書籍詳細
貴女にかまう暇はないと言われた侯爵令嬢の幸せすぎる末路
定価 | 1,320円(税込) |
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発売日 | 2023/04/28 |
電子配信書店
内容紹介
立ち読み
第一章 つまらない令嬢でした
「アヒム殿下がわたくしをお召しになるなんて、いつ以来かしら?」
リーゼンフェルト侯爵家の令嬢カテリーナはほんの少しだけ期待していた。特別な封(ふう)蝋(ろう)がされた手紙によって、婚約者である王太子アヒムに呼び出されたからだ。
(どうしても急ぎ、あなたに会いたい……だなんて……)
最近、彼の心が離れていくようで心配だった。
カテリーナは次期王太子妃として彼を支え、このファルツ王国を守っていく責任を負っている。ときにはアヒムを諫(いさ)める立場だった。
けれどいつからか、彼女が課せられた責務を果たそうとするたび、アヒムは苦虫を噛(か)み潰したような顔をして、カテリーナを遠ざけるようになった。
でしゃばるな、生意気だ。自分の有能さを見せつけるのがそんなに楽しいのか——?
だんだんと刺(とげ)々(とげ)しい言葉が増えていった。
「婚約したばかりの頃は違っていたわ。……恋ではなかったかもしれないけれど、仲はよかったはずなのに」
二人の婚約はカテリーナが十四歳のときに定まった。
その頃のカテリーナは、異性に対する恋心というものをはっきりとは自覚していなかったが、アヒムを慕っていた。
実兄とは性格が違うが、一つ年上の彼をもう一人の兄のように感じていたのかもしれない。
けれど、互いに勉学の時間が増えるにつれて、一緒に過ごす機会が減っていった。
カテリーナが未来の王太子妃としてふさわしくなろうと努力すればするほど、なぜかアヒムとの心の距離が遠ざかってしまう。
とくにアヒムの生母である王妃が亡くなってから、彼はほとんどカテリーナと私的な時間を一緒に過ごさなくなってしまった。
婚約者同士だから、宮廷で行われる行事ではパートナーを務めてくれるものの、それだけだ。
だからこそ、関係修復のきっかけになりそうな呼び出しに期待し、カテリーナの足取りは軽かった。
近(この)衛(え)兵を伴い、宮廷内の奥まった場所にあるアヒムの部屋に近づいた。
ところが、王太子付きの侍従が慌てた様子でカテリーナの行く手を塞いだ。
「これは……リーゼンフェルト侯爵令嬢。本日はいったいどうされたのですか?」
「アヒム殿下から、至急のお召しがございました」
アヒムからの手紙をちらりと見せながら、カテリーナは先へ進もうとした。
「そ、そんなはずはございません」
侍従はなにを驚いているのだろうか。
婚約者のカテリーナがアヒムの私室を訪れるのは、そんなにおかしなことではない。
確かに最近めっきり機会は減っていたが、決めつけ、行く手を阻む侍従の行動はどこか不自然だった。
「なにか問題がございますか?」
強めの口調で問いかける。
「すぐに確認して参りますので、リーゼンフェルト侯爵令嬢はこちらで少々——」
そのとき、扉の向こうから短く甲高い悲鳴が聞こえた。
「女性の声? なにが起こっているの……?」
途切れ途切れに女性の声、そしてアヒムのものと思われる男性の声も廊下に漏れ出ている。
防音性の高い宮廷内の一室からこれほどの声が聞こえてくるのだから、なにか異常な事態だと察せられた。
「い、いえ……なにも問題はございませんので、あなた様はどうかそのまま……」
侍従は焦った様子だが、一向にアヒムの安全確認をしないままだ。
「事件が起きているのかもしれないのです。側(そば)仕えのあなたが真っ先に確認しなくてどうするのですか? おどきなさい!」
どう考えても非常事態だとわかるのに、侍従が動かないことにカテリーナは違和感を覚えた。アヒムの私室に賊が侵入して侍従はその手引きをしたのではないか——そんな妄想までしてしまう。
痺(しび)れを切らしたカテリーナは侍従の制止を振り切り、扉を開いた。
そして、その先に広がっていた光景に言葉を失った。
くつろいだ服装のアヒム。その上に女性が座っている。
ふわふわの薄茶色の髪にとろんとした大きめの瞳をした、可愛(かわい)らしい女性だ。けれど、その姿は異様だった。
人前で大きな胸を露(あら)わにしているのだ。
「あぁ、最高だ……。イレーネ」
焦げ茶色の髪をした美しい顔立ちの青年の横顔がそこにある。けれど彼が今、情熱的な視線を向けているのは婚約者以外の女性だった。
「そんなに強く触れられたら、ひゃっ、……あぁん」
アヒムはイレーネと呼んだ令嬢の胸を鷲(わし)掴(づか)みにして、形が変わってしまうほど強く揺さぶっている。
それから互いの唇が重なって、淫(いん)靡(び)な音が室内に響いた。
(キス? 唇へのキスは最愛の人にしか許されないのではなかったの……?)
まるで歌劇の一幕を見させられているようで、現実感がない。
目の前でなにが起こっているのか、理解することをカテリーナの心が拒否していた。
なぜだか胸のあたりが急に苦しくなり、視界が狭まった気がした。
「リーゼンフェルト侯爵令嬢! 見てはなりません」
そう叫んだのは、宮廷の入り口からカテリーナに付き添っていた近衛兵だ。
アヒムとイレーネがビクリと反応し、二人の視線がカテリーナのほうへ向けられた。
「キャッ、……見ないでぇ」
大げさに叫んだ彼女は、はだけた胸元を隠すためにアヒムに抱きついた。一国の王太子の膝の上に座ったまま、まるでそこが自分の居場所だというような態度だ。
「カテリーナ……? なぜそなたがここに!?」
アヒムはまず取り乱して、そのあとすぐに怒りだした。
「いくら婚約者だからといって、先触れもなしに訪れるとは! 傲慢にもほどがある」
カテリーナはわけがわからなかった。
会いたいという彼の求めに応じて訪ねたのに、たどり着いた部屋の中でアヒムは別の女性と抱き合っていたのだ。
「……なにをなさっておいでなのでしょうか?」
どう考えても不貞をしているようにしか見えない。
けれどカテリーナの男女の秘め事についての知識は、座学で学んだことがすべてだったため、確証がなかった。
(なにか、事情がおありなの? わたくしの知らない、……そうでなければ、おかしいわ。だってアヒム殿下は将来わたくしの夫になるお方……)
きちんと状況を把握しないまま糾弾するようなことがあってはいけない。
例えば医療行為のときに医者に対して素肌を晒(さら)す必要があるのと同じような、特別な理由があるのではないか。
動揺しつつもなんとか冷静さを保ち、カテリーナはあらゆる可能性を洗い出していく。
アヒムはイレーネをそっと下ろして隣に座らせてから、あろうことか彼女の肩を抱き寄せた。先ほどまでの憤(いきどお)りが鎮まり、皮肉の混ざった笑みを一瞬だけカテリーナに向けた。なにも知らずにいたカテリーナをあざ笑っているようだった。
「あぁ……見つかってしまったのなら仕方がない。わかるだろう? 愛を語り合っているのだ」
そう言って、イレーネのこめかみのあたりに唇を落とした。
「人前でなんて……は、恥ずかしいです……アヒム様」
ドレスの布地をたぐり寄せ、胸の頂を隠しながら頬を赤くし、イレーネはうっとりとほほえんだ。
カテリーナや近衛兵が見ているのに、まるでここは二人きりの空間のようだ。
「愛……?」
アヒムは誰と愛を語り合っているのだろうか。
(どういうこと……? わたくしは、望まれてアヒム殿下の婚約者になったはず……)
忘れもしない四年前の暖かな春の日、「政略的な意図を持って婚約をしたけれど、私は一目見た瞬間に君に恋をしたんだ」と言ってくれたのはアヒムだった。
望まれて、愛されることが約束された婚約のはずだったのに、今の彼はカテリーナに見向きもしない。
「カテリーナにはわからぬかもしれんな」
胃の中にあったものが逆流してきそうな不快感がカテリーナを苛(さいな)んだ。
額に汗がにじみ、目の前が暗くなる。脚は震えて、その場でうずくまりたい気分だった。
けれど、カテリーナが取り乱すことはなかった。頭が真っ白になったからではない。この四年で、どんな状況でも心の内をたやすく悟られないように振る舞うことが、身に染みついてしまっていたからだ。
(そ……そう。冷静に……。王妃様がいつもおっしゃっていたわ)
不測の事態が起こったときほど冷静に——この四年間、立派な王妃となるために厳しい指導を受けてきたのだ。
一年前に亡くなった王妃から教わったことをカテリーナは思い出す。
感情を爆発させた言葉からはきっとなにも生まれない。カテリーナは冷静に、冷静にと言い聞かせながらとにかくこの状況を把握しようとした。
届いた手紙には、王太子しか触れてはいけないはずのシグネットリングで封蝋がされていた。これまで何度も彼からの手紙を受け取ったことがあるため、見間違えようもない。
それなのにアヒムはこの状況に慌てた様子だった。なぜだろうか……。
「アヒム殿下。殿下がわたくしをお召しになったのではありませんか?」
封蝋が見えるようにしながら、カテリーナは手紙を差し出した。
「そんなはずはない」
取りつく島もないアヒムは、手紙の文面を読むことすらしなかった。
だが、もし誰かが勝手に王太子の名を騙(かた)り手紙を出したとしたら、それは大変な事態だ。
シグネットリングを無許可で使用したのだとしても、偽造したのだとしても、関わった者は罪に問われる。それがアヒムの管理不足ということになれば、王太子としての立場が揺らぎかねない。
カテリーナは事の重大さをどうにか婚約者に伝えようと必死だった。
「アヒム殿下! どうか聞いてください。……封蝋の印は殿下のものでした。つまり、この状況をわたくしに知られることが殿下の本意ではないのなら、誰かの陰謀。未来の国王としてあってはならない——」
焦り、必死に説明しようとするカテリーナの言葉をアヒムが遮る。
「カテリーナ、どうしてそなたは人の心がわからぬのだ?」
婚約者であるはずのアヒムは、カテリーナに哀れみの表情を向けた。
「心……?」
「あぁ、きっとそなたには心などないのだろう。ただ知識があるだけの人形だ」
「そんな……」
だとしたら、カテリーナの胸の奥にある抉(えぐ)られるように痛む場所はいったいなんなのか。今感じているこの痛みをアヒムに伝える方法を、カテリーナは知らなかった。
「今すぐここを去れ! 私と恋人の大事な時間の邪魔をするのなら容赦はせぬ」
「……アヒム様、大きなお声は恐ろしいですわ」
イレーネがアヒムの服をキュッと掴んで引っ張りながら今にも泣き出しそうな顔でそう言った。
「すまない、イレーネ。繊細なそなたがいるのについ大声を出してしまった。あの者は心がない人形……愛情を知らない哀れな女だ。許してやってくれ」
優しい声と表情だった。
四年前は、彼は婚約者のカテリーナにそんな表情を向けていたはずなのに。いったいいつからこうなってしまったのだろうか。
「まだ見ている気か? ……婚約は解消する。今後は婚約者面(づら)をして私室を訪れることなど許さない」
カテリーナは王家に仕える臣だ。王族であるアヒムに断言されてしまっては、もうどうにもならなかった。
(……これは、気の迷いではないのね……?)
親密さからして、抱き合っている二人の関係が今にはじまったものとは思えなかった。
取り返しのつかない事態になるまで気づかずに、今日まで近い将来の王太子妃になるべく努力をしてきたカテリーナは本当に愚かだった。
「かしこまりました。……それでは失礼いたします、アヒム殿下」
こんな状況であっても完璧な淑女の礼をして、カテリーナはアヒムたちに背中を向けた。
瞳から涙がこぼれ落ちることはなかった。
廊下を歩き出したところで、先ほどカテリーナの入室を阻止しようとした侍従とすれ違った。
彼は居心地の悪そうな表情でカテリーナを見つめていた。
それで、アヒムのそばに仕える者は以前からこのことを知っていたのだと察した。
あの女性がアヒムの私室を訪れることも、中で淫らな行為をすることも、本人たちだけの秘密ですらなかった。
「わたくし……心を持たない人形……だったのね?」
人形は人形でもマリオネットだったのかもしれない。
求められる理想的な未来の王太子妃になることを一番に掲げて努力してきたつもりだったが、いつの間にか、意思や人の心を持たず、ただ大人の都合よく動くだけの人形になっていたのだ。
アヒムも、あのイレーネという令嬢も、そしてアヒムのそばに仕える者たちも、踊らされていたカテリーナのことを、観客席から冷めた目で眺めてあざ笑っていたに違いない。
今、カテリーナを操っている糸は切れてしまったのだ。すると本当に、自分という存在がなんなのかわからなくなる。
「リーゼンフェルト侯爵令嬢。そのように急いでどこへ行く?」
思いを巡らせながら廊下を進んでいると、低い声が咎(とが)めるようにカテリーナを呼び止めた。
早足でうつむきがちになっていたため、目の前の人物にすら気づかなかった。一瞬、淑女としてこんな歩き方をしてはいけなかったと反省したカテリーナだが、すぐにその必要はもうないのだと思い直す。
(こうなってしまったら誰よりも美しく歩くことなど、なんの役にも立たないわ)
カテリーナは虚(むな)しさを抱えたまま顔を上げて、目の前にいる人物をまっすぐに見据えた。
眉間にしわを寄せている青年は、ハイデルベルク公爵ヘルベルトだ。
現在二十六歳で、この宮廷内の警備の総責任者であり、同時に都の治安を守る将軍職に就いている人だった。
短めの黒い髪に冷たい印象の青い瞳を持ち、若さにそぐわない風格が感じられた。
(こんな日に限って、ハイデルベルク公爵閣下に会ってしまうなんて……)
カテリーナはこの青年が苦手だった。
彼の母親はすでに亡くなっているが現国王の妹で、王太子アヒムとはいとこ同士となる。ヘルベルト自身も王位継承権を持っていて、その序列は王太子アヒム、王女エルネスタに続く第三位だ。そんな立場であるため、ヘルベルトは王族にも堂々と意見を述べる。かなり生真面目な人で、度々アヒムに対して、婚約者への接し方がよくないと諫めていたのをカテリーナも知っている。
けれど、その言葉でアヒムは益(ます)々(ます)頑(かたく)なになる。アヒムにとって、文武両道のヘルベルトは目の上のこぶのような存在で、劣等感を煽(あお)られるのだろう。
ヘルベルトがいないところで八つ当たりをされるのは、いつもカテリーナだった。ヘルベルトが悪いわけではないのに、彼の苦言は時々カテリーナを間接的に傷つける。
(それに彼は、わたくしに対してとくに冷たい気がするわ)
ヘルベルトは女性嫌いとしても有名だったが、カテリーナに対する態度は一際刺々しいものがあるような気がしていた。心に余裕がない今のカテリーナにとって、会いたくない人物の筆頭だった。
「ハイデルベルク公爵閣下、ご機嫌麗(うるわ)しゅうございます」
「そちらはご機嫌麗しいという様子ではないが?」
鋭いまなざしを向けられると、カテリーナはいつも萎(い)縮(しゅく)してしまう。
「顔色が悪い。……王太子殿下の婚約者ならば、体調管理くらいできずにどうする?」
今は棘(とげ)を含んだ言葉を受け流せる余裕がなかった。カテリーナはヘルベルトの問いかけには答えられず、両手でドレスの布地をギュッと握る。
「王太子殿下の婚約者ならば、ですか。……フッ」
おもしろいことなど一つもないのに、笑いが込み上げてきた。
正義の人であるヘルベルトに悪気はないとわかっているが、婚約者という言葉が妙に胸に突き刺さる。
「どうしたというのだ? とりあえず医者に診(み)てもらったほうがいいだろう」
「……わたくし……もう、アヒム殿下の婚約者ではなくなったそうです。ですから、ハイデルベルク公爵閣下がお気になさる理由もありません!」
ヘルベルトをにらみつけながら、強い口調で言い放った。
これでは八つ当たりだとわかっているのに、自制が利かなくなっていた。
胸の痛みが治まらず、そのせいでだんだんと視界が暗くなっていく。
「侯爵令嬢!? 大丈夫か?」
意識を失う直前、普段は冷徹で効率しか考えていなさそうなヘルベルトの慌てた様子がうっすら見えた。
(ハイデルベルク公爵でも動揺なさることがあるのね)
それがなんだかおかしくて、カテリーナはわずかに負の感情から解放された。
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