書籍詳細
妻を愛してはいけません
定価 | 1,320円(税込) |
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発売日 | 2023/07/28 |
電子配信書店
内容紹介
立ち読み
序章
ニーナは母の声を知らない。
父の声も知らないし、侍女の声も知らない。
鳥の鳴き声も、風に音があることも、風で揺れた木々のざわめきも知らなかった。
雨粒が地面に触れて鳴る音も、手を叩(たた)けば音が鳴ることも知らない。
ニーナの世界はずっと、物心ついたときから静寂だった。
『お可哀想(かわいそう)なお嬢様……何も、このような、孤児院などに追いやらずとも……』
眉を顰(ひそ)めて愚痴を口にするラマに、ニーナは少しだけうんざりする。
ラマはニーナの侍女で、物心ついたときから傍(そば)にいてくれた。ニーナにとっては、亡くなった母の次に大好きで、かけがえのない存在だ。
けれど、孤児院で暮らすようになってから、いつも冴(さ)えない表情を浮かべ、文句ばかり口にしている。そんなラマを見ていると、ニーナの気も滅入(めい)った。
〈あなたまで追い出されてしまった。ごめんなさい〉
ニーナは手を動かし——手話でそう伝えた。生まれつき耳が聞こえないニーナが、他人に気持ちを伝える方法は手話と筆談だ。
『お嬢様は何も悪くありません。私は、よいのです。ただ……お嬢様がお可哀想で……』
ラマは眉尻を下げ、鼻を啜(すす)るように動かした。
ラマの口にする『可哀想』の理由をニーナは考える。
耳が聞こえないことか。父に疎まれ、公爵家の娘でありながら、孤児院に追いやられたことか。それとも、母を亡くしたことか。
ニーナは心の中で溜(た)め息を吐(つ)く。
今から三年前、ニーナは六歳のときに母を喪(うしな)った。
流行病を拗(こじ)らせた母は、亡くなる前の一か月、起き上がることすらできなかった。
——どこにいても、ずっとニーナの幸せを祈っている。だから絶対ニーナは幸せになれるわ。
衰えていく体力に己の死期を察していたのだろう。母はニーナの手を握り、口にした。
そして母が亡くなり一か月が経(た)った頃、父は再婚した。
父の妻は結婚から一年後、男児を出産する。ニーナにとっては異母弟で、父と公爵家にとっては大事な跡継ぎだった。
異母弟は両親と公爵家の者たちに愛され、すくすくと育った。しかし二歳になった頃から、異母姉からの執拗(しつよう)ないじめを受けるようになった……らしい。らしいというのは、ニーナには異母弟をいじめた記憶が全くないからだ。
覚えはないけれど父はニーナを許さず、異母弟に嫉妬する意地悪な姉を家から追い出した。
追い出すといっても、着の身着のまま放り出されはしなかった。
それが父の優しさか、体面なのか、それとももっと別の理由なのか。父の思惑はわからなかったが、公爵家が支援する修道院に併設されている孤児院へ、ニーナは侍女ラマとともに預けられた。
父の、公爵家の子どもだと知られてはならない。そのためニーナの銀色の髪は、黒く染められた。
唯一ニーナの出自を知る孤児院の院長には、部屋から出ないよう言い付けられている。
母親が亡くなり、実の父親に捨てられ、不自由な生活を強いられている。そんな自分が、ラマの目に憐(あわ)れに映るのは、仕方ないとは思うのだ。
けれど、ラマが思うほどにはニーナは落ち込んでいない。
手の甲で涙を拭い始めたラマの肩を、ニーナは軽く叩く。
〈私、ここのほうが好き〉
ニーナはラマに伝える。
けれども、ラマは『何と健(けな)気(げ)な……お可哀想なお嬢様』と、さらに嘆き始めた。
(……嘘(うそ)じゃないのだけれど……)
ニーナの正直な気持ちを、ラマは強がりと捉えたようだ。
母は亡くなる前、ニーナに『絶対幸せになれる』と言っていた。しかし母が亡くなってからの公爵家での暮らしは、ニーナにとってはあまりよいものではなかった。
新しい母親はニーナを目の敵(かたき)にしていた。彼女に倣(なら)ってか、使用人たちの態度も目に見えて悪くなり、食事や薪(まき)の量まで減ってしまう。自分だけでなく、ラマにまでひもじく凍える思いをさせてしまい申し訳なかった。
孤児院に住み始めてから、まだ少ししか経っていない。けれども食事は質素ではあるが充分な量があるし、薪も頼めば補充してくれた。
公爵家での暮らしと比べると、ずっと恵まれているように思う。
(それに……——)
ニーナは泣いているラマから、窓へと視線を向ける。
柔らかな日差しの中、駆け回って遊んでいる子どもたちの姿が見えた。
ニーナと同じくらいの年代の子どももいれば、ニーナより大きな子、小さな子もいた。
彼らの楽しげな姿は、ニーナの心を弾ませた。
(いつか、私も仲間に入れてもらえるかしら……)
部屋から出てはならないと言われているし、自分は彼らとは違う。彼らの輪の中に入るのは難しいだろう。けれど望みが叶(かな)わなくとも、そうなれたら、と想像するだけでも楽しかった。
じっと窓を眺めていると、ラマがニーナの腕を軽く引っ張る。
『どうかされましたか?』
ラマの口がそう動いた。
〈あなたがいるから、大丈夫〉
ニーナは手話でラマに自身の気持ちを伝える。
手話、そして唇の動きやかたちで言葉を理解する方法、読唇術を教えてくれたのはラマだ。
ラマは耳の聞こえない母親がいたため、その技術を学んだのだという。母親が亡くなったあとは、その技術を活(い)かし耳の聞こえない主人に仕えていた。
ラマの存在を知ったニーナの母は、耳の聞こえぬ娘が少しでも不自由なく暮らせるようにと、伝手(つて)を使って彼女を娘の侍女にした。
『可哀想なお嬢様』
ラマは唇をそう動かしたあと、ニーナを抱きしめてくる。
ラマの温かな身体に身を預けながら、ニーナは小さく息を吐いた。
孤児院の一室で暮らすようになって十日後。
その日、ラマは朝から近くに住む遠縁の者に会いに行っていて不在だった。
曇り空だったため、部屋の奥では薄暗くて本が読みづらい。ニーナは窓際に椅子を運び、本を読むことにした。
目が疲れたので、顔を上げる。
窓の外に視線を向けたニーナは、ビクリと震えて息を呑(の)んだ。
窓のすぐ近くに、人が立っていた。
十歳前後だろうか。ニーナと同じくらいの年頃の、綺(き)麗(れい)な顔立ちの少年だった。
艶やかな金髪に、新緑色の目。滑らかな頬は染みひとつなく白い。白いといってもニーナのように青白くはなく、健康的な白さだ。
少年と目が合う。少年はにっこりと笑みを浮かべ、窓を叩いた。
『開けて』
鍵の部分を少年が指差す。
戸惑いながら、ニーナは椅子から立ち上がり鍵を外した。するとすぐに、少年は勢いよく窓を開け放った。
外気が部屋に入り込む。初夏だけれど、風はひんやりと冷たい。
『何をしているの?』
少年が問いかけてくる。
ニーナは手にしていた本を掲げ、少年に見せた。
『本? お菓子があるから、外でみんなに配っているんだ。君もいる?』
少年に手話は通じない。
筆談するための紙を取りに行こうとすると、少年の手が伸びてきて、ニーナの手首を掴(つか)んだ。
『外は寒いから出てきたくないなら、ここにいていいよ。僕がお菓子を持ってきてあげる。お菓子は嫌い? 焼き菓子だよ。他にも、飴(あめ)やケーキもある。……ねえ、なんで何も言わないの? 怒ったの? 読書の邪魔をしちゃった? それとも病気? 病気だから部屋にいたの? 寒い? ならごめんね』
少年が次々と言葉を投げかけてくる。
(どうしよう)
喋(しゃべ)らない理由を教えたい。けれど、教えるには紙とペンが必要だ。掴んでいる手を放してくれないと、紙もペンも取りに行けない。
困ってオロオロしていると、少年の背後に修道女の姿が見えた。
『何をしているのです』
修道女がニーナたちに気づき、声をかけてくる。
少年が振り返る。
彼が何の話をしているのかは、唇が見えないのでわからない。
修道女の唇をじっと見る。少しの間のあと、『その娘は、言葉が喋れません。耳も聞こえません』と修道女の口が動いた。
少年は修道女に、ニーナが黙っている理由を訊(たず)ねたらしい。
少年が再びニーナのほうを向く。
『喋れないし、耳も聞こえないの!?』
新緑の目をまん丸にさせ、そう口にしたあと……。
『可哀想に……』
少年は眉尻を下げ、続けた。
可哀想。
ラマがよくニーナに対して口にする言葉だ。
公爵家の使用人たちからも、何度かその言葉を向けられた。
憐れで、不(ふ)憫(びん)。公爵家の令嬢でありながら、父に疎まれている境遇以上に、ニーナの耳が聞こえないことを、彼らは可哀想だと憐れんでいた。
確かに、ニーナは何不自由なく暮らしている彼らからしてみれば可哀想だ。
否定するつもりはない。けれど可哀想と言われるたびに、自分は他の人たちと違うのだと線引きされている気がした。
沈んだ気持ちになったニーナに、少年が憐れんだ表情を浮かべたまま続ける。
『僕の美声を聞けないなんて、人生の半分を損しているよ』
少年は嘆くような表情を浮かべた。
『あ、待ってて』
そして何かを思いついたかのように瞬(まばた)きすると、ニーナから手を外し、踵(きびす)を返す。
急ぎ足でどこかに行ったかと思うと、すぐに戻ってくる。
『これ、あげる!』
鮮やかな赤い色の紙に包まれたものを渡される。
『お・菓・子!』
ニーナが受け取ると、少年はそう大きく口を動かした。
ニーナが読唇ができるとは知らないはずだ。もしかしたら大きな声を出せば、少しでも聞こえると思ったのかもしれない。
(口の動きで言葉がわかるのだと伝えたほうがよいのかしら……)
ニーナが迷っていると、少年は手で小さな丸を作り、かぶりつくような動作をした。
『僕、あげる。君、食べる』
少年は懸命に動作で、ニーナに言葉を伝えようとしている。
『わかった?』
少年が首を大きく傾けてみせる。ニーナは頷(うなず)き、ぺこりと頭を下げた。
すると、ぬっと手が伸びてくる。再びニーナの手首を掴んだ少年は、その手を自らのほうへと引き寄せた。
戸惑っているニーナの手の甲に、少年は文字を書き始める。
ニーナは、少年の手の動きに集中する。
(ル……ス、ラ、ン……フィル、ソー……)
掴まれていた手が解(ほど)かれる。ニーナは少年の顔を窺(うかが)った。
『ルスラン・フィルソー。僕の名前だよ』
少年は自らを指差して、微(ほほ)笑(え)んだ。
(ルスラン、フィルソー。ルスラン……)
ニーナは心の中で、少年の名前を呼ぶ。
それがルスランとニーナの初めての出会いだった。
初めて会ってからきっちり十日後。
再び、ルスランがニーナを訪ねてきた。ドアからではなく、十日前と同じく窓からだった。
けれど今日は十日前とは違い、ラマも部屋にいた。
窓の向こうにルスランが立っているのに気づき、ラマは不審げな表情を浮かべ、窓に寄った。
窓を開けたラマは、ルスランと話しているようだ。しかしラマの口も見えないし、ラマの背でルスランの口も見えない。
(何を話しているのかしら)
ニーナはそわそわと、二人の様子を窺う。
少ししてラマが窓を閉め、赤い紙に包まれた箱を手に、ニーナのほうへと近づいてきた。
窓の向こうに目をやると、ルスランがニーナに向かって大きく手を振っていた。
ニーナもつられるように手を振る。すると、ルスランは両手を振った。
ニーナも両手を振ろうとしていると、ラマに肩を叩かれた。
『お嬢様。お菓子をいただきました』
この間と同じ焼き菓子だろうか。香ばしかった焼き菓子の記憶が口の中によみがえり、ニーナは微笑む。
『フィルソー伯爵家のご子息だとか。こちらの孤児院に慰問に訪れたようです。前にもお会いしたのですか?』
焼き菓子をもらったことはラマにも伝えていた。けれどそれがルスラン・フィルソーという名の少年だったとは、話していなかった。
前に焼き菓子をくれたのが彼なのだ——と、ニーナは手話でラマに伝えようとして、ふと手を止める。
窓のほうへ視線をやると、すでにルスランの姿はなかった。
(私も……お話したかった……)
喋れないけれど、筆談はできる。
ラマだけズルい。ラマがいなかったらお話できたのにと、ついラマを恨んでしまった。
だから……意地悪な考えをしたせいで、罰(ばち)が当たったのだろうか。
ニーナの元にルスランではなく、孤児院の院長が訪れた。
『子ども同士ですし、問題はないのかと思っていたのですが……』
院長はそう前置きしたあと、ニーナに他の子どもたちとの交流を禁じた。
父の指示であった。
伯爵家の子息が慰問に訪れていること、ニーナと会ったことを、父が知ったらしい。
ニーナは地下の一室へと部屋を移した。
物置部屋だったというが、そこそこ広く清潔だった。ただ窓はなく、どこを向いても壁しかない。
子どもたちの走り回る姿も、木々が揺らめく光景も見ることができない。
(残念だけれど……仕方がない)
しょんぼりと肩を落としたニーナに『可哀想なお嬢様』とラマの嘆きは深くなる。
ニーナは諦めるのは得意だ。ラマが嘆くほどには、落ち込んでいなかった。
そうして窓のない部屋での生活が始まり数日が過ぎ、院長が再びニーナに会いに来た。
ルスランが、今日この孤児院に訪れたらしい。
『あなたのことを訊(き)かれ、あなたは一時的に預かっていただけで、ご家族の元に帰ったと伝えました。すると……これをあなたに渡してほしいと』
院長は一冊の絵本と、赤い紙に包まれた小さな箱をニーナに差し出した。
『あなたへの贈り物として用意していたそうです』
箱の中身は、おそらく焼き菓子だ。
焼き菓子だけでなく、どうして絵本まで贈ってくれたのか。
可哀想なニーナに同情したのかもしれない。けれど、いつもは可哀想だと憐れまれると、複雑な気持ちになるのに、なぜかそんな気持ちにならなかった。
絵本の題名は『どうぶつたちのおくりもの』。
森に住む動物たちが、誰が一番素敵な贈り物ができるか競い合う、可愛(かわい)らしいお話だった。
(人生の半分を損するくらいの美声って、どんな音がするのかしら……)
ニーナは絵本を胸に抱き、『人生の半分を損するくらいの美声』を想像した。
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