書籍詳細
その唇に誓いの言葉を
ISBNコード | 978-4-86669-118-3 |
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サイズ | 文庫本 |
定価 | 754円(税込) |
発売日 | 2018/06/18 |
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内容紹介
人物紹介
片岡瑞紀(かたおか みずき)
二十四歳。片岡物産の社長令息。
夜の街を楽しんでいるところ、柳澤に搦め捕られる。
柳澤泰宏(やなぎさわ やすひろ)
三十二歳。柳澤グループ次期総帥。
夜の街で瑞紀と出逢い、関係を持つ。
立ち読み
夜の暗がりの中を、軽く羽織ったコートの裾がふわりと翻る。中に着ているのは白いセーターとジーンズ。なんの変哲もないジーンズが、片岡瑞紀が纏っているだけで一本何十万円もするビンテージものに見えてしまう。華麗に整った顔と、気品ある物腰が、普段着をハイセンスに思わせてしまうのだ。
はらりと垂れてきた前髪を鬱陶しそうに掻き上げながら瑞紀は、吸い寄せられるようにこちらに視線を向ける雑多な群衆を品定めしていた。今夜の相手がどこかにいないかと。しばらく仕事に忙殺されていて、家を抜け出すのが久しぶりだったせいで、挑発的に放たれる視線はどこか危うげで、物欲しげな色を帯びている。まるで誰彼かまわず誘惑しているような眼差しだ。
ふらりと足を惑わせた人間も何人かいたが、次の瞬間、鋭い拒絶の瞳に弾かれてそのまま立ち止まる。
「その程度で俺の相手をしようなど、冗談じゃない」
ふんと吐き捨てるように呟いた瑞紀の言葉が聞こえたはずもないのだが。
行きつけの店は、繁華街から少し外れた位置にあった。少し前から小雨がぱらつきだしたので、よそ見をするのをやめ、本降りになる前に辿り着こうと足を急がせる。
店へ通じる細い路地を半ば塞ぐようにして、一台の高級車が停まっていた。パンクらしい。運転手らしい男が、雨を気にしながらタイヤを取り替えていた。
邪魔だな、と思いながらその脇をすり抜けたとき、スモークを貼った窓の中の人影に気がついた。顔の向きから、こちらを見ているようにも思える。
まさか、ね。
気のせいだとその車をよけながら、父親を連想してふと不快な思いが込み上げてきた。たぶん自分の父も、こうした事態に遭遇すれば、修理を手伝うなどという発想は微塵もなく、同じように座ったままで待っているだろうから。
楽しみを求めてやってきていながら厭な方向へ思考が流れそうになり、瑞紀は急いで父親の記憶を振り払った。
ドアを開けて「いらっしゃいませ」という穏やかな声を聞いたのと同時に、雨が本降りになる。
「ぎりぎりセーフ」
呟いて、カウンターの向こうから声をかけてきた初老のマスターに親指を立てて見せた。
「降りだしましたか」
乾いたタオルを手にしたマスターに、「濡れてないから」と断わりつつ、瑞紀はちらりと店内に視線を流す。特別その手の店、というわけでもないのだが、穏やかなマスターの人柄に惹かれて同好の士が集まるようになっていた。
週の半ばということもあって、そんなにひとは多くない。カウンターと、テーブル席が五つの狭い店内は半分程度の入りだ。
好みの男はいないな、と軽く品定めしてから、カウンターに向かう。夜は長いのだ。焦る必要もない。中のひとりが、瑞紀を見るなりメールを打ちだしている。きっと情報を流しているのだろう。瑞紀はこの店では結構な有名人なのだ。
「久しぶりですね」
カウンターに腰を落ち着けた瑞紀に、マスターがお絞りを差し出す。
「仕事が忙しくてね。ストレス溜まりまくり」
オーダーする前から、マスターの手が動いている。ラムにライム、グレナデン・シロップを少々。それに氷を入れて鮮やかにシェイクする。
「バカーディです」
赤みを帯びた飲み物をすっと滑らせてきた。
「ありがとう。好みを覚えていてくれて嬉しいよ」
にこりと笑うと、照明を控えめにした店内がぱっと華やぐ。瑞紀を気にしていた連中の間から、ほうっと一斉に吐息が漏れた。白い細面に、絶妙に配置されたパーツ。ぱっちりした二重の瞳は、眦が切れ上がって勝ち気な印象を与える。形よく盛り上がった鼻と、薄いけれども朱を差したような唇。それがわずかに持ち上がって微笑みを作ると、鮮やかで、艶やかな美貌が際立った。
赤い唇に、カクテルグラスが触れる。こくりと喉仏が動く。何げない仕草にまで、誘いかけるような艶があった。
マスターが店内を見回して苦笑している。
「なに?」
見咎めた瑞紀が艶を滲ませた上目遣いで尋ねると、苦笑はますます深くなった。
「あなたはわたしのような年寄りまで誘惑するおつもりですか?」
軽くマスターが窘める。
「え? 俺、そんな?」
「フェロモン、垂れ流しですよ」
「かなー。仕事でめちゃくちゃ忙しかったからさ、欲求不満でそろそろ限界……」
「そうですか、たいへんでしたね。でも、少し抑え気味になさったほうが」
とマスターが忠告をオブラートに包んで差し出してくる。
「気をつけるよ」
笑って頷いた瑞紀に微笑みかけてから、別の客の注文を受けてマスターがその位置を離れた。
しかし、マスターの忠告は少し遅かったようだ。瑞紀の無意識の挑発につられたのか、ひとりの男がふらふらと席を立って近寄ってくる。グラスをカタリと音をたててカウンターに置いてから、許しも得ずに隣の椅子に腰を下ろした。
「今夜、どう?」
へらへらと笑いながら肩に手を回そうとするのを、瑞紀は邪険に振り払う。それだけで拒絶しているとわかりそうなものなのに、したたかに酔っている男はめげたようすもなく口説き続け、あまつさえ腰に触れてきた。
瑞紀は嫌悪でぞわりと身体を震わせ、男の手首を掴み上げて引き離す。その勢いのまま突き放すと、バランス悪く腰掛けていた男は、ものの見事に床に尻餅をついた。
派手な物音に、店内の目が一斉に向けられたとき、ドアがチリンと音をたてて開いた。
「いらっしゃいませ」
咄嗟に顔を上げたマスターの挨拶につられて、瑞紀もさっと振り返る。入ってきた男は、ドアを開けるなり響いてきた物音に、微かに眉を上げながらこちらを注視した。一目で状況を把握したらしい。やるじゃないか、と言いたそうに唇の両端が上がり薄い笑みを形作った。
へえー、と瑞紀も応じるように唇を吊り上げる。いい男だ。
会員制のクラブでゆったりとくつろぐのが似合いそうな雰囲気の男は、庶民的なこの店では浮いて見える。コートは着ていない。身体のラインにしっくり添って皺ひとつないスーツは、男の体格のよさを際立たせていた。
背も高い。百八十センチは優に超えているだろう。瑞紀も決して低いほうではないのだが、とても敵わない。隣に立てば頭半分上から見下ろされそうだ。
広い肩と締まった腰、嫌みなほど長い脚に瑞紀はあからさまに観察の目を走らせた。
「お客さま、これをどうぞ」
男が雨宿りで入ってきたと見て取ったマスターが、タオルを差し出した。男は鷹揚にそれを受け取って、雨に濡れた部分を軽く拭っている。瑞紀が店に入ってからわずかの間に、雨の降りはひどくなったらしい。綺麗に整えられた男の髪が、しっとりと濡れていた。
どこから来たのだろう?
コートを着ていないから遠くからではないはずだ、と思った途端、店に入る路地を半ば塞いでいた高級車のことを思い出した。スモークガラスの中の人影がこちらを見ていると感じたことも。
瑞紀は半ば顔を伏せながらくすりと笑った。
おもしろくなってきたな。
男がどう動くか。瑞紀は手にしたカクテルをゆっくり口に含みながら、わざとピンク色の舌を閃かせた。椅子からずり落ちて尻餅をついた男のことなど、もう記憶の端にも残っていない。その男が、こそこそと逃げ出していくのにも気がつかなかった。
長い睫毛を瞬かせて、男の反応をさりげなく窺う。
その探るように向けた視線を搦め捕られた。こちらの視線を真っ直ぐに捉えたのは、燻る炎を奥に宿した強い眼差しだった。
「……っ」
自分でも意志は強いほうだと思う。意識して服従を装うことはあっても、強烈な自負心はいつも胸の中で赤々と燃えていた。なのに今、男の眸に捉えられたまま、瑞紀は顔を背けることも、視線を逸らすこともできなかった。周囲を圧する長身は、瑞紀を見据えながら一直線に近づいてくる。
三十代前半あたりだろう。男らしい鋭角的な顔に、太い眉。底知れぬ闇のような漆黒の瞳に、ちらりちらりと埋み火が燃えている。品よくすっと伸びた鼻筋の下にある肉厚の唇。上品に整いながらも肉感的な唇が、全体に漂っているノーブルな雰囲気を裏切っていた。男が根底に持つ、滾るような情熱を思わせるそれに幻惑される。
マスターもほかの客も、その迫力に押され、言葉を失ってただ男の動きを見つめていた。
その間に瑞紀のすぐ脇までやってきた男は、無言のまますっと手を伸ばしてきた。瑞紀の唇をそっと撫でる。
「傷になる。唇を噛むのはやめなさい」
無意識のうちに力が入って、噛んでいたらしい。男はそのまま指をずらして顎を捕らえ、ぐいと持ち上げしげしげと眺めた。
「いい顔だ」
近々と面を寄せられて、男の眸に自分が映っているのまではっきり見えてしまう。圧倒されて狼狽えた表情の自分。
そのときまで気圧されたようにされるままだった瑞紀が、はっと我に返った。掌を閃かせて男の手を叩き落とす。
「なにが、いい顔だ、だ。他人に品定めをしてもらう趣味はない」
「だが、まさにわたし好みの顔がそこにあれば、興味を持っても仕方がないだろう?」
「は?」
思わずぽかんと見上げてしまった。その顔にまた男の手が伸びる。が今度は触れられる前に顔を逸らしてよけた。男がくすりと笑う。余裕の表情で瑞紀の隣に座り、マスターに「フィン・トニック」と声をかける。
マスターは心配そうに瑞紀を見ながらも、注文されたフィン・トニックを手慣れたようすで作っていた。
男は目の前に出された大きめのグラスを持ち上げ、軽く瑞紀に掲げるようなそぶりをしてから口をつけた。
気障野郎め。なんかムカつく。
とそっぽを向いた瑞紀に、マスターが目配せしてくる。厭なら今のうちにと。確かに、いくらいい男でも傍若無人な相手は好きじゃない。腰を浮かせかけると、さっと男の手が伸びて手首を掴まれた。
「な……、放せ」
「いやだ」
「なんだと……」
「先に挑発したのは、そっちだ」
ぐっと答えに詰まった。確かに、その自覚はある、だが。
「車の中にいたわたしに思わせぶりに笑いかけただろう」
「……、違うっ」
やはり車の男だったか、と内心納得しながらも、あのときは見ただけで挑発などしていないと視線を尖らせる。挑発したのは男が店に入ってからで。
雄弁な眸で睨みつける瑞紀に、男が苦笑する。
「いつ挑発したのかなんて、今さらどうでもいいだろう。……どうする?」
「返事が欲しければ、手を放せ」
歯軋りしながら唸ると、男はひょいと眉を上げて掴んでいた手首を解放した。瑞紀は掴まれていた部分をわざとのようにさすりながら、めまぐるしく思考を働かせる。
好みかどうか、と聞かれたら、好みだと答えざるを得ない。自分は面食いのほうだが、男の容姿はおつりが来そうなほど極上だ。
ただこの高飛車な態度が気に入らない。瑞紀の父も強いて言えば兄も、似たタイプだ。ひとは誰も自分の言葉に従うのが当然という態度。仕事上のストレスも、彼らに関することが多い。その憂さ晴らしに来ていながら、世の中で一番毛嫌いしている彼らに、少しでも似ている男など相手にしたくない。
「いやだと言ったら?」
試すように男を見上げた。
「言わせない」
ストレートに返されて、ますます腹がたつ。どうして自分が言いなりにならなければならないのだ。
だが確かに、出ていこうとしたら力ずくで引き止められそうだ。このがっしりした身体には、それに見合った腕力もありそうで、自分は楽々と力で屈服させられるに違いない。
瑞紀は先ほど掴まれた手首を、もう一度無意識のうちにさすっていた。
負けん気が込み上げてくる。
くそっ。上等だぜ。そっちがその気なら、受けて立とうじゃないか。
だてに何年も遊んでいない。セックスの手管なら、誰にも負けないと自負している。力で敵わなくても、この身体を使って参ったと言わせてやる。男から精力を搾り取って、見かけ倒し、と嘲って、ついでにその過程をたっぷりと楽しんでやろうじゃないか。
「そういうことなら、ここにいるのは時間の無駄だ」
微笑みながら男を挑発する。きらりと光る眸で男を意味ありげに見た。
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