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不遇の神子はかえりたい

桃瀬わさび / 著
サマミヤアカザ / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2024/03/08

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内容紹介

ある日突然、神子として異世界に召喚されたユーマ。しかし、神子の儀式とは「セックスで神力を分け与える」という過酷なものだった。神殿の奥深くに閉じ込められ、権力者の男たちに身体を貪られる日々。いつしか死だけを望むようになったユーマの元に、神子付きの新人守護騎士として、やや強面なセルジュがやってくる。深く傷ついたユーマを見たセルジュは、なんと神子を神殿から連れ出すという禁忌を犯す――。「相手が誰であろうとも、貴方を傷つけさせはしない」一途な護衛騎士が不遇の神子に捧げる温かな愛。

人物紹介

ユーマ(佐橋悠真)

普通の高校生だった四年前、異世界に召喚された。神子の証と言われる黒髪・黒目を持つ。

セルジュ

超がつくほどのお人好しだからという理由で神子の守護騎士に選ばれる。

立ち読み

1

 帰りたいと、ずっと思っている。
 ここに来てから、いったい何年経ったんだろう。どれだけの男に組み敷かれたんだろう。
 最初こそ泣いて喚(わめ)いたし、脱走しようと試みた。
 でも、そのすべてが無駄に終わった今は、ただ苦痛が過ぎ去るのを待つだけだ。
「なんと黒く美しい髪か……! これで私にも神の力が……!」
「ひっ、……ぅ……」
 恍(こう)惚(こつ)とした声を上げた男が、聖句を唱えながら後孔を貪っている。
 うつ伏せに寝そべる俺にのしかかり、力の限りに押さえつけ、乱暴に腰を打ち付けてくる。
 気持ち悪い。
 内臓を掻(か)き回される不快感と、奥まで貫かれる苦しさ。背中にべったりと覆いかぶさる男の身体。
 吐き気と気持ち悪さに耐えながら、ただひたすら時が過ぎるのを待つ。
 ひ、ひ、と悲鳴にもならない吐息を漏らし、きつくシーツを握りしめ、心と身体を切り離して待つ。
 気の遠くなるほど長い夜が明けたなら、この苦痛は一旦終わりを告げる。その時をただ、待ち続けている。
 この世界に来るまでは、俺はごく普通の高校生だった。
 佐(さ)橋(はし)悠(ゆう)真(ま)というありふれた名前を持ち、すごく目立つわけでもモテるわけでもないけど、友だちだけはそれなりにいて。ゲーセンで遊び、ファーストフードでだべり、ラノベを貸し借りして、このヒロインがかわいいと言い合うような。異世界転移や転生モノを読むたびに、チートで俺TUEEEEしたいなー、なんて思うような。
 そんな、ごく普通の、高校生だった。
 退屈で平凡な日常が一変したのは、寝坊して慌てて学校に向かっていたときのことだ。
 人の少ない通学路に居心地の悪さを感じながら、学校の門を通り抜けた、まさにその時。門から一歩踏み込んだところが、学校ではなくこの世界だった。
 古びた校舎へと続く道の代わりに荘厳な神殿らしきところにいて、目の前には見たこともない服を着た人たちが平伏していて――見るからにファンタジーな状況に混乱しながら、少しも興奮しなかったと言ったら嘘になる。
 選ばれし勇者と言われるんじゃないか。何か魔法が使えるんじゃないか。何のチートを与えられたかはわからないけど、不思議なことに言葉はわかる。きっと何か冒険が始まる。
 ――そんな子どもっぽい想像は、その後すぐに散ることになった。
 最初の相手は、でっぷりと太ったジジイだった。
 全力で抵抗したせいで、騎士らしき人に二人がかりで押さえつけられてヤられる羽目になった。
 わけがわからなくて泣き叫んだし、無理やり突っ込まれた尻の穴はひどく痛んだ。うつ伏せに押さえつけられたままほぐされはしたけど、暴れたせいで切れたらしい。
 でもそんな身体の痛みより、心のほうがよほど痛かった。
 男としてのプライドも尊厳もめちゃくちゃに壊され踏みにじられて、熱を出してしばらく寝込んだ。
 回復するとまたすぐに抱かれたけど、寝込んでいる間だけは平和だった。
 後になってわかったのは、この世界では、黒いものが信仰の対象であること。
 なにやら、数々の偉業を成し遂げた初代神(み)子(こ)様が黒髪と黒目を持っていたらしい。
 それ以来、身体のどこかに黒を持つものは神子や神獣と呼ばれるようになり、髪も目も黒い俺は初代神子様の再来と言われて尊ばれている。
 そしてさらに悪いことに――この世界では、神子と交わると神に祝福され、神の力を得ることができると信じられている。
 だから男たちは、代わる代わる俺を抱く。
 俺の体調を鑑(かんが)みて、二日に一度。決まって夜。
 日が落ちると軽い食事を摂(と)って身を清め、儀式用の服に着替えて相手を待つ。相手がどう選ばれているのかは知らないけど、どの男もみなジャラジャラと宝石をつけてるし、たぶん貴族か権力者か、そんな感じのやつらなんだろう。権力者に女性がいないのか、やってくるのは必ず男。
 二十を超えてからは数えてないけど、両手両足でも全然足りないくらいの数の男たちが、一日おきに俺を抱きに来る。
「やっと順番が回ってきた」と喜ぶもの。
「またお会いしたい」と言ってくるもの。
「大金を積んだのだから」と一晩中突っ込んだまま俺を貪り尽くすもの。
 とても覚えきれないくらいの男たちが、列をなして俺を抱きに来ていると気がついたとき、心にひびが入った気がした。
 ――この世の男が尽きるまで、あるいは俺が老いて死ぬまで、俺はずっとこのままなのか。
 わかりたくなかったけど、わかってしまった。理解してしまった。
 帰りたいといくら叫んでも、帰ることはできない。
 帰る方法がないというのが本当かどうかはわからないけど、神の力を授ける神子を、やつらが手放すとは思えない。
 白と金ばかりの荘厳な部屋に閉じ込められて、俺は延々と抱かれ続ける。身勝手に後孔を拡げられ、ナカに精液をぶちまけられ、自由も尊厳もない生活をこのまま一生送るのだ。
 神の力を得るために気絶するまで抱き潰されて、翌日だけわずかな休みをもらって。けれど次の日にはまためちゃくちゃに貪られて――こんなの、ほとんど家畜じゃないか。
 ――すべての現実を理解したその日、泣いて、喚いた。
 部屋中をぐちゃぐちゃに散らかして暴れて、脱走しようと試みた。
 でもあっさりと騎士に捕まり、部屋から出ることすら叶わなかった。
 その日は初めてのときと同じように、騎士二人に押さえつけられながら犯された。
「ひ、っ……」
 両肘をきつく掴(つか)まれて、雄が深く押し込まれる。
 これに快感を覚えたことは一度もない。
 高校生の頃は毎日自慰をしていたのに、ここに来てからは性器がぴくりとも反応しない。たぶんこれが、精神的ショックによる不能っていうやつなんだろう。
 でも、不感症なくらいがちょうどいい。
 苦しいし、おぞましい。不快で、気持ち悪い。
 でも、この行為に快楽を感じないうちは、俺はちゃんと俺でいられる。元のままの俺でいられる。
 尻をどれだけ掘られようと、奥に精液をぶちまけられようと、心までは明け渡さずにいられる。
 このくそったれの世界を呪っているうちに、夜が明けて朝がくる。抱かれなくていい一日がくる。
 ただそれだけを心の支えに、唇を噛み締めて悲鳴をこらえた。

    ✢

 俺が閉じ込められているところは、聖域と呼ばれているらしい。
 この国で一番大きな神殿の、一番奥にある真っ白な部屋。豪(ごう)奢(しゃ)で寒々しいその部屋と、そこに面した広い庭だけが、俺の知っているこの世界のすべてだ。
 ぎしぎしと軋(きし)む身体を引きずり、庭に面したバルコニーに出る。
 ここに来てからずっと伸ばしている髪は、今では腰に届くほどに長い。
 来たばかりの頃、この髪がこの生活を招いたと思うと腹立たしくて、食事についてきたナイフで髪を切り落としたことがあったっけ。
 それ以降、食事にナイフがつくこともなければ、騎士たちが帯剣して部屋に入ることもなくなった。神殿の最奥に侵入者なんて来やしないし、俺一人取り押さえるのに、武器なんていらないってことなんだろう。
 俺の周りにいるやたらキラキラした騎士たちの役目は、俺を監視することと、抵抗して暴れる俺を押さえつけること。
 ああ、あと、朝になっても出ていかない男を追い出すことくらいか。
 守護騎士なんていう大層な呼び名がついてるらしいけど、守ってもらったことは一度もない。
 本来は事後の後始末や身の回りの世話もこいつらの仕事らしいけど、俺が強く拒絶してからは必要以上に近寄ってこなくなった。
 ええと、なんだっけ。
 まだ騎士たちと多少なりとも会話していた頃、やつらが口々に言っていた言葉――『神子様が何不自由なく暮らせるよう、神子様のお望みを叶えるために我々はいるのです』だったっけ?
「殺してくれ」っていう、ただ一つの望みも叶えないくせによく言ったもんだ。
 ずきずきと痛む頭から気を逸(そ)らしつつ、バルコニーに置かれたソファーに横たわる。
 暖かな日差しに、ふかふかのクッション。風は少し冷たいけど、あの部屋よりずっと居心地がいい。いくら暖炉が暖かくても、きらびやかに飾り立てられていても、あそこは牢(ろう)獄(ごく)と変わりない。
 艶やかな黒絹に包まれて、極上の食事を与えられても、俺はただの家畜なんだから。大人しく身体を差し出すこと以外、何一つ許されてはいないんだから。
 きゅっと爪先を丸めてから、身を縮めるようにして目をつむる。
 眠気はもちろんやってこない。
 この世界に来てから、抱き潰されて気絶する以外で、眠れたことなんて一度もない。
 目を閉じて考えるのは、元の世界のことだけだ。
 ここに来てどれだけ経ったのか、最初は指折り数えていた。
 わずかに与えられた本から帰る術(すべ)を見出(みいだ)そうとしたし、騎士を撒(ま)いて逃げ出そうともした。神殿の外がどうなっているかは知らないけど、見知らぬ男に抱かれ続けるよりマシだと思った。
 でも、そのすべてが実を結ばず、どんどん監視もきつくなり――諦めたのは、いつだったか。
「殺してくれ」と願ったのは、いつだったか。
 ナイフも、剣も、紐状のものも。
 自害に繋(つな)がるものをすべて取り上げられ、いつもそばに守護騎士という名の監視役が侍(はべ)るようになってから、もうどれくらい経つんだろう。
 時計もカレンダーもない部屋では、時間の流れもひどく曖昧だ。同じ毎日の繰り返しだから、記憶もどんどん遠のいていく気がする。
 この世界に来る前の記憶も、もうこんなにも薄れてしまった。
 ひくりと震えそうになった唇を噛み締めたとき、ふわりと毛布が掛けられた。
 今日侍っている騎士だろうか。
 必要以上に近寄るなと厳命しているのに、どうして……という疑問は、毛布の暖かさにほどけていく。身体がじんわりと温められる心地よさに、唇からほうっと吐息が漏れる。
 少し風を冷たく感じてはいたが、どうやら思ったより冷えていたらしい。
 ――あったかい、な……。
 この世界に来てからはずっと眠れていなかったのに、今日はやけに頭がぼうっとする。
 日差しがぽかぽかと暖かいからか。毛布からお日様の匂いがするからか。
 こんなに暖かくては警戒を保つことも難しい……けど、別に、警戒なんてしなくてもいいのか。してもしなくても、俺の生活は変わらないんだから。
 夜には知らないおっさんに抱かれて、気絶して、ぎしぎしと軋む身体を引きずることしかできないんだから――だから、今だけ。少しだけ。この泥のような眠気に身を任せてもいいだろうか。
 ふっと身体から力を抜くと、瞼(まぶた)にそっと影がかかった。
 一瞬雲かと思ったけど、さっき見た空に雲はなかったし、身体は相変わらず日差しでぽかぽかと暖かい――閉じた目のところだけ、眩(まぶ)しくないよう影がかかっている?
 重たい瞼をうっすらと開くと、視界に武骨な手が見えた。
 ごつごつと骨張った男の手だ。
 騎士服の袖からわずかに覗(のぞ)く手首には、小さく文字が綴(つづ)られている。
 ――触るな、話すな、気配を殺せ……?
 なんだそれ、と瞼を閉じて、ああ、と答えに思い至る。たぶんこれは、『神子様取扱説明書』的なものなんだろう。
 そういえば今日は、いつもは一人しかいない騎士が、めずらしく二人ついていた。過去にも何回かあったけど、おそらくは新人の面通しみたいなものなんだと思う。
 たぶん、腕から先しか見えないこの騎士は新人のほうで、俺に対して粗相をしないように先輩騎士からいろいろと注意されて、忘れないようメモしたんだろう。……騎士のくせに、まるで高校生みたいなことをする。
 ――しかも、ちょっと、ズレてる。
 確かに、触ってはいないし話してもいない。気配だってちゃんと消している。でも、毛布を掛けたり手で日差しを遮ったりしたら、気配を消している意味がない。
 俺が言うのもなんだけど、たぶんそういうことじゃない。
 それに気づかないほどアホなのか、わかっていてもほっとけないお人(ひと)好(よ)しなのか……どっちなのかはわからないけど、ほんのちょっとだけ、おかしかった。
 この世界に落ちてから初めて、口元がわずかに綻(ほころ)んだ。

2

 どうしてそうなったのかはわからないけど、あの日から、休みの日はいつも同じ騎士がそばにいるようになった。
 手首にメモを書いていた例の騎士だ。
 この世界の人を見分けるのは得意じゃないけど、この男のことはすぐに覚えた。
 金に銀、赤に青に緑にオレンジにと、やたらめったらファンタジーな髪色が多いこの世界で、この男だけが茶髪だったから。校則違反して髪を染めていた連中と同じくらいの明るさだけど、この世界では地味の一言。
 きらきらしくなくて目に優しい。
 顔はやや強(こわ)面(もて)ぎみのイケメンなんだけど、中身は完全にオカン属性だ。
 俺が裸足で歩くからバルコニーにラグを敷き、ソファーにふっかりと柔らかなカバーを掛け、サイドテーブルには水とみずみずしいフルーツを。……いつも食事を残しがちな俺が、フルーツだけは食べることに気がついたらしい。
 あるときには、小さな花までちょこんと皿に添えられていた。
 この世界の花なんてもちろん知らないけど、その花がわざわざ摘んできたものだということはわかる。庭園で育てるような立派な花じゃなくて、どこかの道端に咲いていそうな素朴な花。バルコニーから見える人工的な庭には存在しない、小さくて可愛らしい花。
 この強面で、あのでっかい手で花を摘んだかと思うとおかしくて、目を細めてずっとその花を見ていた。
 ……それから毎日花が添えられるようになったのは、言うまでもない。
 そんなふうに、少し心の休まる時間ができたのは、果たして良かったのか悪かったのか。
 麻(ま)痺(ひ)しかけていた心が再び緩むことで、お務めのつらさは増したように思う。
 ひだまりの中が暖かであればあるほどに、ベッドはより寒々しく感じられた。
 背中にべったりと不快な人肌が触れている。限界まで拡げられた尻穴に、醜い欲望が穿(うが)たれている。
 気持ち悪い。
 きつくシーツを握りしめ、唇を噛んで吐き気をこらえる。耳につく粘ついた音がどこから聞こえているのかなんて、考えたくもない。
 鳥肌の立つうなじをべろりと舐め上げられ、こらえきれない悲鳴がこぼれた。
「……っ、ひ、」
 早く。早く。早く、終われ。
 忌まわしい楔(くさび)が抜けていき、再び強く貫かれる。悲鳴が喉から押し出されて、ぎりぎりと歯を食いしばる。でっぷりと重い腹肉が尻に触れ、肥えた指が髪にかかる。
 神子の証(あかし)だという、神聖な黒髪。
 俺を抱く男たちは皆、こうして髪に触れてくる。指先で遊び、梳(す)くようになぞり、恭しく口付けては精液を派手にぶっかける。……精液の白が黒髪に映えるとか、心の底から気持ち悪い。
 心なしか質量を増した中のモノに吐き気が込み上げ、口を押さえて目を閉じた。
 たった一晩だけのこと。朝が来れば解放される。
 気絶して、起きて、尻の中のものを掻き出して、吐いて、全身をゴシゴシ洗ってから、ぐったりしたらもう明日だ。
 日差しの差し込む暖かなバルコニーで、お日様の匂いの毛布に包(くる)まれ、静かなひとときを過ごせるはずだ。
 大男には不似合いな素朴な花をじっと見つめて、ほっと一息つけるはずだ。
「神子よ、神の祝福を、我に――」
 祈りとともに白濁がナカにぶちまけられ、その熱さに心が冷えていく。
 きつく噛み締めすぎた唇からは、いつものように血が流れていた。

    ✢

 石(せっ)鹸(けん)を手に取り、ゴシゴシと全身にこすりつける。
 前は細長い布を使って身体を洗っていたが、首を吊ろうとしてからは取り上げられてしまった。仕方なく自分の手で身体を隅々まで洗っていき、背中をガリガリと掻きむしる。
 気絶している間に切られる爪は短くて、肌をほとんど傷つけられない。
 べたりとした感触の残る背中の皮膚を、いっそ剥(は)ぎ取ってしまいたいのに。大きな怪我を負ったなら、しばらく抱かれずに済むかもしれないのに。
 髪を洗えば艶が増し、身体を洗えば肌がしっとりと輝きを放つ。
 高級な石鹸で磨きあげられれば、痩せ細った身体でもそれなりに見映えがするものらしい。俺を見るなりのしかかってくる男たちを思い出し、胃の中のものを吐き出した。
 髪も爪も、身体さえも、何一つ俺の自由にはならない。
 重だるい身体を引きずるようにして浴室から出ると、身体がぐらりと大きく傾(かし)いだ。
 ああ倒れるのか、そういえば昨日の夜から何も飲み食いしてないっけ、胃の中身も胃液ばかりだった、とどこか冷静に考えながら、衝撃を覚悟して目を閉じる。
 くらりと揺れる視界にはもう慣れたし、頭が痛むのもいつものことだ。
 俺がいつ倒れてもいいように床には分厚いラグが敷かれているし、少し痛い思いをするだけだろう――と思った次の瞬間、背後から伸びた手が腰に回った。
「ひッ……!」
 恐怖と吐き気が込み上げてきて、咄(とっ)嗟(さ)に男の腕を払いのける。その反動で無様にも床に転げたけど、じりじりと床を這(は)って距離を取った。
 明滅して歪(ゆが)む視界では、相手の顔はわからない。
 だけどたぶん、騎士以外の誰かだ。
 騎士たちには絶対に触れるなと言ってあるし、こうして倒れても近寄ってきたことはない。最初の頃は手を差し伸べられていたけど、混乱と恐怖で余計に錯乱してからはじっと見守るだけになった。
 ということは、たぶん、俺を抱く予定の誰かなんだろう。騎士かお務めの相手しか、ここには来ないはずだから。
 背中がソファーにぶつかって、ぎゅっとラグを握りしめる。
 相変わらず歪んだ視界には、じっと佇(たたず)む男が映っている。ぐにゃりと歪んでいてどんな表情をしているかはわからないが、振り払われた手をそのままに立ち尽くしているらしい。
 これは誰だ? なんで俺の部屋にいる?
 お務めは朝に終わったばかりで、明日までは休めるはずで――いや、だ。いやだ。抱かれたくない。
 長い長い一晩を、ようやく越えたばかりなのに。
 大量に注ぎ込まれた汚い欲望を、べたりとした肌の感触を、ようやく洗い流したところなのに。
 ひっ、ひっ、と、喉が勝手にひくついている。息を吸っているのに苦しくて、手足の先が痺(しび)れてくる。
 確か過呼吸って言うんだったか。
 この世界に来てから何度もなっているけど、治し方なんてわからない。
 いつの間にか気絶して、しばらくしたらまた目覚めて――あんなに苦しいのにまた死ねなかったと、毎回ひどくがっかりするだけ。
 膝を抱えて縮こまって、震える手を口に押し付けた。
 目の前の男は、まだ動かない。
 なんで動かないのかはわからない。
 いつものお務めの相手だったらもうとっくに、騎士を呼んで俺を捕らえて、激しく腰を振っている頃だと思うのに。
 ぐにゃぐにゃと歪む視界でなんとか相手を捉えようと目をすがめたとき、男がゆっくりと膝をついた。
「騎士のセルジュと申します。先程は御身に触れてしまい、大変申し訳ございませんでした。ですが、もしお許し頂けるなら、御身をお運びする栄誉を頂けませんでしょうか。決して直接は触れませんので」
 ほとんどひそめるかのような、小さな声だった。
 ぎりぎり耳に届くくらいのそれは、たぶん、俺を驚かせないようにしたからだろう。それでも男の低い声にびくりと肩が跳ねてしまって、ぎゅっと身体を縮こませる。
 騎士、だった。
 名前を聞いても誰なのかはわからないけど、騎士ということはこの男に抱かれるわけじゃないみたいだ。……押さえつける係なのかもしれないから、決して油断はできないけど。
 ――俺を、運ぶ、栄誉だって? 馬鹿げてる。
「っ、さわ、るな」
 呼吸が相変わらずおかしいままだ。
 手も足先も感覚がない。視界は色を失いつつあり、気絶するのが近いことを示している。座っていることすらままならなくて、身体が不安定に揺れている。
 定まらない視線で男のいるあたりを睨(にら)みつけると、男が小さく息を呑んだ。
 これで、大丈夫だ。
 命令したから、きっとこいつは離れるだろう。
 お務めがあるわけじゃなさそうだし、気絶という名の眠りにつける。黒々と意識が塗り潰されたら、少しだけ早く明日になる。
 そうしたら、またいつもの、ほっと安らぐひとときがくる。
 ふっと意識を手放しかけたとき、身体にふわりとしたものが触れた。
 一瞬びくりと震えたけど、その匂いに身体の力が抜ける。
 いつもバルコニーで嗅(か)ぐ、お日様の香り。
 寒々しい部屋に不釣り合いな、暖かな毛布。
 それを確かめるようにきゅっと握ると、そうっと身体が抱き上げられた。
 毛布越しに感じる、たくましい筋肉。俺を抱えてもふらつきもしない、しっかりした足取り。
 重たい瞼をうっすらと開くと、見慣れた茶髪がそこにあった。


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