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落ちこぼれ_カバーオビ1

精霊王をレモンペッパーでとりこにしています

遊森謡子 / 著
ぽぽるちゃ / イラスト
ISBNコード 978-486669-204-3
本体価格 本体1,200円+税
発売日 2019/05/27
ジャンル フェアリーキスピュア

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内容紹介

《異世界で料理をしたら精霊王が釣れちゃった!?》
香りの魔法が支配する異世界に、黒コショウ片手にトリップしてしまった泪(るい)。そこで出会った麗しくも腹黒な魔法使い――『香精師』ヴァシルに弟子入りし、自ら生んだブラックペッパーの大精霊と共に元の世界に帰るための香りを作ることにしたけれど、人には厳しいヴァシルが何故かルイに対してだけは料理をねだり、甘く束縛してくる!? 「精霊王が貴女の料理の香りを気に入ったから」とか何とか言っているけれど、何か私、騙されていませんか!?

立ち読み

「ちょっと泪も試してよ」
「うん、いいけど」
 私は足立さんから瓶を受け取った。
 キャップをひねって開け、いきなり吸い込まないようにちょっと顔から離して持ち、手であおぐようにする。香りが、ふわりと私の鼻に届いた。
「……甘い香り……爽やかなんだけど、ちょっと癖があるような、忘れられないような」
 感じたまま言いながら、私はもう少し瓶を顔に近づけた。
「いい香りの煙草っぽい? 土臭い感じもします。それに何か、森の……」
 不意に、背中がぞわっ、とした。
 何だか、怖い。香りの向こうに、今見えている景色と違うものが見えそうな気がする。
 古代、香水は宗教儀式にも使われたっていうけど……まさか、幻覚作用?
 カンッ、と音を立てて瓶を置くと、母と足立さんが驚いたように私を見た。
「泪?」
「泪さん?」
「ちょ、ちょっと私、外の空気を」
 私は、店の出入り口の方へ行こうとして立ち上がった。
 くらり、と目眩。
 そのとたん、手が、テーブルに置かれていたペッパーミルにぶつかって――。
「あっ」
 テーブルからペッパーミルが落ちていくのが、スローモーションで見えた。
 とっさにそれを拾おうとして、手を伸ばしたところまでは、覚えている。

   ‡   ‡   ‡

 目を開けると、青空が見えた。
 ぼうっとして、空を見つめる。緑の木々に囲まれた視界を、小鳥が横切っていく。
 ……何で、私、外に?
 急いで起き上がると、私が座り込んでいるのは草の生えた地面の上だった。
 すぐ左に煉瓦を埋め込んだ歩道が通り、歩道沿いに美しい花々が咲き乱れている。花壇の向こうには温室も見える。
 視線で歩道をずーっとたどっていくと、その先に大きな洋館があった。赤茶色の壁に焦げ茶の格子窓、それぞれの窓に装飾的な白い屋根がついていて可愛らしい。
 のどかな風景に戸惑っていた、その時。
「これは、何の匂いかな」
 真後ろで、柔らかな男性の声がした。
 ぱっ、と振り向くと――。
 片膝をついた男性が、私の顔を覗き込んでいた。
 何て綺麗な顔だろう。真珠のように艶やかな白い髪がさらりと流れ、切れ長の瞳は琥珀色にきらめいて、薄い唇は淡い珊瑚色。なめらかな肌が、しっとりした輝きを放っている。
 その人は、何か確かめるかのように私の髪に触れた。私はボーっと見惚れながら、されるがままになっていたんだけれど……。
 直後、その顔が自分の顔から十センチくらいしか離れていないことに気づいた。
 想像してほしい。美術館に展示されている至高の芸術品に、立ち入り禁止の線を越えて近づいてしまっている不届き者の気持ちを。
「ひゃあ!」
 反射的に、ぐわっとのけぞった。ついでに芸術品と自分の間を遮断すべく、右手をパッと上げる。
「うっ!?」
 そのとたん、目の前の芸術品が、あろうことか美しい顔をゆがめた。
「ぶっ、ぶえっくしょん!」
 芸術品は顔を背け、盛大にくしゃみを始める。
「な、何だこれは、ぶほっ、っくしゅっ!」
「……………………あれ?」
 私は恐る恐る、自分の右手が握っているものを見た。
 木製のペッパーミルだ。中に、ブラックペッパーの粒がぎっしり入っている。
 ミルの部分に……挽かれたブラックペッパーが、残ってた?
 男性は、まだ顔を覆ってクシャミをしている。花の顔が台無しだ、何てもったいない。
 誰だよ、この人をこんな目に遭わせたのは!
 ……私だよ! 私がコショウをぶっかけちゃったんだよ! だ、だってあんなに顔が近いからっ。何なの? 私の匂いを嗅いでた?
「ヴァシル様!?」
「どうなさいました!」
 数人の男女が駆けつけてくる気配がする。振り向いた私はギョッとした。
 汚れたエプロンに帽子を被った、いかにも庭仕事中のガーデナーといった格好のおじさんやおばさんたちだ。しかし皆、肩のあたりがガッチリしていたり、胸板が厚かったり……ムキムキ屈強! 手には鍬や熊手や剪定バサミ!
 その屈強集団が、ザザッと私を取り囲んだ。
 ひいっ!
 美術館で芸術品をぶっ壊し、警報が鳴り、警備員に取り囲まれる自分を、瞬間的に想像する。
 彼らは私を見下ろし、キッと睨みつけて一斉に言った。
「あんた、ヴァシル様に何をした!?」
「す、すみません、とっさに! あの、これです、これ!」
 ペッパーミルを差し出したのに、おじさんおばさんたちの目つきは険しさマックスのままだ。おじさんの一人が、ドスのきいた声で言う。
「おかしなものをヴァシル様に! 覚悟はできているんだろうな?」
 うええっ!?
 顔から血の気が引くのを感じる。男性はまだ「っくしっ」と小さくくしゃみをしながら口元を覆っていた。
 どうしよう、すごいお屋敷のすごい庭にいたこの男の人、きっとすごい偉い人なんだ。外国から来た要人かも。そういう人に無礼を働いた私、手打ちにされて人生終わりそうな勢いなんだけど⁉
 しかし、おじさんはこう続けた。
「それは何だ!? 毒か!?」
 ……ん?
「さっさと白状しろ。それは何だ!」
 ……は? だから、見せてるじゃん。見ればわかるじゃん。
 コショウです、なんてまともに答えたら、逆にふざけてると思われそう。ためらっていると、
「言えないようなものか!?」
 と殺気立った言葉が飛んでくるので、私は仕方なく言った。
「コショウ……です」
 絶対「そんなことはわかっている!」って言われるだろうなと思ったのに。
 ガーデナーのおじさんは言った。
「コショウとは何だ!」
 いや、何って。
「コショウはコショウです。ブラックペッパー……」
 言いかけて、我に返る。こんな言い争いをしている場合じゃない、私が偉い人にコショウぶっかけてクシャミさせたのは間違いないんだから。
 私は、ぴょん、と正座すると、ようやくクシャミが収まった様子の男性に頭を下げた。
「ごめんなさいっ、目が覚めたら知らない人がいたので、びっくりしただけでっ」
 うつむいていた男性は、片手を上げてガーデナーさんたちを制した。そして顔をゆっくりと上げ、私を見る。
 あっ、ちょっと涙目。ホントごめんなさい。
 そんなことを思いながらも、あまりに綺麗なお顔から目が離せなくなってしまった。
 白いウェーブヘアは襟足でカールしていて、金の額飾りに孔雀色のローブを身につけたその姿は、まるで映画に出てくるエルフみたい。ローブをちょっと肩をずらした風に着崩していて……でも、それがだらしなく見えない。似合っている。
 何だか、私の周りとこの人の周りでは、空気さえ違うんじゃないかという気がした。
 男性は軽く目を細めながら、薄い唇を開いた。
「君は?」
 その声までが神秘的で、深く響いて、私はボーッとなりながら答えた。
「あ……楠木泪と言います」
「クスノ・キルイ」
 えっと……あ、そうか、日本の人じゃないんだ。
「泪で結構です」
 そう言うと、男性は鷹揚にうなずいた。
「ルイですね。私はヴァシル」
 そう、さっきガーデナーさんたちが名前を言ってた。ヴァシルさんか。
 丁寧な言葉遣いだし、柔らかな口調だったので、少し安心する。
 彼は私の手元に視線を落とし、口を開いた。
「それで? コショウ、ですか。なかなか物騒ですね」
「普通、よそのお宅にコショウなんて持ち込まないですよね、あはは」
「まるで凶器ですからね」
 ……あ……れ……?
「あ、場合によっては凶器かも? コショウ爆弾、なんて言いますし。はは」
 反射的に笑ってごまかそうとしたつもりが、「爆弾」という単語にガーデナーさんたちがざわついた。何か言おうとしたおじさんの一人を、ヴァシルさんは再び手で制して、美しく微笑む。
「ほう。爆弾、ですか」
「あっ、いえ、もちろんものの例えというか、ええと」
「私の館に、凶器を持ち込み、振り回したわけですね。そのことについて、ルイはどう思っていますか?」
「ほ、本当に申し訳なく思っております……」
 な、何か、不穏な気配。
 縮こまっていると、ヴァシルさんはスッ、と立ち上がった。
 ゆったりしたローブを着ていてもわかる、すらりとした身体つき。背が高い、頭、小さい。
 そんな美しい人が、微笑んだまま、こう言った。
「ならば、ルイは償わなくてはなりませんね。労働で償ってもらいましょうか」
 ……はい?
「あの……それはどういう」
 ポカンとして聞き返す私に、ヴァシルさんはやはり微笑みを崩さない。
「償う、という言葉の意味がわかりませんか?」
「いえ、わかりますけど、労働っていう……のは……」
 声が勝手に、尻すぼみになる。
 ヴァシルさんは、さっきよりも一層艶やかに微笑んだ。声だけが柔らかなまま、少し低くなる。
「私にクシャミをさせた分、私の館で働きなさい、と言っています」
 えええええ!?
 ぶわっ、と冷や汗が額に滲むのがわかった。
 お、怒ってる、顔は笑ってるけどこの人怒ってる。ただでは帰してもらえないんだ!?
 日本の常識は通用しないのかもしれない。これは言うことを聞いた方がいい。きっと皿洗いとかそういうアレだろうし、やっといた方がいい!
 私は正座したまま、しゃきん、と背筋を伸ばした。
「わ、わかりましたっ! 働かせていただきます!」

◇◇◇◇◇

 ヴァシル様が指定した、三日目の夕方。
 一階の奥、廊下の突きあたりまでやってきた私は、重厚な木の扉をノックした。
「ルイです」
「入りなさい」
 声がして、よいしょ、と私は重い扉を開く。
 中はまさに、魔法使いの部屋のようだった。
 いくつもある棚の一部には本がぎっしり詰まり、その棚の前にも本がうずたかく積まれて崩れている。他の棚や箱の中には香水瓶がぎっしりと並んでいた。部屋の奥は三方が窓でサンルームみたいになっており、ガラス扉があって植物園に直接出られそうだ。その辺りにはプランターや植木鉢が所狭しと置かれ、天井からも鉢がぶら下がり、ツタが床まで届いていた。
 早い話が、物があふれてぐっちゃぐちゃだ。
 サンルームの手前、大きな書き物机の向こうで、ヴァシル様が肘掛け椅子の背にもたれている。綺麗な白い髪、澄んだ琥珀の瞳、そしてあの、何を考えてるのかわからない微笑み。
 その、微笑む唇が、開いた。
「ようこそ、私の調香室へ。君を表す香りの材料は、見つかりましたか」
「はい。ええと……」
 私は、おそるおそる言った。
「材料というか……香り、もう作って来ちゃいました」
「……どういうことです?」
 ヴァシル様が軽く首を傾げると、カールした髪がふわりと肩で揺れる。
「君はまだ、香精を作れないはずですが」
 私はいったん廊下に戻ると、ワゴンの上に置いてあった白いお皿を手に取って戻ってきた。お皿には、ドーム状の金属の蓋がかぶせてある。
 書き物机のそばまで行って立ち止まると、私は一つ深呼吸してからお皿をヴァシル様の前に置く。
 そして、蓋を取った。
 お皿の上には、一切れのケーキが載っている。こんがりいい色に焼けた外側、そしてしっとりした卵色の断面には小さな黒い粒々。飾りに小さなペパーミントの緑も添えて。
「私を表す、香りです。香精を作るのとは違いますが、材料を集めて調理してみました。……レモンペッパーの、ベイクドチーズケーキです」
 ヴァシル様は長い睫毛を伏せてお皿に視線を落とし、考え込むような表情になった。そして、ふわりと視線を私の顔に向けて、じっと見つめた。
「これには、例のブラックペッパーが入っていますね?」
 そ、その通りですーっ。
 クリームチーズで作るチーズケーキには、レモンの汁に、レモンの皮をすり下ろしたもの、そしてゴリゴリと挽いたブラックペッパーが入っている。つまり私はよりによって、ヴァシル様にクシャミをさせて怒らせた、その原因となったものを使った料理を持ってきたわけだ。
 また怒られるかもしれないと思うと、背中を冷や汗が伝う。でも、今の私を表す香りを考えた時、これだ、これしかない、と思ったから。
『カフェ・グルマン』で私が作っていたもの、そして大好きなメニュー。私を、受け入れてほしいという気持ち。あの店に帰りたいという気持ち。全部が、このケーキに詰まってる。
 ごくり、と喉を鳴らしてから、私は言った。
「クシャミは出ませんから……どうぞ、召し上がって下さい」
「…………」
 ヴァシル様は、お皿に添えたフォークを手に取った。
 チーズケーキに、フォークを入れる。柔らかく下りたフォークは、ケーキの台になっているタルト生地をサクッと割って、軽くお皿に当たる。
 一口分切り取って、口へと運んだ。形のいい唇が開き、ケーキを迎え入れる。
 私はどきどきしながら、何か言われるのを待った。
 じっくり味わってから、ヴァシル様は喉を動かし――。
 そして、フォークをお皿に置いた。
 ダメだった……? と思った瞬間、ヴァシル様はお皿を持ち上げて自分の顔に近づけ、匂いを嗅いだ。それから、もう一度お皿を置き、フォークを手に取り、もう一口。
「……甘い香りと、レモンの香り……そこへ刺激的な香りが飛び込んだら、こんなにも合うとは」
 ヴァシル様がまじまじと私を見て、独白のように言った。
「まるで、この世界に飛び込んできた、ルイのようだ」
 私は思わず身を乗り出した。
「そ、それじゃあ!」
「甘くて、爽やかで、刺激的。これは、今の君そのものを表す香りだと思います」
 ヴァシル様は一度言葉を切ると、納得したようにうなずいて、微笑んだ。
「合格とします」
 いやったーあ!
 私は思わず両手を拳にして、「いぇっす!」と叫んでしまった。
 そのとたん、低い男性の声がした。
『ヴァシル。精霊を呼びますか』
 すーっ、とヴァシル様のすぐそばに姿を現したのは、白髪の、痩せたおじいさんだった。
 お香のような、昔懐かしい香りがする……何の香りだろう。このおじいさんも、大精霊?
 ヴァシル様はおじいさんをちらりと見て、うなずいた。
「そうですね。こちらの世界に、今、ブラックペッパーの香りが存在するのだから……。精霊が生まれれば、そこからブラックペッパーそのものも生まれるでしょう」
 おじいさんもうなずき返し、そして私を見る。
『シトゥルやビーカが騒いでいたのを聞いたよ。君がルイだね。私は【樹脂】の大精霊ハーシュだ』
「わ、はい、よろしくお願いします」
 樹脂、と聞いたとたん、私は足立さんに教わった香りを思い出した。気品があって、落ち着いた深みのある香りで、ちょっと柑橘っぽい感じもある……。
 フランキンセンスの香りだ! いわゆる乳香。おじいさんは、フランキンセンスの精霊なんだ。
【樹脂】のセンターが、この上品なおじいさんなんだなぁ。
『君が持ち込んだブラックペッパーの香りは、私と気が合いそうな気がするんだ。力を貸そう』
 ハーシュおじいさんが言ったところへ、横からひょいっと顔を出したのはオレンジの髪の少女。【果実】の大精霊シトゥルだ。相変わらずオレンジジュースのようないい香り。
『ずるいわハーシュ、私も仲良くできそうな香りよ? このお菓子、私の仲間のレモンと合わせてあるんだし。ね、ヴァシル様、私にも手伝わせて』
 二人が、残ったチーズケーキの上に手をかざす。
 え、何をしようとしてるの?
 不思議に思っていると、椅子を後ろへ引いたヴァシル様が私を呼んだ。
「ルイ、こちらへ」
「は、はい?」
 ヴァシル様の手が示す通り、机を回り込んでヴァシル様のいる側に行くと、不意に白い手が伸びてきた。するり、手を取られ、引き寄せられる。
 えっ、えっ?
 その手の、ひんやりしたなめらかな感触に頭が真っ白になっていると、ヴァシル様の声がする。
「君も力を貸しなさい。君がこの世界に持ち込んだ香りです」
 至近距離で聞くその声は、優しく鼓膜を震わせる。ヴァシル様の前に後ろ向きに立たされたと思ったら、ヴァシル様の両手が背後から腰に回り、さらに引き寄せられた。座ったヴァシル様の足の間に身体が入ってしまう。
 待って、胸がドキドキする! ちょっとよろめいたら、ヴァシル様の膝にうっかり乗っちゃいそうなほど近い……!
 固まっている私の両手を、ヴァシル様の両手が後ろからすくった。一瞬ビクッとなってしまったけれど、されるがままに持ち上げられる。
 私は、お皿の上に両手を差し出す格好になった。何かを、受け止めるように。
 始まる、でも、一体何が?
 ヴァシル様は、唱える。
「鋭く、刺激的な香りよ。熱をはらんだ香りよ。来たれ、生まれ出でよ」
 そのとたん、頭の芯が熱くなった。
「あっ……」
「大丈夫、そのまま」
 すぐそばで、ヴァシル様の声。
 ああ、ブラックペッパーの香りがする……。
 頭の奥の熱は、ゆっくりと私の喉を通り、胸の中を熱くし、それから上半身に広がって指先にまで届いた。ふわふわして力が抜けてくる。気持ちよくて、とろん、となった。
 ヴァシル様の手の上にある私の両手の上に、光の玉が生まれた。その光は、急激に強くなる。
 な、何!?
 あまりのまぶしさに、思わず目を閉じた。
 やがて、瞼に映る光が収まってきた時……新たな声がした。
『ふわーあ』
 ……ん? あくび?
 目を開けてみた。
 私の両手の上に、二つのものが載っている。一つは、緑色の粒々がブドウのように連なったもの。そして――。
 両手両足をピーンと伸ばし、目を閉じたままあくびをしている、小さなスカンクだった。
「わあっ!」
 私は思わず、ホールドアップするようにサッと手を広げた。
 その黒い生き物はパッと目を見開き、『おっと!』と言いながらヴァシル様の机の上に飛び移る。手に、緑色の粒々も握っていた。
 図鑑やテレビで何度か目にしたことのある、スカンク。鼻筋と背中が白く、他の部分は黒くて、そして……ふぁさっと動く尻尾の付け根、早い話がお尻のあたりから、とんでもない匂いが出るというじゃないか。そりゃびっくりするわ!
 スカンクから離れようとして、自分がまだヴァシル様の両手両膝の間にいたことに気づき、私はあわててつんのめるようにしてテーブルの横に出た。
 後ろ足で立ったスカンクは、その場の全員に向かってビシッ、と右前足の指(たぶん親指)を一本立てた。
『よう、来たぜ! オレはブラックペッパーの精霊だ。よろしくなっ!』
 そして、額の上に前足で庇を作りながら、きょろきょろとあたりを見回す。
『おっと? この国には、【スパイス】の精霊が見当たらないな。じゃあ、オレが【スパイス】の大精霊だなっ!』
 だ、大精霊!
 私が持ち込んだブラックペッパーが、いきなり【スパイス】のセンター! 他のスパイスの精霊が見当たらないなら当たり前かもだけど!
 ヴァシル様が落ち着いた声で言った。
「無事に生まれましたね。歓迎しますよ、【スパイス】の大精霊」
『おう! 任せろ!』
 態度のでかいスカンクだ。
 ヴァシル様は私の方を手で示した。
「あなたを生んだのは、彼女です」
 生んだ? さっきのアレ? 私が?
 スカンクが、私に視線を移した。そして、ハッとしたように目を見開き、じーっと私を見つめる。
 な、何。
『……美しい』
 スカンクは、机の上を移動して私の真ん前まで来ると、片手を胸に当てて優雅にお辞儀をした。
『君こそ、オレという大精霊を生み出せし母なる存在だ。名前を教えてくれないか?』
「え、名前? ルイだけど」
 私が言うと、スカンクは妙に色気のある流し目で私を見る。
『美しきルイ。どうか、オレに名前を授けてほしい』
 名前……?
『大精霊としての名前だ。ブラックペッパーのオレは、スパイスの代表としてその名を名乗る』
「あ、ああ、そういうこと……ええと」
 ラベンダーの精霊がフロエを、オレンジの精霊がシトゥルを名乗るように、ブラックペッパーの精霊も大精霊としての名前が必要なのね。
「え、今? 今すぐ決めるの? 呼びやすい方がいい? それとも神秘的なの? ああ、それに他の大精霊の名前とは似てない方がいいよね?」
 難しく考えるとこんがらがる!
 よ、よし。直感だ。ヴァシル様だって言ってたもん、香精師には直感も大事だって。
 私はまじまじとスカンクを見つめた。
『……そんなに見つめられたら、照れるぜ……』
 くねくねと身をよじるスカンクは、照れ隠しなのか、ポンッと宙返りした。
 スカンク。ペッパー。ぴょんぴょんしてる……。
 私は思い切って、言った。
「ポップ! 【スパイス】の大精霊は、ポップと名づけますっ!」
『すっごーい! 七番目の大精霊ポップの誕生だぁ!』

◇◇◇◇◇

「それでは、毎年恒例、投票結果第一位の香精師の実演です。ヴァシル様、お願い致します!」
 いつの間にか、広場には大勢の人が集まっていた。実演を見に来ているのだ。スタッフ数人の手によって木箱が運ばれ、そこにいくつもの植木鉢や果物が入っている。調香に使う素材だろう。
「どなたか、何かテーマを頂けますか」
 よく通る声で、ヴァシル様が観客に問いかけた。私のすぐ後ろにいた人たちが、ひそひそと話しているのが聞こえる。
「言えないよねぇ。あのヴァシル様に、私の好きな香精を作って、なんて」
「タダで、でしょう? 罰が当たりそう。神様みたいなんだもの」
 最初は、私もそう思ったっけ。
 私は、こちらの世界に来たばかりの頃を思い出す。ヴァシル様の第一印象は、『神様みたい』だった。
 でも、ヴァシル様が私の作ったお菓子を美味しそうに食べてくれるのを見ているうちに、親しみが湧いて、距離が縮まった気がして。イリアンに、家族みたいだって言われた。
 よし、誰も言わないなら、ここは私が!
 口を開きかけた時、視界の隅で、キリルがサッと手を挙げるのが見えた。
「お願いします。ヴァシル様から見た、精霊の世界を、香精にして下さい。ヴァシル様からはどんなふうに世界が見えているのか、知りたいです」
 拍手が起きる。
 ヴァシル様は軽く目を細め、キリルを見つめると小声で言った。
「……いいでしょう。これでおそらく、君は私を諦める」
 えっ……。
 ヴァシル様は蠟石を手にすると、広場に調香陣を書き始めた。書く姿さえ絵になるヴァシル様の姿に、皆、固唾を呑んで見入っている。
 やがて陣を書き終わると、ヴァシル様は木箱からいくつかの素材を取り出して陣の上に置いた。
 そして、いつもなら陣から少し離れた所に立つのに――まるで自分も素材の一つであるかのように、陣の円周の上に立った。
「果実の、甘い香りに囚われて」
『私の世界にようこそ! さあ、一緒に行きましょう?』
 ヴァシル様の背後から【果実】のシトゥルが飛び出した。今日は、オレンジの甘い香りが濃い。誘われて、引き込まれる。
 彼女に視線をやることなく、ヴァシル様は続けた。
「森の奥へと分け入って行け。水の音、鳥の声もやがて消える」
『下界を離れ、僕たちの支配する世界へ』
 すっ、と空気中から滲み出すように、【樹木】のトレル青年が現れた。
 ヴァシル様は素材の名前を言わないけれど、何か木の香りが……そして、どこか重みのある苔の匂いがする。
 私は少し、不安になり始めた。
 美味しそうな果物に誘われて歩いていくうちに、樹海に迷い込んだみたいな気分だ。鬱蒼として、薄暗くなっていくイメージ。
 もっと進んで行ったら、どうなるんだろう。
 そして。
「花咲く谷に、落ちて行こう」
 ヴァシル様がささやくと、ふわりと【花】のフロエが下りてきて――。
 陣の上のヴァシル様自身から、甘い芳香が立った。
 樹海の作る暗闇の中、ふっ、と足元の地面が消えて、落ちる。這い上がろうとしても、甘い香りに囚われて出られない。もう、人間の世界には戻れない。そんな香り……。
 くらり、と目眩がして、私はハッとあたりを見回した。
 足立さんの香りとは違うけれど、あの時に似ている。別世界に連れて行かれそうな感覚だった。
 キリルは、ヴァシル様から目を離さないまま、白い顔をしていた。小さく震えている。怖がっているのだ。
 そして周囲の観客は、ぼーっとした表情をしている。どこからか、子どもの泣き声が聞こえてきた。私の隣の男性がふらついた、と思ったら、膝から崩れ落ちる。
「だ、大丈夫ですか?」
 あわててしゃがみ込んで顔を覗き込むと、その若い男性は片手で顔を覆った。
「すみません、何だか、気分が……」
 これ、まずい? まずいよね?
 調香陣の真ん中に、光の球が生まれつつある。
「ヴァシル様っ」
 思わず駆け寄り、陣の外から呼びかけると、両手をだらりと下げたヴァシル様は少し身体を捻って私を振り返った。
 いつもと違う。太陽の光が琥珀を透かしたような、澄んだ瞳のヴァシル様じゃ、ない。暗闇の中、何も見ていないような目をしている。
 ヴァシル様がこの場から消えてしまいそうな気がして、私はヴァシル様の袖をつかみ、もう一度、呼んだ。
「ヴァシル様っ!」
「ルイ、どうかな? 人間のいない、精霊たちだけの世界のイメージです、想像できますか?」
 香りだけじゃなく、囁くような声までが、私を引きずりこもうとする。闇の中、ふわふわと蛍のように舞う精霊たち――でもそこには、私の大好きなものがなかった。
 弾ける料理の香り、美味しさを味わう笑顔、そして、誰かに喜んでもらえる嬉しさ。
 人間のいない世界――孤独。みんな、それを怖がってるのか。これは、この場所で作る香精ではない。何だかヴァシル様の様子も変だ!
「ポップ!」
『よしきた』
 私の意志をくみ取って、ポップは私の頭の上に飛び上がると、まるで飛び込みでもするかのように、頭から陣に突入した。
『目を覚ませ!』
 鮮烈な香りに、ぱん、と張り詰めていた空気が弾けたような感覚がした。
 商店街のアーケードを通り抜けて、スーッ、と風が吹いてくる。ブラックペッパーの香りをまとって、風は広場で渦を巻き、淀んだ空気を吹き散らして消えていった。
 ヴァシル様は、宙を見つめたままその場に立ち尽くしていた。広場の人々が、目をぱちぱちさせて不思議そうにあたりを見回している。
「……っごめんなさい、調香を中断させてしまって! つい、つられて【スパイス】の大精霊を呼んでしまいました!」
 私はそう言って、三百六十度、あちこちにヘコヘコと頭を下げた。そして、つま先立ちになり、ヴァシル様の耳元で言う。
「ヴァシル様! 申し訳ありません!」
「…………ルイ」
 ヴァシル様は、呆然とした表情で私を見下ろす。
 そして、ぎゅっ、と眉根を寄せて顔をゆがめた。いったん口元を覆って何か考える様子を見せたかと思うと、近くにいたスタッフさんに小声で言う。
「申し訳ない、今日は調子が悪いようです」
「大丈夫ですか? こちらにお座り下さい。あ、馬車を呼びましょうか」
「私、行ってきます!」
 身を翻そうとすると、いきなりガシッと誰かに手をつかまれる。
 振り向くと、ヴァシル様だった。
「ルイは、ここにいて」
 声は静かだったけれど、目がとても真剣で、まるですがってくるように感じられて、私はとにかくこくこくとうなずく。代わりにスタッフさんが馬車を呼びに行った。
 ローブの襞の陰になって誰にも見えていないと思うけれど、ヴァシル様はそのままずっと、椅子の横に立つ私の手を握っていた。

 侯爵邸に戻ると、執事のジニックさんと従者さんが心配そうに出迎えた。二人に支えられて調香室にゆっくりと歩いていくヴァシル様の後を、私も追う。
「大丈夫、少し疲れが出ただけです。紅茶が欲しいな。あと、夕食は軽くして」
 ソファにゆったりと座ったヴァシル様は、従者さんにそう言ってから、後ろから覗く私を見た。
「ああ……あと、食後に何か甘いものがあると嬉しいですね、ルイ。疲れが取れる」
「あっ、はい!」
 実は元々、『夜の大人の茶会』香精を調香していただいたお礼に、お菓子を作ろうと思って材料は用意してあったのだ。
 私は厨房に飛んでいくと、猛然とそれを作り始めた。様子のおかしいヴァシル様に、元気になってほしかった。
「手伝うよ。これを泡立てればいいのか?」
 横から料理長が言ってくれる。
 料理長に手伝わせるなんて、と最初は断ろうと思ったんだけど、「何かあったんだろう? 弟子も色々と大変だな」と労われるとジーンときてしまって、甘えてしまった。

 そして夕食後、私は調香室の扉をノックした。
「入りなさい」
 声に促されて中に入ると、ヴァシル様はソファに身体を預けるようにして座っている。
「お持ちしました。どうぞ」
 私は廊下のワゴンからお皿を運び、ヴァシル様の前に置いた。金属の覆いを取る。
「カシスムースです」
 濃い紫の艶のあるカシスジャム、そして柔らかな紫のムースと、一番下のスポンジが層になっているケーキだ。
 ムースはゼラチンを使って作ることが多い。こちらにもないかなと思って料理長に相談すると、とある豆から作るゼラチンに似たものがあったので、ムースを作ることができた。
 スポンジに、ほんのりブラックペッパーを忍ばせてある。お酒もちょっと利かせた、大人の夜のデザートだ。
「美味しそうですね」
 ヴァシル様は微笑み、フォークを手に取った。
 しゅわっ、と音を立てて、フォークがムースに埋まっていく。一番下までたどり着くと、フォークがお皿の上を滑ってケーキを割り、ヴァシル様の口まで運んでいく。
 ヴァシル様は、目を閉じて味わった。
「……うん……これは……口の中に、カシスの甘酸っぱさ、爽やかさが広がりますね。溶けて消えていく感じもいい。鼻に抜けて、香りを楽しむことができる」
「お茶も、お淹れしますね」
 私はポットから、カップにお茶を注いだ。ジャスミンの香りをうつした茶葉、ジャスミンティだ。
「あの日のお茶会を、お茶とお菓子で再現してみました」
「いいですね。……うん、美味しい」
 ヴァシル様は満足そうに、一口、一口と口に運んだ。私はホッとしながら、それを見守る。
 食べ終えたヴァシル様はお茶を飲み、そして私を見上げた。
「ルイ」
「はい」
「ここに座って。私の隣に」
 ヴァシル様は、ソファの座面を左手で軽くポンポンと叩いた。
 いいのかな、と思いつつも近づき、浅く腰かける。
 すると、ヴァシル様は私をじっと見つめてから、手を伸ばした。膝の上にある私の両手、その右手に触れ、さっきのようにきゅっと握る。ひんやりとした感触に、少し心配になる。
「ルイ。……済まないことをしましたね。私の失敗の尻拭いを弟子にさせるなんて」
「い、いえっ、そんなこと! それより、もう具合は大丈夫ですか?」
「うん。ただ、ちょっと……キリルに挑発されてしまったな」
 私の手を握ったヴァシル様の指が、手の甲を軽く撫でる。
「彼女が、私のようになりたいなどと言うから、『私』を教えてやろうと思ってしまった。私自身の持つ香りを素材に使ってまで、ね」
「ヴァシル様ご自身が素材になることなんて、できるんですね」
「うん。あんな特殊な技術まで見せるつもりはなかったのに。……私はね、ルイ。君が目的を果たしたら、引退しようかと思っているんです」
「えっ」
 息を呑むと、ヴァシル様は続ける。
「私が一人で暮らしているのは、かつて共に暮らしていた家族が、人間ではないものを見る目で私を見ていたからです。自分たちと私が、違い過ぎたのでしょう」
 ドキッ、とした。
 ヴァシル様には結局、私が衣装部屋で家族の肖像画を見たことは話していない。でも、隠されていたあの絵が脳裏に鮮やかに蘇る。
 あの、お父さんとお母さんとお姉さんが、そんな目でヴァシル様を……? そりゃ、私だってヴァシル様を初めて見た時は神様みたいだと思ったけれど、でも、人間なのに。
「そ、そんな風に、言われたんですか? 家族から? 人間じゃない、って」
 動揺して、声が震えてしまった。
 ヴァシル様は、そんな私の様子に驚いたのか、目を見開く。そして、私をなだめるように、また手の甲を撫でた。
「はっきりと言われたわけではありません。でも、共に暮らしていれば、わかります」
 そして、ちょっとおどけた風に笑う。
「まあ、私が香精師として優秀過ぎたということでしょう。……どうせ人間ではないという風に見られるのなら、そうなってしまおう、と思っていました。人間よりも、精霊に近いものになりたかった。人里離れた山奥で、自然に溶けるようにして心安らかにいたい、と」
 ヴァシル様は、繫いだ手に視線を落とした。
「私が君を弟子にしたのは、君がいずれ元の世界に帰ることを望んでいるから、というのが理由の一つです。それまでの期間限定なら、と、思いました」
 ああ、だから、ヴァシル様の弟子になっても香精師にはなれないってキリルに言ったのか。ずっと面倒を見ることはできない、という意味で……。
「でも」
 私は思わず言った。
「私が帰ると、寂しい、って、おっしゃいました」
 そう言った時のヴァシル様は、本心から言っていたと思う。家族とうまくいかず、一人でいるのなら、そんなの……寂しいに決まってる。
 ヴァシル様は少し黙っていたけれど、やがて微笑んだ。
「君がいい弟子だからですよ。さっきのケーキもとても美味しくて、元の世界に帰したくなくなるほどの味でした。レモンペッパー香精もそう、素晴らしかったしね。全く、どうしてくれるんです」
 きゅっ、と、私の手を握る手に力がこもる。
「え、いや、あはは」
 ヴァシル様こそどうしてくれるんですか、ドキドキして落ち着いて座っていられない!
「作り方なら書いておきますから、次のお弟子さんが作ってくれますよ! だから引退なんて」
 言いながら、立ち上がろうとした瞬間――。
 思いがけない素早さで伸びた両腕が、私の身体を引き寄せ、私はヴァシル様に背中から抱きしめられていた。
 首筋にヴァシル様の頰が当たるのを感じて、頭が真っ白になる。
 私には少し硬めに感じられるローブの生地、それを難なく着こなす身体つきに、綺麗で細身に見えるヴァシル様も男性なんだ、と思い知らされてしまった。
 どうして、抱きしめるの? どうして、私に独占欲なんて感じるの? ……私を、特別な人だと思っているから?
 混乱して、口を開けたり閉じたりしていると、ヴァシル様が耳元でつぶやいた。
「ルイは、とてもいい匂いがしますね。落ち着く匂いだ」
 に、匂いを確かめるために抱きしめてるの⁉ まさか違うよね⁉
 頭の片隅でそう思ったけれど、パニックになっていた私の口からはただ、感じたことがそのまま出てしまう。
「ヴァシル、さまも、いい匂い、です」
 わー、何をのんきなこと言ってんだ私! でも、匂いには逆らえない!
 アロマテラピー講習会で足立さんが、『嗅覚は、五感の中で唯一、情動にダイレクトに伝わります』って言ってた記憶が再生される。鼻の奥から脳に伝わり、感情を揺さぶる、香り。
「私の匂いを、君が気に入ったなら、嬉しい」


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