書籍詳細
溺れるまなざし
ISBNコード | 978-4-86669-188-6 |
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サイズ | 文庫本 |
定価 | 754円(税込) |
発売日 | 2019/02/18 |
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内容紹介
人物紹介
守谷時生(もりや ときお)
25歳。カメラマンを志望するアシスタント。鷹柄に啖呵を切ってしまう。
鷹柄恭司(たかつか きょうじ)
31歳。制作会社ファインパブリシティの敏腕社長。時生の独特の個性に興味を持つ。
立ち読み
「あと頼んだよ」
「はい。お疲れさまでした!」
スタジオを出ていく後ろ姿が、ドアの外へと消えるまで見送る。
守谷時生。二十五歳。カメラマン—見習いといったところか。
写真専門学校を卒業して、貸しスタジオで少し雑用をしたあと、現在の先生である三木大輔のアシスタントになった。
三木はここ数年で名の売れてきた、ファッションフォトグラファーだ。三十六歳という年齢といまの地位を考えれば、大成功をしたカメラマンと言えるだろう。
カメラマンのアシスタントはかなりの重労働を強いられる。撮影の少なくとも一時間前にはスタジオに入って、車から機材を下ろし、セッティングをしなければならない。
撮影中もフィルムチェンジをしたり撮影データのメモをとったりと忙しく立ち回り、終了すれば後片付け。再び重い機材を車に積み込むのだ。
いつかは自分も三木のようにプロのカメラマンとして活躍したい—どんなに大変でも、その気持ちがあるから堪えられる仕事だ。
春とはいえまだ三月下旬。
肌寒さが残る季節でも、仕事中の時生は半袖のTシャツ姿で、尚且つ背中には薄らと汗が滲んでくる。
「お疲れ」
今回三木を指名した制作プロダクションの担当が、声をかけてくれた。
彼との仕事ももう何度目かになるので、こうして話をする機会もままある。
「あ、お疲れさまです」
制作会社の人間と親しくしておくことは大事なので、幾ら疲れていてもそれを顔に出さないように気をつけるのも時生は忘れない。
「守谷くんも頑張るなあ。三木先生気難しいから、なかなかアシスタントが居着かないって噂だったのに。もう結構な年数になるんじゃない?」
「あ…はい。四年です」
返事をしながらも手は休めずに、カメラをケースにしまい三脚を折り畳む。
「四年かあ。もうそんなになるんだ」
担当は感慨深げに頷いた。
「なんだかでも、変わらないからわかんないね。学生でも十分通用するよ、守谷くん。結構モテるでしょ」
「そんなことないですよ」
これを言われるのも、もう何度目か。
会社勤めでないぶん、髪も長めにしているし、あとはおそらく目許のせいだろう。二重で、黒目の比率が多いとかで甘ったるい印象を持たれるらしい。
時生にしてみれば、いつまでも学生みたいだと言われるのは、からかわれているようであまり気分のいいものではないのだが。
「だったら、そろそろ独立したいとか思う時期だねえ」
その台詞に一瞬だけ手を止めた時生は、すぐに苦笑いでかぶりを振った。
「そんなの、思ってないですよ。いきなりフリー宣言したところでやっていけるような甘い世界じゃないって、これでもわかってますから」
「まあ、それはそうか」
片付けを終えると、担当に深々と頭を下げる。
「お世話になりました。またよろしくお願いします」
「ああ、こちらこそ」
三木先生によろしくと担当は手を振ってくるのに、時生ももう一度頭を下げ、スタジオをあとにした。
機材を積み込んだバンに乗り込む。
これから事務所に戻ったあとも、撮影データのチェックやスケジュールの確認など、やらなければならないことは多い。
エンジンを吹かし、アクセルを踏みながらようやく肩の力を抜いて、時生は小さくため息をついた。
「…独立したいか? そんなの、毎日思ってるけどさ」
カメラマンとして一人立ちしたい気持ちは日々膨らんでいく。気持ちだけで独立できるものなら、とっくに独立してフリーカメラマンを名乗っているにちがいない。
アシスタントのプロになりたいわけではなく、なりたいのはカメラマン。それだけははっきりしているのだけれど、フリーになってやっていけるだけの自身も持てなくて、そのジレンマに悶々としてしまう。
毎日くたくたになって家に戻って、休みの日には自分の作品を撮りにでかけて、いまの生活は身体の休まる暇がない。それでも最初の頃の「わずかの時間でもできれば自分の作品を撮りたい!」という、そんな気持ちが日常に流され薄れていくのが怖いから、どんなに疲れていても作品を撮るということはつづけているのだ。
独立したい。
カメラマンだと、胸を張って言いたい。
その気持ちを忘れたくない一心で、毎日まるで儀式のように唱える。
「独立する。フリーになる」
ハンドルを切りながら今日も口にして、時生は唇を引き結んだ。
頑張るしかない。いまの時生にとっては、仕事で成功することがなにより大切なこと。
これだけは、自分の力でどうにかするしかないのだから。
家に着いたのが十一時過ぎで、それから夕飯をすませて風呂に入ればもう、日付は変わる。
親と同居しているおかげでまともな食事にはありつけるのだが、この年になって自分の小遣い程度しか稼げないという負い目に蓋をするというのは、かなり情けない気分にさせられる。
けれど、それもそろそろ潮時のようだ。
先日の話では、兄の俊樹は結婚式の日取りも無事決まって、実家で同居することになるらしい。
そうなれば自分は当然出ていかなければならないだろう。こういうきっかけでもないとなかなか踏ん切りがつかなかったので、ちょうどよかったかもしれないと考えるようにしている。
風呂を出て、頭を拭きながら玄関の前を横切ろうとしたとき、チャイムの音がきこえた。
俊樹が帰ってきたのだろうと鍵を開けてみれば、ドアの外にいたのはやはり俊樹と、それから見知らぬ男だった。
「こんばんは」
笑みを浮かべた男に、時生も頭を下げる。人見知りをする癖はこの年になっても抜け切れず、ついつい無愛想になってしまった。
「いま頃風呂か。相変わらずおまえも扱き使われてんな」
どうやら飲んできたようで、俊樹の口はいつになく軽い。
「サラリーマンだって似たようなもんだろ」
心配してくれているからこその言葉とわかっていながら、いつもどおりに憎まれ口で返すと、
「あ、そうそう」
俊樹は、きいてもいないのに上機嫌で隣の男を紹介してきた。
「こいつ、元同僚の鷹柄。俺の結婚祝いってことで飲みにいったんだよ」
「…そう」
俊樹の同僚なら、以前は広告代理店に勤務していたということだ。
兄とはタイプがちがうように見える。容姿に関してなら兄も悪いほうではないのだが、この元同僚は誰しも兄より上だと言うだろう。
なにより雰囲気がちがう。
決して上から見下ろされているわけではないのに、なんとなく威圧感を覚える。時生に向けられる眼差しに、なんとなく居心地が悪くなって目をそらした。
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