書籍詳細
異世界チートで転移して、訳あり獣人と森暮らし
ISBNコード | 978-4-86669-597-6 |
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サイズ | 文庫本 |
ページ数 | 248ページ |
定価 | 836円(税込) |
発売日 | 2023/08/18 |
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電子配信書店
内容紹介
人物紹介
赤羽陽色(あかばね ひいろ)
6年前、異世界に召喚され、森に一人で暮らしている。偶然エルたち兄弟を助ける。23歳。
エル
森で弟のビーを庇いながら獣と戦っている所を陽色に助けられる。逞しい体つきの28歳。
立ち読み
レンガを積んで作った窯の蓋を取ると、炎と炭の匂いの後に、香ばしいパンの香りが吹き出してきた。
ミトンをはめた手で、中のパンを取り出す。クープがしっかり開いて、こんがりきつね色のフランスパンが出来上がっていた。
パンを割るとパリッと音がして、気泡の入ったふんわり柔らかな中身が湯気を立てて現れる。
熱々のパンの欠片を口に放り込み、赤羽陽色は快哉を叫んだ。
「すごい。完璧だ!」
静かな森の中に、陽色の声が響く。他には小鳥のさえずりと木々の葉擦れの音が聞こえるだけだ。心にうら寂しさが過ったけれど、いつものことだから気にしなかった。
独り言も増えたけど、それを咎める人もいない。
「次はピザを作ろうかな」
レンガの窯が思いのほか上手く作れたから、いろいろ挑戦したい。なにしろ、時間だけはたくさんあるのだ。
「ニシンのパイってのも作ってみたいな。あのアニメのやつ。ニシンて、この世界にもあるのかな」
今日も長閑に、森の時間が過ぎていく。
陽色は六年前、十七歳の秋まで、ごく普通の高校生だった。
日本の海沿いの街に生まれ、両親と兄と妹がいて、理数系が苦手で国語と歴史が得意な男子高生。
身長は高一の時に百六十八センチまで伸びたけど、二年になってからは二センチしか伸びずにがっかりしていた。
真っ黒な癖っ毛と顔立ちは父親譲りの童顔で、女の子に可愛いと言われることはあるけど、モテたことはない。部活は帰宅部で、親戚が営むパン屋で週に三日、小遣い稼ぎのためのアルバイトをしている。
そういう、本当にどこにでもいる日本の高校生だった。
十七歳の秋、学校帰りに友達とゲームセンターに行って、そこから陽色の人生は一変した。
友達とクレーンゲームをしていたのに、気づいたら陽色だけ異世界に召喚されていたのだ。
本当に馬鹿馬鹿しい、荒唐無稽な話である。陽色は六年経った今も時々、自分は長い夢を見ているのかもしれないと考えることがある。
でも異世界に渡ったその日から、陽色は波乱万丈の人生を生きることになった。
この世界はトールキンの「指輪物語」の世界みたいに、エルフだの獣人だの魔法使いだのがいる世界で、陽色はとある人族の国の王様と、彼が雇った魔術師に召喚されたのだった。
なんでも、異世界から召喚した人間には各々、特殊で便利な異能力が備わっており、呼び出した者の願いを何でも叶えてくれるのだという。
悪魔召喚みたいなものだろうか。
人族の王様は、周辺諸国を治める天下統一の野望を持っており、腕利きの魔術師に命じて異世界召喚の儀式を行ったらしい。
ところが陽色には、彼らが期待するような異能力を持ち合わせていなかった。
魔術師から、その身に備わった異能力がわかるという水晶玉を渡され、水晶に浮かんだ文字を読むように言われた。本人にしか読めないらしい。
ちなみに、彼らの話す言語は日本語ではないのに、陽色はこの世界に来た時から言葉が理解できた。
誰も疑問に思わないようなので聞けなかったけど、あの時、口に出さなくて本当によかった。
『すごく ずるい のうりょく』
たどたどしい日本語で、そう書かれてあった。それが陽色の持つ能力だった。
なんだそりゃ、と陽色は思ったが、王様と魔術師も同様に思ったらしい。もう一度、水晶玉に触れ直すように言われた。
『めっちゃ うらぎる ちから』
王様は激昂し、陽色は城から追い出された。
こんなところで放り出されても、一人で生きていけない。泣いて城の門を叩き、魔術師に元の世界に戻してほしいと頼んだけれど、異世界から召喚された者は、もう二度と同じ世界には戻れないのだそうだ。未来永劫。
絶望し、流れ着いた城下町でしばらくホームレスをしていた。途方に暮れていたし、家族も友達もいないこの世界で、とても生きたいとは思えなかった。
死んでしまいたい。これは夢で、死んだら目が覚めるかもしれない。でも勇気がない。
打ちひしがれて路上生活をしていたが、やがてひょんなことから、自分にも異能力が備わっていることを発見する。
「すごい。俺、超チートじゃん」
思わずつぶやき、そして気がついた。
陽色が元の世界で何気なく使っていた、「チート」の本来の意味を。
チートの語源は英語で、ずるとか、騙す、裏切るという意味を持つ。あの水晶玉に浮かび上がった文字は、その直訳だったのだ。
目の前が真っ暗だと思ったのに、希望の光が見えた気がした。
この能力があれば、見知らぬ土地でも生きていける。そしてもしかしたら、元の世界に戻れるかもしれない。
でも、そんなに上手くはいかなかった。
自分の持つ途方もない能力を使い、あれこれ試してみたけれど、やっぱり元の世界には戻れなかった。
日常生活は、はじめのうちは上手くいっていた。
「ドラ○もん」のポケットだけ手に入れた「の○太」みたいに、労せずしてお金や食料を得て、毎日楽に暮らしていた。何しろ陽色の能力は、とにかくすごかった。
ちょっとばかり、調子に乗っていたかもしれない。元に戻れない焦燥で、自棄にもなっていた。
陽色のチート能力はやがて街中に知られるところとなり、それは陽色を追い出した王様の耳にも届いた。
手のひらを返した王様に連れ戻されそうになり、陽色は国外へ逃げた。異能力をもってすれば、他国で生きることもそう難しいことではない。
今度はバレないように、調子に乗らず慎重に……そう思っていたのに、やっぱり別の国でも知られてしまい、騒ぎになった。
見知らぬ人からは利用されそうになり、さらに陽色を呼び出した国からも追っ手がかかって、また逃げた。
そんなふうに、陽色はしばらくあちこちの国を転々としていた。
能力を隠していても、陽色が便利な奴だとわかると、利用される。
能力は使わずに、コツコツ自分の力だけで働こうとしたけれど、やっぱり騙されたりひどい目に遭ったりした。
悪い人ばかりじゃない、親切な人もいたし、力を貸してくれる人もいた。
でも、世の中捨てたもんじゃないと思って気を許していると、騙されていたりする。そういうことが繰り返されると、誰も信じられなくなる。
異世界に連れて来られて三年半、土地から土地、時には大陸を渡って、根無し草みたいに暮らした。段々と心が疲弊し、すり減って、やがて何もかも嫌になってしまった。
人は怖い。同じ人族だけではない、エルフも獣人も、種族は問わずみんな結局は同じだ。
いつ自分の能力がバレるかと、ビクビクしながら生きるのも嫌だ。
だから陽色は、人の住む集落を避け、誰も住まない大森林の奥へ奥へと移動し、そこに家を建てて一人で暮らし始めた。
今住んでいるこの家の周りには、陽色以外に誰もいない。
狂暴な魔獣が生息する大森林だから、人が足を踏み入れることがまずないのである。
たまに買い物をしに、森を出て街に向かう。それ以外はずっと一人だ。
誰も陽色に付け込んだりしないし、この生活を脅かす者はいない。家は快適で、食べ物にも困らない。悠々自適なスローライフ。
何の問題もない。ただ時々、無性に寂しくなることを除けば。
この世界に来て六年、大森林での一人暮らしは、二年に及ぼうとしていた。
「よし、こんなもんかな」
空き瓶に自家製ジャムを詰め終えて、陽色は声を上げた。
コルクで蓋をして、その上から紙をかぶせて麻ひもで縛ると、商品らしくなる。
家の台所には、そうやってできたジャムの瓶詰が二十個ほどあった。イチゴとリンゴのジャムが十ずつ。イチゴもリンゴも、家の庭で採れたものだ。
今日は、ひと月ぶりに街へ出かける。自給自足できるので、この家から一歩も出る必要はないのだけど、やはりずっと独りぼっちでいるのは辛い。
だから陽色は半月かひと月に一度、気まぐれに街へ出かけるのだった。
街では気ままに買い物をしたり、食事をしたり、ほんの束の間、人々と触れ合う。
今、瓶に詰めているジャムは街で売ったり、親切にしてくれた人にお礼として渡すものだ。
陽色はこの家で暮らす間に、暇にあかせていろいろなものを手作りするようになった。うまくできたら、誰かに見てもらいたい、食べてもらいたいと思うのは自然な流れである。
前回は自家製ベーコンを街に持って行って好評だった。このジャムもきっと、売ったらすぐに買い手がつくだろう。
手提げの小ぶりな籠に、ジャムの瓶を二十個すべて入れる。ちょっと考えて、今朝焼いたバターロールを五つ入れた。陽色が入ると言えば、籠にはなんでもいくらでも収納できる。
陽色の力は、この世界の魔法とは違うようだが、陽色は面倒なので、自分の力を「魔法」と呼んでいた。
こちらの世界の魔法、魔術は、魔力をエネルギー源にしており、難しい呪文を順序よく唱えるとか、複雑な魔法陣を描くとか、ややこしい手順と制約があるらしい。
でも陽色は、自分に魔力を感じたことはないし、魔法を発動させるための手順はごく単純である。熟練の技も、体内で魔力を張り巡らせたり、気功を錬成する必要もない。
しかし、この力が何なのかわからないし、別に探究するつもりもなかった。便利に暮らせるならそれでいい。
街に持って行くものの準備が終わると、今度はチュニックとズボンに着替えた。
以前、街で買ったものだ。それにフード付きの外套を羽織って、革の長靴を履く。家では魔法で作ったスウェットとスニーカーだが、さすがにそれでは目立つ。
準備ができると、籠を提げて庭に出て大陸の地図を広げた。めぼしい街がいくつかあって、その時の気分で行き先を決める。
それぞれの国や地域の特色があって楽しいし、ランダムに訪れれば、陽色がどこに拠点を持っているのか特定されにくい。
「今日はそうだな、近場にしよう」
この大森林に隣接した人族が治める国、中でも大森林にほど近い場所に、中くらいの街がある。珍しいものは売っていないけれど、その街の酒場で出す煮込み料理が食べたくなったのだ。
陽色が地図を指さして魔法の「呪文」を唱えると、瞬きをする間に景色が変わった。
木々の爽やかな香りは消え、陽色を取り巻く空気は埃っぽく、雑多な匂いの混じったものに
変わる。
そこはもう、目指す街の中だった。
顔見知りの雑貨店にジャムを渡すと、たいそう喜ばれて、持ち込んだ分すべて買い取ってくれた。
いい宿で一泊して、美味しい煮込み料理を食べるくらいは稼げた。といっても、街に泊まるつもりはない。自宅の方が快適だからだ。
商店街を見て回り、街の様子を眺める。歩き疲れたので、行きつけの酒場へ向かった。
酒場と言っても、大衆食堂みたいなものだ。この街は治安も良い方なので、ひょろっとした若造の陽色でも、安心して入れる。昼の中途半端な時間なので、客はまばらだった。
「ヒーロ! 久しぶりだな」
店の主人が陽色を見つけ、声をかけてきた。常連客もいて、気さくに話しかけてくる。
陽色は売らずに残しておいたイチゴジャムの瓶を一つ、店主に渡した。
「これで、いつもの煮込み料理を食べられるかな」
お金を払ってもいいのだが、陽色が持参した物と交換するほうが、喜ばれるのである。
陽色は辺鄙な村に住んでいることになっていて、庶民にはそこそこ高価な砂糖だとか蜂蜜、香辛料などを惜しげもなく使った食べ物を持ち込むからだった。
店主は案の定、にっと笑って「もちろん」と答えた。
「煮込み料理に葡萄酒と肴、他にもいろいろつけられるぜ」
「じゃあ、店主のおまかせでお願いします」
あいよっ、と威勢よく店主が応じ、間もなく煮込みと葡萄酒、それにつまみがいくつか出てきた。
煮込みはこの辺りで取れる、野生の豚を葡萄酒と香辛料で煮込んだものだ。レシピを聞いたけれど、陽色は自分で再現できたことがない。
葡萄酒も酒の肴も癖はあるが、陽色がいた日本の店と比べても遜色はない。もっとも、陽色は日本にいた頃まだ高校生だったので、居酒屋に入ることはまずなかったけれど。
(居酒屋も競馬もパチンコも、大人の娯楽はデビューできなかったなあ)
ついでに彼女もおらず、今も童貞のままだ。物悲しい気持ちになるので、そこは極力考えないようにしている。
(いいんだ。日本にいたって、彼女ができたとは限らないし)
胸の内で独り言ち、さらにわびしい気持ちになったので、葡萄酒のおかわりを頼んだ。
料理を食べ終える頃、店のドアが開いて新しい客が入ってきた。
その客が現れた途端、めいめいに話していた客たちの声が、ふと途切れる。陽色も思わず、戸口の客を見てしまった。
異様な客だった。
いや、よく見れば巨躯という以外、風体がそれほど特別だったわけではない。
陽色が身に着けているような、くすんだ色の外套を羽織り、フードを目深にかぶっている。外套はところどころ擦り切れ、薄汚れていた。
革の長靴もボロボロだ。店に入る際、頭を大きく下げてドアをくぐってきたから、相当な長身だろう。身体つきは外套の上からでもわかるくらい逞しい。
旅の途中だろうか。旅人ならば身に着けているものがボロで汚れているのもうなずけるし、そうでなくても、彼よりみすぼらしい身なりの者は街にいくらでもいる。
なのに店の者は、陽色も含めて皆、現れた男に呑まれたように口をつぐんでしまった。
男には、思わず居住まいを正してしまう迫力があった。迫力だけではない、他者を拒絶するような、気安く触れると何が起こるかわからない、ピリピリとした緊張感が男の周りには漂っていた。
男は戸口で立ち止まり、ざっと店内を見回したようだった。それからすぐ、カウンターの店主のところへ行く。
「主人。すまないがこれでまた、食べ物をわけてもらえないだろうか」
ちゃりちゃりと硬貨が擦れる音が聞こえた。顔はフードに隠れていてよく見えない。白に近い銀色の髭が伸びていて、老人かと思ったが、声は若々しかった。
店主は出された硬貨を見て、渋い顔をする。軽くかぶりを振った。
「できれば消化にいいものを。子供の食欲がないんだ」
店主の表情に気づいていないのか、男は続ける。店主はため息をつき、カウンターの奥に引っ込むと、黒パンを半切れ、無造作に男の前へ置いた。
黒パンはこの地方でよく食べられている、雑穀の入ったカチカチの硬いパンだ。長持ちするし安いのだが、味は二の次だし、精製していない雑穀を使うので消化に悪い。
「その金で買えるのは、これが精いっぱいだ」
「しかし、先日は……」
「こないだは特別だ。あんたがどうやら訳ありで、小さい子供がいるってんで、うちのかみさんが好意でやったんだよ。兄ちゃんがどこから来たのか知らないが、物には相応の値段てもんがある。その金で、この辺りで買えるものといったら、黒パン半分がせいぜいなんだ」
店主の言葉には憐憫が混じっていた。けれどあちらも商売だ。そういつも施しはできない。
男は、自分が施しを受けていたとは思いもよらなかったらしい。相当なショックを受けたようで、わずかな間、息を呑んで固まっていた。
「そう……だったのか。それは……申し訳なかった」
やがてカウンターに置かれた拳が、強く握りしめられた。声は静かで、男が感情を抑えているのがわかった。
「では、このパンをいただいていこう」
「ああ。悪いな」
店主も居心地が悪そうに頭を掻く。
「いや。世話になった。女将にもよろしく伝えてくれ」
男は言い、半分の黒パンを手に取ると店を出て行った。店主も客たちも、ほっと息を吐く。
現れた時は恐ろしく威圧感のある人物だと思ったが、物腰は終始丁寧だった。いったい何者なのだろう。お金に困っているのだろうか。
「あれは、獣人だな」
男が消えていったドアを見ながら、店主が誰にともなく言った。「獣人?」と、近くにいた常連客がおうむ返しに聞く。
「ああ。フードをかぶって見えないが、かみさんが前に、ちらっと獣の耳を見たそうだ」
「そういや近頃、この街でも獣人が増えてるな」
陽色は男のことが気になって、彼らの話に耳をそばだてた。
「そりゃあ、あれだよ。隣のほら、リュコスの国があんなになっちまったから。あそこの国民が流れてきてるんだろうさ」
「リュコスって、あの北東の? 隣ったって、あんなところから西の果てのこの街まで、わざわざ流れてくるかねえ」
「けど、この辺りで獣人がいっぱいいる国って言ったら、リュコスしかねえだろ。その南はほら、エルフの国だから」
陽色は頭の中で地図を思い出してみる。この街は、王国の西の端にある。西側には陽色が住む大森林があって、反対側の東には確かに、この王国に隣接するリュコスという国があった。
「リュコスって国、どうかしたんですか」
陽色も話の輪に入る。店主が教えてくれた。
「ああ、お前さんの村では聞かんのか。リュコスはつい先達てなくなっちまったんだよ。東の帝国に侵略されたんだ」
東にある人族が治める帝国は近年、周辺の国を次々に侵略しているという。
そして人族やエルフ族を優遇し、他の種族はその下で従属するべきだという思想のもと、人とエルフ以外はみんな奴隷にしているのだという。
「特にほら獣人てのは、身体の動きが人やエルフより優れてるだろう。奴隷にして使い潰しちまおうってのさ」
この国の隣にあるリュコスという小さな獣人の国も、帝国に攻め滅ぼされてしまった。
数か月前のことだ。陽色は森にこもってほとんど街に出てこないから、知らなかった。
「リュコスの王様や貴族は皆殺し。他のリュコス人はみんな、殺されるか捕まって奴隷にされたそうだ」
「……ひどいですね」
陽色は悲惨な光景を想像し、思わず顔をしかめた。
こちらの世界に来て、国を方々渡り歩き、時には戦争を見ることもあった。この一帯は平和だと思っていたけれど、そうでもないのかもしれない。
「けど、俺たちも他人事じゃないかもしれないぜ。帝国は領土を広げてるっていうからな」
「やめてくれよ、縁起でもない」
「けどさ、リュコスの貴族や軍人なんかでも、どうせ負け戦だってんで、早めに難を逃れた連中もいるって聞くぜ。王族の子供が生き延びて逃げてるとか」
「王族が逃げられるもんかね。帝国ってのは徹底してるんだろ」
「いや、俺も聞いたぜ。何でも、幼い末の王子様だけが生き残ったらしい。家臣たちと逃げてるとか」
「まあともかく、そうやって国を失ったリュコス人が今、方々に散らばってるってわけだ。だから、さっきの男もそのリュコス人じゃないかと思ってね。小さい子供がいるって言うから、親子で逃げてきたのかもなあ」
その子供も、具合が悪いと言っていた。気になったけれど、陽色は無理やり男のことを頭から追い出した。
いくらチート能力があるといっても、同情した相手の人生の、一切合切を背負うわけにはいかない。そんなことをしていたらきりがない。
陽色はもどかしい気持ちのまま、残った葡萄酒を飲み終え、店主や常連たちに挨拶をして店を出た。
まだ外は明るい。もう少し街を散策するつもりで、さてどこに行こうか迷った。
(あ、そうだ。バターロール)
行きがけに思いついて、籠に入れたままだった。
(さっきの男の人に渡せばよかった)
病気の子供のために、消化のいい食べ物をほしがっていた。黒パンより、バターロールの方が食べやすいし美味しい。
(探してみよう)
一時の施しなど、自己満足にすぎない。わかっているけれど、このまま帰ったらバターロールを見るたびに男を思い出すだろう。
大きな男だから、人に聞けばすぐ見つかるかもしれない。そう思い、そこらの露天商に尋ねようとしたが、人に聞くまでもなく男は見つかった。
男は街の広場にある公共の井戸で、水を汲んでいるところだった。
革製の水袋に水を詰めると、さっとその場を立ち去る。陽色は慌てて彼を追いかけた。
大声で呼び止めれば聞こえるかもしれないが、なんと呼べばいいのかわからない。それに、男は相変わらずフードを目深にかぶっており、目立ちたくないように見えた。
それで黙って追いつこうとしたのだが、男は大股な上に、歩くのが速い。あっという間に引き離され、するりと路地を曲がってしまった。
陽色は小走りで後を追う。男が消えた路地を曲がった時、横から突然、腕を掴まれた。ものすごい力で引っ張られる。
「あっ」
と、重心を失った時にはもう、何者かにヘッドロックをかけられ、目の前にナイフを突きつけられていた。
「何者だ」
「ぐぁっ」
低い声は確かに、あの長身の男の声だった。しかし、先ほどの紳士ぶりは跡形もなく、ぐいぐいと陽色の首を絞めあげる。
「お前、先ほど酒場にいたな。なぜ俺を尾行する」
「……してな……っ、苦し……人殺し!」
叫ぶと、あっさり拘束は外れた。陽色はその場に膝をつき、激しく咳き込む。
そんな陽色に、男がなおもナイフを突きつける。陽色はキッと相手を睨み上げた。
「尾行なんか、してない。声をかけようと思ったけど、目立ちたくないみたいだから、呼び止めずに追いかけたんだ」
抗議をしながら相手を睨むと、男から殺気がわずかに和らいだ。陽色が提げていた籠の中に手を入れるのを見て、一瞬、ナイフを構える。
しかし、バターロールを取り出して差し出すと、男は驚いた様子で息を呑んだ。
「これ、俺が焼いたパン」
パンを突き出したが、男は黙ったままだった。陽色が下から覗き込むと、男は目を瞠っていた。
男は、陽色が今までに見たことがない、金と緑の混じった不思議な瞳をしていた。髭がもじゃもじゃで顔半分は相変わらず見えないが、切れ長の目に鼻梁がすらりと通っていて、髭を剃ったらかなりの男前なのではないかと思われる。
伸び放題の髭も、眉もまつ毛も銀色だった。
「よかったら、あなたの子供と食べて。さっきの黒パンよりも食べやすいし、美味しいと思う」
陽色が彼の胸にパンを押し付けると、ようやく受け取る。男は口を開きかけ、また閉じた。
その顔が、くしゃりと歪む。悲しそうな、悔しそうな表情だった。
一瞬にして溢れ出たらしい強い感情を、男はまた瞬時に抑え込む。強く目をつぶり、開いた時にはもう、複雑な感情を消していた。
これほどまでに自分を律せられる人を、陽色は初めて見る。
「……ありがとう。手荒な真似をして、申し訳なかった」
真摯な声音で言って、深く頭を下げる。大丈夫か、と、陽色に手を伸ばした。
金緑色の瞳に覗き込まれ、どきっと心臓が跳ねる。瞳の美しさに心を奪われたのだが、相手にとっては拒絶に思えたのかもしれない。
「すまなかった」
男は悲しそうな顔をして、手を引っ込めた。陽色は「いえ……」と、もごもごつぶやいたが、それ以上、言い訳することができずに黙り込む。申し訳ないことをした気がして、うつむいた。
「これはありがたく、いただいていく」
気まずい沈黙が落ち、男がそう言って踵を返した。先ほどと同じように、あっという間に別の路地へ消えていく。
(俺、またやっちゃった)
残された陽色には、砂を噛むようなざらりとした後悔が残った。
この世界であちこちの土地を彷徨ってきた陽色には、忘れたいのに忘れられない、トラウマのような思い出がある。
以前にも、男にしたのと同じように、施しをしたことがあった。
あの時は小学生くらいの子供たちで、彼らは天災を逃れてきた孤児たちだった。見かねて食べ物をあげたら、ついてきてしまった。
困ったなあと思いつつ、陽色も寂しかったから、ついつい彼らを構ってしまったのだ。
食べ物と着る物をやり、夜にはふかふかの寝床を与えた。子供たちは喜んだし、陽色もいいことをしたと思って、嬉しかった。
陽色は天災で親を失った子供たちのための施設ができたと聞き、そこへ子供たちを連れて行って預けた。
子供たちのことは行きがかり上、助けただけだったし、もちろん彼らを育てるなんてことは考えてもいなかった。ただ一時、面倒を見たに過ぎない。
当然、子供たちもわかっていると思っていた。
けれど施設に連れて行き、今日からここに住むこと、陽色とは別れ別れになると伝えた時、子供たちはみんな、見捨てられ裏切られたような顔になった。
「ぼくたちを置いていくの?」
「どうして一緒にいてくれないの」
陽色は子供たちに、何も言えなかった。施設にたくさんお金を寄付して、子供たちに着る物や食べる物を渡して、逃げるように施設を後にした。
いや、逃げるようにではない。はっきりと、陽色は逃げ出したのだ。
子供たちが大きくなるまで面倒を見るつもりなんて、なかった。見て見ぬふりはできないから、ほんのちょっとした親切のつもりだった。
でも一時でも親のように彼らを守り、俺がいるから大丈夫だよ、なんて優しい言葉をかけた。
それに陽色が魔法で出した食べ物や寝具に慣れたら、この世界の孤児院の設備は、ひどく粗末で惨めなものに感じるだろう。
自分が子供たちの立場だったら、どう思うか。
恥ずかしかった。いたたまれなかった。自分がひどく傲慢で、浅慮で、馬鹿な人間に思えた。
人を助けるなんて、軽率だ。自分自身のことさえままならないのに。
特別な能力が備わっているからといって、いい気になっていた。最初に失敗したから、いい気にならないようにと気をつけていたのに、愚かだった。
「一緒にいてくれるって、言ったのに」
「嘘ついたの?」
去り際の、子供たちの責めるような眼差しが忘れられない。彼らの縋る声が耳にこびりついている。
そのまま残って、彼らの面倒を見ることだってできたのに、陽色は逃げ出した。
責任を持つことが怖かったのだ。いつか子供たちを疎ましく思ってしまいそうだった。「いい人」でいられる自信がなかった。
覚悟もないのに、ほんの一時、自分が気持ちよくなるために人に手を差し伸べた。自分は浅ましく卑怯な人間だ。自覚があるくせに、施設に引き返して償おうとしない。
他人も信用できないけれど、自分も信用できない。人も自分も、何もかもが嫌いになった。
現実から逃げて逃げて、陽色は今、森の中に一人でいる。
男と出会ってから三日後、陽色は再び街に来ていた。あの男のことが、どうにも気になって仕方がなかったのだ。
バターロールを渡した時に見せた、あの悲しい表情が忘れられない。
陽色のような、子供みたいな男に施しを受けたことが、彼の矜持を傷つけたのかもしれない。
子連れで、その子が体調を崩しているというのも気になった。戦火を逃れて、お金にも困っている。どこで寝泊まりしているのだろう。
あの男に限らず、街には困っている人が他にもいる。一つ一つ心を傾けていたらきりがない。
忘れろと、何度も自分に言い聞かせた。それなのに、何をしてもあの男が最後に見せた、悲しい表情が目に浮かぶ。
あなたに怯えたわけじゃない。あまりにイケメンだから見とれただけだ。そう伝えればよかった。そんなことばかりが頭の中をぐるぐる回る。
これはもう一度、男に会うしか気を紛らわせる方法はない。陽色は三日目に悟り、リンゴのパウンドケーキを焼いて街に向かった。
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