書籍詳細
アフターパンドラ 義兄に捧げる秘めやかな初恋
定価 | 1,320円(税込) |
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発売日 | 2019/01/25 |
電子配信書店
内容紹介
立ち読み
プロローグ
私の名前は、朝子(あさこ)という。
名付けは母だ。出生時刻が朝だったから、朝子。
ゆえんは、ただそれだけだったと母本人から何度か聞いている。
二階建ての持ち家で私と二人暮らしをしている兄の名前を、十夜(とおや)という。
名付けは父だ。冬の月の、十日の深夜に産まれたからなのだと私に教えたのは、やはり母だった。
十夜は、父の愛人の子である。
つまり私と兄は、父を通じて半分血が繋がっている異母兄妹ということになるのだけれど、実は一滴たりとも血縁がない事実を知ったのは、母の死後だった。
遡(さかのぼ)ること、十年前。
私、十九歳、大学一年生。
十夜二十三歳、会社員一年目の、とある真冬の朝に母は亡くなった。
死因、くも膜下出血。
母の職場から連絡を受け、搬送先の病院へとタクシーで急いだが、死に目には間に合わなかった。
父の顔を、私は知らない。写真の中でしか知らない。それらの写真に、私の姿はない。
母が私を身ごもっている間に、余命一ヶ月を宣告される病に冒(おか)されてしまったからだ。
その父に生前から認知していた子がいると母が知ったのは、遺産相続手続きの過程上でのことだったそうだが、母が私にそれを教えたのは、いざ十夜と暮らす直前になってからである。
「朝子。あんたにお兄ちゃんがいる。……って言ったら、ビビりまくる?」
十五年前のことだった。
リビングの隅っこに備えられた、ゴミ箱にも見える安っぽい艶を放つ超小型の仏壇を前に、母は四つ折りに畳まれた紙片を差し出した。
「ビビるも何も。チビるんだけど」
ほとんど呆れた声音でぼやきつつ、受け取った紙片を開く。
それは十夜の戸籍(こせき)謄本(とうほん)だった。父の欄には、私と同じ父親の氏名が記載されていた。
「え? 何これ、意味わかんないんだけど。私の父親って、私が産まれる前に死んだって言ってたよね?」
「うん、病気でね」
「かなり珍しい病気だったって聞いてたけど。何をどうしたら、私に兄がいたって話になっちゃうの」
腹違いの兄の存在を母が私に秘密にしていたと知って、何となくショックだった。けれどそれ以前に、父は母に内緒で十夜を認知していたそうだから、母を恨むのは筋違いな気もする。
悪いのは父だ。父とは一度も会ったことがないが、もし目の前にいたら確実に殴っているくらい腹が立つ。
「でね、本題はここからなの」
母は神妙な面持ちで私の手から戸籍謄本を抜き取ると、はあ、と溜息を吐きながら、眉間の皺(しわ)を揉みほぐす。
「すっごい嫌な予感がするんだけど」私もつられて吐息を漏らす。
母は即答した。「冴(さ)えてるね、朝子ちゃん!」
……アホな母だった。
何が面白いのか私にはさっぱりわからなかったけれど、母は嬉々として、
「お父さんの愛人の子の名前はね、十夜くんっていうの。で、愛人だった人が死んじゃって、十夜くんは住む場所に困ってるんだって。そこで朝子ちゃんに相談なんだけど、ここに呼んじゃっていいかな〜?」
と、にっこり笑いながら、両手の指で丸を作ってみせた。丸しか求めてないんだけど、というサインだ。
今思い返せば、アホすぎる母なりに悩んだりしたことだって当然あったのだろうが、まだ十三歳で中学二年生になりたてだった私の目からは、「やっぱアホだわ」としか見えない仕草だった。
「愛人って何それ、不潔すぎるんだけど。っていうか、その子どもを引き取るって正気なの?」
私の罵詈雑言に、しかし母はめげない。
にっこりしたまま言いのけた。
「モチのロンだよ〜!」と。
返すがえすも心底アホな母だった。名を、真白(ましろ)という。
いっそ純白でいいのでは、と思うほど、母は死ぬまで闇を抱えない人だった。
だから私が十夜と全く血縁がない事実を知った時は、心臓が凍りつくほど驚いたものだった。
母が亡くなった直後のことである。
遺品整理をしていた私は見つけてしまったのだ。戸籍上父子と明記されていたはずの十夜と私の父との間に、生物学上の血縁関係がなかった科学的根拠を示す、DNA鑑定書を。
鑑定日は、母が十夜を引き取ろうとしていた十五年前。依頼者には、「真白」の名が刻まれていた。
何だこれ、と私は怒りながら、「そういうわけで出て行って」とDNA鑑定書を十夜に突きつけるべきだったのかもしれない。
けれど私はそうしなかった。
私は鑑定書をびりびりに引き裂いた上で、ご丁寧に二重三重にシュレッダーをし、前夜作った鍋で出たクズ野菜に紛れ込ませ、燃えるゴミに出してしまったのだ。
——証拠隠滅完了。
私はほくそ笑んでいた。
——私は誰にも言い訳をせず、十夜に恋することを許されたのだ。
まさか十夜が、
「悪ぃ。俺知ってたわ、それ」
なんて言い出そうと想像だにせず。
?
第一章
私の家の冷蔵庫には、パールちゃんという名前がある。
名付けは母だ。色がパールホワイトだったから、パールちゃん。ゆえんもへったくれもない、ただそれだけの理由。まるで私の名前みたいだ。
我が家の冷蔵庫をパールちゃんに買い換えた日のことを、私は昨日のことのように鮮明に覚えている。戸籍上、半分だけ血が繋がっているという十夜と暮らし始めた一日目だったから。
*
——いきなり高三の男子と同居とか、ありえないんですけど。
実は私に腹違いの兄がいた、という衝撃発言をしてすぐ、母は十夜を迎えに行ってしまった。私は一人残されたリビングで、仏壇と呼ぶには極小サイズな観音開きの漆黒を睨(にら)みつけるような目をして眺めていた。
うららかな春の朝のことだ。暖かな日差しが都内全域に降り注ぐ、汗ばむくらいの陽気に満たされた一日だった。
仏壇に立てられたフォトフレームの中の父は、新しい家族を手放しで歓迎するかのように、晴れやかな微笑(ほほえ)みを浮かべていた。
父は難病で亡くなっている。国内だけでなく世界的にも珍しい病気だったそうで、「病名が判明した時にはもう、手の施しようがなかったのよぅ」と母から聞かされていた。
残された写真や母の話から想像するに、父は小柄な男だったようだ。
省庁勤務の幹部候補だったという父の写真は、どれも揃ってキッチリ七三分け。顔つきは平坦かつぼんやりとした印象で、優男というより気弱な雰囲気が漂っている。
そんな虫も殺さないような顔をした父に隠し子がいたと知って、会ったことすらなかったけれど、手酷く裏切られた気がしていた。その反動で、仏壇ごと蹴飛ばしてやりたい腹立たしささえ覚えたほどだった。
母が十夜の存在を知ったのは、父が病死し、私を出産する間際になってからだという。
母いわく、
「そりゃ、びっくりしたわよー。びっくり仰天ってこのことかーって、太陽が眩しくて目が潰れるかと思ったくらいだったわぁ」
だそうだが、飄々(ひょうひょう)としているように見えたので、愛人の存在くらいは気付いていたのだろう。しかし問題は、その子どもを引き取ったことにある。
「お父さんが認知してた子なら私の子も同然じゃない。その子が住む場所に困ってるって言うなら、引き取るべきよ」
とんでもないゴリ押しに開いた口が塞がらない。
どうしてそんな博愛主義者みたいなことが言えるのか、不思議でならなかった。
最近亡くなったという愛人に弱みでも握られていたのだろうか。
もしくは父の遺言でもあったのだろうか。
あるいは、愛人にし損ねた復讐を、その息子に肩代わりさせようと企(たくら)んでいたのか。
正解は、どれでもない。ただ単純に母がお人よしだったというだけの話だ。そして、父亡きあとも、母は彼を心底愛していたのである。
娘の私が言うのもなんだけど、真白という人は心底アホな人だった。本当に真実、アホを貫き通した人だったのだ。
だけど人に騙されにくい人であったことが、娘としては何より幸いなことだった。
人を騙そうとする人間は、非常に疑り深い特性がある。母は善人過ぎたから、彼らの警戒心をむしろ煽(あお)ってしまっていたのかもしれない。でなければ、父が遺(のこ)してくれた自宅はとっくに騙し取られていたはずだ。
「ただいまぁ、朝子ちゃーん」
のんびりとした春の日差しみたいに妙に間延びした母の声が玄関から響き、私は重たい足を引きずるように、のそのそとリビングを出て十夜を出迎えた。
「はい、朝子ちゃんと十夜くん兄妹の感動のごたいめーん!」
一人で感動しておけば、と冷たくあしらおうとした私は、母の後ろで俯(うつむ)く男の姿を見るや、ぎょっと目を見開いた。
十夜は、左腕と右足にギプスを巻いていた。本当は無愛想なりにかなりいい男だったのだけど、その端正な顔はタコ殴りされたみたいに酷く腫(は)れ上がっている。
髪はしばらくカットしていないのか、毛先が肩につくまで無造作に伸びている。都内の公立高校の制服を着ていたが、よく見ると、きっちり喉元で締めたネクタイは泥と血痕でところどころ汚れていた。
「朝子ちゃん、イケメンなお兄ちゃんができて良かったねっ!」
出たよ、母のアホ病が。私は全力で首を何度も横に振りまくる。
全くもって良くない。若いヤクザかホラー映画のモンスター役みたいな外見の新しいお兄ちゃんなんて、絶対おかしい。
ドン引き状態の私の無言の意味を悟ったのか、
「……しばらくお世話になります」
ぼそ、と十夜は小さな声で零し、言葉を詰まらせたまま直立不動でいた私に向かって深く頭を下げた。
初対面の印象が最悪でどん底だと、それより下がりようがない。どんなに些細なことでも好感度は上がってしまう。
ご多分に漏れず私も、
——……挨拶はちゃんとできる人なんだ。
と、膨らみっぱなしだった頬を萎(しぼ)ませつつあった。
……そんな私は十五年後の十夜いわく、
「あんた、真白さんに似てるよ」
だそうだけど——
「っていうか、その血まみれホラーな恰好、何とかならないの。ここで暮らすつもりなら着替えくらい持ってきてるんだよね?」
所在なさげに玄関の三和土(たたき)で立ち尽くす十夜から私は目を逸らした。初対面の人に対し高飛車な物言いなんてしたくなかったけれど、愛人の子といきなり同居することが決まり、反発心をきっちり押さえ込めるほど中学二年生の私は大人になれない。
「洗い替えくらいなら、少し」
十夜はぼそっと小声で返答したが、口内の切り傷に障(さわ)ったのか、わずかに顔を歪ませた。何が原因で誰にやられて見るに耐えない身なりになったのかは知らないし、できれば知りたくもなかったが、母が連れ帰ってきてしまった事後となっては仕方ない。
「——……すぐそこがリビングだから」
「え? よく聞こえなかった」
「だからっ。そこがリビングって言ったの! その奥が風呂場で向かいにトイレがあるから、とりあえず着替えればって言ったのっ」
「……わかった」
十夜は一度だけ頷いた。
背の高い彼と話をしていると、無機質な大木に語りかけているかのようで、まるで手応えを感じない。俯き加減の双眸(そうぼう)も、死んだ魚の目のように何も映していない気がして、私は何だか怖くなって再び目を逸らしてしまった。
「さて、朝子ちゃん。お母さんと一緒に買い出しに行って来ようか」
やたら挑発的な私の態度を見かねたのか、母は仕切り直すように私の手を引いた。
「十夜くん、そういうわけだから留守番よろしくねっ。アデュー!」
「ねえ。アデューってさ、使い方が違うから。おいとまします的な意味のサヨナラな挨拶だからね」
私は靴を履き、先に玄関を出てしまった母の背を追いながら、呆気(あっけ)に取られる十夜を振り返る。
「しばらくうちにいるつもりなら、このノリに慣れたほうがいいと思うよ。じゃ、そういうことだから」
「いや、ちょっ……」
いきなり留守番を任せられ、困惑する十夜を残し、私は母と家を出た。
連れ帰ったばかりの十夜を自宅に一人残してきたことに、母は不安をこれっぽっちも感じていなかった。
普通であれば、まずは盗難が懸念される場面だ。正妻とその娘に対する復讐としての破壊行動があってもおかしくない。しかし、もしそうなったとしても母のことだから「盗まれる私がいけなかったのよぅ」と笑って済ませていただろうけれど。
「十夜くんなんだけどね。ホントかわいそうな子なのよ」
母は車のエンジンを掛けるなり、それまで顔に貼り付けていた笑顔を引っぺがす。
「聞くも涙、語るも涙」
「そういう前置きはどうでもいいから」
「十夜くんはね、いわゆる虐待(ぎゃくたい)児なのよ」
高三男子でも、虐待「児」と呼ぶのだろうか。いまいちピンと来ない。
「あの人、児童っていう歳じゃないじゃん。虐待されてた人だって言うなら、かわいそうだなとは思うよ。でもそれって私たちには関係ない話だったんじゃないの」
「朝子ちゃんのお父さんの遺産を受け取ってるんだから、他人の振りはできないでしょ〜」
母はハンドルを捌(さば)きながら、十夜くんがどれだけかわいそうな子であるか、説明を始めた。
十夜の母、つまり父の愛人だった女は、父の遺産を受け取るなり十夜に虐待を始めたのだそうだ。男を取っ替え引っ替えする、だらしない母親と施設との間を行き来させられる生活に嫌気が差していた十夜は、高校入学と同時に家を出たという。
「——でね。愛人さんっていう人がつい最近、病気で亡くなっちゃったのよ。反社会的な人たちから借りた、かなりの額の借金を残したままね。十夜くんの怪我は、その取り立てのとばっちり」
住宅街の細い路地を抜け、国道のある大通り方向に母がハンドルを切った。
私は窓を半分まで開く。ぽかぽか陽気で車内は暑いくらいだ。
「でも、あの人に返済の義務なんてないよね」
そよそよと前髪を揺らす春風に目を細め、私は十夜を「あの人」呼ばわりして先を促す。いきなり受け入れを迫られた異分子に対し、母のように「十夜くん」と呼ぶのに強い抵抗があった。まして「お兄ちゃん」なんて無理すぎる。
「何で返済義務がない、まだ高校生のあの人に取り立てなんかあったの。あんな大怪我までさせられて。あれって、普通に傷害事件になっちゃうんじゃないの?」
矢継ぎ早の質問に、母はしたり顔で「ふふ」と笑った。
「十夜くんったらね、これ以上の警察沙汰(ざた)は困るって言うのよ」
「は? 何で」
「二十二時以降もバイトしてるからだって」
「ホストとか?」
「ホストやったら稼げそうよね〜」
あはは、と母が笑う。第一印象の十夜は、無愛想そのものだった。きちんと挨拶ができたところでホストが勤まるとは思えない。
水商売以外の二十二時以降のバイト。警備関係だろうか。しかし年齢確認が厳しそうな職種だ。
「じゃあ、土木関係?」
思いつきで言ってみた。
「わお、当たり〜」
言葉こそ楽しそうだが、母は全く笑っていなかった。
「あのギプス、見たでしょ。バイトはクビになっちゃったんだって。荒っぽい取り立ての現場になった十夜くんのアパートの大家さんも、揉め事はごめんだから今すぐ出て行けって言ってるらしいのよねぇ」
十夜は傷害事件に巻き込まれた側で間違いなかったが、取り立てた側にやり返した暴力行為を警察で認めてしまったのだ、と母は続けた。
高校入学時からサポートを続けていたという中学時代の担任は、「肉親ではないから」という理由で警察から身元引受人として認められなかったのだそうだ。「身柄が解放されるまでの間だけでいいから」と元担任に請(こ)われる形で母に連絡が来て、「引受人が二人いるなら」と拘束を解かれた経緯だった。
愛人の子を引き取りに来た正妻を拒否しない警察もどうなの、と思うのだけど、母は地元では最も大きい大学病院の病棟看護師として独身時代から長く働いてきた職歴がある。聖職と呼ばれる職業に就いた大人が二人いるのなら、と判断されたのだろう。
そもそも、十夜の暴行容疑は不法行為に巻き込まれた正当防衛だった上に、高三になりたての未成年だ。にもかかわらず十夜は深く反省していたらしい。警察としては身柄を引き渡す口実ができ次第、すぐにでも自由にしてやりたかったのかもしれない。
あとは、とんとん拍子で母が十夜の引き取りを決めてしまったのだろう。
聞くも涙、語るも涙だ。……私が。
一言くらい相談してくれたっていいじゃないか、と思ってしまった時点で、色々私も終わっている。
そこは断固として、「愛人の子どもと暮らすなんてイヤだ!」と拒絶するべきだが、このトンデモ母と暮らして十四年目の私は、正常の基準がかなり低くなっていた。
そういう事情なら短期間の同居くらい仕方ないよね、と思い始めていたほどだった。
「よーし。お母さん、奮発しちゃうぞ〜」
母が張り切って最初に向かったのは、家電量販店だった。
「食べ盛りの家族が増えるんだから、まずは冷蔵庫を買い換えないとね」
当時使っていた冷蔵庫は二ドアの小型タイプで、上段の冷凍室はしばらく前に壊れていた。そんな冷蔵庫でも二人暮らしでは困らなかったが、いずれ買い換え時期はやって来る。そう考えれば悪くないタイミングではあっただろう。……が。
——家族が増える……?
母の言葉に強烈な違和感を持ち、私は表情を硬くした。
父が認知していた十夜を、保護名目で一時的に同居させるという話は不承不承ながらも納得できた。けれど家族の一員として迎えるつもりなら話は別だ。
「あれれ、どうしちゃったの朝子ちゃん」
不機嫌な顔つきになった私に気付いた母が首を傾げた。
「……どうもしないよ」
十夜を家族として迎えることに私がいくら反対したところで、母のことだからきっと、「お父さんの子は私の子も同然でちゅー」といったふうに茶化しながらスルーするに決まっている。
私が何を言っても無駄なのだ。であれば、十夜には一日でも早く怪我を治してもらって自主的に出て行ってもらうしかない。
「おお〜。この冷蔵庫も我が家の一員として、いい感じじゃない?」
母が目を付けた冷蔵庫は、当時最新型だった六ドア六〇〇L大容量のものだった。
色はパールホワイト。清潔で明るい色彩は、悔しいけれどキッチンにあったら素敵だろうなと私の物欲を掻き立てた。
「朝子ちゃんはどう思う?」
このまま即決しそうな母が私の顔を見る。日々の炊事担当を務める私が最終決定権を持つと売り場の若い男性店員は判断したらしい。「いかがでしょうか」と揉み手をしながら、あからさまな熱烈視線をこちらに送ってきた。
私は十夜の出で立ちを頭に思い浮かべてみる。
痩(や)せていたけれど、かなり背の高い男だった。しかも大怪我をしている。さっさと出て行ってもらうには、口を塞ぐ勢いでビシバシ栄養を摂らせないといけない。
「いいんじゃないの。あの人、いっぱい食べそうな感じだし」
この時私は、十夜が、写真の中の小柄の父に全く似通うところがないとこれっぽっちも疑っていなかった。
「はい、お買い上げ決定です〜」
母の決断に、店員は待ってましたとばかりに「売却済み」の札を冷蔵庫に貼り付ける。
「毎度ありがとうございます! ご配送はいかがいたしましょう。在庫がございますので、即日配送も可能ですが」
「じゃあ、即日で!」
「承知しましたっ」
……そんなわけで、我が家に大型冷蔵庫がやってきた。
母は新しい冷蔵庫をとても気に入ったらしい。「パールちゃん」と勝手に名前を付けるほどだったが、結局その名を呼んでいたのは母一人だけだった。
「ではでは。十夜くんの新しい門出を祝って。いただきまーす!」
同居初日の夕食は、なぜか蕎麦(そば)。
珍しく母が作った食事だったが、「なんで蕎麦?」と私は内心で首を傾げていた。
引越し蕎麦ならわかるけれど、新しい家族を迎えるのにも蕎麦でいいのだろうか?
まあそこは、利き腕でない左腕であっても大怪我をした十夜に配慮した母なりの考えがあってのことだろう。……と思いたいが、単純に母が蕎麦が食べたかったからというのが真相だったように私は思っている。
「……いただきます」
十夜は箸を手にし、蕎麦を啜り始めた。
十夜は初対面の瞬間から、ごく控えめに言って、かなり無愛想な男だった。
まず、表情がない。そして感情の起伏が声に表れない。長身のせいもあるだろうが、それを差し引いても、相手の目を見ないようにして話をする癖もある。
今でこそ家庭環境のせいでコミュ障っぽくなったんだろうなと割り切れるが、母いわく「十夜くんの新しい門出」だったその日の私にとっては、あくまで母が連れてきた他人でしかなかった。
そんな異分子十夜に対して私の感情が動いたのは、彼のどんぶりから蕎麦が半分ほど消えた頃だった。
「十夜くん、おいしい?」
母が訊く。
はい、とどんぶりと向き合うように顔を俯けたまま、十夜は頷いた。
「うまいです。あったかいし」
「そっかそっか、それなら良かったよ。怪我のほうは痛くない?」
「はい」
小さく首を縦に振る十夜のぼそぼそ声は俯いたまま発せられたので、まるで彼が蕎麦と会話しているかのような奇妙な光景だったのだけれど、
「————……すみません。やっぱり痛いです」
何かを一生懸命我慢しているが如く、喉の奥から絞り出すような声で発言を訂正した。その十夜の少しぬるくなっただろうどんぶりに向け、ぽた、と無色透明の雫(しずく)が何滴か落ちたのを見た瞬間、頑なに拒否しようとしていた十夜の存在が私の中で濃くなった気がした。
「そっかそっか。大怪我だもん、そりゃ痛くて当然だよね。とにかく食べないと治るものも治らないからね。この真白さんが料理するなんて年に一度あるかないかのミラクルだから。おいしいはずだよ〜」
ただ乾麺を湯がいただけの蕎麦を自画自賛する母は、その雫を見なかったことにした。だから私もとりあえず、十夜が零した涙に見なかった振りを決め込んだ。
どこか寂しそうな顔をして本音を吐露(とろ)した十夜に、産まれる前から父がいなかった、母一人子一人な生活をしてきた私には、「正妻の子と愛人の子が同居するなんて、おかしい」という世の中の常識を押し付けるような真似はもうできなかった。
それでも私は意地を捨てられない。口の中の切り傷に蕎麦がしみたから十夜は泣いてしまったのだろう。……きっとそう、絶対にそうだ。
泣いたくらいでほだされてたまるか。私は頑なにそう思い込もうとしていた。
それが、私と十夜、正妻の子と愛人の子の奇妙な同居生活初日にあった出来事だった。
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