書籍詳細
恋の孵化音—Love Recipe—
ISBNコード | 978-4-86669-150-3 |
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サイズ | 文庫本 |
定価 | 754円(税込) |
発売日 | 2018/10/18 |
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内容紹介
人物紹介
櫟原直生(いちはら なお)
高澤に依頼されたレストランの成功のため奮闘する管理栄養士。
高澤兵吾(たかざわ ひょうご)
元医者で医療コンサルティング会社社長。直生の真摯な態度に好感を持つ。
立ち読み
プロローグ
その想い出は、今でも直生の記憶に鮮明に焼きついている。多少セピア色に染まりつつも、それでもハッキリと思いだせる。
小学校の花壇だった。みんなが歓声を上げて遊ぶグラウンドからは、少し離れた敷地の端。校長先生に頼まれて、直生はひとりで作業をしていた。
——『なにしてんだ?』
ふいに頭上から落ちてきた声に顔を上げることもできず、幼い直生は気恥ずかしげに俯いたまま答えた。声だけで、誰なのかわかったからだ。
——『お花を……』
——『植えるのか?』
——『……うん』
傍らにしゃがみ込んだ少年は、直生が手にしたスコップと花の苗とを見て、それから自分もバケツにさしてあったスコップを取る。
——『手伝ってやるよ』
——『え? でも……』
穴を掘ればいいのか? と訊かれて、コクリと頷いた。少年は直生の言うとおりに穴を掘ってくれて、直生がそこに花の苗を置いていく。
作業は効率よく進んで、思っていた以上に早く終わった。——もっと長くかかってもよかったのに…と、少し残念に感じるほどに。
——『なんでイチくんは、ボクのこと汚いって言わないの?』
植えた苗にたっぷりと水をやりながら、直生は思いきって訊いた。傍らで道具を片付けていた少年は、ぶっきらぼうに答える。
——『汚くなんてねぇだろ。——おまえ、可愛いし』
お世辞でも、気休めでも、嬉しかった。
ひどいアレルギー症状で真っ赤になった顔から首は、自分で見ても気持ちのいいものではなくて、直生のコンプレックスとなっていた。それだけでなく、クラスに馴染めない理由のひとつにもなっていて、直生はいつもひとりぼっちだったのだ。
少年は、そんな直生に声をかけてくれる、数少ない存在だった。いじめっ子から直生を庇ってくれる、唯一の存在だった。
——『イチくん……』
——『なんだよ』
——『ありがとう』
少年の存在がなかったら、直生は学校に行かなくなっていたかもしれない。それくらい、直生にとっては特別な存在だった。
その感謝の想いを込めて、ずっと大切に抱えていた気持ちを言葉にした。本当は「ありがとう」なんて簡単な言葉で言い表せないくらいに救われていたのだけれど、そんな言葉しか思いつかなかった。
少年は、気恥ずかしそうに視線を落とした。直生も、恥ずかしくて少年の顔を見られなかった。
——『ナオ……、あのな——』
少年が何か言いかけて、記憶はそこで途切れる。
こんなにはっきりと覚えているのに、肝心なところでプツリと途切れて、その先がどうしても思い出せない。
繰り返し夢に見る、少年の日の他愛ない想い出。
イチくんは、今ごろどうしているのだろう。そう、夢に見るたび考える。
1
この日、ドクターズレストラン開店準備のために管理栄養士を探している、というなんともアバウトな要望を受けて直生が足を向けたのは、洒落た商業施設の最上階に入った、真新しいオフィスだった。
医療関係専門のコンサルティング会社の評判は、病院勤務の同業者から、噂程度には聞いている。その業界では注目のやり手社長をトップに据えた、各種専門家の集団らしい。
シンプルなインテリアで設えられたオフィスは、意識してのものなのか、無意識に醸されてのものなのか、言われてみればたしかに病院の事務局を彷彿とさせる清潔な雰囲気だ。
二フロアを借りきっているというオフィスの奥、通されたのは社長室だった。応接室と会議室も兼ねているようで、大きなソファセットと、それとは別に数人で打ち合わせができるサイズの丸テーブルが置かれている。
壁一面の窓ガラスから明るい陽が射し込み、その手前には大きなデスク。さりげなく置かれた観葉植物が、無機質な部屋に潤いを与えている。
直生が入室すると、デスクでノートパソコンに向かっていた男性が立ち上がって進み出る。背が高くて、思わずマジマジと仰ぎ見てしまった。
年齢はたぶん直生とあまり変わらないだろう。だが、精悍な面差しは威圧感と威厳に満ちて、彼がこの空間の主であることを直生に教える。細っこい身体と若く見られがちな容貌がコンプレックスの直生が羨望を覚えるほどに、クラシコイタリアのスリーピースが似合っていて、なんともいえず迫力があった。
「はじめまして、櫟原です」
いささか気圧されながらも、名刺を差し出し、あいさつをする。男の名刺を受けとって顔を上げると、先に目にした以上に威圧的に見える強面が目の前にあって、直生は大きな目を見開き、長い睫毛を瞬いた。
「はじめまして、高澤と申します。ご足労いただき、ありがとうございます」
表情とはうらはらの慇懃な口調でソファを勧められて、戸惑いながらも腰を下ろす。絶妙のタイミングで、秘書らしい、こちらも長身の男性がコーヒーを出してくれて、礼を言った。
だが、それにチラリと視線を落としただけで手をつけず、直生は正面に顔を向ける。
コーヒーカップの横に、OA用紙を束ねた企画書が置かれた。さして枚数はない。概要を記しただけのもののようだ。
「お呼びたてしたのは、この企画のプレゼンテーションのために、お力をお貸しいただきたいと思ったからです」
前置きも何もなく、高澤と名乗った男は仕事の話を切り出した。無駄を嫌うタイプのようだ。
フリーランスで活動するためには、譲れない絶対のラインとともに相手に合わせる柔軟さも必要となる。管理栄養士として組織に属さず活動する直生はそれを心得ていて、ひとまず相手の話を聞くことにした。
「ドクターズレストランとお聞きしましたけど……」
ドクターズレストランとは、医師や管理栄養士、製薬会社などがプロデュースする、健康を考えたメニューを提供するレストランのことだ。医学的根拠のもと開発されたメニューは対象の病を患う人のみならず、健康を気遣う人々に人気で、ここ数年で立てつづけに全国で何軒もがオープンしている。
「民間の病院からの依頼で、見舞客や通院患者以外の客を取り込めるレストラン企画を考えています」
高澤は、簡潔にまずはクライアントの意向を口にした。
「病院に来ない人を、病院に呼ぶ、ということですか?」
若干のひっかかりを覚えて眉根を寄せれば、「そういう意味ではありません」と首を横に振られる。
「予防医学としての、食事の提案、という意味です」
その病院は、入院患者に対しても他に類を見ない質の高い食事療法を提案していて、通院患者や見舞客も使える充実した食堂をすでに持っているのだが、病気にかかってから治すのではなく、予防できるものならそのほうがいいというのが院長の考えで、そのための新たな提案をしたいというのだ。
安堵の気持ちで口許を綻ばせれば、「ご納得いただけましたか?」と、男の表情も若干ゆるむ。直生は大きく頷いて、「すばらしいことだと思います」と答えた。
「食べ物が身体をつくるんです。なのに今の病院の食事は衛生面とカロリーにばかり意識が向いていて、自然治癒力を助けるものではありません」
すべてが、とは言わないが、そういう傾向にあるのは事実だ。公立病院ではなかなか難しいのだろうが、民間の病院にはもっともっと食事への意識を高めてほしいところだ。ただでさえ入院患者は不安で憂鬱な毎日をすごしているというのに、出される食事がまずかったら健康になろうとがんばる気持ちさえ沈んでしまうではないか。
「なるほど」
直生の発言を受けて、高澤は口許にどこか挑発的にも見える笑みを浮かべる。
すると、話もそこそこに「こちらへ」と促され、訝りつつも腰を上げた男のあとにつづいて直生も社長室を出て、連れられた先は、同フロアにあるかなり立派なキッチンだった。
「すごい……」
どうして医療関係のコンサルタント会社のオフィスにキッチンが? と驚けば、もともとカルチャーセンターとして使われていたフロアを、その会社が潰れて撤退したあと、安く借り受けたのだという。病院のコンサルティング内容には当然病院食の内容も含まれるから、使うときもあるだろうと、そのままにしてあったというのだ。
教室用だからだろう、ガス台はIHだが、火力は申し分ない。大型のオーブンも食器洗い機も設えられていて、初期投資にそうとうな費用がかかったのではないかと思わされる。もしかするとそれが潰れた原因なのかもしれないけれど。
「あなたの考える、健康にいいメニューをつくっていただきたい」
「……は?」
材料はひととおり揃ってるし、道具もある。ここを自由に使ってかまわない、といきなり言われて、直生は戸惑いに大きな目を瞬いた。
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