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ひざまずいてワンと啼け

佐原佐 / 著
天路ゆうつづ / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2019/05/31

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内容紹介

人狼皇太子の発情にご注意!?
「そんな可愛い顔、他の誰にも見せちゃだめだよ」婚約者に裏切られ、ありもしない罪で人狼族の国に追放されたアディール。追放先では発情した皇太子・ハロルドに突然襲われ、前途多難と思いきや、待っていたのは犬(彼)のしつけと甘い溺愛だった!? 「あいつにされるよりずっと気持ち良いだろ?」元婚約者への嫉妬心で迫るハロルドの口淫に、『人狼族特有の催淫効果のせい』と言い訳をしつつ、初めての疼きに深く溺れていくアディール。普段は無邪気なフリで隠しているハロルドだが、胸の奥には深い傷を抱えているようで……?

立ち読み

序幕


 世の中には予想だにしていなかった出来事がごろごろと溢れている――。冷たい床の上にころりと転がされたまま、アディール・バレットはそんなことを考えていた。半ば現実逃避に傾いた思考を必死に押しとどめ、現状を確認する。
 見上げた先には、鋭い牙(きば)を剥き出しにして涎(よだれ)を垂らさんばかりの狼男の顔がある。アディールがこの男に押し倒されたのは、つい三十秒程前のこと。ドレスの胸元が無残にも切り裂かれたのは二十秒程前で、男の硬く鍛えられた下半身が膝を割ったのはさらに十秒程前。そして現在進行形で、剣ダコのできた男の硬い手のひらに剥き出しになった太ももをまさぐられている。
 ごつごつした荒々しい指先に無遠慮に撫で回されるのは正直なところかなり不快だ。男はアディールの右の太ももを触りながら、左の太ももにずりずりと硬い物をすりつけてくる。男の脚の間にあるらしいその〝硬い物〟はスラックス越しにも薄く湿っていることが分かって気持ちが悪い。込み上げる不快感に、アディールはきゅうと唇を引き結んだ。
 アディールは今まさに、見知らぬ狼男に〝食べられようとしている〟のだ。公爵令嬢として生きて十七年と少し。王太子殿下の婚約者として臨機応変な対応力を身につけようとそれなりに研鑽(けんさん)を積んできたつもりだった。けれども、まさか自分の人生の中でこんなにも困難なことに立ち向かわなければならない日が来るとは思わなかった。
 冷静に分析してみたところで、危機的な状況は変わらない。どうにかしなければと必死に動かした視線が、男の腰元――ベルトに引っ掛けられた短剣を見つけた。考えるよりも早く短剣に手を伸ばし、剥き出しになった刃を自身の首筋に押し付ける。誰とも知れない獣に食い殺されるくらいなら、自ら命を絶つ方がよほど気持ちよく死ねるだろう。アディールの内ももに牙を押し当て歯形を残そうとしていた男が、ようやくその動きを止めた。鋭く伸びた牙が柔らかな肉に食い込んだまま、今にも薄い皮膚を突き破りそうだ。
「貴方(あなた)、私のことをご存じじゃないのかしら? 友好の証に遣わされた他国の客人に手を出すということがどういうことか分かって?」
 声に震えが混じらないように慎重に口を開く。太い血管の走行に合わせてピタリと皮膚に沿わせた金属の刃が、ぴりりとした痛みを伝えてくる。予想以上によく手入れされていた短剣は、アディールの柔らかな肌に簡単に傷を残した。恐怖に閉じそうになる両目を懸命に開きながら、アディールは自分に覆い被さる男の目を真っ直ぐに見つめる。
「とりあえずその無骨な手をどけてくださる? 私、よく知りもしない殿方に肌をまさぐられる趣味はないんです」
 アディールの首筋から溢れ落ちた赤い筋に、男がはっとしたようにその牙を収める。男の身体から力が抜けたのを感じ、アディールはようやくその身体(からだ)の下から這い出した。立ち上がろうとしてすっかり腰が抜けていることに気がつき、誤魔化すために平静を装って床に座り込んだまま姿勢を正す。きゅっと表情を引き締めて胸の前で両腕を組むと、何故か男の視線がそこに釘付けになった。怪訝(けげん)に思いはしたが突き詰めて考える余裕もなく、こほんと咳払(せきばら)いをして口を開く。
「それで、貴方どなた? 私、こちらの国の皇太子――ハロルド殿下にご挨拶に伺ったのですが」
「あの、俺がそのハロルドです……」
「……貴方が? 野盗かごろつきのごとくいきなり初対面の婦女を押し倒すような無粋な方が、皇太子殿下だと言うのですか?」
 驚きのあまり思わず口をついて出た言葉に、すっかりしょげきった人狼の青年――ハロルドが涙目になる。短めに整えられた白銀の髪も精悍(せいかん)な顔つきも鍛えられた体躯(たいく)も、軍人然として豪胆そうに見えるけれど、もしかしたらハロルドは見かけよりも大分ナイーブな性格をしているのかもしれない。
 傷つけるつもりはなかったのよと慰めようとして、ハロルドの視線が向いている先にようやく気づいた。無残に切り裂かれたドレスの胸元から、腕に押しつぶされて形を変えた胸が丸見えになっているのだ。自身のあられもない姿を見下ろし、一拍間を開けて慌てて胸元を両手で覆い隠す。顔を赤くしてきっと睨みつけると、ハロルドはわざとらしくそっぽを向いて知らないフリを決め込んだ。アディールは叱りつけたいのをぐっと堪え、なるべく落ち着いた声を出すように努める。 
「貴方が事実ハロルド殿下だとして、私にいきなり襲いかかるとはどういう了見です? それともこちらの国ではこれが初対面の作法だとでも?」
 声音が少々きつくなったのは、まあ仕方がないだろう。ハロルドはしゅんと肩を落としながらも、アディールの胸元から覗(のぞ)く隠しきれていない白い肌にちらちらと視線を走らせている。
「あの、たぶん今発情期で、こんなに可愛いお嫁さん貰えるんだと思ったら抑えられなくて、つい……ごめんなさい」
「発情期?」
 普段聞き慣れない言葉を耳にし、思わず反芻(はんすう)する。ハロルドの視線が一度アディールの下腹部に移動し、また胸元へと戻された。
「えっと、見境なく子作りをしたくなる時期のことです」
「それは知ってるけれど……貴方、発情期があるの?」
「うん。人狼族だから」
 発情期などというものは獣特有なのだと思っていたけれど、どうやらそうでもないらしい。いや、それとも人狼族という種族がアディールが思っていたよりもずっと獣的ということだろうか。
「それはどれくらいの間続くのかしら?」
「えっと、どっちかっていうと俺に発情期が来るっていうか、その、女の子の発情期に触発されるっていうか……」
 しどろもどろな説明に、アディールはきゅっと難しい顔を作って見せる。
「要領よく説明して下さると嬉しいのですけれど」
「はいごめんなさい! 排卵期の女の子が近くにいるとムラムラします!!」
「排卵期の……女の子?」
 きょろきょろと周りを見回してみるけれど、部屋の中にはアディールとハロルドしかいない。
「排卵期の……女の子?」
 自分を指差しながら、同じ質問を繰り返す。ハロルドは頬を赤く染めて、こくこくと頷いている。
(最後に月のものが来たのはいつだったかしら? 確か二週間くらい前……?)
 初経の早かったアディールは既に安定した周期で月のものが訪れるようになっている。きっかり二十八日。平均中の平均。つまり今は正に排卵期ど真ん中ということで、ハロルドはそれを的確に指摘してみせたということで――。そこまで考えてから、アディールは一気に顔を赤く染め上げた。
「あ、貴方、初対面の女性に対していきなりなんてことを……! これは国際問題にも発展しかねない由々しき問題ですよ!」
「ええ!? ご、ごめんなさいっ! だってはっきり言えって言われたから!」
 確かにそのようなことを言ったけれど、それは時と場合によりけりだ。理不尽かもしれないが、ただ一言これだけは言わせてもらいたい。空気を読みなさい――と。
 しょんぼりと項垂(うなだ)れるハロルドに文句を言ってやろうと口を開きかけたアディールだったが、結局何も言わずに口を閉じることにした。唇が閉じ合わさる手前で、薄く開いた隙間から小さなため息が零れ落ちる。
「……こちらこそ大変失礼いたしました。アディール・バレットです。東方の国リュコスよりハロルド殿下の婚約者となるために参りました。どうぞよろしくお願いいたします」
 ようやく震えの収まった足でしっかりと立ち上がったアディールは、はだけてしまった胸元を右手で隠しながら左手でスカートの端を摘まんだ。綺麗に膝を折って頭を下げると、乱れた金髪がふわりと動く。
 アディールにも分かっている。婚約者というのは建前で、実際はただの人質(ひとじち)だ。いくら友好国と銘打ったところで、その国力差は一(いち)目(もく)瞭(りょう)然(ぜん)なのだから。故国を追われ、助けてくれる者が一人もいない今、味方になってくれる可能性のある人物に悪い印象を与える訳にはいかない。
 頭を下げた時と同じく綺麗な所作で顔を上げたアディールは、ハロルドをひたと見据える。怯えている暇はない。アディールは見極めなければならないのだから。この男が自分の味方になるかどうかを。自分を裏切る可能性があるかどうかを――。
 鼻の下を伸ばして自身の胸元に熱い視線を送ってくる男を、アディールは複雑な思いで見つめるのだった。



二幕


 それはいつも通りの朝だった。王立学院の寮内にある自室で目覚めたアディールは、誰も見ていないのを良いことにふわっと小さく欠伸(あくび)をもらした。ぐっと伸びをしてしょぼつく目を擦(こす)りながら、一人部屋用の小さめのベッドから抜け出すためにふかふかの絨毯(じゅうたん)の上に素足を下ろす。
 水桶に溜めていた冷たい水で顔を洗うと、ぼんやりしていた寝起きの頭が大分すっきりする。タオルで顔を拭いた後は学院指定のネグリジェを手早く脱ぎ、タンスの中の簡易コルセットを綺麗に無視してシュミーズだけを身につける。身体を締め付ける物は好きじゃない。公務でも社交パーティーの場でもないのに、コルセットなどという堅苦しい物を身につけるつもりは毛ほどもなかった。
 クローゼットから取り出したワンピース型の制服を迷いなく頭から被ったアディールは、胸元のボタンを留めながら鏡台の前へと移動する。小さな丸い椅子に腰を下ろし、鏡の中に自分の姿を映し込んだ。
 乱れた金髪にブラシを通し、寝癖がないことを確かめる。耳の上までの髪を後頭部でひとまとめにし、引き出しから取り出した空色の髪飾りで固定した。胸元に零れ落ちる髪は、毛先だけに緩いウェーブがかかっている。
 臙(えん)脂(じ)に細めの白いストライプが入ったサテンの布で胸元に綺麗なリボンを作り、薄地のカーテンを開ける。朝の陽ざしに目を細めつつ指定の白い靴下と革靴を身につけ、もう一度鏡の中を確認した。鏡の中から、学院指定の制服をきっちりと身につけた金髪に翡(ひ)翠(すい)の目をした少女が見つめ返してくる。
 アディールが少し顔を横に傾けると、後頭部で光る空色の髪飾りが目に入る。昔と変わらぬ鮮やかな色合いに少しだけ頬を緩めたアディールは、服装に乱れたところがないのを確認し、夜のうちにまとめておいた筆記具を手に部屋のドアを開けた。
「ソフィアさん、おはようございます」
「おはようございます。アディール様」
 たまたま廊下を歩いていた同級生に笑みと共に声をかけると、慌てた様子でぺこりと頭を下げられる。小柄な体躯を精一杯廊下の隅に寄せた少女は、ふわふわの薄茶色の髪を二か所も大きく跳ねさせている。
「今日は随分早起きなのね」
 くすくす笑いながら可愛らしい寝ぐせに手を伸ばすと、ソフィアがうっすらと頬を染める。
「今日は当番の仕事があるんです」
「そうだったの。……あのね、当番の仕事は私が代わりにやっておくからもう一度部屋で鏡を見た方がいいわ。その髪型も可愛いと思うけど、ちょっと芸術的すぎるもの」
「うそっ! っ、すみません、ありがとうございますっ!」
 両手で頭を押さえたソフィアが踵(きびす)を返しかけ、そのままアディールの方に向き直る。くるりと一回転することになったソフィアはスカートの裾を翻(ひるがえ)しながら、「失礼します」と頭を下げて慌てて部屋の中に駆け戻っていった。いつもは大人しい同級生の新たな一面を微笑(ほほえ)ましく思いながら、アディールも教室に向かうべく足を進めた。
 アディールの生まれ育ったリュコス王国は、ゴルグ帝国という軍事大国の東に位置する小さな国だ。元は遊牧民だった民が根づいて国を興(おこ)したのはもう数百年も前だと言う。歴史だけは古い農産業に特化した小国は、四方を大国に囲まれて常に戦々恐々としていたそうだ。
 そんな小さな国が今まで攻め込まれることもなく細々とながら続いてきたのは、偏(ひとえ)にゴルグ帝国のおかげである。その昔、リュコス王国の始祖がゴルグ帝国のお偉方と友好関係にあったことから、両者の間で友好条約を交わしたらしい。属国としてではなく友好国としての関係を築きあげたのは当時のリュコス国王が有能だったからなのかゴルグ皇帝がお人好しだったのか――。リュコス王国で受ける教育では前者として伝わっているが、本当のところは分からないとアディールは思っている。歴史というものは伝えられていく中で、自分たちに都合の良いように捩(ね)じ曲げられてしまうことも多いのだ。
 事実がどうであったにせよ、リュコス王国がゴルグ帝国の庇護の下、安穏と歴史を紡いでいったことは事実であり、建国以来一度も戦火に見舞われたことのないリュコス王国は小国ながらもその学問の発達と歴史的建造物の多さにより他国から一目置かれる存在となっていた。
 その一方で、ゴルグ帝国は近頃少々雲行きが怪しいらしい。ゴルグ帝国は人狼族という獣の特性を持つ種族が集まってできた大国だ。普通の人間よりも遥かに優れた身体能力を活かして領土を広げ、国力が安定した後は他国への傭兵派遣等を主な生業(なりわい)としてきた随一の戦闘民族のはずである。世界で最も力のある四大国のうちの一つとして名前が挙がる、そんな大きな国。そのゴルグ帝国の国力が衰えているらしいという噂は最近よく耳にするけれど、その詳細については良く分からないのが現状だった。
「そもそもゴルグ帝国についての資料が少なすぎるのよね……」
 誰もいない教室でソフィアの代わりに花瓶の水を交換しながら、アディールはぽつりと呟く。友好国とは言いながら、リュコス王国とゴルグ帝国の二国間の交流は現在ではほとんど行われていない。最近国交を回復するための話し合いが進んでいるらしいけれど、学院の生徒にはまだ正式な通達は何もない。一応王室関係者であるアディールの耳には他の生徒には届かない話も入ってくるが、学生の身であるアディールにできることはあまり多くなかった。
「……まだ時間はあるわよね?」
 当番の仕事を全て片付けたアディールは、ふと思いついて教室を抜け出す。昨日の放課後、庭園の片隅で鈴蘭(すずらん)が咲いているのを見つけたのだ。一株花瓶に飾れば、より教室が華やかになるだろう。
 楽しい気分になりながら庭園を歩き、目当ての花を見つける。可憐に咲いた花に一度手を合わせてから、一株だけ茎を手折(たお)った。白い小さな花を揺らしながら、足取り軽く教室を目指す。
「鈴蘭の花言葉はなんだったかしら? 確かすごく沢山あるのよね。謙遜(けんそん)、純粋、幸せの再来、約束――」
 鈴蘭を片手に指折り数えていたアディールは、そこでぴたりと動きを止めた。庭園に設置されたベンチの一つによく見知った人の姿を見つけたのだ。こちらに背を向けているから向こうはアディールに気づいていないだろうけれど、たとえ後ろ姿だろうとアディールが彼を見間違うはずがない。
 彼――アディールの幼馴染みかつ婚約者でありリュコス王国王太子でもあるフレデリックは、一人でベンチに座っていた訳ではなかった。フレデリックの隣には、赤みがかった茶髪を緩めのお団子にまとめた少女――同級生のジェニファーが座っている。頭の形に合わせて綺麗に整えられたフレデリックの明るい金髪がさらりと揺れて、ジェニファーの方へと傾いた。
 はにかむ二人の横顔が見え、距離が近づいていく。アディールは――何も言わずにくるりと踵を返して逃げるようにその場を立ち去った。どくどくと煩(うるさ)いほどに鳴る心臓を叱咤(しった)してどうにか校舎の中へと戻る。窓ガラスに映る自分が酷い顔をしていることに気がつき、教室には戻らず寮の自室へと駆け込んだ。
 ドアを閉めるのと同時に右手に握り締めたままだった鈴蘭が音もなく床に転がり落ちて、毛足の長い絨毯にその身を沈める。閉じたドアに背中を張り付けたまま大きく息を吸い込んで、次の瞬間両手で顔を覆って床に座り込んだ。茎の折れた鈴蘭は、それでも可憐に花を咲かせていた。
「約束……そう。婚約は〝約束〟だもの。大丈夫。彼は私との約束を破ったりしないから……だから大丈夫なの」
 自分に言い聞かせるように口にして、震えそうになる指で鈴蘭を拾い上げる。折れた茎は、どう頑張っても元には戻せない。壊れてしまった関係は――まだ壊れたままだ。
 いつからこんな風になってしまったのだろうと考える。思えば、フレデリックが可笑(おか)しな行動をとるようになったのは学院に来てからのような気がする。いつも優しく穏やかだったはずの彼が不機嫌になることが増えて、最近ではあからさまにアディールから距離を置いている。
 昔はこうじゃなかった。フレデリックの一番近くで笑うのはいつだってアディールの役目だったはずだ。それなのに幼い日にずっと側にいると誓ってくれた男の子は、今ではアディールではない他の少女に笑いかけている。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう。祖父に言われるままに学院への入学を決めてしまったことが間違いだったのだろうか。渋るフレデリックを「十八歳になるまでの二年だけのことだから」と押しきるように説得したのがいけなかったのだろうか。フレデリックがアディールを追いかけるように学院への入学を決めた時は、確かに嬉しかったはずなのに。楽しい学院生活になるだろうと、そう思ったはずなのに――。
 ふらつく足で立ち上がり、鏡台に映る自分の姿を見つける。瞬きを忘れた瞳は両方とも真っ赤に充血していた。折れた鈴蘭を机の上に置き、空色の髪飾りに手をかける。約束の印に貰った彼の瞳と同じ色の髪飾りは、まだしっかりとそこに根づいている。指に触れた冷たい感触に視界が揺れ、気がつけばベッドに倒れ込んで枕に顔を埋めていた。
「大丈夫……。まだ……始業のベルが鳴るまでは……まだ時間があるから……」
 廊下から響く同級生の話し声が次第に大きくなっていくのを聞きながら、アディールはきつく唇を噛み締めていた。

 アディールがその手紙を受け取ったのは、一時限目に履修したダンスの授業が終わった直後のことだった。〝至急〟と大きく銘打たれた封筒を訝(いぶか)しく思いながら開封すると、中には簡潔な文章で『手紙を受け取り次第帰宅、のち登城』の旨のみ記されていた。
 首を傾げて手紙を透かしてみたものの、封筒を逆さにしてもそれ以上の情報は何も出て来なかった。仕方なく担任の教師に手紙の内容を伝え、外泊の許可を取る。学院を出る前にフレデリックに一言伝えようと思ったけれど、授業中に向けられた突き刺さるような視線を思い出して結局声をかけるのは止めてしまった。
 普段は温厚な彼が、学院の中では時折別人のように鋭い目をすることがある。今日はきっと、アディールが上手く踊れなかったから幻滅したのだろう。確かにダンスは元々得意ではないし今日の授業も上手くいかなかったけれど、それは何もアディールだけのせいではない。パートナーになった同級生の男子生徒が、ダンスが苦手なのか妙に身体を密着させてくるから動きにくかったのだ。おまけにその生徒のポケットに入れっぱなしにされているらしい硬い何かがずっと下腹部に当たっていたものだから、気になって集中できなかった。
 授業が終わった後にやんわりとそのことを指摘すると、パートナーだった子は顔を真っ赤にして逃げ出してしまった。他の生徒にも苦い顔で笑われてしまうし、フレデリックはさらに恐い顔になるし――。きっとアディールが上手く踊れなかった責任を彼に擦(なす)り付けようとしたと思われたのだろう。そんなつもりはなかったのだと言おうと思ったけれど、さらに誤解が広がりそうで結局何も言えなくなってしまった。
 最近はこんなことばっかりだ。何をしても上手くいかない。フレデリックが何を考えているのか分からない。――いや、知るのが怖くて、踏み込むことができない。学院に入学するまではこんなことはなかったはずなのに――なんて、一体何度考えただろう。堂々巡りな思考を繰り返す間に、馬車はあっという間にアディールの自宅へと辿(たど)り着いた。
 アディールの父親であるバレット公爵は領地の運営を全て部下に任せているから、アディールの実家は王都内にある。丁度、王都の郊外近くに設立された学院と王都の中心部にある城を結んだ直線上。学院にも城にもとても通いやすい位置にある実家には、今は父だけが暮らしていた。アディールの母はアディールが幼い頃に亡くなっていたし、祖父は持病の腰痛のために湯治に出かけている。
 馬車が自宅の前に到着した時、門の前では父が待ち構えていた。御者が馬車を降りるのも待たず、父は自ら馬車のドアを開けてアディールの隣に乗り込んでくる。
「お父様、お久しぶりです。あの、どうされたのですか?」
 このまま一度家に戻るつもりだったアディールは、父が馬車に乗り込んできたことにも御者が何も言わずに馬車を再び動かしたことにも驚いていた。かぽかぽという軽やかな音と共に、馬車がスピードを上げていく。
「困ったことになったぞ……」
 顔を真っ白にした父はそれだけ言うと、膝の上で組んだ両手に額を押し付けて黙り込んでしまった。落ち着かない様子で膝を揺するその姿に、アディールは父から話を聞くことは諦めて小さな窓から見える風景に目を向ける。馬車の行き先は、聞かなくても分かる。昔何度もこの道を通ってフレデリックに会いに行ったから。城に向かう馬車に揺られながら、アディールは学院に入学する前の懐かしい日々を思い出していた。


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