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転生竜騎士は初恋を捧ぐ

仁茂田もに / 著
都みめこ / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2024/08/09

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内容紹介

帝国軍所属の竜師ルインは頻繁に夢で見る「愛する人を戦争で亡くした」前世の記憶に悩まされていた。そんなある朝、竜舎にいた見慣れない男と目が合った瞬間、ルインの前世の記憶が彼を前世の恋人だと訴えかけてくる――。「彼」に恋焦がれる前世の記憶に振り回されたくないルインは、その男・竜騎士シグルドから距離をとるも、積極的な彼の誘いに徐々に絆されてしまう。その近すぎる距離にシグルドへの気持ちを自覚し始めるルインだったが、戦争の影はすぐそこまで迫っていて――。「俺がずっと探していたのは君だったんだな」熱い胸に抱きしめられて……。前世の恋が繋ぐ、一途な竜騎士×素直になれないツンデレ竜師の初恋。

人物紹介

ルイン・ネルケ

帝国軍所属の竜師。頻繁に前世の記憶の夢を見ることに、悩まされている。

シグルド・レーヴェ

帝国軍中尉で竜騎士。最強と名高い騎竜を操る。

立ち読み

 ――声を聞きたい。あなたの笑顔が見たい。……会いたいよ、「――」。

 頭の中に、痛いほど切実な声が響く。
 同時に切なく届く誰かの歌声。その声の主を思い出したくて、あと少しで思い出せそうで。けれど、どうしてもその誰かの名前が思い出せない。
 泣きたくなるほど胸が痛くなって、苦しくなるその声は、いつだってルインの心をかき乱す。
 どれだけ恋しくても、どれだけ会いたくても、もう二度と会えない。
 そんなどうしようもない事実に「彼」はひどく苦しんで、その生を終えた今だって叫び続けている。
 これは自分の感情ではない。
 会いたいのは自分ではない。
 夢の中で何度も言い聞かせて、ゆっくりと息を吐く。
 重たい瞼(まぶた)を無理やり押し上げれば、案の定、灰色の瞳から大粒の涙がぼろぼろと零(こぼ)れ落ちていた。
「……またか」
 舌打ちとともに呟(つぶや)いて、ルインは長い前髪を鬱陶しげにかき上げた。指に絡むのは黒髪で、夢の中でめそめそ泣いていた人物とは似ても似つかない。
 そのことに微かに安(あん)堵(ど)して、寝台から体を起こした。窓の外を見ればまだ周囲は薄暗く、紫色の空に小さな星々が輝いていた。それでも東の山向こうには太陽が隠れていて、その尾根を輝かせ始めている。
 軍の起床時間よりはずっと早かったが、起きるのに早すぎるという時刻ではなかった。

 ルイン・ネルケは竜師である。
 正確には帝国軍ヴィンターベルク城塞航空飛竜部隊所属の竜師だ。
 軍での階級は軍曹。平民出身、叩き上げの一兵卒としてはまずまずの階級と言える。
 帝国軍航空飛竜部隊――通称竜(オ)騎士団(ルデン)にルインが入隊したのは今から六年前の十三歳のときだ。帝都で靴屋を営むネルケ家の三男坊として生まれ育ったルインは、子どもの頃の憧れのままに竜師になった。
 幼い頃、絵本で読んだ竜騎士たちの大冒険。帝国に生まれた大半の男の子たちが憧れるように、ルインも幼い頃から竜という生き物が大好きだった。けれど、ルインが心惹かれたのはその竜に乗り、空を駆る竜騎士ではなかった。騎竜を調教し、竜騎士たちの補助をする竜師こそがルインの夢だったのだ。
 竜師というのは、竜騎士たちが騎乗する騎竜の世話を一手に引き受ける専門職のことをいう。
 世話といっても、その仕事内容は餌やりや竜舎の掃除といった雑用だけではない。野生の竜を慣らし、騎竜にするための竜の調教や日々の健康管理。果てはお産や怪我の治療までも担当するのが竜師だ。
 竜騎士団にはその規模にかかわらず、竜師が必ずひとりはいて竜の世話をしている。ヴィンターベルクではルインを含めて三人の竜師で十六騎の竜の面倒を見ていた。
 竜の生態に合わせたルインの一日は早い。朝日が昇るのと同時に起きて竜舎に赴くのだ。水入れの水を入れ替え、竜舎の掃除をする。餌は竜ごとにその日の体調や好みによって毎日調整し、その変化を観察する必要があった。それ故、一日二回の給餌は付きっきりになってしまう。
 そうやって必死で竜に尽くして、ようやく彼らの信頼を得られる。竜師は竜からの信頼失くしてはやっていけない。だからこそ、ルインは毎日毎朝せっせと竜舎に通い、竜たちのご機嫌を取っているというわけだった。

 険しい渓谷の隙間から差し込む朝日が、切り立つ急(きゅう)峻(しゅん)な山肌に張り付くようにして立ち並ぶ家々を照らし出す。夜が終わり、一日が始まるその瞬間、ヴィンターベルクの街は橙(だいだい)色に輝くのだ。そんな美しい街を囲む岩山の麓に、帝国軍の基地はあった。
 基地内の最も山に近い位置には竜たちの離着陸場があり、そこからほど近い場所に騎竜たちの住まいである竜舎は建てられている。その竜舎から一番近い場所にある隊舎から続く、細い小(こ)路(みち)を早足で歩きながら、ルインは明け方の寒さに身を震わせた。まだ秋の始まりだというのに、早朝は身を切るような寒さだった。
 ルインが配属されているヴィンターベルク城塞は、帝国の北東部に位置している。
 北に大陸の屋根と呼ばれるノルトダッハ山脈を望み、東はストラナー連邦に接する。要は国境にして最前線。大陸統一を大義として、四方八方で戦争をしている帝国の北東部戦線と呼ばれる場所がヴィンターベルク城塞だ。
 ヴィンターベルクの街の他の家々がそうであるように、竜舎も針葉樹を乾燥させた木材と山から切り出した石材を使って作られており、冬に降り積もる雪に負けないように頑丈な造りになっている。しかし、寒いものは寒い。
「寒……」
 竜舎に入って、ルインは思わず呟いた。吐く息は白く、吸う空気はひんやりと冷たい。しかし、このヴィンターベルク城塞においてこの程度の寒さはまだ序の口なのだ。これから秋が深まり冬になるにつれて、どんどん寒さは厳しくなっていく。
 とはいえ、竜たちにそんな人間の都合は関係ない。朝の早い竜はもう目覚めていて、すんすんと鼻を鳴らしている。早く水を新しいものに変えてあげなくてはいけない。
 辺境であるヴィンターベルク城塞に来てよかったと思うのは、水だけは豊富で思う存分使えるということだ。特にこの竜舎には、裏の山から直接引いた湧(わき)水(みず)を貯める水場が作ってある。滾(こん)々(こん)と湧き続ける湧水は、全てが凍る真冬でも凍結せずに流れ続けるため、年間を通して安定して水が確保出来た。
 一抱えほどもある大きな桶(おけ)を使って、ルインは十六頭全ての竜の水を入れ替えていく。
 竜は頑丈な身体と賢い頭脳を持つ、気位が高い生き物だ。水がなくても長期間生きていける特性を持っているが、種族としては清純な水を好む。それ故か、せっせと水を汲(く)んでくるルインを見て、竜たちは歓迎するように声を上げた。
「おはようさん、相変わらず早ぇな。ルイン」
「おはようございます、グスタフさん」
 水の入れ替えが終わり、今度は掃除をするためにフォークを手に取ったときだ。
 入り口に見慣れた大男の姿があった。顔に大きな傷のある壮年の男は、ルインと同じ竜騎士団(オルデン)所属の竜師の徽(き)章(しょう)のついた作業服を着ていた。――ルインの直属の上司であるグスタフ・エッヘだ。
「どこまで終わった?」
「水の入れ替えまでです。掃除はこれから」
「そうか。じゃあそっちは頼む。俺は餌の調合してくるかな」
「はい」
 ヴィンターベルク城塞の竜師長であるグスタフは、ルインの竜師としての師匠でもある。
 厳(いか)つい顔のわりに親切で気安い彼は、城塞のみんなからは「親父さん」や「グスタフさん」と呼ばれて親しまれていた。腕のいい竜師である彼と、ルイン。それから――。
「おはようございます! あ、あの! ちょっと寝坊しちゃって……」
「おはよう、リアム。寝坊はしてないと思うよ」
「そうだぞ、リアム。ルインが無駄に早ぇんだよ。俺も今来たところだ」
 グスタフの後ろから飛び込むように竜舎に入って来た少年、リアム・シュミット。この三人でヴィンターベルク城塞にいる全ての竜の面倒を見ている。
 リアムは先の春、オルデンに入団したばかりの見習いだ。どうにも早起きが苦手らしく――といっても、十分早朝と言っていい時間帯にはやってくるのだけれど――毎回、竜舎に来るのが最後になってしまうことを気にしているらしい。それを慰めるようにグスタフがリアムの頭を軽く叩いた。それからすれ違いざまにルインの耳元でこっそりと囁(ささや)く。
「ルイン、お前最近またあんまり眠れてねぇんだろ」
「あー、まぁ、はい……」
 夢見が悪くて、と呟くのはルインの定番の言い訳だ。あの夢を見て、青い顔をして出勤してくるルインをグスタフはいつも心配してくれるのだ。
 ルインが頻繁に見るいやに現実的で生々しいあの夢。あれを「夢見」という単語だけで片づけていいものかどうか、ルインにはよく分からない。
 ただひとつ分かっているのは、あれはただの「夢」ではないということだ。

 ルイン・ネルケには前世の記憶がある。
 否、正確には「前世の記憶」を頻繁に夢に見ると言った方が正しい。
 七十年前、確かに存在したリーヒライン王国。今ではもう帝国の一地方としてのみ、その名前を残すかつての王国は、帝国が戦争を始めた初期に接収され滅んだのだ。
 大陸の北西部に位置した小さな国。土地が痩せて作物があまり育たないその王国は、けれど秋になると美しい麦穂の黄金で彩られていた。
 そんな小さいけれど美しい国で、生きて死んだ記憶がルインにはあった。
 帝国に愛する人を殺されて、孤独と悲しみを抱えて生きたその記憶。
 夜な夜な繰り返し見るその夢は、今を生きるルインにとってまるで悪夢でしかないものだった。



 その悪夢は、決まって月のない夜を舞台にしている。
 小さな星だけが瞬く暗い空の下で、「彼」――「フェリ・エイデン」は愛する人を失った。
 鼻につくのは血と硝煙の匂い。何度も出撃して、そのたびに数を減らながらも命からがら帰って来た竜騎士隊は、全員が傷だらけで血まみれだった。けれど、彼らは皆祖国を守るために、闇夜に紛れて敵を襲撃するのだと出陣して行った。その竜騎士隊の隊長だった男は「フェリ」の全てで、彼を形成する根源のような人物だった。
 負け戦だということは分かっていた。
 貧しい小国相手に、大国である帝国が牙をむいたのだ。どれだけ死に物狂いで抵抗したって、元々の国力が違いすぎた。
 それでもお前たちが撤退するだけの時間は稼ぐから、と笑う男に「フェリ」は長年の想いを告げた。可愛い女の子が好きだと公言して憚(はばか)らない男だったから、「フェリ」は一生その想いを伝えるつもりはなかった。けれど、もうこれで二度と会えないかもしれないと思ってしまったら、隠しておくことなんて出来なかったのだ。
 ――貴方が、好き。
 本当は行かないで、と言ってしまいたかった。
 でも、それでも「フェリ」は男の覚悟を知っていたから。
 決して口にすることは出来なかった、本当の想い。それを察して、男は口の端だけを上げて笑った。
 ――俺が好き? それってこういう意味で?
 そう言って顔を近づけて来た男に「フェリ」は目を見開いた。
 触れたのは一瞬だった。けれど確かに柔らかい男の唇が、「フェリ」のそれに触れて、すぐに離れて行った。
 抱きしめられて、ただ頷(うなず)いた。もう偽る意味は何もなかった。
 ――そういう意味で、好きだよ。だから、ちゃんと帰って来て。
 待ってるから――。
 最後は笑顔で見送りたかった。涙を堪(こら)えて言えば、男は楽しそうに目を細めた。
 ――帰ってきたら、続きをしようぜ。だから、待っていて欲しい。
 生きて。
 フェリ、生きて、生きて、生き抜いて。
 俺を、待っていて。
 そう言って朗らかに笑った男は、最期に「フェリ」に呪いをかけた。
 あのときの「フェリ」はそれを「約束」だと捉えたようだったけれど、部外者であるルインからすれば、あれは「フェリ」を縛り付ける醜悪な呪いでしかなかった。
 ――生きて、待っていて。
「フェリ」の中に深く残った男の言葉。
 死体すら回収出来なかった男の最期を、「フェリ」は確かめることが出来なかった。
 助かるような状況ではなかった。死んでいるはずだ。だってあそこにはもう何も残っていない。それを「フェリ」は十分理解していたけれど、彼は男の生を諦めることが出来なかった。だって、その死をこの目で見ていないから。
 明日には帰ってくるかもしれない。ひょっとしたら怪我をして動けないだけかもしれない。
 そんな想いに囚われて、後を追うことも出来ず、その死を認めることも出来ない。
 生きているかもしれない――。そんな根拠のない望みだけを信じて、ただ「フェリ」は男を待った。
 たったひとり。孤独に苛(さいな)まれながらも、「フェリ」は待ち続けたのだ。
 自分が死ぬ、その日まで。



 不意に意識が浮上する。朝の日射しはまだ遠く、涙に濡れた頬がひやりと冷たかった。
 一瞬、自分がどこにいるか分からずあたりを見渡した。暁の薄い光だけが照らし出す古ぼけた室内。そこにあるのは寝台と小さな机だけで、私物と呼べるものは何もなかった。けれど、そこは間違いなく「ルイン・ネルケ」の自室だ。そのことに安堵して、ルインは小さく息を吐く。
 ――自分は「ルイン・ネルケ」だ。「フェリ・エイデン」じゃない。
 そう何度も言い聞かせて、枕元に置いていた水差しから直接水を呷(あお)った。夜の間に冷やされた水が、ルインの中を潤して夢を夢だと教えてくれる。頭の中に響き続けている歌を口ずさめば、歌は音となって鼓膜を震わせる。その感覚が、毎朝ルインを現実へと引き戻してくれるのだ。
 匂いや感触、音まで感じることの出来る「夢」はひどく鮮明で、時折「夢」と「現実」との境界を曖昧にしてしまう。特に「フェリ」が「彼」を失った瞬間の夢を見た朝は、起きたときに一瞬自分が誰なのか分からなくなってしまうのだ。
 そんな風に「フェリ」に引きずられるのが嫌で、ルインは前世の夢を見ることが苦手だった。
 だって、どうすればいいというのだ。
 男が死んだのも、「フェリ」が死んだのも遠い昔のことだ。
 目覚めた今でも鼻の奥に残るような濃い血と硝煙の匂い。風に乗って届くのは死臭で、「フェリ」の視界には傷ついた仲間たちしかいない。
 全てが終わったことだというのに、「フェリ」は未だに地獄のようなあの光景から抜け出すことが出来ないでいるのだ。
 見ているのに、どうすることも出来ない。足(あ)掻(が)くことも助けることも出来ず、ただ諦めるしかない。そんな死と隣り合わせの場所で起こった出来事。
 それを延々と見せられるルインの身にもなって欲しい。

 初めて前世の夢を見たのはルインが十六歳のときだ。竜師になって三年目の夏のことだった。
 今と同じヴィンターベルク城塞のこの隊舎の一室で、やけに現実的な戦の夢を見てルインは飛び起きた。
 目の前に迫る白刃。
 血まみれの腕に抱きしめられて口づけられた月のない夜。
 あっという間に滅んだ祖国。
 それから、誰かが歌う悲しくて懐かしい聞いたこともない歌。
 夢を夢と認識するのに今よりもずっと時間がかかって、半狂乱になって泣き叫んだのはルインにとって一生の恥だ。
 それからだ。ルインはかつて「フェリ」として生きた人生を夢で見るようになった。
 最初はただの夢だと思っていたのだ。けれどあまりに現実的で、まるで実際に見て来たかのような夢を不思議に思って、つい調べてしまった。
 そして分かったのは、「フェリ」が生きたリーヒラインという王国は、実際に七十年前に帝国により滅ぼされた国だということだった。亡国となったリーヒラインについての記述は、碌(ろく)なものがなかった。けれど、それでもリーヒラインには竜騎士団があり、国力が著しく劣るにもかかわらず帝国からの攻撃に半年間持ちこたえたこと。それから、男が出陣して行ったハルトヒューゲルという地名は残っていた。
 ハルトヒューゲル峠の戦いは、帝国の戦史にも記されていた。
 大陸統一戦争の初期の初期。最初に接収したリーヒラインとの最大の戦い。
 そこでリーヒラインは王国を守護する竜騎士隊のほとんどを失ったという。それからほどなくして地図上からリーヒラインという国がなくなった。
 その戦いで男は死んだのだ。
 待っていると約束した「フェリ」を残して。
 そのことを知ったとき、ルインはこれがただの夢ではないことを理解した。
 さすがに一騎士でしかなかった男や、「フェリ」の存在を確かめることは出来なかった。けれど、あの夢は間違いなく過去に起こった現実で、ルインは「フェリ」としてあの場にいたのだ。

 ヴィンターベルク城塞には軍人たちが寝起きするために設けられた兵舎がある。三つある兵舎はそれぞれ階級によって分けられており、当たり前であるが階級が高いものが使う兵舎は真新しく立派な造りになっている。
 ルインが借りているのは、新人兵士たちが使う兵舎で最も古く狭いものだった。ルインの階級を考えれば、もう少し広くて綺麗な部屋が借りられる。けれど、この粗末な兵舎が一番竜舎から近かった。
 朝早くから夜遅くまで竜舎で過ごすことが多い竜師だ。部屋には寝に帰るようなもので、あまりゆっくりと過ごすことはない。そうであるならば、窓を開ければ竜たちが見えるこの部屋がルインにとっては居心地がよかった。
 その日、ルインはいつものように竜舎に向かった。
 頻繁に見るあの夢のせいで、いつだって眠りが浅い。けれど、だからこそ誰よりも早く竜に会いに行けるのだ。朝早く、ルインが姿を見せると竜たちはいっせいに鼻を鳴らして甘える仕草をしてくる。これは気高い竜が心を許している証拠で、朝もやの中その声を聞くことがルインはいっとう好きだった。
 悴(かじか)む手を擦(こす)り合わせながら、ルインは分厚い防寒着の襟をかき合わせた。踏みしめる小路には紅葉した落ち葉が一面に落ちていて、ヴィンターベルク城塞の短い秋の終わりが近づいてきていることを知る。
 ――竜舎の中に落ち葉が入らないように、このあたりも掃いておかないとな。
 そう思って、竜舎に足を踏み入れたときだった。
「おはよう、みんな……?」
 声をかけ、竜舎の中を見たルインは瞬いた。空いていた竜房のひとつに見慣れない竜がいたからだ。周囲の竜たちは当然、黒いその竜を警戒するように立ち上がって、鋭い視線を送っている。ギイギイと響く耳障りな鳴き声は、竜が発する威嚇音だ。
 しかし、激しく緊張する竜たちとは対照的に、ルインはその黒い竜から視線を外すことが出来なかった。しなやかな筋肉に覆われた巨大な身体。全身を覆う艶やかな鱗(うろこ)も鋭い爪も、まるで黒曜石のように漆黒に輝いている。
 美しい竜だ、と思う。それと同時に目を奪われたのは、その竜の背中だ。
「四枚羽だ……」
 小山のように巨大な竜の背中には、四枚の羽が生えていた。
 現在、大陸で確認されているだけでも竜には様々な種がいる。竜騎士の騎竜として最も一般的なのは、比較的気性が穏やかで個体数も多いフリューゲル種と呼ばれる飛竜で、ここヴィンターベルク城塞にいる騎竜のほとんどがフリューゲル種だ。
 二枚羽に艶やかな深緑色の鱗。鋭い爪と牙は全ての竜種に共通するが、フリューゲル種は他の竜に比べると尾が長いのが特徴だ。身体が軽く、しなやかに風に乗る彼らは、空を泳ぐように飛ぶ際にその長い尾でバランスをとる。それらの点から言っても、目の前の竜はどう見てもフリューゲル種ではない。
「カタストローフェ種……?」
 黒竜を見つめたまま、ルインは呆然と呟いた。
 黒い鱗を持つ竜は数あれど、四枚羽の特徴を持っているのは「カタストローフェ種」と呼ばれる竜種しかいない。フリューゲル種より大きな体(たい)躯(く)に、太い脚。周囲のフリューゲル種たちがどれほど警戒しても気に留めないその泰然とした態度。まさに空の王者といった風格は、竜種の中でも最強と名高いカタストローフェ種に相応しいものだった。
 カタストローフェ種はその四枚の羽でどの竜よりも速く空を飛ぶ。吐く炎は鉄をも溶かすほどの高温で、硬い鱗は銃弾の雨すら弾くという。
 最強の竜。――賢く、気高く、美しい。
 竜騎士であれば一度は騎乗したいと思うカタストローフェ種は、しかし、気性が荒く数も少ない。十三歳で竜騎士団に入団してから八年間、ヴィンターベルク城塞で竜師を務めているルインも、カタストローフェ種の竜を見たのは初めてだった。
 竜師として珍しい竜を見れば当然気分は高揚する。しかし、朝の冷えた空気にルインは冷静になった。
 ――どうして竜舎に見慣れない竜がいるのか。
 新しい竜が来る際は必ず決まった時点で上層部からグスタフに通達がある。それからすぐにルインとリアムに説明があって、慌ただしく竜を迎えるための準備を整えるのだ。
 確かに、近々ヴィンターベルク城塞に新兵が配属されるらしい。それと同時に竜騎士と竜が新たに赴任すると通達があり、その一騎がカタストローフェ種であることも知らされてはいた。ということは、この竜はそのカタストローフェ種なのだろう。
 しかし、ルインたちが知らされていた赴任日は今日ではなく、十日ほど後だったはずだ。だからこそ、竜舎にはなんの準備もなかった。
 空いていた竜房には餌はおろか、水や寝藁すら置かれていない。とりあえず、と言った様子で空っぽの竜房に身体を伏せる黒竜を見て、ルインは眉をひそめた。
 近づいても怒らないだろうか。フリューゲル種よりも気性が荒いと聞くカタストローフェ種だ。水すら自らが認めた相手からしか受け取らない可能性がある。
 けれど、竜房の隅に置かれた鞍(くら)を見て、ルインは黒竜のそばに足を進めた。使い込まれたその鞍は、彼が騎士を乗せて長く飛び続けて来た証(あかし)だ。いくら強(きょう)靭(じん)な竜といえども、長距離を飛べば疲れるし腹も減る。喉だって渇いているはずだ。だから、どうしても水をやりたいと思ったのだ。
 竜というのは人間よりもずっと気配に敏(さと)い生き物だ。ルインが近づいてきていることは気づいているはずなのに、黒竜は目を閉じたままだった。
 ゆっくりと息を吐いて、ルインは黒竜がいる竜房に足を踏み入れた。そして、そこにもうひとつ黒い塊があることに気づいた。軍から支給される竜騎士の外(がい)套(とう)。そのフードを目深に被(かぶ)って、竜に寄り掛かるように休むひとりの男がいた。
 それを認めた瞬間、叫び声を上げそうになったのをルインは必死で飲み込んだ。だって、ひどく驚いたのだ。まさか竜舎で人が寝ているとは思わなかった。
 おそらく――いや、間違いなく、彼はこの黒竜の竜騎士だ。そうでなければ、気性の荒いカタストローフェ種にここまで近づけるはずもない。おそらく夜半に到着し、疲れ果てた騎竜を竜舎に押し込んで、自分もそのまま寝たのだろう。意味が分からない、とルインは思った。
 百歩譲って、早く赴任してくるのはまぁいい。竜師としてはそれなりの準備があるので予定通り来て欲しいが、来てしまったものは仕方がない。しかし、せめて騎士は隊舎で休んでくれ。朝、仕事に来て知らない人間が寝ていたら、誰だってびっくりするだろう。なんて、ルインは心の中で毒づいた。
 軍の基地であるヴィンターベルク城塞には一日中見張りの兵士が待機している。いくら夜中に到着したとはいえ、男だってここまで案内を受けたはずだ。ならば、騎士本人も大人しく隊舎まで案内されていて欲しかった。
 はた迷惑だな、を思いつつ、ルインは男の顔を覗(のぞ)き込んだ。その竜騎士はまだ若い男だった。フードから覗く真紅の髪にすっきりとした鼻(び)梁(りょう)。日に焼けた首筋と、外套越しでも分かる鍛え上げられた体躯。目を瞑(つむ)っていても分かるその整った容貌を見て、ルインは息を呑む。
 当然、入隊以来ヴィンターベルク城塞を出たことのないルインからすれば、会ったことも見たこともない相手のはずだった。――けれど。
 ルインの気配に気が付いたのか、男が不意に睫(まつ)毛(げ)を揺らす。髪と同じ鮮やかな紅。瞳を彩るそれが数度震えてゆっくりと持ち上がった。
 現れたのは、空よりも澄んだ青い瞳だ。ルインを映した青が見開かれて驚(きょう)愕(がく)の色に染まる。その瞬間。

 ――レオン……!

 ルインの頭の中で自分ではない誰かの声がした。
 そして、唐突に理解する。ルインが繰り返し夢で見る、出陣直前の男の笑顔。あれほど何度も彼の顔を見送っているというのに、これまでルインは彼の名前を知らなかった。
「フェリ」が愛した竜騎士の男。七十年前の戦争で死んだ男の名前は「レオン」。
 夢の中の「レオン」は金茶の髪に冬の森のような深い緑色の瞳をしていた。少し垂れた眦(まなじり)は笑うと人好きがする皺(しわ)が出来たし、男らしく大きな口はいつだって弧を描いていた。「フェリ」は「レオン」を構成するその全てが大好きだった。
 明るく太陽のようだった「レオン」。彼は竜に乗るときいつも鼻歌を歌っていた。ルインが夢に見るあの歌は、「レオン」が好きでよく歌っていた歌だったのだ。
 目の前の男とは似ても似つかない。髪の色も瞳の色も、その容姿も。その全てが違うけれど、ルインには分かってしまった。
 ――男は「レオン」だ。
 否、正確に言えば「レオン」ではない。あの日、あの場所で「レオン」は間違いなく死んでしまったのだから。
 けれど、男は「レオン」だった。ルインと同じ、一度死んでまた生まれ変わった魂を持つ者。
 男は青い瞳を見開いてルインを見ていた。そこにどんな感情があるのかは分からない。
 ルインは男を見返したまま動けなかった。

 あの朝、竜舎で出会った男は、ルインの予想どおりヴィンターベルク城塞に新しく配属された竜騎士だった。
 ――シグルド・レーヴェ中尉。
 それが男の名前と階級で、男はあっという間にヴィンターベルク城塞の有名人となった。
 最強と名高いカタストローフェ種の騎竜を駆る若き竜騎士は、なんとヴィンターベルク城塞の司令官であるヴィクトル・アイゼンクロイツ大佐と同じ士官学校を卒業したご学友様だったのだ。帝国の士官学校は主に貴族の次男以下――つまり、跡取り以外が通う場所だ。ということは、シグルド自身も貴族であるということだ。
 そんなお貴族様のシグルドが、危険な前線基地に配属になったのには理由があった。
 何でも、ここ最近のストラナー連邦の動きを見たアイゼンクロイツ司令官が、軍上層部に彼をヴィンターベルクに配備してくれるように頼んだらしい。カタストローフェ種を騎竜に持つシグルドは、帝国軍飛竜部隊の中でも珍しい特務武官としての単身配備だった。
 それだけでも十分話題になるというのに、シグルドは非常に気安く人好きのする男だった。
 見目が良く、能力も高い。その上、性格も良く気さくであるのだから、城塞の兵士たちから好かれないわけがなかった。竜騎士ではない一般の兵たちともすぐに打ち解けたようで、彼が食堂に行けば自然と人が集まった。
 その人だかりを横目で見て、ルインは今日もひとりで朝食を終えた。いつも時間が合えば食事をともにしていた同期は、ここ数日はちゃっかりシグルドの隣で食事をとっている。彼は竜騎士だから、シグルドとも何かと話が合うらしかった。
 お前も一緒に食おうぜ、と誘われて、絶対嫌だ、とルインは答えた。
 出来るだけ、シグルドには関わりたくなかったのだ。

 初めて出会ったあのとき、確かにシグルドは驚いたようにルインを見ていた。
 その様子を見て、ひょっとしたら彼もルインと同じようにかつての――「レオン」だったときのことを覚えているのかもしれないと思った。しかし、彼から出てきたのは再会を喜ぶ言葉ではなかった。
 ――君は、ここの竜師?
 嬉しそうな笑みとともに伝えられたのは、彼の名前と階級。それから竜騎士として、これからヴィンターベルク城塞に配属になるということだった。
 所属していた南方司令部から、三日三晩飛び続けてヴィンターベルクまでやって来た、と続けた彼は、到着して力尽きたのだ、と笑った。
 そのときにルインは悟った。シグルドは何も覚えていない。
 かつて彼が「レオン」だったことも、もちろん「フェリ」のことも。
 そのことに対して、別に腹は立たなかった。「フェリ」があれほど焦がれた男は、「フェリ」のことなどさっさと忘れて新しい生を生きている。寂しい気持ちは多少あったが、それは仕方のないことだと思った。
 ルインだって「フェリ」ではない。「フェリ」は「レオン」を愛しているけれど、ルインはシグルドを愛してなんかいないのだ。けれど、彼のそばにいればどうしたってルインの中の「フェリ」が騒ぎ出す。
 シグルドの見た目は「レオン」とは似ても似つかないというのに。ルインの目は彼の姿を追ってしまうし、耳はその声を探してしまう。出会ったときに感じた、沸き立つような喜びを忘れることが出来ないのだ。
 ルインはこれ以上、「フェリ」に引きずられたくはなかった。だからこそシグルドと距離を取りたかった。
 必要最低限の接触しかせず、業務連絡しか言葉を交わさない。そうやって大人しく過ごしていれば、特務武官である彼はそのうちこの城塞から異動になるはずだ。目の前からいなくなってしまえば、心をかき乱されることもない。
 だから、さっさとどっかに行ってくれ。


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