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義兄からの執着婚〜元カレの溺愛包囲網〜

橘柚葉 / 著
芦原モカ / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2023/10/27

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内容紹介

もうあの頃の俺じゃないよ——。
「元カレが義兄になるなんて聞いていない!」過去の大失恋を忘れられない風音は二度と恋はしないと、仕事に生きる決意をする。そんなある日、母親の再婚相手とその息子との顔合わせへ向かうと、そこには別れた元カレ・航大がいた。航大への想いを胸にしまっていたはずの風音だったが、彼の視線に、あの熱い夜を思い出してしまう……。義兄妹になるからと強引に同棲生活がはじまって!?「君を忘れたことなんて一度もなかった」二年半越しの再会から動き出す、エリート御曹司×堅物女子の溺愛ラブ!

立ち読み

プロローグ


 ——私……、この人に全部を食べられちゃう……。
 森永風音(もりながかざね)は、与えられた熱によって蕩(とろ)かされた目で、自身を組み敷く航大(こうだい)を見つめる。
 風音に触れてくる彼は、今までにないほど高ぶっているように感じた。
 彼が腕時計をゆっくりとした動作で外し、サイドテーブルに置く。
 この腕時計は風音が社会人になった年に航大の誕生日プレゼントとして贈ったモノだ。
 決して高価なものではない。だけど、彼はとても喜んで肌身離さずつけてくれている。
 それを嬉しく感じていると、「ほら、こっち向いて」と彼に甘く囁(ささや)かれた。
「風音はずっと俺のこと見ていて」
 独占欲を見せつけられて、胸がトクンと一際高く鳴る。
 そんなふうに言われなくても、彼のことをずっとずっと見つめているつもりだ。
 ——私の身体も心も、全部航大さんのモノ。全部、あげる。
 覆い被さってきた彼の耳元で、熱に浮かされたように囁いた。
 熱い愛撫(あいぶ)に酔わされた訳ではなく、流された訳でもない。ただ、風音の本心を告げただけ。
 だけど、目の前の彼はその言葉を信じてはくれないようだ。
 一度離れて身体を腕で支えながら、こちらを見つめる彼の目は不安の色に揺れていた。
 こんなにも大好きで堪(たま)らないのに。彼から離れる未来なんて来るはずがないのに。
 でも、彼は恐れているのだ。
 心変わりをされはしないか。物理的な距離に負けてしまわないか。心配で仕方がないのだろう。
 だからこそ何度もこうして風音を組み敷き、甘い言葉を囁きながら高みまで昇らせているのか。
 身体に彼の熱を覚えさせるように、他の誰かの熱に手を伸ばさないように。
 先程から呼吸が乱れている。何度も達していて、もう手足に力が入らない。
 もちろん風音だって不安を抱いている。この夜が最後になってしまわないのか。実を言うと不安で堪らない。
 だけど、二人なら大丈夫。そう思えるぐらいには、お互いを想って付き合うことができていたと思っている。
 彼と出会ってからは、四年。付き合い出してからは、三年。同じ時を過ごしてきた。
 最初は社会人と学生という立場の違いに尻込みをしていたけれど、彼は一年かけて風音を口説いてくれた。
 不安や恐れ、彼と付き合うにあたり尻込みしていた、すべての憂慮(ゆうりょ)を取り除いてくれたのだ。
 そんな彼とならば、これから先も絶対に大丈夫。風音はそう信じていたい。
「風音……、かわいい」
「航大さ……っ」
「好きだ、愛している」
「あぁ……っ、ぁ……んん!」
 何度も揉まれてフワフワになった胸。その谷間に彼は顔を埋めてきた。
 揺れる乳房を舌で舐(な)め上げたあと、チュッとキツく吸い付いてくる。
 チクリとした甘い痛みと共に、赤い跡がついた。それを見て、彼は満足そうにその跡に舌を這わせていく。
「そんなにつけちゃ……やぁ」
 甘ったるい声が出てしまう。注意をしたつもりなのに、これではおねだりをしているように聞こえてしまうかもしれない。
 案の定、彼は自分の都合のいいように解釈をしたようで、またひとつ赤い跡を咲かせた。
 今夜だけで、何個彼に所有印をつけられてしまっただろうか。
 風音には確認できないような場所にも、たっぷり残されているはずだ。
 これ以上つけられたら堪らない。そう思って首を横に振ったのだが、今日の彼は許してくれなかった。
「ダメだよ、風音」
「どうして……?」
 こうして話している間にも、彼の手は淫(みだ)らな動きをし続けている。
 胸の尖(とが)りを指で弾き、その刺激に反応した風音を見てニヒルに笑う。
「いつもなら、風音の言うことを聞いて止めてあげていたけど。今夜は絶対にダメ」
 先程まで指で弄(いじ)っていた頂をパクッと口に含む。そして、舌で転がし始めた。
 両方の胸をかわいがるように、交互に愛撫を続ける。
 あぁっ! と首を仰(の)け反(ぞ)らせて快感に喘(あえ)ぐ風音を見て、彼は目を細めた。
「こうしてたっぷり俺の印をつけても、一週間もすればすべて消えてしまうでしょ?」
「それは……っ」
「いつもなら、この跡が消える前には風音に会うことができたけど。今回は、そうもいかないからね」
 チュパッと音を立てて頂から唇を離され、その強すぎる刺激に思わず喘ぎ声が大きくなる。
「フフッ。かわいいね、風音は。もっとそのかわいい声を聞かせて欲しいな」
 彼はそう言うと、顔を耳元まで近づけてきた。
「当分、風音を抱きしめることができないからね」
 淫らな声で囁かれ、吐息を吹きかけられる。ゾクリと背筋に甘やかな快感が走り、身体を震わせた。
 その様子を見た彼は、チュッと耳(じ)殻(かく)にキスをしてくる。その刺激で腰が震えてしまう。
「絶対に他の男にキスマークなんてつけさせちゃダメだよ、風音」
「そ、そんなこと……っ、しな……いっ」
 疑われるなんて心外だ。唇を歪めると、懐柔するように彼は風音の唇の輪郭に沿わせながら舌を動かしてきた。
「甘いね、風音の唇。唾液も……ほら、甘い」
 口内に彼の舌が捻(ね)じ込むように入り込んでくる。
 何度も深いキスをして、余すところなく彼の舌に翻弄(ほんろう)されたはずなのに、再びゾクゾクッとした快楽を覚えてしまう。
 キスに翻弄されているうちに彼の手はすかさず茂みの奥を探り当て、その長く綺麗な指で触れてきた。
 クチュッと蜜(みつ)の音がする。
 何度も彼の熱(ねつ)塊(かい)によって奥を突かれたあとなので、すでに蜜路は柔らかく、準備は整っていた。
 身体が快感で疼(うず)いてしまう。早くもっと強い刺激が欲しい。そう願うのに、彼はなかなかくれない。
 ようやくキスするのを止めたかと思ったら、わざわざ風音の羞恥(しゅうち)心(しん)を煽(あお)ってくる。
「トロットロだね」
「だ、だって……!」
 彼の指が蜜を掻(か)き出すたびに、下腹部が期待をして震えてしまう。
 隠しておきたいのに、彼にも伝わっているのだろう。それがわかるからこそ、恥ずかしくて居たたまれなくなる。
「期待している?」
「っ!」
「ここにまた俺のを突っ込んだら……。風音はどうなっちゃうのかな?」
 どうなってしまうのかなんて、わからない。こんなふうに一晩で何度も抱かれたのは初めてだからだ。
 首をフルフルと横に振ると、彼は指を蜜路から抜いた。
 膝立ちをしたまま、彼は蜜がたっぷりついているであろう指を真っ赤な舌をわざと出して舐める。
 直視できないほどの辱(はずかし)めを受けているのに、彼があまりにセクシーすぎて視線をそらすことができない。
 彼は熱に浮かされている風音の両脚を大きく広げると、自身の腰を密着させてスライドさせてきた。
 そのたびにクチュクチュと蜜の音が聞こえ、羞恥心を抑えるのに必死になる。
 しかし、身体は正直だ。真っ赤に腫れているであろう花芽が擦れるたびに腰を揺らしてしまう。
「かーわいい。腰が震えているよ?」
 わかっているから言わないで欲しい。いつもなら、そんな憎まれ口を言ってそっぽを向く風音だが、今夜は違う。
 もっと彼の熱を自分の身体に刻み込んで欲しい。そう願っていた。
 本当はもっともっと彼が自分のことを愛しているのだという証拠を残して欲しいのだ。
 ——だって、この人は。私を置いて海外に飛んでいってしまうから。
 どれほどの期間、日本を離れるのか。今の段階では何もわからない。
 もしかしたら、ひと月で帰国できるかもしれないし、何年も先になるかもしれない。
 何もわからないからこその不安が二人にはある。
 だから、今だけでも確実な証拠が欲しいと願ってしまう。
 手を伸ばし、彼を求めた。
「早く……欲しい」
 自分でもビックリするほどの甘えた声が出た。だけど、それを恥ずかしがる時間はもう二人には残されていない。
「早く……ちょうだい? 航大さん」
「風音っ!」
 ググッと彼の屹立(きつりつ)が身体を貫いてくる。急に訪れた身悶(みもだ)えしてしまうほどの快楽に顎(あご)を仰け反らせた。
 チカチカッと目の前に光の粒が弾け散るほどの快感が襲ってくる。その瞬間、身体の奥が収縮しているのが自分でもわかった。
 彼と繋がっていたい。ずっと離したくない。
 言葉には出さないけれど、身体は正直に彼が恋しいのだと訴えかけた。
 熱に浮かされているのは、何も風音だけではない。彼もだ。
 うっすらと頬が紅潮し、恍惚(こうこつ)とした表情を浮かべて腰を動かし続けた。
 パンパンと身体がぶつかる音がする。そのたびに、どんどん高みへと昇らされていくのがわかった。
 彼の名前を呼ぶと身体を密着させて、より腰の動きを速めてくる。
「も、もぅ……ダメ……ぁ、あ……っ!」
「……っぁ」
 中で彼の欲望が弾けた感覚がしたのと同時に、風音の身体は硬直して小刻みに震えた。
 ——もう、ダメかも……。
 体力はとうに底をついてしまったのかもしれない。
 滲(にじ)む視界、まどろみの中で彼が囁いた声だけが、いつまでも風音の耳に残った。
「待っていて、風音。俺は一生君だけを愛するから」
?





 ——彼に別れを告げてから、二年半。大失恋を経て、すっかり捻(ひね)くれてしまいましたとさ。
 おとぎ話や童話などなら、そんなラストで締めくくられたはず。
 そのあとは想像にお任せいたします、そんな終わりでも“あり”なのだと思う。
 だけど、実際はそのあとも主人公そして周りのモブキャラたちの人生は続いていく。
 命ある限り、それぞれドラマチックなストーリーを紡(つむ)いでいくのだろう。
 それはもちろん風音にも同じことが言えるはずだ。
 現在、二十八歳。気がつけば世間ではアラサーと言われる歳になっていた。
 ここまであっという間だったと口では言っているけれど、実際は二十五歳のときに経験した、芳(よし)永(なが)航大との別れを未だに引きずっていた。
 しかしそれを表に出してしまうと、なんだか負けな気がして「恋愛はしない。仕事に生きる」なんて公言している。
 こんなふうに意地を張ってしまう自分を見ると、二年半前と比べて性格をこじらせてしまった気がしてならない。
 もともと何事にも慎重だし、頑固なところも垣間見(かいまみ)えていたとは思う。だが、ここ数年で輪をかけたようにそれが酷(ひど)くなっている。
 でも、そんな内面など隠して生きている風音は、完璧になんでもこなす隙のない女性というものになりつつある。すっかり擬態(ぎたい)に慣れてしまったようだ。
 頬にかかっていた髪を耳にかける。
 ずっとロングだった黒髪を最近切ってミディアムボブにしたばかりだが、未だに慣れない。
 そんな自分に苦笑いを浮かべたあと、手早くデスクを片付ける。
「今日はお先に失礼いたします」
 秘書室部長である苗(なえ)原(はら)に声をかけると、彼は驚いたように目を見開いた。
「あれ? 今日は早いですね」
「はい。ちょっと用事があるもので。秋本(あきもと)社長には許可を得ていますから」
 ほほ笑んでそう告げると、苗原は「そこは心配していないから大丈夫」と穏やかに返してくる。
「社長が帰社するまでは、絶対に帰ろうとしない森永さんですから。ちょっとビックリしただけです」
 確かにその通りかもしれない。秋本に「会社に戻るのは遅くなるから、森永くんは先に帰っていいからね」と言われても、秋本に「おかえりなさいませ」と言うまで風音が絶対に帰らないのは苗原も知っていることだ。
 だからこそ、秋本が戻っていないのに定時上がりをしようとする風音を見て苗原は驚いたのだろう。
 そんな彼の心情が手に取るようにわかり、苦く笑った。
「ええ、この前お話ししたかと思うのですけれど。母が再婚するもので、これから相手のご家族と初めてお会いして食事会をするんです」
「そうなんですね。気をつけて行ってきてください」
「はい、ありがとうございます」
 小さく会釈(えしゃく)をしたあと、秘書室のメンバーに声をかけてオフィスを出た。
 大学卒業後、中堅お菓子メーカーである甘味(かんみ)庵(あん)に就職し、六年が経過。
 最初はロビーでの受付業務をしていたのだが、二年半前に秘書室に異動になり、社長秘書を務めることになった。
 ちょうど航大に別れを告げた頃と同時期で落ち込んでいたのだけど、仕事に集中することで失恋を乗り切ることができたと言っても過言ではない。
 今ではすっかり社長秘書も板につき、一生秘書として働きたいと思っているほどだ。
 ——私は結婚しない。そして、二度と恋もしない。
 そう決意しているのは、元カレとの別れが未だに風音の心を苦しめているからなのだろう。
 さっさと忘れてしまいたいのに、こうして時々思い出してしまう。恋の呪縛(じゅばく)に囚(とら)われている自分に嫌気が差してくる。
 エレベーターは一階へと到着した。カツカツとハイヒールの音を立てながらロビーを闊歩(かっぽ)してオフィスビルを出ようとすると、受付業務をしている後輩が嬉しそうに挨拶をしてくれる。
 お疲れ様でした、と優しく応えると、彼女は頬を赤く染めた。
 なぜだか風音は社内で「憧れの女性」などと言われているようで、彼女のようにこんな反応をされることもしばしば。
 そんな姿を見ると、期待に応えなくてはいけないのかもと思ってしまい、風音は社内では特に凜(りん)とした姿を心がけるようになった。
 ——そんな完璧な女性ではないんだけどね……。
 小さく息を吐き出し、内心で苦く笑った。
 ムワッとした熱風が自身に纏(まと)わり付いてきて、その不快さに眉を顰(ひそ)めた。
 空調が効いていたビル内とは違い、外は日が落ちていてもかなりの暑さだ。
 昼間、ジリジリとアスファルトを焦がしていた太陽の熱が今も残っているからだろう。
 九月上旬、熱帯夜が毎日続いている。今日も寝苦しい夜になるのかと思うとうんざりしてしまう。小さく息を吐きながら、駅へと向かった。
 いつもより比較的早めの退社だったためか、学生の姿を見かける。
 かつては自分だって彼らと同じようなときを過ごしてきたはずなのに、遠い昔のことのように感じてしまう。
 ふと、横を通り過ぎたカップルに視線を奪われた。リクルートスーツを着た就活生らしきカップルだ。
 振り返ると、彼らは目と目を合わせながら声を上げて笑っている。
 その幸せそうな姿を見て、記憶の片隅に追いやっていた感情が蘇ってしまった。
 ソッとブラウスの上から、自身の胸に手を置いて痛みを紛(まぎ)らわせる。
 彼が自社工場のある海外へと仕事で向かうことになるまでは、風音たちも彼らと同じように何の心配もなくただ愛し合っていたのに……。
 視線を落としたあと、再びハイヒールの音を立てながら駅までの道を急いだ。

 元カレである芳永航大と出会ったのは、風音が大学四年生のとき。
 当時、風音はオフィスビルの清掃員バイトをしていて、そのときに彼と出会ったのだ。
 夕方から夜九時までが勤務時間で、日によって清掃先は変わっていた。
 だが、航大の勤め先が入っているオフィスビルに出向くことが多く、そこで毎回顔を合わせて……、なんてことはない。
 そもそも基本は人がいない時間を見計らって清掃をしていくので、あまり人と顔を合わせる機会はなかった。
 その日向かったオフィスで会議室の清掃をお願い、とチーフに言われて向かうと、中から人の声が聞こえてくる。
 まだ使用中だったのかと、手をかけたドアノブを離そうとしたときだった。
 中の会話が聞こえてきてしまったのだ。
「私、君のことが気に入っているの。ねぇ、一度私と寝てみない?」
 女性が男性を誘惑しているのか。大人っぽい誘いの文句を聞き、思わず顔が熱くなってしまった。
 オフィスラブを繰り広げている真っ最中なのだろう。これは絶対に聞いてはいけない類(たぐ)いのものだ。早くこの場から離れなくてはいけない。
 そう思ってモップを持って立ち去ろうとしたときだ。男性の声が聞こえてきた。
「いえ、申し訳ありませんが、俺では主任のご希望には沿えないかと思います。ですので、こういったことは、ちょっと……」
 会話の内容からして、女性上司と男性部下という間柄の二人なのだろう。
 角が立たないようにと、部下が気を遣っているのがわかる発言だ。
 だが、女性上司からの誘いを拒否しているのはわかる。
「そんなこと言ってもいいの? こうして密室に二人きり。私が声を上げれば、君を陥(おとしい)れることだって可能なのよ?」
 艶っぽい声で女性上司は脅しをかけ始めた。さすがにこれは聞き捨てならない。
 男性部下はなんとか穏便に事を終わらせようとしているのに、女性上司がハラスメントを仕掛けてきて断るに断れないという様子がヒシヒシと伝わってくる。
 ——どうしよう!
 こんなところで立ち聞きしている立場なので、男性を助けに行く訳にもいかない。
 だけど、見て見ぬふりをしたら、絶対にあとで悔やむのは目に見えている。それに、このまま放置するのは後味が悪すぎるだろう。
 でも、どうするのが正解なのか。わからずにオロオロしていると、足下にあったバケツを蹴飛ばしてしまい、カラカラと転がる音が静かな通路に鳴り響く。
 幸い、中に水は入っていなかったが、もっとマズイ事態になってしまった。
「誰!?」
 ドアが開け放たれ、綺麗な女性が現れる。彼女は風音をジロリと睨(にら)んできた。その顔は、般若(はんにゃ)の面のように恐ろしい。
 女性を見て一瞬怯(ひる)んでしまったが、腹に力を入れて無理矢理口角を上げてにこやかに応対した。
「こちらの会議室、利用されていないということだったので清掃に参りましたが、お取り込み中でしたか?」
「っ!」
 基本、このオフィスビルでは会議室を利用する場合はオンラインで申請することになっている。
 清掃スタッフはオンライン情報を見て、掃除に入るか否かを決めることになっていた。
 暗に「申請出していないですよね?」と非難していることを匂わせる。
 申請を出していないのだから、清掃スタッフが入ることができる。だから、ここに来ても自分は何も悪くはないと遠回しに主張した。
 すると、その女性は「もう終わったから」とだけ言うと、ばつが悪そうに逃げていった。
 その後ろ姿を見て、足から力が抜けてその場にしゃがみ込む。
「うー、緊張したー!」
 逆上されたらどうしようとヒヤヒヤしたが、なんとか窮地(きゅうち)は脱したようだ。
 胸を撫で下ろしていると、頭上から声が聞こえた。
「大丈夫?」
 風音の目の前に手が差し出される。顔を上げると、そこには直視するのもドキドキしてしまいそうなほどの美しい男性がいた。
 二十代後半といった様子の彼からは大人の魅力が感じられる。
 ——これは、先程の女性が熱を上げるのも仕方がないかも。
 セクハラは絶対ダメだが、この人は女性を虜にしてしまうほどの魅力を持った人だ。
 先程の女性のように、彼に熱を上げている人はまだまだたくさんいるはず。そんな確信めいたものを感じる。
 彼は呆然(ぼうぜん)としている風音の手を掴んで立ち上がらせてくれた。
「大丈夫? 痛いところはない?」
「あ、大丈夫です。それより、貴方(あなた)は大丈夫でしたか?」
「え?」
「だって……、あれセクハラですよね?」
 ヒソヒソと小声で呟くと、彼は目を丸くしたあとに突然笑い出した。それもお腹を抱えて、その上、目尻に涙まで浮かべて。
 最初こそ笑い続ける彼を見て呆気(あっけ)に取られていたが、だんだんと腹が立ってきた。
 こちらは怖い思いをしながらも、この男性を助けたのだ。笑うことはないじゃないか。
 そんなふうにむくれたが、彼からしたら余計なお世話だったのだろう。それでも、笑うなんて酷い。
 悔しくなってツンとそっぽを向くと、すぐさま清掃の準備をし始める。
「今から掃除しますから、退室願いますっ!」
 本当に失礼しちゃう、と視線を落としてプリプリ怒っていると、いきなり目の前に男性の顔がニョキッと現れてビックリする。
 彼が、覗き込んできたからだ。
 目を何度も瞬(まばた)かせていると、彼の目は柔らかく弧を描く。
「ありがとう、優しいね」
「っ!」
 慌てて後ろに飛び退けると、その男性はゆっくりと風音に近づいてきた。そして、胸元につけているネームホルダーを読み上げてくる。
「森永……風音ちゃんか」
「ちょ、ちょっと!」
 まさか名前をチェックして、清掃会社にクレームを入れるつもりなのだろうか。
 なかなかいいバイトが見つかったと喜んでいたのに、こんなことで解雇されてしまったら悲しすぎる。
 慌ててネームホルダーを隠すと、今度は男性が首からかけているネームホルダーを見せてきた。
「俺は芳永航大。二十六歳、独身。恋人はいない。K大学卒業後、この会社に入社。今は人事部の主任をしていて。実はセクハラの調査中だった」
「あ……」
 もしかして、先程の女性からのセクハラをわざと受けていたというのだろうか。
 意図に気がついた風音を見て、航大はニヤリと口角を上げる。
「協力ありがとう。これで確実に証拠が掴めた。風音ちゃんっていう目撃者ができたからね」
 お礼にコーヒーでも、と誘われたが、首を横に振る。
「私、バイト中ですので。お気持ちだけいただきます。それに、お仕事の邪魔をしてしまってすみませんでした」
 彼はありがとうと言ってくれたが、かえって邪魔をしてしまった可能性もある。
 真摯(しんし)に謝ると、航大は柔らかい笑みを浮かべてきた。それがまた見惚(みほ)れてしまうほど美しくてドキッと胸が高鳴ってしまう。
「じゃあ、また日を改めて」
「え?」
 目を丸くさせた風音に、彼はますます綺麗な表情を向けてきた。
「俺ね、受けた恩は絶対に返したい主義なの。だから、またね」
 そのときは意味がわからず呆(ほう)けたまま彼の背中を見送ったのだが、すぐにその言葉の意味を知ることになった。



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