書籍詳細
孤独なオメガが愛を知るまで
ISBNコード | 978-4-86669-613-3 |
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サイズ | 文庫本 |
ページ数 | 272ページ |
定価 | 836円(税込) |
発売日 | 2023/10/18 |
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内容紹介
人物紹介
アイル
虐げられ生活していた稀少オメガ。
リシャール
国の事業を行うイケメンの技術者。
立ち読み
昨日までずっと降り続いていた雨が明け方には止んで、朝からすっきりと気持ちのいい青空が広がっていた。
アイルはベッドから出ると、窓を少し開けて外の空気を吸い込んだ。ここに来て半年以上たつが、今でもこうやって一人でいると夢の中にいるような気がしてしまうことがある。
ぼんやりした頭でのろのろと着替えを始めた。昨夜も遅くまで本を読んでしまっていて、あまりよく眠れていなかった。
「アイル様、おはようございます」
ノックと共に声がして、アイルは慌てて返事をした。
「お、おはようございます」
ドアが開くと、世話係のフリッツがワゴンを押して部屋に入ってきた。
「いつもお早いですね」
ひととおりの支度を終えているアイルを見て、フリッツは微笑む。
実はアイルは誰かに着替えを手伝われるのが苦手で、起こされる前に着替えを済ませておくようにしていたのだ。
「ハモンド夫人は今日は朝食後には見えるので、乗馬のお稽古はその後になります」
「…わかりました」
ハモンド夫人はアイルの家庭教師の一人で、主に法学を担当していたが、アイルは彼女が笑ったところをまだ一度も見ていない。
乗馬は今週に入って始めたばかりだが、まだ馬丁に手綱を持ってもらってゆっくり歩かせるのがやっとだった。怯えているせいで馬に舐められているのだと馬丁が教えてくれたが、この調子では慣れるのに時間がかかりそうだ。
「ミシェル様は今月もお忙しくてこちらには来られませんが、アイル様のことはいつも気にかけておいでです」
それを聞いてアイルは曖昧に頷く。
ミシェルはこの国の皇太子だ。
アイルは男性オメガであり、かつて王族と深い関係のあった貴族の末裔でもあった。この国では貴族出身の男性オメガは極めて珍しく、それゆえある役割があった。
もう何代も前から、王族や有力貴族の中でアルファの子どもが産まれる確率が減り続けていて、それは血縁の近い者同士の婚姻が繰り返されたせいではないかと思われていた。
王族や有力貴族のアルファ女性は妊娠しにくく、ようやっと授かった子も成人まで育つ例はあまり多くはない。ベータとの婚姻では、産まれる子の殆どがベータとなってしまい継承権を持てなくなる。
国王となるには王族の血族であれば性別は関係ないが、アルファである必要があった。そうしたしきたりが代々続いていた。
減る一方の王位継承者を絶やさないために、血縁関係のない貴族との婚姻を勧めると同時に、男性オメガを娶ることも推奨されていた。
オメガは繁殖力が高く、特に男性オメガはアルファの遺伝子を色濃く残す子どもを産む傾向が強かったのだ。
もちろん男性オメガであればどんな身分の者でもいいというわけではなく、貴族の出身であることは最低条件となっている。
アイルの家は、かつて貴族階級にあり何代か前にオメガ男子が国王の側室として何人ものアルファ男子を産んでいたことが王室の記録に残っていた。つまり今の王族には、アイルの先祖の血が僅かながら混じっているということだ。
それが所謂「深い関係」である。
ただ貴族であったのは過去のことで、度重なる周辺国との戦争のせいでアイルの祖先は長年隣国の支配下に置かれ領地も奪われてしまい、隣国の支配力が弱まったあとも貴族の地位は回復されないままとなった。土地も戻ってこず生活は楽ではなかったものの、彼らは先祖と同じ地に住み続けていた。
王室は貴族出身のオメガを積極的に王宮に迎え入れていたが、もう何十年もそれに該当する者は現れなかった。それで王室と何らかの関係のある家もその対象に広げ、土地を持たずに苦しい暮らしをしている家の男児には、王室から養育費が支払われることになったのだ。発情期がくるまでオメガかどうかがわからないため、成人するまでを目途と決められていた。
アイルの家の男児も、その取り組みのおかげで祖父の代からその恩恵に与ることができていた。結果的には祖父の代以降の男児は全員がベータでオメガではなかったものの、それでも男児が生まれると引き続き王室からの援助は続いていた。そして何代かぶりに誕生したオメガが、アイルだったわけだ。
ただ、アイル自身はそうした複雑な事情は知らなかった。アイルが一歳になる前に両親も祖父母も疫病で亡くなっていたからだ。
アイルは、単に男性のオメガだから王室に呼ばれたということだけ聞かされていた。
皇太子はアイルよりも五歳年上の気品のある整った容姿の好青年で、初めて会ったときに 優しく微笑んでくれた皇太子に、アイルは一目で好意を持った。それでも、そのときは緊張で話をすることもできずに、皇太子のお相手をしたのは、この屋敷の主であるマーゴット侯爵夫人だった。
皇太子は月に一度訪れると聞いていたが、しかしそれも最初の二回だけで、その後はずっと会えずじまいだった。
それでもこの屋敷にいれば皇太子の話を聞く機会は多く、未来の国王が如何に思慮深く聡明であるかや、思いやりと慈悲深さに溢れているかを聞くにつれ、自分で作り上げた人物像にアイルは恋するようになっていた。
そんな皇太子に恥を欠かせないだけの教養を身に付けるために、アイルは何人もの家庭教師から厳しい指導を受けていたのだ。
「明日は乗馬服の仮縫いがございます」
お茶にたっぷりのミルクと砂糖を入れて、アイルに差し出す。
「ハモンド夫人ご推薦のご本、来週には届くようです」
「…ありがとうございます」
「他に何かご希望のものがございましたら…」
フリッツの窺うような視線に、アイルはふるふると首を振った。
「何もありません。とてもよくしていただいているので…」
それは偽らざる言葉だった。
「それはよかったです。今後も何かありましたら遠慮なく仰ってください」
アイルはこくんと頷く。しかし、半年前の自分の境遇から考えれば恵まれすぎていて、これ以上望むものなど思いもつかない。ただただ、フリッツやこの屋敷に仕える人たちにがっかりされないようにしないとと、それだけだった。
この日もハモンド夫人は容赦ない厳しさで、前日までに教えたことを確認すべくアイルに次々と問題を出していった。アイルが答えに詰まると、夫人はひやりとするほど冷たい視線を向けて次の質問に移るのだ。彼女は声を荒らげることも覚えていなかったことを責めることもなく、淡々と授業を行った。
授業のあと、アイルは答えられなかった質問を確認して自分の不甲斐なさに小さな溜め息をついた。
それでもそのこと自体は特に辛いことではない。これまでの境遇を思えば、勉強のために睡眠を削ることなんて考えられないほど幸せだったのだ。
乗馬の稽古の前に離れにある図書室に本を戻しに行ったときに、見慣れない男性の姿にアイルは思わず足を止めた。
男性は入ってすぐの書棚の前で、手にした本を読んでいるところだった。
机には地図が広げられていて、何冊かの本が積み上がっている。
「あの…」
「ああ、お邪魔してますよ」
本に視線を落としたまま、男はそう云った。
薄汚れた作業着のようなコートを羽織っていて、ズボンの裾を押し込んだ長めのブーツには泥がはねた痕がついている。
そういえば、フリッツが工事関係の技術者が調べものに来るかもしれないと云っていたことを思い出した。工事とは王室が行う公共事業のことのようだ。
アイルは小さく会釈をすると、彼の横をすり抜けて、借りていた本を書庫に戻した。できれば他の本を探したかったが、人がいるとどうも落ち着かないので、いっそ後にしようか迷っていると、ふと彼と目が合った。
引き込まれるような深い翠の眸に、アイルは一瞬息が止まりそうになる。背中に電流が走ったかのような衝撃だった。
どくんどくんと心臓の音が響いて、血が逆流しそうだ。
なに、これ…。慌てて彼から目を逸らす。
「し、失礼します」
なんだかよくわからず、慌ててそこを出た。
すらりとしていて、皇太子と同じくらい長身かそれ以上だった。技術者のようだったが纏っている空気は貴族のような気品があって、薄汚れたコートや靴とのアンバランスさが気になってしまう。
慌てて出てきたが、引き返してもう一度顔が見たいと思ってしまって、そんな自分が恥ずかしくなる。
「アイル様、そろそろ着替えた方が…」
急いで部屋に戻ると、着替えの準備をしたフリッツが彼を待っていた。
「…アイル様? どうされましたか。お顔が熱っぽいようですが」
「え……」
思わず頬に手をやる。
「は、走ってきたから……」
「大丈夫ですか? 乗馬はお休みされますか」
「え、いえ、大丈夫です。すぐに着替えます」
アイルはぎこちなく笑うと、急いで支度をする。
誰だったんだろう。そんなことを思って、小さく頭を振った。
そんなことを気にするなんておかしい。
アイルは乗馬用のジャケットを羽織ると、急いで庭に向かった。
******
アイルが生まれた村は、王宮のある首都からは遠く離れた国境近くにあった。
村はそれなりに豊かで、アイルの両親と祖父母もその一角でひっそりと暮らしていた。
貴族の出身であることを知る者は少なく、王室からの養育費で一部だけ買い戻した先祖の土地を大切に守って、贅沢からはほど遠く、それでも家族全員が協力して生活している温かい家庭だった。
その温かい家庭に災難が降り注いだ。アイルが生まれて一年とたたないときに、村を疫病が襲ったのだ。
村人が次々と感染していって、村は直ちに閉鎖された。村人はその土地から出ることは許されず、適切な治療が行われることもなかった。アイルの家族も高熱が続いた後にばたばたと亡くなっていった。
村人の七割近くが亡くなったというのに、まだ一歳にも満たないアイルが生存者の中にいたというのは奇跡的なことだった。
アイルは隣村の教会の施設に一年ほど預けられていたが、両親の遠縁という夫婦が現れてアイルを引き取っていった。
夫のステインは、アイルに王室から養育費が支払われていることを知っていた。アイルの祖父の家に出入りしていた彼の伯父が、偶然盗み聞きしたことを、酔ったときに漏らしていたのだ。そのときは、ただそのことを妬ましく思っていただけだった。
しかし幸運にも疫病の難を逃れたステイン夫妻は、アイルの身内はすべて疫病の犠牲になったのにアイルだけは生き残っていることを風の噂で知ったのだ。そのときに、ステインは援助金のことを思い出した。
そのとき彼に悪知恵が働く。自分たちが養親となれば、国からの援助金を受け取れるのではないかと考えたのだ。
アイルの親族も誰も生存していなかったこともあって、教会は遠縁だと云った夫妻の言葉をあっさりと信じた。孤児の数は多く、教会にしてみれば引き取り先が見つかっただけでもありがたい話だったので、特に身元を調べるようなこともなく彼らにアイルを引き渡した。
そして、正式な養子の手続きをするために村役場を訪れた。
多くの村人が亡くなって、村役場もまだまともに機能していない時期だった。
役人はアイルに国から養育費が支払われることになっていることを知らないから、ステインが金目当てだとは露ほども疑わず、遠い親戚の子どもを引き取る善人だと思ったのだろう。なのでこれまでの記録を改めることもなく、ステイン夫妻がアイルの養父母であることを公式に認める簡単な書類を発行してしまった。
体裁が整ったところで、夫妻は王宮に手紙を出した。
暫く返事はなく、夫妻は養育費がもらえないのなら引き取った意味がないと、再び教会に戻すことを考え始めていたときに、王宮から役人を寄越すという返事があった。
緊張した面持ちで自分を出迎えたステイン夫妻に、国の役人はお悔やみを述べた。
「…知り合いも大勢亡くなりました。奇跡的に生き残ったアイルを、私たちは大切に育てたいと思っておりますが、生活が苦しくて…」
ステインの妻は大袈裟に涙ぐんで見せる。
しかし役人はそれに同情を示すこともなく、淡々と書類を確認する。
「その子がアイルであることに間違いがなければ、王宮より養育費を用意することになっております」
「もちろん間違いありません。役所も認めてくれていますし」
意気込んで書類を見せるステインを、役人は一瞥した。
「それは、貴方がたがその子の養父母であることの証明でしかありません」
ビジネスライクな返事に、夫妻は慌てた。
「そ、それは…」
「この子がアイル本人であることの確認が必要です」
「確認って…」
「この混乱の後ですから、間違えて保護されたことも考えられます」
その言葉に、スタイン夫妻は思わず抗議する。
「そ、そんなことは…!」
「私たちはアイルのことをよく知っています。彼に間違いありません」
実際はこれまでアイルに会ったことなど一度もなかったのだが、二人はとにかく必死で云い募った。そんな二人に、役人はゆっくりと頷いた。
「それはそうでしょう。しかし間違いがあってはなりません。私が確認をする間、席を外していただけますか」
役人に付き添っている従者が、二人を外に促す。ステインは何か云いたそうだったが、とりあえず大人しくそれに従った。
二人が部屋を出ると、役人は書類を取り出した。それは、生まれて数か月後のアイルの身体的特徴を詳細に書き記したものだった。
それを元にアイルの身体を点検し始める。
アイルの左足の裏に残る小さな痣を確認して、生まれてすぐの痣の図と見比べる。僅かに薄くそして広がっている。
他にもいくつかの特徴を慎重にチェックして、それを書き留める。
「間違いなさそうだ」
すべて記入し終えると、夫妻を呼んだ。
「お待たせしました。アイルであることを確認いたしました。養親である貴方たちにアイルの養育費を支払うことをお約束いたします」
二人の顔に笑みが広がる。悪巧みがまんまと成功したのだ。
「ありがとうございます。私どもは子宝に恵まれずにおりましたので、我が子のように育てたいと思っております」
「アイルを幸せにするとお約束します」
しかしその言葉が果たされることはなかった。
最初の役人こそ職務に忠実だったが、その後役人たちは都から離れたこの土地まで足を運ぶことを面倒がって、ステイン夫妻の都合のいい報告をそのまま受け取るだけで、特に調査もせずに養育費を支払い続けたのだった。
ステイン夫妻は、空き家同然で放置されていたアイルの家に住み着いて、王宮からの養育費で使用人を雇うと、アイルの世話は使用人に押し付けた。
村が混乱しているのに乗じて、アイルの家族が耕していた土地はもちろんのこと、持ち主を失った土地も自分のものにした。村から人がいなくなっていたときだったので、この土地が衰退するよりはと役所もそれを認めた。
ステインがその土地を耕していたのは最初の数年だけで、村も落ち着きを取り戻し、他の土地から移ってきた人たちを小作人として雇うようになると、ステイン夫妻の暮らしぶりはどんどん贅沢になっていった。
しかし彼らがアイルを大切に育てることはなく、成長に従って使用人と同じように扱い、家の仕事を手伝わせた。
養母はひどい癇癪持ちで、使用人たちは彼女に辞めさせられたり、もしくは彼女の癇癪に耐えられずに自分から辞めたりで、長続きする者はいなかった。
虫の居所が悪いと理由なくアイルを折檻することもあって、何日も食事を抜かれる日もあって、それを可哀想に思った使用人がこっそりと余り物を食べさせているのを見つけるや否や、食糧を盗んだとわめきたてるせいで、誰もアイルを庇えなくなってしまった。
小さいアイルにとって力仕事は辛く、充分な食事も与えられずに足手まといになることもしょっちゅうだった。病気にでもなったら、この小さい身体では耐えられないだろうと誰もが思ったが、幸いなことにアイルは病気とは無縁だった。
この家を追い出されたら生きてはいけないとアイルは思い込んでいて、養父母の機嫌を損ねないよういつも気を遣っていた。
そんな日々の中、週に一度の教会通いはアイルにとって希望の時間となった。
スタインの妻は意外に信心深く、養子であるアイルに教会の奉仕を手伝わせることで、養親である自分の徳を積めるのではないかと考えたのだ。
夫は後ろめたさからアイルの存在を教会には知られたくなくて最初は渋っていたが、妻が強引に決めてしまった。
「神父さまは遠い教区から越してこられたのだから、何も知りはしないでしょ。それより、アイルが奉仕に参加すれば、私たちの教会での立場も今よりずっとよくなるのよ」
「儂はそんなものどうでもいい」
「あら、それだけじゃないわ。アイルが教会に通っているってことになれば、給金の高い奉公先が見つかるかもしれないわ」
それはもちろんアイルのためではなく、その給金の大半を自分たちのものにするつもりだったからだ。
「そんなにうまくいくかね」
「神父さまにお願いして推薦状を書いてもらえたら、きっと条件のいいところを紹介してもらえるはずよ」
スタインはもっと早いうちにアイルを奉公に出して、王宮からの養育費も黙って懐に入れるつもりでいたのだが、妻からもしバレたら相手が王室なだけにかなりまずいことになると説得されて、とりあえず支給が打ち切られるまでは奉公に出すのは諦めていた。しかしステインはそのことで自分が損をさせられているように感じていた。
二重に得ることができる金が、片方からしか入ってこないことを不満に思うのだ。本来であればそれはどちらも自分が受け取っていい金はでないのだが、そんなことは考えない。彼にとってアイルは利用して搾れるだけ搾り取っていい存在なのだ。
「あの子は小さくて力もないんだから、他に売りを考えないと。それに私が教会での立場がよくなったらコネもできるし給金のいい奉公先が見つかるはずよ」
妻の方が悪知恵が働くし、これまでそれでうまくやってきたので、スタインはしぶしぶ同意したのだった。
しかしそれは、アイルにとっては大きな救いとなった。
神父は、信者たちに奉仕として教会の雑事を手伝ってもらうのと同時に、聖書を読む時間も設けていて、読み書きも教えていたのだ。
アイルは自分が字を読めるようになることが嬉しくてたまらなかった。
アイルがあまりにも熱心だったこともあって、ある日神父が彼に本を貸してくれた。
日の高いうちは家の仕事があったし、寝間で灯りを使うことは最小限しか許されてなかったので、アイルは早起きをして庭で本を読んだ。アイルの部屋は半地下だったので暗くて読書には向かなかったからだ。
しかしそのことを、使用人の一人が養父に告げ口した。
その使用人はアイルが自分と同じように読み書きができないと思っていたのに、アイルだけが勉強を始めていることに嫉妬したのだ。
それは実はステインも似たようなもので、簡単な読み書きはできるものの、込み入った文章になるとお手上げだった。勉強する気もないから、ろくに本など読んだこともなかった。そのせいで、自分が下に見ている者が聖書を読んでいるというだけで劣等感が刺激されてしまったのだ。
「そんなに時間が余っているなら、もっと仕事を与えないとな。これまでおまえを甘やかしすぎたようだ」
養父はアイルが睡眠時間を削って読書のために作った時間で、薪を運ぶように命じた。
「わしらがおまえを引き取っていなかったら、とっくに野垂れ死んでいた。それなのにおまえはそのことに感謝することもなく、楽することばかり覚えて。本なんぞ読んで何になる。いつからそんなにお偉くなった?」
養父はそう云うと、アイルから本を取り上げて投げ捨ててしまった。
「そ、それは神父さまの……」
慌てて本を拾い上げようとするアイルを、養父は蹴とばした。
「あっ…」
小さいアイルの身体は、硬い床に強かに打ち付けられた。
「もしまたそんなものを読んでいたら、もう教会には行かさないぞ。覚えておけ」
アイルは本をしっかりと抱いて必死で頷いた。教会に通えないことだけは何としても避けたかったのだ。
「ほら、さっさと行って働け。この穀潰しが!」
そう云って、何度もアイルを蹴とばした。
アイルは泣いていることに気づかれないよう、急いで厨房に走った。
蹴られたところが腫れ上がっていつまでも痛みが続いたが、それは耐えるしかなかった。誰も庇ってはくれないし、怪我のことを気遣ってくれる人もいない。しかしそれでよかった。誰かが怪我の心配をしたところを養父母に見られでもしたら、逆に同情を引くような真似をしてと不興を買うだけなのだ。
養父母はアイルが何をしても気に入らない。アイルが少しでも幸せになることが彼らにとっては不快なことなのだ。アイルにはそれがわかっていたので、二人の目につかないよう、息を殺して暮らしていた。彼らが不満に思うことはできるだけしないように気を付けていた。
そんなアイルだったが、それでも本を読むことだけはやめようとはしなかった。それが自分を今の境遇から抜け出す唯一の手段だと思っていたからだ。
周囲には一切覚られないように、家では書物を持ち込むこともできなかったものの、それでも希望を捨てることはなかった。
十八の年を最後にアイルの養育費が打ち切られるので、ステイン夫妻はアイルの奉公先を探していた。
できるだけ多く給料の前払いをしてくれるところが彼らの条件だった。もちろんアイルの希望など一切考慮していない。それどころか、その前払いをすべて自分たちの懐に入れるつもりだったのだ。
そんなことを知らないアイルは、将来は教会で働くことを夢見ていた。
そのころのアイルは、聖書だけでなく簡単な書物なら読めるようになっていたし、教会の日誌を作成する手伝いもしていた。
見習いとして修道院に住まわせてもらうことができそうで、それが叶えば勉強しながら教会の手伝いをすることができる。このときのアイルにとっては、眩しい未来だった。
アイルが教会に通うようになってから神父は何度か替わったが、どの神父もアイルにとっては尊敬の対象だった。
中でも半年前に赴任してきた今の若い神父は、少し厳しいが誰よりも博識で、憧れの存在だった。神父自身親がいない身で、教会の施設で育ったという。アイルにとって憧れだけでなく、希望と目標でもある。
神父は聖書のみならず、歴史書は元より法律や医療の本も読み漁り、新しい技術も熱心に勉強していた。
若く見目もよかったので、この神父になってから貴族のご夫人の礼拝の出席も増えているばかりか、寄付も目に見えて増えていた。
ありがたいことに、女性たちが率先して奉仕に参加してくれるので、アイルたちはこれまで以上に勉強の時間をもらうことができて、教会にいる時間は充実していた。
そのことに感謝して、アイルはますます教会の手伝いに励んでいた。
そんなある日のこと。神父がアイルの様子がおかしいことに気づいた。
「アイル? 顔が赤いな。熱があるのでは…」
そう云って、神父はアイルの額に手を触れた。
そのひやりとした手が気持ちよくて、アイルは思わずうっすらと目を閉じた。
熱っぽくて身体がいつもと違うと感じたのは一昨日からだったが、具合が悪いと云えば教会に行くことを止められると思って誰にも云わずにいたのだ。
「…い、いえ、大丈夫です…」
小さく首を振ると、ほおっと息を吐いた。
そのときにアイルからふわっと芳香が漂ってきて、神父は思わず動揺した。紅潮したアイルの表情に、神父は見てはいけないものを見てしまったような落ち着かない気分になる。
慌てて手を離して、はっとした。あることを思い出したのだ。
神父はこの感じに覚えがあった。
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