書籍詳細
引き合う運命の糸 〜α外科医の職場恋愛
ISBNコード | 978-4-86669-440-5 |
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サイズ | 文庫本 |
ページ数 | 280ページ |
定価 | 836円(税込) |
発売日 | 2021/10/18 |
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内容紹介
人物紹介
朝香佑都(あさか ゆうと)
小児科研修医で、発情したことのないオメガ。29歳。初恋の藤崎に再会して当時の苦しさが蘇る。
藤崎迅(ふじさき じん)
心臓外科医で、医者一族の御曹司のアルファ。29歳。朝香の匂いに酔わされる。
立ち読み
「え……」
大きな声を上げそうになるのを、慌てて息を吸って呑み込んだ。
目の前を横切った男に、すべての神経が集中する。無意識のうちに、目が彼を追っている。
この感じ、はっきりと覚えている。
あれはまだ自分が十代のころのこと。今からもう十年以上前だ。
不透明な濁った世界で息苦しい毎日を送っていたとき、有無を云わせないほどの強烈な光が飛び込んできたのだ。
それは一般的に云えば一目惚れとか初恋とか、そういう類のものになるはずだが、彼にとってはそんなふわっとした甘ったるい感情ではなかった。
十年以上たった今、あのときの混乱した感情が蘇る。
一年間同じクラスにいて、自分たちの関係が重なることは一度もなかった。
なんの発展もなく、ただ彼の中でだけ強い影響を持ち続けていた。そして今後も折に触れ思い出す、そういう存在だと思っていたのだ。
現実世界で、あの男が自分の人生と交差するときがあると思ったことはない。それは最初に出会ったときからそうだった。
たとえ同じ教室で机を並べていたとしても、そこには見えない壁があって、越境できるものではない。相手側からは、おそらく自分と机は同程度にしか認識されていないだろうと、彼自身考えていた。
ただ自分だけが過敏に反応してしまう。
しかし心の片隅で思っていた。もしどこかで交差することがあれば…。
駅前のスーパーで買った弁当をテーブルに上に投げ出すと、彼は床にへたりこんだ。
「疲れた…」
駅からマンションまでは十五分強。ふだんは歩いて帰るのだが、この日はバスを使ったくらい疲れ果てていた。
朝香佑都、二十九歳。職業、小児科レジデント。そしてオメガ。
当直明けの勤務が発情期と重なると、情けないくらいにへばってしまう。特に昨夜の当直は急患が相次いで、仮眠は殆どとれなかった。そのまま通常の勤務をこなして、何とかふだんよりは一時間ほど早く仕事を上がれた。
彼の発情期の周期はだいたい三か月に一度だが、きっかり三か月というわけでもなく、ストレス等が原因となってブレが大きい。そのせいで当直の予定が組みにくく、しかも同僚に頼まれて交代を引き受けてしまうと、ときどきこういう目に遭う。
「明後日まで頑張れ、俺…」
スーパーの袋に手を伸ばして、弁当のパックを開ける。
ビールくらい飲みたいところだけど、発情期にアルコールを飲むとあとで具合が悪くなるので諦める。
スマホを取り出して、メールをチェックしながら弁当の鶏のから揚げを食べる。すっかり冷めているが、温める気力すらない。
「それにしても、なんで彼が…」
ずっと気になっていたことが、思わず口をついて出た。
昨日のカンファレンスでその男を見たときに、佑都は驚きのせいで心臓のばくばくが暫く止まらなかった。向こうはたぶん気づいてないと思うが、カンファレンスが終わるまでずっと落ち着かなかった。
見間違いということは先ずないだろう。あんな男、そうはいない。
妙な色気のあるイケメンで、独特のオーラを持つアルファ。彼は高校二年のときのクラスメイトだった。
藤崎迅、その名前を佑都はずっと覚えていた。
彼がどこにいても、すぐさま気づいて神経はそっちに集中してしまう。しかし視線は決して合わせない。自分が彼を見ていることを知られたくなかったし、彼にとって自分は取るに足らない存在であることを思い知りたくもなかったからだ。
藤崎は誰にとっても特別な存在だった。
映える容姿に明晰な頭脳、恵まれた体格を生かした運動センス。何より独特の雰囲気が男女関係なく強く人を惹きつける。
父方は大病院を経営している医師の一族で、母方の曾祖母は某有名アパレルブランドの創始者で、母もデザイナーであり経営幹部でもある。
彼らの通っていた高校には似たような環境で育った生徒は少なくなかったが、藤崎の場合はそれに加えて本人の資質が抜きん出ていたため、同学年ではもちろんのこと学校中で彼のことを知らない生徒はいないのではないかといえるくらい目立っていた。
一方で、佑都は高校からの編入であまり周囲に馴染めずに、できるだけ目立たないようにしていたこともあって、クラスでも埋もれた存在だった。
休み時間もずっと教科書を読んでいてクラスメイトと話をすることもなく、放課後もさっさと帰ってしまう佑都に友達ができるはずはなく、どこか浮いていた。
中高一貫の名門私立とはいえ藤崎のような富裕層はあくまでも一部で、クラスの大半は所謂中流の家庭で育っている。それでも、佑都のような生活保護を受けていて保護者としての役割を放棄している母に代わって家事までこなすような生徒は稀有な存在だろう。
佑都がこの高校を選んだのは、授業料が免除になることに加えて教材費という名の生活支援費も受けることができたからだ。しかも図書館を含めた学校設備も充実していたし、偏差値が高いだけに授業のレベルも高い。
貧困から抜け出すために未成年の佑都にできることすべきことは、中学を卒業してすぐに働くことではなく、高い学歴を手にすることだった。成績優秀者には多くの選択肢が用意されていて、所得の高い仕事に従事できるチャンスを得ることができるのだ。
佑都にそのことを教えてくれたのは、中学時代の教師だった。
佑都が通っていた公立の中学は、卒業して高校進学する者の割合が他の地域と比較すると目立って低く、頻繁に補導されるような問題児が多く通っていた。それゆえ経験豊富な教師が派遣されていて、佑都のことも気にかけてくれていた。
そして彼のためにいろいろな高校の奨学金制度を調べてくれた。はっきりした目標を掲げて勉強すること、それを達成できれば未来は必ず開かれることを話してくれた。
佑都はそれを信じて、ひたすらに勉強した。彼にとって勉強とは好きとか嫌いではなく、明日の生活すらあやうい自分の唯一の武器だと理解していたのだ。
その結果この高校に辿り着くことができたし、担任の言葉は間違っていないと身を持って感じることができた。
高校に進学してからも、とりあえずの目標はより高いレベルの大学に進学することで、そのために成績を上げるべくこれまで以上の熱心さで勉強していた。なりたい仕事や将来の夢なんてものはない。必要なのはより多くの選択肢を手に入れることだ。その結果安定して実入りのいい仕事に就ければ、ようやく落ち着けると思っていた。
そんな彼が医師を目指したのは、ちょっとしたことがキッカケだった。
高校一年の最後の試験の結果を見た担任教諭から、この調子なら医学部も狙えると云われたのだ。それは医学部を勧められたわけではなく、単に偏差値に照らし合わせてかなりの難関でもチャレンジできるという意味だったのだが、佑都の頭には医学部の文字がストレートに入り込んできた。
自分が医学部? これまで考えたこともなかったので、驚きと共にそれは強いインパクトを持っていた。
彼の周囲には医学部どころか大学を出た人間すらいなかった。医学部に進学する人は頭の出来が普通とは違って、それを伸ばせる環境の人たちばかりだと思っていたのだ。自分とは遠い存在だった医学部が一気に近く感じられた。
それでもすぐに医学部を目指したわけではない。自分にはハードルが高すぎると思っていたからだ。
それが、二年に進級して藤崎と同じクラスになったときに、彼の実家が大病院で彼も医学部志望なのだと間接的に聞いて、大きく心が揺れた。
自分も医学部を目指せば同じ側にいける、なぜかそんなふうに感じたのだ。同じ側にいけたところで、べつに友達になれると思ったわけではない。それでもそれがそのときには希望に思えたのだ。自分が今の場所から高みをめざすための。
誰にも云えなかったが、それでも第一志望は医学部だと自分で決めただけで気持ちが高揚するのを感じた。
その後も藤崎との接点はないままだったが、目標が同じになったことは大きな励みになった。
佑都は自分が人より抜きん出て優秀だと思ったことはなかった。ただ人の何倍も努力すれば元々の才能や環境を凌駕することができると信じていただけのことだ。
生活費の足しにするためのアルバイトや、まだ小学生の妹の世話を含んだ家事全般をこなす傍ら、医学部の合格圏内をキープすることは容易いことではなかったが、彼はそれを成し遂げたのだ。
それもこれも、藤崎の存在があったからだと佑都は思っている。彼がいなければ、彼に憧れなければ、自分は医学部を目指そうとは思わなかっただろうから。
藤崎が何かをしてくれたわけではないが、彼の存在が自分を奮い立たせた。
弁当を食べ終えていつものように薬を飲むと、強い眠気が襲って来た。
「もう限界……」
シャワーは明日の朝にしようと、のろのろと着替えると、アラームを早い時間に設定して、そのまま布団に潜り込む。
目を瞑った数秒後には、眠りにおちていた。
発情期でも薬で充分コントロールできているから、困ったことはない。そもそも体調の変化こそあれ、発情というものを経験したことがこれまでなかった。知識としてどういう状態になるのかは知ってはいたが、自分の身に起こったことはない。
もしかしたら発情しないオメガもいて、自分もそうなのかもしれないと思うことはある。そういう論文を読んだことはあるが、エビデンスもほぼ皆無の社会学の研究者のもので、学術論文としての価値はほぼなかった。
とはいえ体質は個人差が大きく稀有な例外はいくらでもある。自分がそれに該当するかは薬を止めてみればいいのだろうが、それを試してみようと思ったことはない。
彼は来年三十歳だが、藤崎を除けば、誰に対しても特別な感情を持てたことがない。これまで生活するのに精一杯で、他人とコミュニケーションをとる余裕がなかったのだ。プライベートな時間を他人と過ごした経験が殆どないが、そのことで何か問題を感じたことはない。孤独を寂しがる余裕すら、彼にはずっとなかったのだ。
だから、藤崎のことをずっと考えている自分に戸惑っていた。
いつか彼との接点ができればと考えていたことは否定しないが、それはそうならないと思った上での幻想だ。
夢は夢だから安心していられる。
現実のものとなったときに、またあのときのような惨めな気持ちを味わうことになるのかと思うと、憂鬱な気分だった。
「朝香先生、ちょっといいですか?」
外来が終わるなり、看護師から声をかけられた。
「あの…、心臓外科の藤崎先生のことご存じでした?」
カルテを入力していた佑都の眉が一瞬だけぴくっと上がる。
「凰篤学園出身なんですって。確か先生も?」
「佐藤先生の元で勉強したくて移って来られたって…」
看護師たちはちらちらお互いの顔を見ながら、佑都の様子を窺う。
「…名前は知ってるけど、よくは知らない」
素っ気なく返す。
その佑都の態度に、看護師たちはばつが悪そうに小さな声で謝罪をすると、慌てて奥に引っ込んだ。
恐らく看護師たちの間では既に評判になっているのだろう。行く先々で注目されるというのも大変だろうなと思いつつ、ランチを買うために売店に向かう。
フロアが違うとはいえ、同じ病棟に藤崎が勤務しているというのは不思議な気分だ。この売店にだって藤崎が来る可能性はあるのだ。そんなことを考えて、女子中学生のような発想だなと苦笑してしまう。
結局弁当はすべて売り切れで、残っていたおにぎりを買ったあとに医局に戻ると、四年先輩の綾瀬に捕まった。
「朝香ちゃん、藤崎病院のボンボンと同窓だって?」
「…は?」
綾瀬から藤崎の名前が出るとは思っていなかったので、思わず聞き返してしまった。
「心臓外科の藤崎くん、知ってるよね?」
「はあ、まあ…」
「昨日、食堂で一緒になってさ。ちょっと話したんだけど、凰篤出身だって。そういえば朝香ちゃんもじゃね? って思ってさ」
…噂の出どころは貴方ですかと、と佑都は内心苦笑した。
綾瀬は佑都と真逆でコミュニケーション能力が抜群に高く、どんな相手ともすぐに打ち解ける。それは当然仕事の場でも発揮され、患者やその家族からもあらゆる情報を引き出して治療に役立てている。
「朝香ちゃんのこと、覚えてるっぽかったよ」
佑都の表情が一瞬だけ固まった。
「小児科なんだって、意外そうだったけど」
まさか、自分のことを彼が覚えていたとは。しかし一年間同じクラスにいたのだから、名前くらいは覚えていても不思議はないだろう。
「すげえ男前だよなあ。高校のころから、あんななの?」
「…まあ、そうですね」
「ちょっと前からナースたちが色めき立ってるとは聞いてたけど、無理もないね。あんなイケメンで実家も大病院なのが、まだ独身だってんだから」
独身…。佑都の心臓が、またどきんと跳ねる。独身なんだ…、そう思ったことに眉を寄せる。バカな。彼が独身だからなんだというのだ。
「ま、独身だからってフリーなわけないとは俺は思うけどね」
そりゃそうだ。高校時代そうした噂とは遠いところにいた自分ですら、藤崎が半端なくもてまくっていたことくらいは耳にしている。
「藤崎病院、いいよねえ。セレブ病室あって、VIPからがっぽり稼いでるって噂じゃん。俺も推薦してもらえないかなあ」
「…先輩ならどこでも推薦してもらえるんじゃないですか」
適当に答えて、自分の席に着くとさっき買ったばかりのおにぎりを机に置いた。
「うわ、なんか投げやり」
「だって先輩、ここ辞める気さらさらないでしょ」
難病の子どもたちの治療を積極的に行っているここでの仕事に、綾瀬が強いやりがいを感じているのは傍で見ていてもわかる。
「まあねー。コーヒー飲む?」
にやっと笑うと、コーヒーメーカーのポットを持ち上げてみせる。
「…どうも」
佑都は、自分のマグを差し出した。
「お昼、今から?」
「…です」
「もう二時回ってるぞ」
藤崎の方が診察する患者は多いのに、たいてい佑都より早く終わらせている。コミュニケーションの取り方がうまいから、患者の保護者に対して説得力があるのだろうと思う。患児の扱いも手慣れたもんだ。
佑都は淡々と説明してしまうせいで、どうも患者の保護者からの受けが悪い。学生のように見える容姿がそもそも不安を抱かせるようだ。保護者の感情をうまく受け止めることができないせいで、しつこく質問されるのではないかと自分でも思っている。
綾瀬を見ていると、自分は小児科医には向いてないんじゃないかと考えることはよくある。逆にだからといってどこなら向いているかと問われてもそれはそれで特にない。
ただ佑都は、小児科医療に貢献するという名目の奨学金制度を利用していて、他科に移れば返済しなければならないのだ。あと五年ここか関連の病院で小児科医として働けば返済が免除になる。
当時はその給付のおかげで佑都は妹との生活費を何とか捻出することができていた。医大の授業料はそれとは別の奨学金を受けて、現在返済中だ。
授業料免除の枠もあったがそれは成績上位者に限られ、ぎりぎりで合格した佑都にはその恩恵には与れなかった。それでも無利息での貸与は何とか認められ、研修医として給与をもらうようになってから、毎月負担にならない額を少しずつ返済している。
ただそれだけでなく、妹の専門学校の学費も佑都が出した。そのローンを返し終えるのはまだ先なので、これ以上の借金を増やしたくないのが本音だ。
向いていようがいまいが、やれることをやるしかない。そもそもそれを云うなら、自分が医師に向いているのかすらわからないのだから。
実は綾瀬も奨学金制度を利用していて、地方の医学部とはいえ上位の成績優秀者として返済免除の奨学金を受けていた。
綾瀬の実家は親族含めて医師は一人もおらず、父が祖父から受け継いだ小さな酒屋は、近所にできた大手のリカーチェーンに客をとられてしまい、その経営を立て直すべく大事な時期に父は胃癌で入院することになってしまって、立て直すどころか休業にまで追い込まれた。
その後無事に快癒し仕事にも復帰したが、経営状態は厳しく綾瀬が大学進学時は生活するのが精一杯だったという。
綾瀬が佑都のことをあれこれと気にかけてくれるのは、それで親近感を抱いているせいだろうと佑都自身は思っていた。
実家が太い同僚が多い中で、学生時代から自活せざるを得なかった自分たちは少数派だとは思う。それでも、家庭が破綻していた自分と綾瀬とではまるで違う。
綾瀬の実家は収入は低かったかもしれないが、愛情に溢れていて、それは綾瀬から度々出る家族の話からも容易に想像できた。一度、綾瀬の実家で夕食をご馳走になったことがあったのだが、日ごろの彼の言葉通りの温かい家族だった。
自分が綾瀬よりも恵まれていないとか、そんなことを思ったわけではない。ただ、綾瀬とも違う、そう思っただけだ。
「そういえば、今村多恵子ちゃんのお母さんと話した?」
「…今村? いえ……」
「そっか。多恵子ちゃん、まだICUだろ? ちょっと思いつめてる感じかもってナースが云ってて。なんか聞いてないかなーって」
佑都は、ここ数日の多恵子とその母親のことを思い浮かべてみる。
「…特に心当たりが。でも見落としてるかも。ちょっと話してみます」
「うん。それとなく世間話っぽくね…」
それとなく…、世間話……。佑都には一番難しい注文だ。
術後の経過は特に悪くはないはずだ。とはいえ、このオペがうまくいけばもう安心というわけではないのだから不安は当然だ。家族の心理的な負担は相当なものだろう。それもあって、以前にもカウンセリングを勧めたことがある。
ただ、今村は小児心臓外科部長の中垣に手術してもらえると思い込んでいたらしく、別の医師になったことに不満だったようだ。何より担当医がまだ経験の浅い佑都であることにも納得しておらず、カウンセリングの提案も苦笑されただけだった。
サンドイッチを食べたあとに急ぎのメールを一件送ると、佑都は小児ICUに向かった。
できるだけ苦手意識は持たないように気を付けていたが、今村は露骨に佑都を舐めているせいで、やりにくい保護者の一人なので気が重い。
それでも綾瀬のアドバイスを蔑ろにしてはいけないとも思っていた。
自分は彼のように患者家族とコミュニケーションがうまくとれるわけではないし、看護師たちと気兼ねなく雑談できるタイプでもない。何より、看護師は患者やその家族と一番近いところにいて、医師が見逃しがちな患者の細かな変化をキャッチしている。それでも、ちょっと気になった程度のことまで医師に逐一報告するわけではない。それが患者家族のこととなれば尚更だ。
しかし家族の不安や不満の種を放置しておくと、それが取り返しのつかないことにも繋がりかねない。医師への不満が医療不信に発展して、インターネットであやしげな情報をかき集めて、自由診療や民間医療に走る保護者もいる。しかし日本における標準医療ほど質の高い医療は実は存在せず、かなりの確率で悲惨な結果を生むことになるのだ。
特に不満を表に出さない保護者の場合、その予兆に気づくのは難しい。ごねて退院させようとするならまだそのときに説得できなくもないが、通院してこなくなるとお手上げだ。医療を強制することはできないのだから。
そして一年後、二年後に、手の施しようのない状態になって運ばれてくる。
そのときのことを思い出して、佑都は深い溜め息をついた。
医療不信を植え付け自由診療で稼ぐのも、同業者だ。医師免除を最大限利用して、標準医療に疑問を投げかけ責任のとれない自由診療で荒稼ぎする。書店にはそんな医師らの書いたあやしげな書籍が溢れている。
医学論文を書くわけでもなく、エビデンスひとつ示さない一般書籍を量産してその印税で稼ぐのだ。彼らは医師でありながら論文を読むことすらしない。自分を頼ってくる患者にそんなものは必要ないからだ。
標準医療は、多くのエビデンスに裏付けされ厳しい審査を乗り越えてきた、すべてに於いて信頼性の高いものだが、限界もある。むしろ限界だらけだ。
その現実から逃げ出したのが、そうした闇落ちと呼ばれる医師たちだと佑都は思っている。厳しい現実から目を背けて、患者には甘い希望ばかり持たせる。そしてどうしようもなくなったときには、手を離すのだ。
あれこそが死神じゃないかと佑都は思う。
見離された絶望と後悔を抱えた患者を最後まで診るのは、ごく一般的な医師たちだ。しかしその現実はあまり知られていない。
とにかく、自分の受け持ち患者にだけは騙されてほしくない。
佑都は、小児ICUの前で今村が娘と面会中なのを外から確認する。
「朝香先生?」
佑都に気づいたICU専任看護師が顔を出す。
「…今村さん、面会何時まで?」
「あと五分くらいです。呼びますか?」
「いや、いい。それまで待ってるから」
家族でも面会できる時間は短いので、佑都は外で母親が出てくるのを待つことにした。
スマホをいじりながら、口角を引き上げて笑顔を作る練習をする。できるだけ穏やかな雰囲気で話をするための、顔の筋肉のストレッチだ。
「…何やってんの?」
自分の前に影ができて、佑都は思わず見上げる。
「え……」
そこに立っていたのは、隣のICUから出てきた藤崎だった。
不意討ちだったので、佑都の表情はそれとわかるほど固まった。
「朝香だろ? すっげ、久しぶり」
向こうから声をかけてくれたのに、すぐに反応することができない。
「あ、覚えてない?」
彼を覚えていない同級生など存在しないはずだ。
「ふ…じさき?」
「そうそう。綾瀬さんだっけ? 小児科の。朝香のこと云ってたから」
驚きすぎて、なんと返せばいいのかわからない。が、藤崎はさして気にするふうもなく、話を続ける。
「ここ、いいよな。術後はある程度内科に引き継げるし」
たいていの病院では、術後管理は手術をした外科の担当になる。急変したときに備えるためその負担はかなりのものだ。
欧米のシステムだと外科はひたすらオペをという考え方が一般的で、術後の患者の管理は一切行わないことも珍しくないらしい。
「前のとこ、ほんときつくてさあ…。術後管理で何日も病院に寝泊まりとか普通だったし」
うちでもいまだにそういう外科医はいるよと云おうとしたが、その前に佑都はICUから今村が出てくるのに気づいた。
「あ……」
藤崎も振り返る。
「患者の家族?」
「あ、そう」
佑都が何をしにここにいるのか、すぐに察したようだ。
「んじゃ、またな」
軽く手を挙げると、佑都を残して行ってしまった。
落胆と同時にどこかほっとしたような。が、今村の怪訝そうな顔を見て、慌てて表情を引き締める。
「こんにちは。多恵子ちゃんと話せました?」
笑顔笑顔と唱えながら、今村に近づく。
「ええ、まあ…」
「もうすぐ病室に移せますよ」
「…看護師さんからも同じこと云われました」
今村は不満そうに返す。
「そうですか」
「…あの、伊藤先生とは手術後一度もお会いしてないんですが。執刀医が滅多に顔を出さないなんて、少し無責任すぎません?」
彼女は佑都を軽く見ているのか、よく不満をぶつけてくる。
「伊藤とは常に連絡をとっておりますし、容体が変化したらすぐに診られる体制になっていますから…」
「そんなこと知ってます。そういうことじゃなくて、たとえば中垣先生ならご自分でも毎日のように執刀した子を診にいらっしゃるでしょう?」
「術後は小児科が担当することになっているので…」
「たとえそうでも、中垣先生は最後まできちっとケアされてますよ」
その言葉に佑都の眉間が思わずぴくつく。それを自覚して、再度、笑顔笑顔を繰り返した。
「何か多恵子ちゃんのことで気になることがありました?」
「なにそれ、親に丸投げですか? 私はずっとついていることは許可されないんですよ。気になることを見極めるのは医者の仕事でしょ? ほんとにこれだから。だから中垣先生にお願いしたかったのに!」
中垣の献身ぶりは患者に評判だが、担当してもらえなかった患者からの不満に対してあまり把握していないようだ。
今村の立場になってみれば不満はわからないでもない。誰だって自分の子どもを誰よりも手厚く看護してもらいたいだろう。
「いたらなくて申し訳ないです。多恵子ちゃんが安定しているのはお母さんが話しかけてくださっているからだと…」
「…そう云われれば親は納得するとでも?」
溜め息交じりに返す。
「ほんと頼りない。それに看護師も…。よりによってオメガの看護師って…」
「は?」
佑都は思わず聞き返した。
「大事な部署にオメガの看護師を配置するって、どういうつもりなのかしら。発情期になっても薬飲んでるからって勤務するとか。うちの子は女の子だからまだいいけど、男の子だったらと思うとぞっとするわ…」
佑都は耳を疑った。今どきオメガ差別を目の当たりにするとは思わなかったのだ。
自分もオメガなんだと云えばどんな顔をするだろうか。しかし事態がややこしくなるだけなので黙っていた。
「中垣先生に診ていただけないんなら、前の病院にいるんだったわ」
悪びれもせずにそう投げつけると、さっさと帰って行った。
さすがに佑都は彼女を呼び止めようとはしなかった。
以前はオメガの場合は学校や職場に申告する決まりがあったが、それは差別に繋がるということで廃止されてから、病院はそこまで把握していない。しかしトラブル回避にもなるので公言しているオメガの看護師は数人いる。全員女性のオメガだが、ベータやアルファと比較して能力が劣るというようなことは一切ない。それどころかプライドを持った、仕事熱心な看護師ばかりだ。
しかし、オメガというだけで差別する人間はいまだに少なくない。オメガ特有の愛くるしい容姿が気に入らなくて、自分より下に見る傾向にあるようだ。
看護師の中にも、オメガを公言する看護師をおもしろく思っていない者は一定数いて、それはその容姿とオメガのフェロモンで、アルファの男性医を横から攫われることに強い警戒感を抱いているせいらしい。
そこまで考えて、はっとした。
これまでずっと、そういうことは他人事だと思っていた。自分が公言しないのは、病院内でのそうした恋愛事に自分はカウントされないと思っていたからだ。
しかし、もしオメガの看護師が藤崎に対して何らかのアプローチを仕掛けたら?
苦い笑みを噛み殺す。
そのとき感じた、何とも云えない不快感。その根底にあるのは嫉妬だろう。
自分も、オメガに警戒心を抱くベータの看護師たちと違わない。
オメガのフェロモンに抵抗できないアルファの藤崎がそれに惹きつけられる可能性に、納得できない自分がいるのだ。
内心を云えば、アルファ女性と付き合う藤崎なら許容できるのに、オメガ女性が相手だとチートのようなそんな苛つきを感じる。
それは差別だ。オメガでありながら、同じオメガを差別している。
オメガの看護師を尊重しているつもりだったが、いつのまにか自分が医師であることで彼女たちを下に見ていたのだ。
自分の差別意識を自覚するのは、嫌な気分だった。自分が矮小なつまらない人間だと痛感させられる。
深い溜め息をつくと、事務作業を片付けるために医局に戻った。
紹介状の返事を書き終えると、治療方針に関して指導医の意見を仰ぐ。が、思いの外ダメ出しされて凹んでしまう。
指導医の稲葉は、佑都はプライベート優先で仕事にはあまり熱心ではないと思っているようだが、実際は少し違う。
そもそも佑都はオメガのせいか体力があまりない。睡眠不足が数日続くと急激に思考力が落ち、強眼痛が起こって、立っていられなくなるのだ。そうなると回復にも時間を要する。
何度か倒れかけて、その結果、睡眠を削ることが自分には致命的だと察した。そうなると、時間を如何にやりくりするかを天秤にかけることになる。
長時間病院にいて患者を看ることの意義は当然わかるが、そうしながら論文や資料で情報をアップデートさせることは、体力的に難しい。だから、病院にいるのは必要最低限となる。とはいえ、それでも定時で退出するわけではない。
中には本当にプライベート最優先でコンパに忙しいチャラけた医師もいるが、彼らは要領がよく意外に優秀で、佑都はとても敵わない。それは学生のころからだ。
医大には桁外れに記憶力がよく理解力に優れた学生が大勢いて、サークル活動やデートを満喫しながらも優秀な成績をとるのだ。
一言で云えば、頭の出来が違う。
同じ論文を読むにしても、それを糧にするまでのスピードが違うのだ。コンピューターでいえば、積んでいるCPUが違うといったところだろう。
人生を楽しみつつ、難度の高い仕事をこなす。
きっと藤崎もそのタイプだろう。
同じ医師でもそのくらいに能力の違いがある。佑都はそれを少しでも補うべく日ごろから勉強を欠かさないが、それでもついていくのに必死だ。
患者にしてみれば、自分のような医師に担当されたら損をした気分にもなるだろうと、内心同情してしまう。何しろ病院という場には、能力が高く、献身的で自己犠牲を厭わない医師がいくらでもいるのだから。
その日の帰り道、近道なので病院内の職員用駐車場を横切ると、少し先で目立つ長身の男が車に乗り込むのが見えた。
「藤崎?」
思わず口にしていた。遠目でもはっきりとわかる
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