書籍詳細
幼なじみ御曹司が黒歴史を背負ってやってきた
定価 | 1,320円(税込) |
---|---|
発売日 | 2023/07/28 |
電子配信書店
内容紹介
立ち読み
第一章 『社長の息子』は善か悪か
「今日から横浜本社勤務になりました、花山院(かさんのいん)梓(あずさ)といいます。よろしくお願いします」
若々しい男性の声が自己紹介をすると、女性社員たちが顔を輝かせて目配せしあった。なにしろここ最近の社内では、神戸支社から異動してくる彼の噂でもちきりだったのだ。
花山院といえば、ここ株式会社アステの社長の名であり、彼はその息子。
社長の息子——この響きには、警戒する者もいれば、うっとりする者もいる。
前者の例で言えば、この単語をネット検索にかけるとまあだいたい『偉そう、使えない、ボンクラ、仕事しない、バカ息子』等々、ネガティブな検索結果には枚挙にいとまがない。
私がかつて勤めていたブラック企業の社長息子も、こっちに該当した。
一方で、『御(おん)曹(ぞう)司(し)、お金持ち、玉の輿(こし)』という肯定的な期待も若干あるわけで、件(くだん)の花山院梓氏がどちらに属するのか、女性社員の間では公然と賭(か)けが行われていたのだ。
現在二十六歳、身長は百八十センチ近く、すらっとスマート。顔立ちは色男系。
くどくなくてさっぱりさわやか、好青年。頭脳明(めい)晰(せき)そう。くっきりした二重瞼(まぶた)、すこしタレ目で、笑った感じはとにかく甘い。なんだか、懐かしい雰囲気をまとうイケメンだ。
髪は淡いブラウンで、インテリジェンツパーマで知的に見せている。
あの『インテリジェンツ』が見掛け倒しでなければいいと、誰もが願っているだろう。
身に着けているのはシンプルな濃紺無地のスーツだが、「あれはアクアスキュータムね」とブランド厨(ちゅう)のコンサル部主任が目を光らせ、イギリスの高級ファッションブランドを看破した。
財力に間違いはないようだ。ひとまず見た目は『御曹司』であると、女性社員共通の認識となった。
ここ株式会社アステは、インテリア業界のリーディングカンパニーで、大手建設会社の関係会社として三十年前に設立された。
業務は多岐にわたるが、メイン業務はインテリアデザインだ。ホテルやオフィス、ショッピングモールなど、さまざまなジャンルでインテリアデザインを担っている。
梓氏は、神戸支社ではインテリアコンサルティング部に所属しており、ここ横浜本社では、同部の部長補佐を務めることになる。
一応、本社に栄転となるのだろうが、なにしろ社長の息子なので、それが実力ゆえの人事なのかはわからない。
しかし、彼が横浜本社に異動となり、泣き崩れた神戸支社の女性社員が続出したとかなんとか。評判がいいのは事実のようだ。
というわけで、朝から社内は花山院部長補佐の話題でもちきりだったが、わたくし、八(や)神(がみ)杏(あん)菜(な)にはあまり関係のない話だ。
なにしろ、華やかなインテリア系の仕事に就いてはいても、私は部内のサポートを一手に引き受ける内勤の契約社員である。インテリアの知識などそんなにない。
私と同い年なのに、『インテリ集団の部長補佐にして社長の子息』などという、輝かしい経歴を持った有望社員さまなど、こちらの人生に何の関わりもない人だった。
彼の自己紹介が終わると、私は窓際にある自席で黙々と業務を開始した。——窓際といっても、別に窓際族の意ではない。
窓の向こうに見える眺めはとてもいいし、インテリア業界のオフィスらしく、社内の内装はすっきりと洗練されていた。
床はグレーの絨(じゅう)毯(たん)敷で、大きな一枚板を仕切ったデスクは各人のために広めにスペースが取ってあり、シンプルかつ悠々自適。
季節は、冬と春の境い目の三月。春としては少々寒すぎるが、木目の壁は温かみがあり、窓には断熱加工がしっかり施されているので、室内に寒さはない。
見た目も居心地も抜群だ。
服装規定はオフィスカジュアルなので、営業や来客の予定がなければスーツは必須ではない。内勤の多い女性社員など、華やかなものだ。
そんな中、私は化粧っ気なく、黒いスラックスに白ブラウス。ダークグレーのカーディガン、飾り気のない黒パンプスという鉄壁装備だ。
黒髪は黒ゴムでそっけなく後ろでひとつにくくり前髪は長めで、太い黒縁の眼鏡という、完全地味子の出で立ちである。
でも別にいじめられているわけではない。モノクロ武装をしておけば、華やかな人々が寄ってこないからちょうどいいのだ。
私の場合、仕事の正確さには定評があるので、実務で成果をあげておけば問題ない。
メーラーを開き、見積書で承認の取れたアイテムを発注ソフトに入力していく。入力するだけのかんたんなお仕事だが、寸分のミスも許されない。ゆえに、急ぎでなければ集中力のある午前中に片付けることにしているのだ。
そのとき、ふとデスク横に誰かが立った。モニターから顔を上げてみると、社長のご子息が私のパソコンのモニターを覗き込んでいた。
「あの……?」
「商材の発注回りはあなたが担当だと聞いたので。よろしくお願いします、花山院です。今後、なにかとお世話になります」
「はい、よろしくお願いします。インテリアコンサル部サポートの八神です」
席を立って深々と頭を下げたが、すぐ座り直して業務に戻る。
近くで見ると、地味子の私でもちょっと目を惹(ひ)かれてしまうようなイケメンさんだった。
どんな雲の上の人でも、目の保養にはなったのでありがたい。男性はちょっと苦手だが、見てるだけなら問題ない。見目がいいならなおのことだ。
「八神さん」
「はい。あの、なにか……?」
席に着いた私の顔を、部長補佐の社長息子がじっとみつめてくる。
そして、ぽつりと——、
「——杏菜ちゃん?」
私は反射的に腰を浮かして彼を見上げた。その会話を聞いていた周囲の社員たちもざわつく。
「杏菜ちゃんだよね!? 覚えてないかな、中学まで同じで、隣に住んでた——」
混乱しながら彼の顔を覗き込み、子供の頃に隣に住んでいた人の情報と照合していく。
「……あずさ、くん?」
「そうそう! わぁ懐かしいな、見違えたよ! 最後に会ったのはいつだっけ、確か高校の頃……」
この地味子の容貌に「見違えた」とはこれいかに。もしやディスられてる?
思わず黒縁眼鏡の下から、「余計なことしゃべるんじゃねえ!」というガンつけオーラを放って梓を怯(ひる)ませると、運よくかかってきた外線電話を取って話を逸(そ)らした。
「はい、お世話になっております。加(か)納(のう)ですね、ただいまおつなぎいたしますので、お待ちください」
はっきりした口調で周囲に仕事中アピールをして、外線をつなぐ。
「花山院さん、八神さんとお知り合いなんですか?」
それでも興味津々の女性社員たちに囲まれて、梓は懐かしそうに笑った。
「子供の頃、家が隣だったんですよ」
「すごい偶然ですね! 八神さん、もしかして花山院さんの会社だからここに?」
そんなわけあるかい、と内心でツッコむ。
たまたま勤務地と条件がマッチしていただけの話である。社長名など、いちいち確認するわけがない。
そもそも、「幼なじみの梓くん」は、花山院などという大(おお)仰(ぎょう)な名字ではなく、たしか、水(みず)上(かみ)梓という名だったはずだ。
「あの、すみません。あと三十分でこの発注を終わらせないといけないので」
大嘘だが、体(てい)よく追い払うには嘘も方便だ。昔話などされて集中力が乱れたら、ミスを起こしてしまう。
特筆すべき能力のない私には、仕事の正確性と速さだけが拠(よ)り所なのだから。
それに、昔話など死んでもしたくない。
「ああ、すみません」
そう言って立ち去りかけた梓だったが、ふと足を止めて振り返ると、私の耳元に顔を近づけて「ランチ一緒に行かない?」と幼なじみのノリで声をかけてきた。
「あーごめんなさい、お弁当です」
「そっか。わかった」
私が鉄の防壁を築いていることを、やっとわかってくれたのだろう。あきらめて自席へと戻っていく。
が、すぐに戻ってくると、「僕のデスク周りの必要なもの、揃えてもらえますか?」と、今度は仕事の話だ。これは無視するわけにはいかなかった。
「わかりました。この業務を終わらせたら対応しますので、必要なものをリストアップしてメールでください」
あくまで業務、という態度で梓をシャットアウトすると、今度こそパソコンに向かった。
今日のランチは、花山院部長補佐の歓迎会を兼ねるため、部署内の多くの人がちょっと早めにオフィスを出た。
周辺のオフィスもだいたい同じ時間に昼休みに入るので、大人数だと特に、早めに出ないと食いっぱぐれてしまうのだ。
でも、私は毎日お弁当を持参している。本社の所在地である、みなとみらい周辺の飲食店で毎日ランチなどしていたら、あっという間に破産してしまうだろう。
キッチンカーも多いが、毎日外食ができるほどゆとりのある生活はしていない。少ない給料からわずかでも貯金に回さなくてはならないのだ。
この会社の正社員ともなれば、インテリアコーディネーターだったりプランナーだったりと資格を持っていて年収は高めだが、私は無資格の契約事務員だ。有期雇用で、もちろん基本給に壮大な格差があった。ボーナスは一応もらえるけど、心ばかりだ。
かといってやりたいこともないし、できることも少ない。日本社会における完全なるモブである。
(こんなことなら、もっと高校生の頃に真面目に勉強しておけばよかった——)
高校には通っていたが、出席日数はぎりぎりだったし、成績もかろうじて下の上といった体たらくだ。一応、地方の大学には行ったがいわゆるFランク大学で、「名前を書けば受かる」という感じだった。
アステの社員は優秀な人ばかりなので、比べると自分など塵(ちり)みたいなものだろう。べつに自虐で思っているわけではなく、それが事実なのだ。
(梓くんは昔から頭よかったもんなあ。でも、名字、違うよね——?)
自分で作ったアスパラのベーコン巻きを食べながら、一番記憶に残っている中学時代のことを思い出す。
私たちの地元は横浜ではなく、小田原だ。通っていたのはふつうの公立小中学校で、お隣の梓くんのおうちは、私の家と同じ建売住宅だった。
彼の母親はずいぶんと前に早(そう)逝(せい)しているから、私も顔は知らない。父親とは面識があったが、こんな大会社の社長だったのだろうか。
中堅サラリーマン家庭に生まれた私と、生活レベルはそれほど変わらなかったはずだ。
でも、梓くんは中学三年になってすぐ引っ越してしまった。
中学ではクラスも違ったし、私生活が忙しくてあまり交流がなかった頃で、お別れの挨拶をした記憶はない。
うちの両親も、突然の転居だったので「夜逃げなのかしら……」なんて心配していたほどだ。ほどなくして、隣家は売りに出されていた。
その後、高校生の頃にたまたま東京で再会したけど、ろくに話はしていないし、それきり接点はない。
梓の身に何があったのかは気になったが、今さら聞いても仕方のないことだ。もはや私と彼では、環境も住む世界も違いすぎる。
昔なじみの人間がたまたま再会しただけのことにすぎない。
それに、懐かしさはあったものの、彼はあのことを知っている。昔のことをベラベラと話されてうっかりでもその話題に触れられたら……。
徹底的に会話は交わさないように気をつけようと思った。
*
「八神さん、今日もお弁当?」
そう問われたのは翌火曜、昼休みのチャイムが鳴ったのと同時だった。
振り返ると、梓が私のデスクの横に立っている。
「え、ええ」
付き合いの悪さが際立っちゃうから、ランチの誘いはやめてほしいんだけど……。
今日の梓は外出がないのか、白シャツに黒カーディガン、ベージュのボトムスでカジュアルにキマっている。でも、額を出したインテリジェンツパーマは、私から見ると気取って見えてモヤモヤしてしまう。
いえ、オフィスの女性社員は総意で「御曹司、めちゃくちゃカッコイイ!」と言ってますけど、なまじ彼の小中学校時代を知っているから、そう見えてしまうのだろう。
「よかった、僕も弁当持参なんだ。ご一緒してもいい?」
「あ、そうなんですか?」
そう言われてしまうと断れない。無愛想な私でも、休憩室でお昼を食べながら談笑くらいはするんです、一応。
とはいえ、このオフィスは懐(ふところ)に余裕がある人ばかりなので、自宅から弁当を作って持ってくる人は少数派だ。いたとしても、金欠ゆえではなく、ダイエットとかそういう目的のある人がほとんどなのだ。
梓はまだこっちに引っ越してきたばかりだろうし、出勤時に近所のお店でも散策してきたのだろうか。
だが彼が見せたのは、濃紺色をした和柄のランチバッグだった。
まさかのお弁当男子——!
「手作り、なんですか?」
「そう、八神さんの真似してみたんだ。朝から弁当作りって楽しいね。休憩室で一緒に食べよう。昨日、八神さんとはお話もできなかったし」
私はいやいや作ってるんだけど……。さすがにびっくりしていたら、それを聞いていた女性陣が一斉に集まってきた。
「花山院さん、自炊されるんですか!?」
「どんなお弁当なんです? 見たい!」
「このランチバッグ、よく見ると柄がネコちゃんだ、かわいい!」
というわけで、梓のお弁当の中身を見るために彼女らもぞろぞろと休憩室についてくる。
弁当ひとつで人が集まってくるって、人集めのプロだなこの人。営業向きなんじゃないだろうか。
休憩室でお弁当を広げると、「おお……」と歓声が上がる。
成人男子らしくお弁当箱は大きめの二段。下の段は大胆にオムライスがドンッと入っていて、上段には鶏モモの照り焼き、ブロッコリーにプチトマト、きんぴらごぼう。
わざわざお弁当用の調味料入れにケチャップまで入れてある。しかもネコの形をした容器だ。
これもう、完全にウケ狙いでしょ。でも、めちゃくちゃおいしそう。
「すごい、ちゃんとお弁当だ!」
「全部手作りですか?」
「まさかまさか、きんぴらは冷食です。でもみなさん、早くお昼買いに行かないと、混みますよ」
そうやって人払いをすると、やっと休憩室が静かになった。残ったのは他部署の数名で、別のテーブルで思い思いにお弁当を広げている。
「すごいですね、花山院さん」
「料理は杏菜ちゃんのお母さんによく教えてもらったしね。おかげで色々助かったよ」
「…………」
そういえば、一緒に料理の真似事とかしてたっけ。でも、あんまり昔話には乗らないようにしないと。どこに話題が発展してしまうことか。
聞かれたくない、話したくないことがたくさんありすぎた。だから私も、聞きたいことを聞かずにスルーする。
いくら今このテーブルにふたりしかいなくても、どこで誰が聞き耳を立てているか知れたものではないのだ。
「八神さんは海(の)苔(り)弁当だ。卵焼き、おいしそうだね」
あなたそんなでっかいオムライスで、卵がどどんとのってるでしょう。
「恥ずかしいからあんまり見ないでもらえます?」
弁当箱の七割を占める海苔。白米の上におかかをまぶして、海苔をかぶせただけの代(しろ)物(もの)です。残りの三割には卵焼きと冷食の甘酢肉団子。ちなみに緑色はない。見た目からして完敗。
弁当の中身をさらされるってわかってたら、もうちょっとマシに作ってきたのに……。
なんだか恥ずかしくなったので、無言のままかきこんで、パタンと蓋(ふた)を閉じた。
「お茶でも淹(い)れてきますね、いりますか?」
「いいよ。自分でやるよ、お茶くらい」
「ついでですから。何がいいですか?」
この会社はフリードリンクコーナーがあって、緑茶やコーヒー、紅茶は飲み放題だ。
「じゃあ、緑茶で」
お弁当箱をしまってお茶を紙コップに淹れて戻ってきたら、外に出ていた面々が戻ってきて、梓の周囲を陣取っていた。オフィスビルの前にキッチンカーが来るので、どうやらそこで買ってきたらしい。
いつも外食してくるのに弁当だなんて、そんなに梓と一緒にごはんを食べたかったのか。
「お茶、置いときますね。ごゆっくり」
彼の前に紙コップを置くと、梓が何か言いたげにこちらを見たけど、声をかけられる前に休憩室を出た。彼も立場上、幼なじみにばっかり構うわけにはいかないだろう。
この場に留まったら、絶対に昔のことを根掘り葉掘り突っつかれるに決まってる。三十六計逃げるに如(し)かず。
それからも毎日のように梓は手作り弁当だが、部内の女性社員にも弁当持参の潮流が広がり、昼休み、彼の周囲はいつも人だかりができている状態だった。
素直にすごいなと思う。男性が自分でお弁当を作ってくるのはたしかに珍しいけど、他の人にまで影響を与えるって、ちょっと考えられない。
『社長の息子』という印(いん)籠(ろう)も手伝ってはいるだろうが、梓は見目がいいだけでなく朗らかだし、物腰が柔らかいから話しやすくて、人から好かれるだろう。
いずれ、この会社を継ぐのだろうか。だとしたら、いい経営者になれるんじゃないかな。
幼なじみを特権と思ってるわけじゃないけれど、幼なじみの誼(よしみ)で正社員登用してくれないかなあ、なんて。
だからって、何かの資格を取ろうと思うわけでもない私は、きっと気概が足りないんだろう。
でも、目立たず静かに、荒波を立てることなく平和に生きていければ、それで十分。
*
金曜日の夜に花山院部長補佐の歓迎会をやるから——そう誘われたのは、前日の退勤時だった。
「ごめんなさいっ、明日の夜は用事があるので……!」
明るく断りの返事をしたが、たぶん断るための嘘用だと思われているだろう。
そもそも会社の飲み会は苦手だし、梓氏の不用意な発言により、彼の幼なじみであることが露見してしまっているので、腹を探られたくない私としては断る以外の選択肢がない。
用事があるのは本当なんだけど。
それに、飲み会などいったら軽く五千円はふっとんでしまう。キッチンカーの五百円弁当が二週間にわたって食べられる金額は、しがない事務員にとっては途方もない額なのだ。貧乏契約社員は、交際費と食費を可能な限り削る所存である。
とはいえ、私の付き合いの悪さは誰もが知っていることなので「やっぱりそうですよね」とかんたんに引き下がってもらえる。
むしろ、最近では声をかけられないことが多いから、誘われたのが驚きだった。
御曹司の幼なじみだから、形式的にも誘わないわけにはいかないか。
オフィスは桜木町駅から徒歩五分という立地にあり、十五階建てのオフィスビルの八階から十一階を占める。
大きな窓からは、移転してきた横浜市庁舎もよく見えた。
十八時に退勤すると、大観覧車のネオンがきれいだったが、だいぶ日が長くなってきたので、真っ暗というほどではない。
ショッピングをしたり映画を観たり、帰路につく前にできることは色々あったが、どんなに華やかな観光地も、毎日来ているとただの風景だ。
アステは、契約社員であっても、ひとり暮らしをするのになんとか困らない程度のお給料をくれるけど、ブラック企業の薄給を経験した身の上なので、倹約が身についてしまった。その上に奨学金の返済もあるし、保険も税金も年々高くなるから決して余裕はない。おまけに横浜は、今のところ日本一物価の高い都市なのだ。
前職と比べれば、ずいぶん人間らしい生活ができているが、給料日がきても大喜びするほどではなかった。補給ができて、ほっと一息つくといったところか。
ちょっと昔だったら、結婚して寿退社! あとは旦那さまのお給料で……なんていう夢設計も軽々しく口にできたが、多様性だか女性進出だか知らないが、家に収まる女性はよろしくない——そんな風潮が出来上がっているのが気に食わない。
(別にどんな人生設計を描いたって、その人の自由でしょ。それこそが多様性社会というものでしょうが!)
もっとも、私は結婚どころか彼氏もいない。二十六年の人生の中で、恋人という存在がいたためしもなかった。
そもそも結婚願望はないし、恋人が欲しいとも思わない。どちらかというと男性は苦手だ。たぶん、結婚なんて一生関係ない行事だろう。
(く、暗い……! どこまでも暗い!)
高校生の頃は毎日がきらきらしていて、この先の人生、楽しいことしか起きないと本気で思っていた。なんであんなに世界が輝いて見えたのだろう。
でも、希望と絶望をいっぺんに見た高校時代。もう思い出したくもない。
地面を見ながら、見えない恐怖から逃げるよう一目散に駅に向かっていたら、いきなり視界に男性の革靴が入ってきて、あっと思った瞬間にはその人に頭からぶつかっていた。
「ご、ごめんなさい——!」
あわてて一歩下がって顔を上げたら、花山院梓のやわらかな笑顔がそこにあった。桜木町駅前のさまざまなネオンが背景に広がっているので、なんとも輝かしい。
「そんな早足で、下向いて歩いてたら危ないよ」
「すみません、ちょっと考え事をしていたので」
「外では眼鏡かけないんだね」
ずいっと顔を覗き込まれて、思わず一歩引いた。黒縁眼鏡は会社にいるとき専用なので、社外ではかけていないのだ。
「……さっき外したの忘れてました」
裸眼で梓を見るのに抵抗を感じて、あわてて鞄から眼鏡を取り出して装着した。
「では、お先に失礼します。お疲れさまでした」
頭を下げて楚(そ)々(そ)と彼の前を通り過ぎたのだが、「杏菜ちゃん!」と呼び止められた。
「あの、花山院さん。下の名前で呼ぶのはやめにしませんか? 今、色々とうるさい時代ですし」
「社内ではそうするけど、外でもだめなの? 今さら八神さんなんて言いづらいんだけど」
「外でもきっちりしておかないと、いざというときにボロが出ますから。慣れてください。それでは」
今度こそ帰ろうと歩き出したら、梓が後ろから追いかけてきて隣に並んで歩いた。
「今からごはん食べにいかない? 明日の飲み会はどうせ断ったんでしょ? お昼も全然話せないし」
梓は外回りからの帰社途中だというのに、もう飲み会を断ったことがバレている。
もっとも、この一週間の私の立ち回りを見ていたら、誰にだって想像がつくだろう。
徹底的に交流を避け、長い前髪と黒縁の眼鏡で顔を隠し、存在感を消す忍(しのび)の如くだ。サポート業務だから、自分のカラーを見せる必要はない。
長くこの会社にいたいからこそ、無味乾燥を貫き通している。人目につかない裏方でいたいから。
それに引き換え、梓の立ち回りの見事さといったら。
常ににこにこと、(髪型のゆえか)知的な顔にやさしげな笑みを浮かべ、誰が相手でも分け隔てなく接する。部内のスタッフの名前は初日に全員覚えて、誰とでも気軽に会話ができる。
決して押しつけがましくなく、さりげなく相手のいいところを持ち上げたり、知的な二枚目なくせに、ときどき抜けたボケをかまして笑わせたり、コミュ力の鬼なのだ。
しかも、意識してがんばってます感はまったくなくて、すべて自然にやってのけている。
天然の人たらしなのかもしれない。
思えば、小学校の頃から男女問わずに友達が多く、「みんなの梓くん」というポジションにいた。あの頃はまだ私も地味子ではなかったから、そんな梓相手でも気負うことはなく、一緒になってみんなの輪に入って遊んでいたくらいだ。
今? ご覧の通りです。
「すみません、色々と余裕がないので。またの機会に、ぜひ」
「そんなこと言ってたら、機会なんて永遠にこないよ。ほら、いこ」
私の手首をつかむなり、梓は駅を素通りして帆(はん)船(せん)日本丸を大きく迂(う)回(かい)すると、遊園地(コスモワールド)方面に進み出した。
正面には大観覧車があり、薄暗くなってきた空をバックに虹色のネオンを放っている。
「こ、困ります!」
大きな手でつかまれている様子を見た一瞬、胸を押さえて大きく息を吐いた。
男性に触れられるのは苦手——というより、ちょっとした恐怖心がある。でも、幼なじみパワーなのか、一瞬だけ心臓は強く打ったが、振り払いたくなるほどではなかった。
「幼なじみ同士だよ。十年ぶりくらいだし、積もる話がたくさんあるんだ」
「——花山院さん、これパワハラです!」
叫んだ途端、手が離れた。
「パ、パワハラ……? お隣の幼なじみにパワハラなんて言う……?」
「それは子供の頃の話です。花山院さんは上司なんですから、不用意な言動は慎まれたほうがいいですよ。コンプライアンス的に」
「ちぇ、プライベートでごはんくらい付き合ってくれたって」
「セクハラです」
「くっ……なんでもハラスメントハラスメントって、いやな時代になったもんだよ」
「それには同意ですが、時流というものですから」
「そうだよな、杏菜ちゃんはいつも時流の最先端を行ってたもんな。いきなりアイドルになったりとか」
「——!」
思わず彼の高級ネクタイをつかんで締め上げそうになった。
「その話は絶対にしないで! 人に話したりしたら——」
「話したりしたら?」
「花山院さんの子供の頃の恥ずかしい話、社内に言いふらして歩きます。あんなこととか、こんなこととか」
黒縁眼鏡の奥からギロリとにらみつけると、彼は苦笑して両手を上げた。
「それ、俺も条件同じだから一(いち)蓮(れん)托(たく)生(しょう)だよ。杏菜ちゃんのあんなこととか、こんなこととか。色々知ってるよ?」
「う……とにかく! 名前で呼ばないでください」
「名前は呼ばれたくないし、昔のことも話されたくない。なら、口封じするのはどうかな」
「口封じ?」
「交換条件。俺は誰にも何も言わないから、代わりに食事に付き合って。それで初めて対等でしょ?」
この続きは「幼なじみ御曹司が黒歴史を背負ってやってきた」でお楽しみください♪