雰囲気を放っていながらも、彼になぜか親近感を覚えた恭成は自然と顔を綻ばせる。
「この狐、すごくいい顔をしているなって……」
素直な感想を口にすると、男性がなぜと言いたげに片眉をクッと引き上げた。
「狐の石像なんてどれも似たようなものだろう?」
「そんなことありませんよ。稲荷神社によってそれぞれ表情や仕草が違います。自転車で一時間かけて来た甲斐がありました」
男性は物言いはかなりぶっきらぼうだったけれど、恭成はあまり気にすることなく笑顔で答えた。
これだけの美男子と出会っていたら絶対に忘れるはずがないのに、どこかで会ったことがあるような感じがしてならない。
恭成はなんとも不可思議な感覚に囚われていた。
「そんな遠くから来たのか。それにしても詳しいんだな?」
「はい、いろいろなところにある稲荷神社を訪ねて回っているんです」
「稲荷神社だけなのか?」
「稲荷神社とお稲荷さまが大好きで、神職に就きたいと思っています」
「親の跡を継ぐのか?」
「いえ、うちの親は普通のサラリーマンです」
またしても片眉を引き上げた男性を、恭成は笑顔のまま真っ直ぐに見上げる。
初対面なのに、自分のことをペラペラ喋っているのが信じられない。
人見知りではないけれど、ことさら社交的でもないから余計に解せなかった。
「それなのに神職に就きたいって、変わっているな?」
「よく言われます」
「で、ここの狐はそんなにいい顔をしているのか?」
「はい。いままで見てきた中で最高にいい顔をしています」
男性に訊かれて即答した恭成は、視線を狐の石像に移す。
他と比べてなにがどういいのかと訊かれたら、答えに窮してしまうだろう。
いつまでも見ていられるくらい、狐はいい表情をしている。
もう、感覚としか言いようがなかった。
「最高ねぇ……」
同じく視線を狐の石像に移した男性の顔が、どこか得意げに見える。
まるで自分が褒められたかのようだ。
「あっ、そういえば、ここで頂ける御朱印にも格好いい狐が描かれているですよ。ご存じですか?」
「ああ、けっこう人気があるらしくて、週末になると限定の御朱印欲しさに社務所の前に並んでるよ」
ふと思い出した恭成が訊ねると、男性は思いも寄らない答えを返してきた。
「えっ? 限定の御朱印があるんですか?」
「ああ」
「知らなかった……」
男性にうなずかれ、がっくりと肩を落とす。
〈那波稲荷神社〉の存在を知ったのは、インターネットで稲荷神社の御朱印を検索していたときだった。
SNSに上がっていた〈那波稲荷神社〉の御朱印を見て、絶対手に入れなければという衝動に駆られた。
さっそく〈那波稲荷神社〉を調べたところ、自転車で行ける距離とわかり、居ても立ってもいられず訪ねてきたのだ。
もう少し詳しく調べていれば、限定の御朱印があることがわかったかもしれない。
前日に訪ねてきてしまったことが、悔やまれてならなかった。
「俺が頼んでやるよ」
「ちょっ……」
唐突に腕を掴んできた男性に、強引に引っ張って行かれる。
いったいなにごとかと、恭成は驚きの顔で彼を見上げた。
「ここの権禰冝とは仲がいいんだ」
「でも……」
彼は腕を掴んだままスタスタと歩き、神社に迷惑をかけたくない恭成は困り果てたままついていく。
いくら週末限定の御朱印が欲しくても、前日にもらうわけにはいかない。
たとえ、男性が神社の関係者と知り合いであってもだ。
かといって、彼が親切で言ってくれているのは明白だから、腕を振り解くこともできない。
どう断ればいいのだろうかと考えているうちに、社務所の前に着いてしまった。
「晃之介、この子が狐の週末限定の御朱印を欲しがっているんだ。一日早いけど書いてやってくれ」
男性が声をかけると、装束を纏った権禰冝が眉根を寄せて身を乗り出してくる。
彼は怪訝な顔つきで、男性と恭成を交互に見やった。
まだ若い権禰冝だ。
彼が御朱印を書いているのだろうか。
ちょっと興味を抱いたけれど、いまはそんなことをしている場合ではない。
「あ……あの……大丈夫です。明日、出直してきますので……」
「遠くからわざわざお参りに来てくれているんだ、少しくらい融通を利かせてくれてもいいだろう?」
恭成の腕から手を離した男性が、社務所の中にいる権禰冝に詰め寄る。
なんという強引さだろう。
権禰冝もさすがに呆れたような顔をしていた。
「本当に大丈夫です。明日また来ますので、今日はこれで……」
このままではまずいと思い、早口で言って頭を下げた恭成は、足早に神社をあとにする。
石段を駆け下り、駐車場に停めておいた自転車の鍵を外してサドルに跨がり、一度だけ神社を振り返ってからペダルを漕ぎ出した。
「なにをしている人なんだろう……」
権禰冝に対して強い態度に出た男性のことが気にかかる。
「あっ……」
あの場から早く逃げ出したい思いが先走り、あたふたと神社をあとにしてしまった。
男性はかなり強引ではあったけれど、よかれと思って権禰冝にかけあってくれたのだ。
親切心を無にしたばかりか、礼のひとつも言わなかったことを後悔する。
「明日……」
週末限定の御朱印をもらうため、明日も〈那波稲荷神社〉を訪ねるつもりでいる恭成は、男性にまた会えることを願いつつ自転車を走らせていた。
*****
「なにをふてくされているんですか?」
〈那波稲荷神社〉で権禰冝を務める八幡晃之介から声をかけられ、鳥居の向こうを眺めていた光輝は渋い顔つきで振り返った。
「おまえがさっさと御朱印を書いてくれないから、帰ってしまったではないか」
初めて出会った名も知らぬ少年に対して、光輝は名残惜しさを感じている。
屈託のない笑みを浮かべて楽しそうに語っていた少年と、もう少し話がしたかったのだ。
「さっきの男の子って、光輝さまのお知り合いではないですよね?」
「たまたまそこで会っただけだ。本人が言うには稲荷神社巡りをしているらしい」
「たまたま会っただけなのに、御朱印を無理に書かせようとするなんて光輝さまらしくありませんね?」
社務所から身を乗り出している晃之介の含みを持たせた言い方に、光輝は機嫌を損ねて眉根を寄せる。
「どこの神社の狐より、光と輝が格好いいって言ったんだよ」
ぶっきらぼうに言い返し、境内にある狐の石像に目を向けた。
二体の石像には、それぞれ光と輝という名がつけられている。
〈那波稲荷神社〉に祀られている稲荷神の光輝にとって、光と輝は分身のような存在だ。
光輝の本来の姿は狐であるが、強い力によって人間に形を変えることができる。
普段は本殿の神前にある鏡から通じる神殿で過ごしているが、退屈になると人の姿になって境内に現れる。
あるとき、晃之介に正体を知られることとなったけれど、宮司を父に持ち、自ら権禰冝として神に仕えているからか、彼はすんなりと受け入れてくれた。
何百年ものあいだ神殿でひとりで過ごしてきた光輝は、人間と言葉を交わすことの楽しさを覚え、ちょくちょく人の姿で出てくるようになったのだ。
晃之介は稲荷神がふらふら出歩くのは不謹慎だと思っているようだが、それでも顔を合わせれば話し相手になってくれる。
少し言い草が生意気なところもあるが、光輝はそんな晃之介との会話を楽しんでいた。
「あっ、そういうことでしたか」
「なんだよ、その意味ありげな顔は」
「いえいえ、光輝さまが人間に気を遣われるなんて珍しいこともあるんだなと」
「気分がよければ俺だってそれくらいはする」
意外そうな顔をしている晃之介を、冷ややかに見返す。
少年は分身である狐の石像を絶賛してくれたのだから、自分が褒められたのと同じで気分がいい。
それに、純真そうな瞳で真っ直ぐに見上げ、稲荷神社のことを熱心に語られたら、稲荷神としては彼のためになにかしてやりたくなるというものだ。
「でも、狡はダメですよ」
「狡だと?」
笑みを浮かべながらもきっぱりとした口調で晃之介に言われ、光輝はどういうことだと首を傾げる。
「みなさん決まりを守ってわざわざ週末に来てくださるんですから、前日に手に入れるのは狡いでしょう? それに、あの男の子も狡はよくないってわかっているから、出直すと言って帰ったのだと思いますよ」
「そうか……」
「まあ、光輝さまの気持ちはたぶん伝わっていますから、そう気を落とさずに」
「明日、会えたら詫びたほうがよさそうだな」
晃之介に慰められ、自分の過ちに気づいた光輝は少年に思いを馳せる。
自分の頼みであれば晃之介は御朱印を書いてくれると確信していたから、少年のために直談判したのだが、かえって迷惑をかけてしまったようだ。
「ふふっ」
「なんだ?」
遠くを見つめて少年のことを考えていた光輝は、小さな笑い声をもらした晃之介に視線を戻す。
「本当に光輝さまらしくありませんね」
「非を認めてなにが悪い、俺は……」
晃之介に憎らしげな言い方をされて、すぐさまやり返そうとしたのだが、背後に人の気配を感じて口を噤む。
完璧な人間の姿であり、誰にばれることもない。
とはいえ、これは稲荷神の仮の姿であり、やはり多くの人間の目にとまるようなことは避けたかった。
「こんにちはー」
「お守り見せてください」
若い女性の二人連れだ。
「ようこそご参拝くださいました」
晃之介が笑顔で参拝者を迎える。
女性たちが社務所の前に置かれたお守りを選び始め、光輝はさりげなくその場を離れる。
「面白い子だったな」
本殿に足を向けつつ、少年との会話を思い出す。
少年が参拝に訪れたとき、光輝はいつものように神殿で寛いでいた。
分身である二体の石像は光輝の目と耳の代わりとなり、外の景色を見せ、人々の声を聞かせてくれる。
少年が参拝に訪れていることは気づいていたが、まさか自分に熱い視線を向けられるとは思わず、なぜだろうかと興味を募らせ人に姿を変えて神殿を出ていた。
少し離れたところから少年を眺めていたが、いつまでも石像から離れる気配がない。
なにをそんなに熱心に見ているのか。
興味は募るいっぽうで、ついには我慢できなくなって声をかけたのだ。
「無邪気な可愛らしい笑顔だった……」
自分の正体も知らずに話をする少年の嬉々とした表情が、とても強く印象に残っている。
「そういえば、晃之介以外の人間と言葉を交わしたのは初めてか……」
少年と一緒にいたのはほんの数分でしかなかったけれど、晃之介のときとはまた異なる楽しさを感じた。
「明日また来ると言っていたが……」
週末限定の御朱印のために、本当にまた〈那波稲荷神社〉を訪ねてくるだろうか。
少年に詫びたいし、もう少し話をしてみたい。
ただ、週末は限定の御朱印を求める参拝者でことのほか賑わう。
普段は参拝者の姿もちらほら見えるだけだが、週末だけは境内に人が溢れるのだ。
仮に少年が現れたとしても、たくさんの参拝客がいる場に人間の姿で行くのは憚られる。
初めて出会った少年が気になってしかたない光輝は、晴れ渡った青空を仰ぎ見つつ、どうしたものかと考えあぐねていた。
第二章
恭成は自宅のキッチンでひとり朝ご飯を食べている。
平日の朝はテーブルに家族が揃うが、休みの日はみな好き勝手に食べるのだ。
ごく普通のサラリーマン家庭で、母親は平日だけパートに出ている。
二人の兄は大学を出て就職していて、仕事と遊びに忙しいらしく、実家暮らしながらも朝くらいしか顔を合わせなかった。
「また神社巡り?」
キッチンに姿を見せた母親が、椅子の背に掛けてある恭成のデイパックを見て、呆れたような顔をした。
「うん、今日しかもらえない御朱印があるんだ」
トーストを食べ終えた恭成はこともなげに答え、コップに残っている牛乳を飲み干す。
「ねえ、本当に神主になるつもり?」
向かいの椅子に腰掛けた母親が、なんとも言い難い顔で見てくる。
家族の唯一、母親だけが神職に就くことを反対していて、すでに神職の資格が取れる大学に合格しているのに、ことあるごとに愚痴をこぼすのだ。
「神職だって立派な仕事だよ。お父さんだってサラリーマンだけが仕事じゃないから、好きなことをやれって言ってるじゃない」
「だからって、なにも神主を目指さなくても……」
「ちゃんとお給料だってもらえるんだから、他の仕事と変わりないでしょう?」
「そうだけど……」
「じゃ、時間ないから行ってくるね」
「いってらっしゃい」
納得がいかない顔をしている母親をキッチンに残し、椅子からデイパックを取り上げた恭成は急いで玄関に向かう。
稲荷神社の狐の石像に魅せられ、趣味が神社巡りになり、神職という仕事を知り、稲荷神に仕えたいと思うようになった。
端から見れば、あまりにも短絡的な考えに思えるだろう。
稲荷神社を訪れるたびに感じた深い縁のようなものを言葉にするのは難しく、母親を上手く納得させることができないでいる。
それでも、資格を取って神職に就くのと、普通の大学を出て会社に就職するのとなんら変わりないはずであり、どれだけ反対されても進路を変更するつもりはまったくなかった。
「急がないと……」
スニーカーを履いて玄関を出た恭成は、愛用の自転車に跨がり、一路〈那波稲荷神社〉を目指す。
もう道順がわかっているから、迷うことなくペダルを漕ぐ。
天気はいいが、さほど気温も高くなく、絶好のサイクリング日和だ。
限定の御朱印をもらい損ねないよう、休むことなく必死に自転車を走らせる。
昨日は〈那波稲荷神社〉まで小一時間かかった。
さほど急いでいるわけでもなく、途中で住宅の敷地にある小さな鳥居を見つけて立ち寄ったこともあっての小一時間だ。
同じ道のりであっても、〈那波稲荷神社〉を目指してひたすら自転車を走らせた恭成は、四十分ほどで到着した。
「はぁ、はぁ……」
駐車場の片隅に自転車を停めたときは、さすがに息が切れていたけれど、かまわず〈那波稲荷神社〉の正面に向かう。
石造りの階段を駆け上がり、一礼して鳥居を潜ると、社務所の前にはまだ人影がない。
「よかった……」
早めに出てきたから、まだ参拝者も集まっていないようだ。
これなら限定の御朱印を手に入れられるだろう。
恭成はいそいそと社務所へと向かう。
「えっ、うそ……」
恭成は唖然と社務所のガラス戸を見つめる。
そこには、「週末限定の御朱印は終了しました」の張り紙がしてあった。
息せき切ってやってきただけに、とてつもない脱力感に襲われる。
これまでも特別な御朱印が欲しくて、わざわざ神社へ足を運んだことがあるけれど、手に入れられなくても「まあしかたないか」で終わっていた。
それなのに、今日はどうしても諦めきれない気分だ。
自分でもわからないけれど、残念な気持ちが半端なかった。
「はーぁ……」
「おはようございます。どうぞこちらへ」
がっくりと肩を落としていた恭成に、社務所から晃之介が声をかけてきた。
なんだろうと思いつつも、手招きする彼に歩み寄る。
「週末限定の御朱印です」
「えっ?」
「今日お見えになると仰っていたので、内緒で一枚だけ取っておいたんです」
差し出された御朱印に目が吸い寄せられた。
限定版だけあり、凝った筆遣いの文字に、端正な顔をした狐が描かれている。
「ぼ……僕のために?」
「もちろんですよ」
「ありがとうございます!」
晃之介から書き置き御朱印を受け取り、デイパックから取り出した御朱印帳に丁寧に挟む。
「あっ、お金……」
「千円のお納めになります」
財布から取り出した千円札を晃之介に渡し、御朱印帳をギュッと胸に抱く。
この上なく幸せな気分だ。
かつて、御朱印をもらってこれほど嬉しかったことがあっただろうか。
「本当にありがとうございました」
晃之介に深々と頭を下げたところで、まだ参拝をすませていないことに気づく。
「慌てすぎちゃった……」
苦笑いを浮かべた恭成は手水舎に行って手を清め、軽い足取りで本殿に向かう。
いつもの手順を忘れてしまうほど、限定の御朱印のことで頭がいっぱいになっていたのだ。
本殿の前で手を合わせ、無事に限定の御朱印が手に入ったことを報告し、改めて晃之介に感謝する。
「あっ!」
参拝をすませて振り返った恭成は、階段の下に立つ美男子を見て思わず声をあげていた。
昨日は逃げるようにして帰ってしまったから、いつかお礼をできればいいなと思っていたのに、すぐに会えたから嬉しくてしかたない。
「無事に御朱印を頂くことができました」
そう言って階段を降りた恭成は、男性を満面の笑みで見上げる。
「それはよかった」
男性が優しく微笑む。
あまりにも素敵な笑顔に、目眩を起こしそうな錯覚を起こす。
こんな感覚を味わうのは初めてだ。
(なんだろう……)
男性にもう一度、会えたらいいなと思っていた。
でも、それは男性に礼を言いたかったからだ。
それなのに、どうしてこんなにも嬉しいのだろう。
彼の顔を見ただけで喜びが込み上げてくるのが不思議でならない。
「どうかしたか?」
「あ……いえ……そうだ、昨日はありがとうございました」
「うん?」
「実は僕が到着したときはもう限定版の御朱印は終了しちゃってたんですけど、権禰冝さんが僕のために残しておいてくれたんです。昨日、社務所まで連れて行ってくれなかったら、多分、手に入れられなかったと思います」
恭成は感謝の気持ちを込めて男性を見つめる。
限定の御朱印を手に入れられたのは、彼が権禰冝に掛け合ってくれたからであり、心の底から有り難く思っていた。
「俺も少しは役に立ったのか?」
「少しどころか……本当にありがとうございました」
わずかに目を細めて見返してきた男性に、改めて深く頭を下げる。
「まあ、欲しがっていた御朱印を手に入れられてなによりだ」
「はい」
にっこりとうなずいた恭成は、わけもわからず男性の顔に魅入ってしまう。
彼の表情はどこか照れくさそうでもあり、安堵しているようでもある。
端正な顔に浮かぶ微笑みから、どうしても目が離せない。
これほど格好いい男性を見たことがない。
人間離れをした美しさすら感じる。
彼を見ているだけで気持ちが高揚してきた。
大好きなお稲荷さまを眺めているときのワクワク感によく似ていた。
「俺の顔になにかついているのか?」
男性から急に訝しげな視線を向けられ、恭成は慌てて視線を逸らした。
「えっ? あっ、そうだ、写真を撮らないと……」
内心、焦りながらも当たり障りのない言い訳を口にし、デイパックのポケットからスマートフォンを取り出す。
まじまじと見つめてしまうなんて、あまりにも不躾すぎた。
気を悪くしていなければいいけれどと思いつつ、狐の石像を撮影する。
「この狐に名前がついているのを知っているか?」
「名前があるんですか?」
しばらく黙っていた男性から聞かれ、しきりにシャッターを切っていた恭成は、いったんスマートフォンを持つ手を下ろす。
「これが光で、向こうが輝という」
男性が離れたところに置かれた狐の石像をひとつひとつ指差した。
「どんな漢字を使うんですか?」
石像に名前がついていることを初めて知った恭成が興味を示すと、男性はしばし遠くを見つめた。
「光り輝く、でわかるか?」
「えっと、これですか?」
恭成は素早くスマーフォンに文字を表示し、男性に見せる。
「ああ、そうだ」
「光、輝……素敵な名前ですね」
「で、ここの稲荷神は光輝と呼ばれている」
「そうか、お稲荷さまにも名前があるのか……」
感心の面持ちで男性を見上げた。
「ずいぶん詳しいんですね?」
「まあ、この神社のことなら……」
言葉半ばで男性が鳥居に目を向ける。
彼の視線を追うと、年配の参拝者の姿があった。
丁寧に頭を下げて鳥居を潜った参拝者が、ゆっくりとした足取りで手水舎に向かう。
「ああ、そうだ。用を思い出した、すまない」
男性が急に慌てた様子でその場を離れる。
あまりにも唐突すぎて、恭成は呆気に取られた。
彼は振り返ることなくスタスタと歩いて行く。
「ありがとうございましたー」
後ろ姿に声をかけ、軽くお辞儀をする。
用があるのならばしかたないけれど、もう少し話をしたかったから残念だ。
「それにしても、いったいなにをしている人なんだろう?」
スマートフォンをポケットにしまい、改めて男性が歩いて行ったほうに目を向けたが、すでに姿はなかった。
「そういえば……」
男性は鳥居とは反対方向に歩いて行った。
となると、やはり〈那波稲荷神社〉の関係者なのだろうか。
それならいろいろ詳しくても納得できるのだが、なにか違和感を覚えてしまう。
「でも、なんか気になる……」
境内をぐるりと見回し、恭成は首を傾げる。
見惚れてしまうほどの美男子だから、ただでさえ気になるというのに、急な去り方をされたことで、ますます気になってきた。
「権禰冝さんなら……」
週末限定の御朱印の件で権禰冝が気を利かせてくれたのは、男性とかなり親しい関係にあるからだろう。
ならば、男性について権禰冝に訊けば、なにかわかるかもしれない。
とはいえ、いきなり訊ねるのも気が引ける。
「不思議な人……」
とにかく男性のことが気になってしかたない。
どうしてこれほど気になるのか自分でも不思議なくらいだ。
「写真でも撮ろうかな……」
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