書籍詳細
転生したら聖女じゃなく、騎士侯爵の偽恋人になりました
ISBNコード | 978-4-86669-511-2 |
---|---|
サイズ | 文庫本 |
ページ数 | 248ページ |
定価 | 836円(税込) |
発売日 | 2022/08/18 |
お取り扱い店
電子配信書店
内容紹介
人物紹介
平坂唱(ひらさかとなえ)
20歳の大学生。楽天的だけど頑固な面もある。
デューイ・ラスソルド
唱が転生した異世界で、近衛騎士の団長を務めている侯爵。真っすぐな性格。唱に偽恋人を頼む。
立ち読み
『だから、絶対ヒロインはマヤちゃんじゃなくてセイジなのよ。妖狐様の愛はセイジにあるの。だってこの間の回で妖狐様ってばセイジのこと抱き締めてたでしょ?』
「その前にマヤちゃんに手を伸ばして、顔赤くして手を引っ込めたじゃん。奥手だからとっさに対象変えただけじゃないの?」
『唱はわかってないなぁ。あっちがフェイクなの。昨日の回は一緒の布団に寝てたでしょ?』
「そりゃ、女の子とは寝られないからだろ」
『もう。わかってないな。とにかく私は妖狐様セイジ推しなの』
「はい、はい」
叶はそこだけは譲らない、というように繰り返した。
『二人がラブラブなんだからね』
夜の十一時、何が楽しくてBL布教の電話を受けなくてはならないのだろう。
俺、平坂唱と電話の相手である平坂叶は従兄妹だった。
父親同士が兄弟で、俺と叶は同じ齢。
子供の頃から両家は仲がよく、俺と叶と、叶の弟である希と俺の弟の和也の四人は兄弟のように育った。
だが、いつの頃からか叶は二次創作というものにハマって、同人誌即売会へ行ったり自分で薄い本を作ったりと腐女子への道を歩き始めた。
それはいい。個人の自由だ。
だが、実家が神社で将来巫女として神社の跡継ぎとなる叶が、お稲荷様を題材にしたアニメで腐るのはどうなんだろう、と思う。神社とお稲荷様は関係ないのか? でも神社には結構な確率でお稲荷様が併設されたりしてるだろ?
本来、そのアニメはお稲荷さんと女子高生のラブロマンスのはずだ。なのに彼女は女子高生に片想いしてる男子高校生とお稲荷さんがデキてると訴えている。
もう長い付き合いだし、彼女の思考には慣れているから何も言わないけれど、バチでも当たりそうじゃないか。
『でね、明日迎えに来て欲しいの』
「明日?」
『そう。限定のグッズが出るんだけど、一人五個までって決まってるのよ』
五個もあれば十分だろう。
『酷いと思わない? 八種類あるのに五個限定って。コンプするにはどうしても二回買わないといけないんだけど、唱が来てくれれば一回で済むじゃない』
「何で俺が」
『マヤちゃん出たらあげるし、お昼に巴屋のラーメン奢るから』
別に俺はマヤちゃんは好きではないが、巴屋のラーメンは魅力的だな。
それに、結局いつも俺はこの従兄妹には逆らえないのだ。
「わかったよ。何時に迎えに行けばいい?」
『七時』
「七時? 早過ぎだろ」
『始発じゃないだけいいでしょ。とにかく明日神社に迎えに来てね。ヨロシク』
言いたいことだけ言って、彼女は電話を切った。
長い黒髪にぱっちりとした目、気の強そうなツンとした唇。叶は、ちょっと着飾って黙っていればそれなりにモテるだろうに。……中身が残念だな。
もっとも、そっくりな俺も面倒くさがって髪も伸び放題で服装にも気を遣わないのだから、人のことは言えないか。
「叶に似てるんなら、俺もまあまあイケメンなんだろうけどな……」
でもまあいいか、別にモテたいわけじゃないし。
この『まあいいか』という性格も、モテない理由の一つなんだろうな。
今まで、特に困ったこともなく、切羽詰まったこともなく、普通の家庭で普通に生きてきたし、きっとこのまま普通に生きていくのだろう。
平凡が嫌なタイプではないので、『まあいいか』でもいいのだ。
そう考えると、叶のバイタリティは認めるべきものだろうな。
何にしろ、明日は早い。スマホのゲームをやりたかったが、遅刻すると文句を言われるからさっさと寝るべきだ。
そう思って、俺はさっさとベッドに入った。
翌朝、あまりよく寝た気にはなれなかったが、目覚ましで起こされた。
メッセンジャーバッグに、財布とスマホとカギを突っ込み、真夏であること、前回付き合わされた行列で長時間並ばされたことを思い出して、タオルと簡易栄養食のバーも入れた。
あと、エコバッグだ。
アニメショップの袋を持つのは恥ずかしいのでこれは必須。
出掛けに冷蔵庫から、これも暑さ対策でミネラルウォーターのペットボトルを入れた。冷えたペットボトルは結露るので、ビニール袋に入れてタオルに包むことも忘れない。
叶のせいで、こういうことの準備に慣れて来たな……。
「あら、出掛けるの?」
玄関先で靴を履いてる時に母さんに声を掛けられる。
「叶に付き合わされるんだ。また限定グッズとかの買い物要員。昼は奢ってくれるっていうから用意しないでいいよ」
「せっかくの夏休みなんだから、少し遊んでらっしゃいよ」
「相手が叶じゃなぁ」
「彼女もいないんだから、叶ちゃんで我慢しときなさい」
「いないんじゃなくて、いらないの。和也にプール行く日を決めるように言っておいて。連れてく約束してるから」
「はい、はい。いってらっしゃい」
母親に送られ、俺は家を出た。
叶の家であり父さんの実家である平坂神社は、我が家から歩いて十分程度のところにあり、それぞれの家が使う駅が一駅分違うくらいの距離だ。
郊外とはいえ住宅地の広がるこの辺りで広大な土地を有する平坂家は、地元の名士である。
金持ちというわけではないが、土地持ちではあるし、やっぱり神社は別格なのだろう。俺にはよくわからないが。
ウチは既に父親が神社から離れてサラリーマンになっているので、正月などに時々手伝いには行くけれど、細かいことは教えられていない。
平坂神社の跡取りは巫女、つまり女だからだ。
経理とか営業とか事務的なことは伯父さんがやるけれど、神事は全部伯母さん。その跡を継ぐのは叶だ。
叶が結婚したらその旦那さんは婿養子として平坂家を継ぐが神事には拘わらせない。もし叶が結婚できなければ、弟の希が継ぐだろうが、希の嫁さんが巫女になることはない。
平坂神社はクシナダヒメというお姫様を奉っているらしいが、始祖はある日村にやってきた天女がクシナダヒメの生まれ変わりということで、死後に奉られたというのが縁起なので、神事の跡継ぎは巫女なのだ。
クシナダヒメを奉る神社は都内にも幾つかあるが、そこからの分祀ってわけでもなく、独自の神社だ。
なので、経営には他所から口を出されることはない。
「この立派な鎮守の森が残ってるのも、そのお陰なんだろうな」
境内入口の鳥居を抜け、真っすぐ道なりに進むと本殿がある。その神社を囲むように、もったいないくらい広い鎮守の森。
商業主義の神社だったら、新しい拝殿を建てたり、駐車場にしたり、マンション建てたりしたいところだろう。
平坂の家はこの森の奥にある。
獣道のように踏み固められた土の上を歩いていると、睡眠時間が足りなかったせいか軽い目眩を覚えた。エレベーターで落下してゆく時のような感覚だ。
「う……」
ふらついて、目を閉じると、瞼の奥がチカチカと白く光った。
貧血か? 朝メシ、ちゃんと食べてくればよかったな。駅前のコンビニでおにぎりでも買おうか。いや、買って貰おう。叶の電話のせいで寝るのが遅かったのだし、あいつの買い物に付き合うのだから。
森の中は空気がいいから、やっぱり残しておいてよかったのかな。
まだ朝だからかもしれないが、真夏なのに空気がひんやりしている。
「……にしても、伯父さん、そろそろ草刈りした方がいいんじゃない?」
いつもの道を歩いているはずなのに、だんだと周囲に雑草が増え、道を隠してゆく。
俺が言い出すと、草刈り頼まれちゃうかな? あ、でも伯父さんならバイト代出してくれそう。叶もアニメグッズで散財してるだろうし、二人でやれば何とかなるだろう。
にしても、家が見えないほど茂るって何?
って言うか……、平坂の家はどこだ?
俺は立ち止まって周囲を見回した。
何か……、見覚えがない気がする。
思わず振り向くと、サーッと血の気が引いた。だって、たった今歩いて来た道が見つからなかったのだ。
周囲は見たことのない木々に囲まれ、足元には雑草が生い茂っている。
俺はバッグからスマホを取り出した。
「……圏外」
だがスマホには圏外の表示が出ている。Wi―Fiも確かめたが、ネットワークが一つも表示されない。フリーがなくても、どこかの家のWi―Fiが表示されるはずなのに。
携帯基地局もWi―Fiもないなんてことがあるか? ここは都心からは離れているとはいえ、ちゃんとした市街地だぞ?
取り敢えず、電池の消費を抑えるためにスマホの電源を切り、俺は再び周囲を見回した。
神社の鳥居はくぐった、森の入口はいつもの通りだった。さっき、目眩を感じてから何となく雑草が多くなったとは思ったが、真っすぐに進んできたはずだ。
そういえば、近くで強い電波が出てると接続が出来なくなることがあると聞いたことがある。真夏には一晩で庭が雑草だらけになった、なんて話も。
真っすぐ行こう。
真っすぐ歩けば、平坂の家に着くはずだ。
……だがどっちが真っすぐなんだ?
いや、平坂の家に着かなくても、森の周囲は花崗岩の柵で囲まれている。そこから外へ出て、連絡を入れればいい。
時計は針はまだ七時少し前だった。
七時を過ぎれば、きっと叶が怒って連絡してくる。『何してんの』と。鎮守の森で迷ったなんて言ったら笑われるかもしれないが、このわけのわからない状態に置かれるより、あの生意気な声を聞いた方がいい。
俺は適当に当たりを付けて、木が少ない方を選んで歩き続けた。
もう獣道すらなく、進めば進むほど歩き辛くなる。それでも歩くのを止めるという選択肢はなかった。早くここから出たいという一心だった。
だが……。
真っすぐ歩けばいつか見知った場所に出る、と思っていた俺の考えはすぐに木っ端微塵に砕かれてしまった。
やっと見えた木々の切れ間。
明るい光を見てほっとした次の瞬間。
「何で……」
両足から力が抜け、地面に崩れ落ちる。
「何でこんなとこに川が流れてんだよ!」
まだまだ続く森の中、河原まである幅の広い川が流れていたのだ。
森から川へは段差があり、大きな岩さえ見える。
「何でなんだよ!」
それは、平坂神社の鎮守の森にはあり得ないだけでなく、生まれ育ったこの街にもあり得ない光景だった。
サバイバルを題材にしたバラエティ番組を観たことがあった。
何にもない島に、カバン一つ分の荷物を持って島から脱出するというものだ。
だがあれは、『何もない島で暮らす』『島から脱出する』という命題があって、そのための準備も心構えもあるからこそ成立するものだ。
それに、いくら一人とはいえ、テレビの撮影クルーが目の前にいる。
けれど、俺はそんな準備も心構えもないまま、見知らぬ場所にたった一人でほうり出されてしまった。
サバイバル?
何を? どうやって?
俺はタバコは吸わないので、ライターは持っていなかった。火を点ける方法はそのテレビで観た、木と木を擦り合わせるという方法しかしらない。しかもどんな木がいいのかなんて、覚えていなかった。
食べ物もない。
バッグに入っているのは栄養補助食品の菓子が一箱だけ。
水はペットボトル一本だが、目の前の川は清流で、口にしてみると冷たくて飲める水だったのが不幸中の幸いだろう。
季節が寒くなかったのも、まだ幸いだったと言えるだろう。
体感では、夏というより晩春で、日中はぽかぽかしていたが夜は肌寒い。それでも、雪の中に放り出されなかっただけでもマシ、といったところだ。
どこへ向かって歩けば人里に着くのか、そもそも人里が近くにあるのか。
一日目は、菓子を小分けにして食べ、ミネラルウォーターをちびちびやりながら川下へ向かって歩いた。
だが夜になって獣の遠吠えが聞こえた時は、恐怖ですぐに木に登った。
当然、俺の住む街は獣が遠吠えするようなことはない。聞こえたって犬の遠吠えぐらいだ。それだって生まれてから一度も聞いたことはない。
つまり、俺は見ず知らずの土地にいる、ということだった。
夜が明けると、当然のごとく猛烈な空腹に襲われた。
周囲を探すと、わずかな木の実とキノコがあったが、毒を考えると口にはできない。川に魚はいたが釣竿はないし、空に鳥が飛んでるのは見えたが、打ち落とすものもない。
水だけは山のようにあったので、ペットボトルが空になる度に川で水を汲んで満たした。
時々スマホの電源を入れてみるが、相変わらず表示は圏外。
二日目の夜には、もう動けなくなって、大きな岩の上に居場所を定めることにした。
自分でもよじ登らなければならないような場所なら、獣に襲われる心配はないだろう、と。
だが岩の上は夜には冷えるので、日中に近くの木の枝を折って敷き詰めた。
火が欲しい。
食べ物が欲しい。
俺、ここで暮らしてかなきゃいけないのかな。マジで?
岩の上でじっとしていると、涙が零れた。
学校で習ったことなんて、何にも役に立たない。便利な知恵なんて、道具があって初めて活かせるもので、何もないところでは意味がない。
あっと言う間に三日目の朝が明けると、俺は覚悟を決めた。
何か食べないと死ぬ。
毒でも何でも、口に入れられそうなものは食べないと。
まず木の枝を折って、槍みたいなものを作ってみた。
けれど先端を尖らせるナイフは持っていないので、魚に突き立てるつもりだったが、二度ほど失敗するとバッキリ折れてしまった。
もっと太い枝じゃなきゃダメだ。
次は木の実を探すことにしたが、自分が木の実だと思って見上げていたものは、蕾だということに気づいた。
考えてみれば、季節は晩春。実がなるのは秋頃だろうから、季節が違う。
それでもやっと見つけたベリーっぽい実を口に入れてみたが、硬くて酸っぱくて食べられなかった。
追熟させれば食べられるかも、とエコバッグに詰め込みはしたが。
動物……、は殆ど姿を見なかった。考えようによっては、人間である俺を恐れて姿を見せないなら、人がいるという可能性がある。
今日もまた水だけの食事か、と思って川の水を汲んでいる時、近くで物音がした。
人?
と思って振り向いた俺の目に映ったのは、熊ほどの大きさの犬というか、狼だった。
しかもなんでか額に一本角がある。
あり得ないだろ!
唯一の逃げ場だった岩から離れ、手にしているのはペットボトルだけ。空腹で動きは緩慢、頭も回らない。
詰んだ。
俺はこいつに喰い殺される。
短い人生だった。
いやワンチャン、死んだら元の世界に戻れるかも。
しかし獣の発する『グルルル……ッ』という唸りと獣臭い臭いがその希望を打ち消した。
痛い思いもした、空腹や疲労も感じた。でも目は覚めなかった。認めたくないけれど、俺は異世界に転生して、このまま命を落とすのだ。
ラノベなんかで描かれてる異世界転生って、もっとチートなもんじゃないのかよ。最低限の生存は確保されてるもんじゃないのかよ。
神様とか召喚術を使った神官とかに迎えられて、巻き込まれ召喚でもちゃんと衣食住は保証されてるもんだろ?
いきなり何にもないところに一人きりで、空腹のまま獣に襲われて死ぬなんて最悪だ!
「動くな!」
何もかもを諦めたその時、人の声が響いた。
目の前の獣も、俺からその声の主の方へ視線を移す。
次の瞬間、薮の中から飛び出した黒い塊が獣に向かって突進した。
キラリと光る銀色のものが剣だと認識した途端、それは振り下ろされ、獣の首が千切れた。
バッと赤い血飛沫が飛び、生臭い臭いが辺りに満ちる。獣は首がまだ身体にぶら下がっている状態で暴れまわり、暫くするとドサリと倒れた。
呆然としながもう一度目の前の光景を冷静に見直した。
首が千切れた血まみれの、見たこともない黒い獣の屍体。飛び出してきた黒い塊は、血まみれの大剣を手にした銀髪の男。その男の服は、長袖のシャツにズボン、膝までのブーツ。
ロープレで見る剣士の初期装備みたいな格好だ。
「大丈夫か?」
言葉はわかる。日本語だ。
でも、銀髪だし、格好が現代人のものじゃない。まともな助けじゃない。
それでも、俺は三日目に会った『言葉の通じる人間』を見て、わっと泣き出した。
「お……、おい」
男がおろおろした様子で近づいてくる。
「生きて……、生きてる……」
手の届くところまで来ると、俺は立ち上がって彼に抱き着いた。ああ、実体だ。幻なんかじゃない。それがわかると安堵から更に強く彼にしがみついた。
「俺、生きてる……!」
子供のようにわんわんと泣きながら。
「助かったんだ……」
よかった。これですぐに死ぬことはなくなった。完全に安全とはまだ言えないのかも知れないけれど、言葉が通じる人間が現れたのならすぐに死ぬことはないだろう。
男の人は、俺が泣くのに任せてくれた。
だが突然俺をお姫様抱っこで抱き上げた。
「な……、何……!」
「濡れると風邪をひく。泣くなら地面で泣け」
いや、生まれて初めて男の人に抱き上げられたことで、涙は引っ込んでしまった。
どっこいしょ、もなく軽々と抱き上げられるほど俺は軽くないのに。彼はスタスタと岩陰まで俺を運んで、下ろした。
「濡れているな。少し待ってなさい」
彼が森の中へ入ろうとしたので、俺は慌てて立ち上がった。
「どこ行くんですか、置いていかないで!」
彼は振り向くと、とても優しく微笑んだ。
「馬をあちらに置いているので連れて来るだけだ。それに薪も必要だろう」
「火を起こす道具を持ってるんですか?」
「ああ。すぐ戻る」
火が、手に入る。
文明って、火から始まるんだと痛感したこの数日の苦悩が終わる。
俺は、槍を作ろうとして失敗した木の枝を思い出し、そこらに落ちてる枝も拾って集め、砂利の上に積み上げた。
生木はダメというのも、たき火の時には枯れ草など燃えやすいものを下に敷くといいというのも知っていたので、なけなしのサバイバル知識でたき火の用意をして彼を待った。
待つ、という時間が長く感じたけれど、命の恩人だし、優しく微笑んでくれた人を信じて、じっと待った。
暫くすると、バキバキという枝を折るような音が聞こえ、一瞬身構えたが、現れたのは大きな黒い馬を連れたさっきの人だった。
「たき火を積んだのか」
「これでいいかどうかはわからないんですが……」
「いや、十分だ」
引いていた手綱を離すと、馬は真っすぐ川に向かい水を飲んだ。そして彼はそこに立ったまま、パチンと指を鳴らした。
途端、たき火が燃え上がる。
「火!」
今、彼は何もしなかったよな? なのにあんな離れたところから火を点けた?
「魔法は見たことがないのか?」
「魔法!」
ああ、やっぱり異世界だ!
「見たことありませんし、使えません」
燃え上がる炎の温かさを感じながら、俺は答えた。
「そうか。どこの村から来たのだ? ここいらは魔物が出るから危険なので立ち入りを禁じていたはずだが」
「魔物!」
「……そこにいるだろう」
彼はさっきの黒い獣を目で示した。
「あれ、魔物なんですか? 魔物と獣の違いって何なんですか? ああいうの、いっぱいいるんですか?」
思わず矢継ぎ早に質問してしまう。不安より興味が勝つのは、俺が男の子だからか、ちょいオタク入ってるからだろうか。剣士に魔法に魔物と聞いたら興奮するに決まってる。
けれど、彼に詰め寄ろうと身を乗り出すと、俺はそのまま前のめりに倒れた。
「危ない」
彼の腕が受け止めてくれなかったら、顔からジャリに突っ込んでいただろう。
「……すみません、お腹が減って……」
「空腹なのか?」
「二日も食べてないので……」
「二日? 何故? いや、質問するより食べ物だな」
彼は立ち上がって水を飲んでる馬の鞍から何かを持って戻ってきた。
「パンとチーズぐらいしかないが、食べるか?」
「はい!」
彼は黒いパンを薄く切り、軽く火で炙ったチーズを載せて俺に差し出した。
ああ、チーズってこんなにいい匂いなんだ。パンってこんなに美味しかったんだ。俺は渡された一切れをむさぼるように食べた。食べ終わると、もう一つ同じものを作って差し出してくれたので、それもあっと言う間に平らげてしまった。
三つ目を差し出された時、やっと俺はこれが彼の食事だったのでは、ということに思い至って手を止めた。
「腹は満ちたのか?」
「いえ、これはあなたのご飯ですよね? どうぞ、これはあなたが食べてください」
「心配するな、私はさほど腹は減っていないし、目的は達成したからもう家に戻る。ああ、そうだ。ついでにお前も送っていってやろう。家はどこだ?」
「家……」
訊かれて自分の状況を思い出し、涙が浮かぶ。
「家……、ないです」
「家族が亡くなったのか?」
「……いいえ。信じてもらえないと思いますけど、俺はこの世界の人間じゃないんです」
彼の目が少し細められる。
ああ、これは疑われてる目だ。何を言い出してるんだ、という目だ。わかっているのに、言葉が止まらなかった。
「俺は違う世界から来たんです。来たっていうか来てたって言うか。親戚の家に向かってたはずなのに、いつの間にかこの森の中にいて、三日間彷徨ってました」
食べてもいいと言われたチーズ載せのパンを齧りながら、俺は続けた。
「普通に見知った場所を歩いていたのに、軽い目眩を感じたらもうこの森を歩いてました。俺のいた世界では魔法もないし、魔物もいません。ここがどこなのかもわかりません。言葉が通じるのは唯一のチートっていうか、その……、神様の采配? みたいなものだと思います」
「どこかの南の国の屋敷から逃げてきた使用人とかではないのか? もしそうなら……」
「違います。俺は学生でした。自分のいたところでは」
「学生? では貴族の……」
「俺の世界の俺の国には、もう貴族制度はありません。剣を下げてる人もいません」
彼は俺をじっと見た。
今更だけど、この人、凄いイケメンだ。肩まである真ん中分けの真っすぐな銀髪で目は青く、眉は細く上がり気味で唇は大きくて薄い。何より鼻筋が通っていて高い。身体は俺より一回り大きくて筋肉もしっかりついてる。身長、一九〇はあるだろう。
この状況も、外国人モデルが撮影してたと言われたら納得しただろう。
「それを信じろ、と?」
彼に問われて、意識を説明に戻す。
「信じても信じてなくても、それが事実です。それ以外の説明はできません。あ、そうだ。これを見てください」
俺は自分の腕に嵌めていた時計を見せた。
「こんな時計、ここにあります?」
「腕に付ける時計は初めて見たが、ここにも時計はある」
「じゃ、これはどうです」
俺はパンを片手に立ち上がり、岩の上に置いてあったバッグを引っ張り下ろし、中から使い古したペットボトルを取り出した。さすがに彼の格好からしてプラスチックの類いは存在していないだろう。
「これ、俺の世界から持ってきた容れ物です。中身はその川の水ですけど」
彼はペットボトルを受け取り、その軽さに驚いた。
「これは……、何で出来てるんだ? 薄いガラスのようだが、ガラスよりも軟らかいな」
「ペット樹脂だったかな? 俺が作ったものじゃないので、よくわからないです」
ペットボトルが何で出来てるか、なんて考えたこともなかった。
「その袋も見せてくれ。今、どうやって開けた?」
「いいですよ、どうぞ」
彼はメッセンジャーバッグを受け取ると、不思議そうにファスナーを何度も開け閉めした。なるほど、この世界のはファスナーもないんだ。
「中の物に触れても?」
「困るものは入ってないのでどうぞ。濡らしたり燃やしたりしないでくれれば」
「他人の持ち物にそのようなことはしない」
ちょっとムッとしたということは、高潔な人物を自負してるってとこか。
大したものは入ってないんだよな。カギとスマホとタオルと……。思い出して俺は再び岩場に向かい、謎の果実を詰めたエコバッグを取って振り向いた。
……見てる。彼が手を止めてこちらを見てる。しかも警戒してるのを感じる。
俺が武器か何かを取り出すと思ったんだろうか?
「えっと……、これ、途中で採ったんですけど、食べられるものですか?」
エコバッグを前に差し出しながら、元の場所に座る。
「布ではないようだな。何で作られている?」
エコバッグの素材はビニールだけど、それをこの人にどう説明したらいいのか。
「袋の中にあったこれも、不思議な素材だな」
彼が取り出したのは、ペットボトルの結露を防ぐために入れていたビニール袋だ。タオルは変わったものじゃないから、疑問は持たれなかったが、スマホは素材どころか用途も不明だろうな。ただの板と思われてるかも。
「あなたにわかるように説明はできないです。俺の国の言葉を使って説明しても意味がわからないでしょうし、この世界にはないものかもしれないので」
石油から精製したナフサを化学変化させたもので作られてます、……と言ってもわからないだろう。
「あの……、もしよかったら、俺を人里まで連れて行ってくれませんか?」
「どこかに知り合いがいるのか?」
「いません。でもここに置いていかれたら死にます。食べ物もないし、俺は剣とか持ったこともないですし、さっき言ったように魔法も使えないので。人里に出れば、何とか働いて生きていけるかもしれませんし、生きていれば帰る方法が見つかるかも……」
それは無理かな。
「あ、遅れましたが、俺の名前はヒラサカ・トナエです。ヒラサカが家の名前で、トナエが個人の名前です」
「トナエ・ヒルサカか。私はデューイ・ラスソルドだ」
あ、やっぱり名前が先か。
「ヒルサカじゃなくて、ヒラサカです」
「ヒラサカ」
「はい。言いにくければトナエでいいです」
彼はまだビニール袋を持ったまま、じっと考え込んだ。
怪しいヤツだと思われたかな。ラノベを読んで、どうしていつも転生者が転生者だとすぐに名乗らないのか不思議だったが、受け入れる側が理解不能になるからだったのかも。受け入れられないと怪しまれていい結果を生まないから、黙ってるのかも。と、今更気が付いた。
デューイは、俺が変なヤツだと認定したのだろう。だからきっと考え込んでしまっているのだ。こいつを人里に連れてっていいのか? と。
「ご迷惑はかけません。何か適当な仕事を探して、地道に生きていきます。だからどうかここに置いていくことだけは勘弁してください」
「こんなところに置いていったりはしない」
よかった、その一言が聞けただけで安心する。
「トナエの言葉の全てを信じることはまだできないが、困っていることはわかった。幾つか質問していいか?」
「はい、どうぞ」
「お前は『この世界』に一人の知り合いもいないのだな?」
「はい」
「ここに来てから出会った人間は私だけか?」
「はい」
「働くと言ったが、何か手に職は付いているのか?」
「それは……、まだ学生なので。でも料理は少し」
あ、でも調理器具もコンロもないならダメか? 一応自炊できるようには仕込まれてたんだけど。炊飯器も調味料もなくて、『ご飯作れます』は言えないか。
「ほんのちょっとだけ、です」
「馬には乗れるか?」
「乗れません」
「剣は持ったことがないと言ったが、その他の武器は?」
「俺の世界の俺の国は平和で、武器を使う必要がありませんでした」
質問に答えてると、俺ってばここでは役立たずなんだな、と痛感した。
「計算はできます。文字も教えてもらえば覚えられると思います」
「話せるのに書けないのか?」
「ここの文字を見たことがないので。書けるかどうかわかりません」
「なるほど」
そしてまたデューイは黙ってしまった。
心配してくれてるのか? ダメ認定されてるのか?
「トナエ、一つ提案だが、私と取引をしないか?」
「取引、ですか?」
「そうだ。お前に私の恋人になって欲しい」
この続きは「転生したら聖女じゃなく、騎士侯爵の偽恋人になりました」でお楽しみください♪