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宮殿のような屋敷で僕の声を探している

キトー / 著
石田惠美 / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2024/08/09

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内容紹介

資産家ナジャーハ家で働くリクは、落馬のため寝たきりとなってしまった御曹司ライルのお世話係を務めている。本来であればライルと顔を合わせることのない下っ端のリクだが、皆が嫌がるためこの仕事が回ってきたのだった。リクは毎日声をかけ、丁寧に清拭し、献身的にお世話し続けた。そして数ヶ月後、ライルが無事目覚めた。しかしその時にはリクの姿はそこにはなく!? ライルは宮殿のように広大な屋敷を歩き回り、声を頼りにリクを探し続ける。目覚めてから一年が経とうとした時……やっと見つけた。「求めていた声と同じだ……」激しい口づけで搦め捕るけどリクは戸惑っているようで――。規格外の愛を与えてくる御曹司と心優しい健気な下っ端使用人の献身愛。

人物紹介

ターリク

通称・リク。ナジャーハ家で清掃係として働いている。元気で心優しい青年。

ライル・ナジャーハ

国内有数の資産家・ナジャーハ家の嫡男。落馬により、寝たきりの生活を送っていた。

立ち読み

【プロローグ】


「あーもぉ面倒くさい」
 洗練された広い空間で、女性の愚痴がこぼれる。
 業務中だというのに愚痴をこぼした声の主は隠すつもりもなかったようで、周りの耳にも易(やす)々(やす)と届いた。
「ほーんと、なんで私達がこんなことしないといけないのかしら」
「奥様も勝手よ。こんな無駄なことを私達にさせるなんてさ」
 最初の愚痴に同調して共に作業していた女も不満気に言葉を並べる。
 二人共に色鮮やかで右肩を出した薄い素材のワンピースをまとっている。一見するとサリーのようだが足元は腰布を足の間を通して巻いていた。
 彼女らは二人でペアとなりベッドに横たわる男性の世話をしていた。それなのに無遠慮な言葉を吐くのは、世話をされる男性の意識がないからだろう。
 ここは国内でも名の知れた資産家の屋敷。数えるのも困難なほどある部屋のうちの、日当たりの良い最上階の部屋だった。
 床は複雑な刺(し)繍(しゅう)が施されたアラベスク模様の絨(じゅう)毯(たん)が敷かれ、広い部屋には凝った作りの家具がセンスよく置かれていた。
 ベッドのすぐ横にはバルコニーが広がり、開け放たれた窓から心地よい風が吹き抜ける。
「もぉ、なんでこの人こんなに大きいのかしら」
「ねー、動かしにくいったらないわよ」
 そんな中、一人がよいしょと男の体を横に転がし、また愚痴をこぼす。
 もう一人が男の背中を拭きながら笑う。背中に落ちてきた男の腕を邪魔そうに退けながら。
 世話をされる男性は背が高かった。
 きっと元気なうちであれば長身は長所になることが多いだろう。
 すらりと伸びた手足に憧れる人も多い。男性となればなおさらだ。
 しかし介護される側になると、とたんに長所は短所になる。
 移動も更衣も清(せい)拭(しき)も、大きければ大きいほど困難になるからである。
「うげー、汚れてる」
「わっ、ほんと! やだー」
 途中、悲鳴に近い声が上がる。すると横に向けていた男の体をやや乱暴に仰向けに戻し、女は背後にいた青年へ声をかけた。
「リク、あとよろしくね」
「あ、はい。分かりました」
 リクと呼ばれた青年は持っていた箒(ほうき)を壁に立てかける。そして手を洗いベッドへと駆け寄った。
 男性の体を拭いていた二人はすでにベッドから離れ、仕事の愚痴を言い合いながら楽しそうに部屋を出ていった。
「綺麗にしますね」
 リクと呼ばれた青年は、正しくはターリクとの名を持つ。
 しかし皆リクリクと呼ぶので正しい名前を知らない者も多いし、ターリク自身も特に気にしていなかった。
 赤茶色の癖のある髪は短く襟足あたりまでだ。瞳は黄色で光の加減によっては金色にも見えた。
 身長はこの国の平均より少し小柄で、さして珍しくもない見た目の彼は、屋敷で清掃係として働く十七歳の青年である。
 女性達と同じような素材の腰布は膝丈で、足の間を通してズボンのように巻いてある。上はチュニックにベストだ。
 そんなリクは、足首まである大きめのチェニックを開けっぴろげにされたままの男に声をかけてから体に触れる。
 近くには男性を着飾っているはずのネックレスやピアス、腕輪などが置かれているが、つけているのを見たことはない。
 おそらくつけるのが面倒になり、放ったらかしにされているのであろう。
 リクはそんなことを考えながら水に浸した布を軽く絞り、大きな体を横に向けて汚れた下半身を綺麗にしていった。
 汚れが布につかなくなるのを確認したら下(した)穿(ば)きを新しくして手を洗い、服も綺麗に整える。
 髪を梳(す)いて後ろに流せば、この国独特の癖のある髪が艶を増した。
「相変わらず綺麗な黒髪ですね。まるで腕のいい料理人が煮た高級な黒豆みたいです」
 最後に体を軽く横に向け、薄いクッションを間に挟む。床ずれを予防するためだ。
「お疲れ様でした。綺麗になりましたよ」
 リクは何度も男に声をかけるが返答はない。まぶたは閉じたままで、何をされても眉一つ動かさない彼は聞こえているかどうかも分からない。
 それでもリクは必ず、何をするにも彼に声をかけた。
 ベッドで眠る男はまだ若く、二十四歳だとリクは聞いている。
 癖のある黒髪は肩のあたりで切りそろえられていた。リクが切ったものだ。
 あまりにも伸びっぱなしだったから周りに許可をもらってリクが切った。前髪のないおかっぱみたいになってしまったが、ボサボサよりはマシだろうと思っている。
 髭(ひげ)も二、三日に一度リクが剃(そ)っていた。
 彫りが深く高い鼻からは管が入っており、胃に繋(つな)がっている。食事の代わりに栄養を流し込むための物だ。
「ちゃんとお通じがあってよかったですライル様」
 寝たきりになると便秘になる人が多い。だから今日も体調が良さそうでよかったとリクは男に話しかけた。
 広く豪華な部屋の主、ライル・ナジャーハ。
 この屋敷の嫡男で、いずれはナジャーハ家の主(あるじ)になるはずの人物だった。
 それも、一年前の話であるが。
「風が気持ちいいですね」
 一年前、ライルが落馬し頭を打ち付け、それからずっと寝たきりなのだとリクは聞いていた。
 資産家の大事な嫡男。ただの清掃係だったリクはそれまで顔すらまともに見たこともなかった。
 それが今ではどうだろうか。家族でもそう見ないだろう場所まで世話をする毎日である。
 この部屋だって、清掃係の間でも上の者しか出入りができなかったのだ。
 しかし部屋の主の将来が見通せなくなった途端に、下っ端の者に仕事が回ってくるようになった。
 なんせ部屋の主は、どれだけ世話をしても手を抜いても何も見ていないのだ。おまけに家族もほとんどこの場に訪れない。リクも家族がライルに会いに来たところを見たことがなかった。
 変わってしまった家族の姿に胸が締め付けられ悲しみに耐えられず会えなくなってしまったのか、それとも……。
「明日は暖かくなるそうです。水菓子が美味しいでしょうね」
 家族の辛(つら)さは計り知れない。関係のない自分が勝手に憶測を広げるべきではないだろう。
「それでは、また後で体の向きを変えに来ます。風が気持ちいいから窓は開けておきますね」
 大きな手を握り語りかける。もちろん握り返されることなどないが、リクはできるだけ手を握るようにしていた。
 そして一方的に会話をしながら簡単に関節の曲げ伸ばしをして、リクは掃除を済ませ部屋を出た。

 リクがライルの世話をするようになったのは半年ほど前のことだ。
 ライルの部屋の掃除を誰もしたがらなくなり、下っ端のリクに仕事が回ってきた。
 そこで見た侍女達のあまりにお粗末なライルの世話に、手を出さずにいられなかったのだ。
 おそらく、元介護員としての記憶がそうさせたのだろう。
 リクは、どういうわけか前世の記憶があったのだ。
 かと言っても、前世で介護職に就いていた記憶が何となくあるだけで、どんな人生だったか、どんな人格だったかなんて思い出せない。
 ただ、よっぽど長い間介護職をしていたのか、その記憶だけはわりとしっかり残っていた。
『あらアンタ手際が良いじゃない。今後はアンタがお下の世話しなさいよ』
 汚れた下半身を嫌そうに眉間にシワを寄せながら力任せに拭く侍女。その侍女に代わりコツを伝えながら洗浄していたらこれ幸いとばかりに押し付けられた。
 その日からライルの介護を受け持つようになったのだ。
 この世界は中東に似た世界だ。しかし前世で育った世界より文化が進んでいないようで、医療もずいぶんと遅れている。
 ただ、時代が遅れているわりには男女の垣根があまりないようにリクは感じている。
 なんせ、このナジャーハ家の当主は女性だからだ。ライルの母親が当主をしているらしい。そこが前世との違いかもしれない。
 ちなみにライルの父は婿養子らしく、あまり決定権もなくて表に出てこないと聞く。
 そんな、平和ボケした日本よりシビアな世界。もし一般市民がライルと同じ状態になれば、長くは生きられないだろう。
 鼻から管を入れて栄養を摂らせてまで、将来のない者を生かしてもらえないからだ。
 しかし意識がなく寝たきりになってでもライルが生きていられるのは、名だたるナジャーハ家の嫡男だからこそと言える。
 中にはそこまでして生かして何になるのだと、厳しい言葉もあるという。
 それでも家の者の誰かが望めばどれだけ将来への希望がなくとも生かされる。それだけの力があるのだから。

「こんばんは」
 夜になり、リクは本日何度目かのライルの部屋を訪れる。
 手には固く絞った清潔な布を持って。リクは布でそっと顔を拭き、体の向きを変えた。
「今年もそろそろ、ミランの花が咲きそうです」
 春になると咲く薄桃色や黄色の花。コスモスにも似たその花はこの世界で春を代表する物であり、屋敷の中庭にも多数植えられている。
 彼が寝たきりとなったのも春だ。毎年当たり前のように見ていたはずのミランの花をこうも早く見れなくなる日がくるなんて、彼も想像していなかっただろう。
 それでも……。
「一斉に咲いたら豪華な折り菓子のようで、きっと綺麗ですよ」
 いつか目覚めるかもしれない。可能性は極めて低いと分かっているが、前例がないわけじゃない。
 もしかしたら数年後、一(ひと)月(つき)後、明日、いや、たった今からでも目覚めるかもしれないじゃないか。
「いつか、一緒に見られたらいいですね」
 リクはバルコニーから中庭を眺め、毎年咲き誇る花々を想像して微笑んだ。
 夜になると頬を抜ける風は冷たい。リクは一息ついて窓を閉め、自室に戻るため戸に向かった。
「………………──」
「え……?」
 出る直前に背後から何かが聞こえた気がして、リクは振り返る。
 しかし、月明かりに照らされた部屋はいつもと変わりない。
「……?」
 リクは気のせいかなと首を傾(かし)げて、静かな部屋を出ていった。
「──…………そう、だ……な……」
 静まりきったはずの部屋で、掠(かす)れた声が話しかけてきたことも気づかずに。
 その日の晩、屋敷が騒然とする。

【一章】


「異動……ですか?」
「異動って言うか、元の仕事場に戻りなさいって言ってるのよ」
 日が昇る前の早朝。いつものように仕事場に行こうとしたリクを、年配の女性が呼び止めた。
 なんだか今日は屋敷の雰囲気がいつもと違うなと思っていたリクに異動の知らせだ。
 ナジャーハ家の者が避けるように寄り付かなくなったライルの周辺。そこが昨日までのリクの担当だった。
 けれど今日からは以前のように厨(ちゅう)房(ぼう)や使用人達の通路の掃除、庭の草むしりに戻るようにとお達しであった。
「今日からまた私がライル様の部屋を担当します。分かったわね?」
「……分かりました」
 突然の異動に多々訊(き)きたいことはあるが、尋ねたところで答えてはもらえないだろう。
 リクにライルの部屋を掃除するよう言ったのはこの女性だ。
 長く勤めるお局(つぼね)で、清掃係の管理者より大きな顔をしている人物である。ナジャーハ家の次期当主、ライルの部屋を担当していることを鼻高々に話していた。
 しかし、ライルが寝たきりになってから仕事をリクに押し付けてきたのだが、それが今さらどういう気の変わりようだろうか。
 そうは思っても、下手に口出ししようものなら十倍になって返ってくるのでリクは黙って従うことにした。
「じゃあ今から向かいますね。先に厨房からでいいですか?」
「当然でしょ。つまみ食いするんじゃないわよ」
「しませんよー」
 たぶん……と小さく付け加えてリクは厨房へと向かう。
 久しぶりの厨房は以前と特に変わったところもなく、リクはさっそく手慣れた様子で床を磨きにかかった。
 料理人達が来るまでに終えなければ嫌な顔をされてしまうからだ。
「おやリク、久しぶりだねぇ」
「お久しぶりですシーリンさん。今日からまたここの担当になりました」
 あらかた床の掃除を終えた頃、年配のふくよかな女性が厨房へと入って来てリクに声をかけた。料理長の妻で野菜の下処理を担当するシーリンだ。
 白髪交じりの茶髪を三つ編みにしてストールを巻いている。
 誰よりも早く厨房へやって来る彼女は、以前は毎朝リクと顔を合わせていたので自然と仲良くなった。
 そしてリクはこの女性が大好きだった。と言うのも──。
「ほらリク、あんたの好きな菓子の切れ端だよ。お食べ」
「えーそんな僕なんかが悪いですよ!」
 ──と言いながら、しっかり手は出すリク。
 そんなリクにシーリンは笑いながら菓子の切れ端を手渡した。
 成人する前から働いていたリクに、シーリンは何かと世話をやく。特に食べざかりを過ぎても食べることが大好きなリクだったので、いつもこっそりつまみ食いをさせてくれるのだ。
 しかしこれはつまみ食いじゃない、味見なのだと自分に言い聞かせ、リクはご満悦な様子で菓子を頬張った。
「食べたらしっかり掃除しておくれよ」
「はい! 誠心誠意掃除させていただきます!」
「相変わらず現金な子だねぇアンタは」
 幼い頃から世話になっているからか、未だリクを子供扱いするシーリンは呆れたように笑う。
 リクもシーリンの前ではつい子供のように甘えてしまうが、シーリンもそれで楽しそうなので勝手に良しとしている。
「ところで今日来たときなんだか屋敷内の雰囲気がいつもと違うような気がしたんですが、シーリンさん何かご存知ですか?」
「さぁねえ。私も来たばっかりだから分からないよ。旦那なら何か聞いてるかもねぇ」
「そうですか」
 確かにシーリンの旦那ならば、屋敷に何かあったのなら話がいくだろう。なんせ屋敷の料理を任せられている料理長なのだから。
「じゃあ、夕食後にまた来ますので、その時に……」
「そうだね。何か旦那から聞いたら教えてあげるよ」
 そう言ってシーリンと別れたリクだったが、予想に反してずいぶんと早く真相を知ることとなる。
「ねぇねぇ! ちょっとリク聞いた!?」
「え、あ、お久しぶりで──」
「まさかよねっ!」
「は、はぁ……?」
 久しぶりに会った侍女から挨拶もそこそこに詰め寄られ、リクはたじたじになった。
 とにかく話したくて仕方ないといった様子の若い侍女は興奮を隠さない。
 いったい何が彼女をそこまで興奮させるのかと黙って聞いていたら、彼女の口からは信じられないような事実が語られた。
「ねぇまさかリク知らないの?」
「たぶん……何か大事でしょうか?」
「やっぱり知らないのね!」
 リクが知らないと知ると彼女は嬉しそうに顔を輝かせる。どうやら自分が知らない人に第一に説明できるのが嬉しいらしい。
「あのねリク、驚かないでよ」
 もったいぶったようににやりと笑う侍女。リクはなるべく驚いたふりをしてあげようと思いながら言葉を待ち──。
「なんとね……なんと、ライル様が目覚めたのよぉっ!」
「えぇっ、ホントに──っ! ……え、それ、ホントですか……?」
 ──驚くふりはできなかった。心底驚いたからだ。
 人間はあまりにも驚くとかえって大きな声は出ないらしい。
 少し間抜けな声を出してポカンとするリクを見て、侍女は面白そうに笑う。
「ホントよホント。ねー、びっくりでしょ? もう屋敷中みーんな噂(うわさ)してるんだから」
「そ、そうなんですか……」
 ライルが目覚めた。一年間も目を覚まさなかったライルが。指一本どころか眉一つ動かせなかったライルが。昨日まで自分が介護していたあのライルが……。
「……お目覚めになられた」
 まだ信じられない気持ちが大きいリクだが、周りを見渡せば皆興奮した様子で囁(ささや)き合っている。
 警護の者まで話に夢中になるものだから、しまいには各職の支配人が「仕事をしろ!」と怒鳴る始末。
 散り散りに離れていったように見えたが、その後も仕事をしながら皆噂話を飛び交わす。
 リクは一人で窓を拭きながらそっと噂話に耳を傾けた。
 どうやらライルは昨晩に目を覚ましたようだ。
 とはいえずっと寝たきりだったライルはすぐに動くのは難しいらしく、ベッドの上で少しずつ体を慣らしているらしい。
「あのライル様が……」
 つい昨日まで寝たきりの姿を見ていたリクにとってはとても信じられない話だった。
 だが、噂が本当であれば納得もいく。
 誰も寄り付かなくなった意識のない子息の部屋の担当ならまだしも、実権を取り戻した子息の部屋をそのまま下っ端のリクに任せるはずがない。
 きっとまたあの、年配でベテランの、ついでにプライドの高いお局が担当に戻ったのだろう。いきなり元に戻せと言ったのはそういう理由だ。
「よぉリク、久しぶりだな」
「お久しぶりです」
「最近見なかったじゃないか。どこで仕事してたんだ?」
「はは……まぁ、ちょっと色々と──」
 窓の外から同年代の使用人に声をかけられるが、返事は曖昧にしかできなかった。
 リクがライルの部屋を担当していたのはお局のわがままからだ。けれどそれを告げ口したら、また面倒なことになるだろう。
 だからその後も見知った使用人達と久しぶりに会話を交わしたが、曖昧に笑って最後の窓を拭き終えた。
「次は厠(かわや)か……」
 汚れた布を洗い、やれやれと伸びをする。その際に視界に入ったのは、白壁に赤く丸い独特な形をした飾り屋根の宮殿のような屋敷。
 その一角の最上階には、今も彼がいるのだろうか。
 昨日までは毎日出入りして掃除をしていたが、きっとこれからは行く機会などない。
 突然、遠い存在となったナジャーハ家の嫡男。しかし元から住む世界が違ったのだ。
 そう自分を納得させ、今後はめったにお目にかかることもないだろうと少し寂しさを覚えながら、リクは以前の日常に早くも馴(な)染(じ)んでいった。

     ❖ ❖ ❖

 本日はしとしとと雨が降っていた。
 雨があまり降らないこの国では恵みの雨だ。
 今頃は農作業の民が喜んでいることだろうと、宮殿のような屋敷の一角で、一人の若い男が思いを巡らす。
 男はラグに胡座(あぐら)を組み、複数ある大きなクッションの一つに腕を乗せて寛(くつろ)いでいた。
 肩より伸びた癖のある黒髪を一つに束ね、深い蒼(あお)の瞳を持つ目を細めて何をするでもなく雨を眺める。
「……どこにいる……」
 眼光鋭く眉間にシワを寄せた男の名はライル・ナジャーハ。
 言わずもがな、このナジャーハ家の跡取り息子だ。
 とはいえ、数月前までの跡取りはライルの弟、アーテフであった。
 ところが、ライルが意識を取りもどし障害もないと分かったとたん、跡取り息子の座に勝手に戻されたのだ。
 アーテフは気を悪くしたかと思えば「これで肩の荷が下ります。私は商談に向いていませんから」と心底安(あん)堵(ど)した様子であった。
 長い間の寝たきり生活で落ちてしまった体力は、本人の気質からか無理に無理を重ねて、一月も経(た)たずに取り戻した。
 そして努力を惜しまない彼は、一年の空白期間を物ともせずに取引先との信頼も取り戻したのだ。
 そんなわけで、今ではすっかり皆から認められる跡取り息子である。
 まさに奇跡の復活、と言えるだろう。
 しかし、当の本人の顔は険しい。
 元々あまり笑わない険しい顔の人物であったため、あまり表情は当てにはできないが、とにかくライルは不満を抱えているのだ。
「なぜこうも見つからないのだ……」
 ライルの嘆きは誰に聞かれることもなく雨音に消される。
 彼は探していた。目を覚まして自由に動けるようになってから、目が回るほど忙(せわ)しない日常の合間を縫って探し続けている。
 彼の心を占めるのはただ一人。顔も知らない人間だ。
 分かっているのはおそらく若い男だろうということと──。
「リク……」
 ──と、呼ばれていたことだけだった。

 ライルが体を動かせなくなった一年間。
 まぶたすら開けられず意思疎通ができなくなり、皆は次第に自分を手のかかる人形のように扱いだしたのをライルは覚えている。
 そう、ライルは寝たきりの間も意識はあったのだ。
 しかし、意識があるからこそ苦痛だったとも言える。
 当たり前にできていた日常動作が一切できず、下の世話までされる始末。成人男性が何もできない赤子のように扱われるなど屈辱でしかなかった。
 意識の浮き沈みを繰り返す中、腫れ物を扱うように慣れない手付きで体を拭かれたり、着替えをされたのを覚えている。
 それは次第に雑になっていき、本人の前で遠慮のない不平不満を漏らすようになる。
 それを聞いたところで文句も言えず、怒りは情けなさに変わり、己が生きている意味を失っていく。
 いつまでこの意味のない人生は続くのか、そう途方に暮れていた頃だった。
『こんにちはライル様』
 久しぶりに名を呼ぶ者が現れた。
 知らない声のその人物は、一つ一つの動作をライルに報告しながら体に触れる。まるで話しかけるように。
 丁寧に、しかし手際よく体を綺麗にして労(ねぎら)いの言葉をくれる。
 久しぶりに人として扱われたようで、死んでいた心が蘇(よみがえ)っていく。
 それでも、きっと今だけだろう。ライルが目覚める可能性が低いと分かれば、この人物も周りに感化される。手がかかるだけの置物のように扱い、事務的に作業をこなして、時にライルを嘲笑うようになるだろう。
 もうこれからの人生に期待などしてはいけない。希望を持てば持つほど惨めになるだけなのだから。
 だから期待などしない。これからも人として扱ってほしいなど、手がかかるだけのお荷物が望んではいけないのだ。
 そう、諦めていたのに……。
『髪が伸びてきましたね。僕が切ってもいいでしょうか』
『あ、背中が赤くなってる。体を横に向けますね』
『今年は果物が豊作らしいです。ライル様は甘い物は好きですか?』
 すべての記憶を鮮明に覚えているわけではないが、残された彼の記憶を手繰り寄せれば、そのどれもが心地よいものだった。
『ライル様の手って大きいですよね。それにゴツゴツしてて……今朝食べたパンに似てます』
『僕は見たことないけど、ライル様の瞳は青だって聞きましたよ。濡れたブドウみたいな綺麗な目なのかな』
 何かと食べ物に例える、顔も知らない青年。
 時にマッサージをしながら、時に顔を拭きながら、毎日ライルへと話しかける。そしてそれはライルの予想に反して、何日経っても青年の態度は変わらなかった。
 次第に、ライルは青年を心待ちにするようになる。
 彼と接している時だけ、自分が尊厳のある人間に戻れた気がしたのだ。
 彼に触れたい。彼と話したい。己の瞳の色を見たら、今度はどんな食べ物に例えるだろうか。
『今年もそろそろ、ミランの花が咲きそうです』
 爽やかな風を頬に感じながら、毎年見ていたミランを脳裏に思い浮かべた。
『一斉に咲いたら豪華な折り菓子のようで、きっと綺麗ですよ』
 相変わらず食べ物に例える彼がおかしくて、動きもしない顔で笑った。
『いつか、一緒に見られたらいいですね』
 いつか、一緒に──。
 忘れかけていた、希望を思い出す。
 以前のように当たり前の生活ができたなら。自分で歩いて、顔を洗って、様々な食事を味わって、仕事をして。そんな、当たり前の生活が……。
 もし願いが叶うなら、お前と共にミランの花を見たい。
 色とりどりの花を見下ろして、色とりどりの折り菓子を用意しよう。
 甘い物ばかり話す彼だから、花より折り菓子に釘(くぎ)付(づ)けになりそうだ。
 諦めていた心が久しぶりに抵抗を始めた。
 こんなところで終わってたまるか。まだ彼と一言も話していないのに。
『いつか、一緒に見られたらいいですね』
 何度も彼の声が心に木霊する。それは、ライルの心臓を打つ。
 ドクリドクリと鼓動が大きくなり、つま先まで血液が巡る感覚を覚え、視界に、光を宿した。
『──…………そう、だ……な……』
 最初に視界に映ったのは、月明かりを反射した僅かな光。その光すら、眩(まぶ)しく感じた。
 これは夢だろうか。
 久しぶりの光に驚いたのか、乾いた瞳に涙の膜が張った。
 涙を拭おうとして、自分の手が涙を拭った。手が、動いた。自分の手が、自分の思った通りに、動いた。
『……っ、』
 こめかみに溢(あふ)れる涙が伝ったのを今でも覚えている。
 あの日の喜びをどう表そうか。
 絶望から抜け出したあの日を、これから先、一生忘れることはないだろう。
 奇跡の復活の噂は風のように、屋敷だけでなく国中に広がった。
 驚くほどの努力と気力で、あの日の威厳を取り戻した。
 もう恐れることは何もない。一度すべてを失ったのだから。あとは取り戻していくだけなのだから。
 なのに、なのに──。

「なぜ、お前だけは思い通りにいかないんだ」
 いないのだ。どこを探しても彼だけが。
 己の世話をしていた者を集めても、それらしき人物はいなかった。リクの話をしても、皆知らないと首を振る。
 ならば、と、何百といる使用人の名簿にすべて目を通し、『リク』の名を持つ者達に会ったが、それらしい人物はいなかった。
 夢のような人物が、夢のように消えてしまった。
「……いや、夢のはずがない」
 夢で終わらせてなるものか。
 今でも鮮明に思い出す彼の声。顔も分からず名も当てにならないのなら、残った頼りは彼の声だけ。
 だから今日もライルは、彼の声を探し続ける。
 ミランの花が、とっくに枯れ果てた日の出来事だ。

     * * *

「パーティー?」
「あぁ、十日後に屋敷全体でやるらしいぞ」
「それに僕達も参加できるんですか?」
「らしいな」
 いつものように窓を拭きながら世間話をしている最中に流れてきた情報。なんでも、ライルの快気祝いなのだと。
 ライルが目覚めて四(よ)月(つき)ほど経つが、今頃快気パーティーとは何の気まぐれであろうか。
 リクは金持ちの考えは分からないなと思いながらも、パーティーに並ぶ豪華絢(けん)爛(らん)な料理を思い浮かべて喉を鳴らした。
 使用人も参加していいのであれば、自分も料理を食べる権利があるはずだ。
 運ばれていくのを遠いところから見ていただけだったごちそうが、目の前で見れるかもしれない。更には口にできるかもしれない。
 それはそれは魅力的な料理が並ぶのだろう。食べたことのない、びっくりするような味の料理もあるかもしれない。もちろんデザートだって豊富にあるはずだ。
「楽しみだなぁ……」
 まずは肉料理から食べようか。もしくは珍しい魚料理を十分に堪能するのもいい。
 それより満腹になる前にデザートに手を出すのもいいかもしれない。
 彩り鮮やかな料理を楽しく想像しながら、リクはいつにも増して精力的に仕事をこなしていった。

     ❖ ❖ ❖

「パーティーの準備はどうなっている」
「滞りなく進んでるよ」
「言葉遣い」
「進んでます」
 取引先の書類に目を通しながら、顔も上げずにライルが問う。その問いに答えたのはまだ若い家臣だ。
 以前、正しくはライルが寝込む前は別の家臣が就いていた。
 年配でベテランの、腕の立つ家臣だったのだが、ライルは目覚めて真っ先に彼を切った。
 寝たきりになって数日はライルの元を訪れていたのは覚えている。
 しかし次第に声は聞こえなくなり、数月して久しぶりに声がしたかと思えば──。
『まったく、さっさとくたばって頂けないもんかね。でなければ私が次の役職に就けんじゃないか』
 ──と呟(つぶや)いたのを聞いてしまったのだ。
 ライルが目覚めた時は涙ぐみながら大げさなほど感動した様子で部屋に入ってきたが、その場でライルが役職を外したのは当然と言えよう。
 今ではナジャーハ家の者と直接関わることのないような場所で働いている。跡取り息子の家臣からの大幅な左遷だ。
 そんなこんなで新たに家臣として就いたのは、ライルより少し若い青年だった。
 名をカルイという。金髪に近い明るい髪は後ろの一部だけ伸ばして三つ編みにしている。
 ライルが幼い頃に共に遊んだり、悪巧みをしたりして叱られた経験を持つ。
 仕事ができる方ではなかったが、やや人間不信に陥っているライルにとって、数少ないそばに置いても安心できる人物であった。
「でも前は快気パーティーなんていらないって言ってたのに、どういう風の吹き回しだよ──ですか? けっこう面倒くさいんだけど……」
「カルイ、いい加減まともな敬語を使え。それに面倒くさいと思っても口に出すな」
 なんせこの青年、思ったことをそのまま口に出す。普通ならば家臣には適さないが、今のライルにとってはやや困ることがあっても裏表のない言動が安心できたのだ。
「それで、何で今頃パーティーなんですか?」
「……今仕事中だ。世間話は控えろ」
「んなこと言ってたら一生喋(しゃべ)れないじゃん。ライル様起きてから寝るまで仕事してるしさ」
「……」
 書類を一応整理するふりをしながらカルイが話しかける。
 そんなカルイにライルは仕方ないというように手を止め、顔を上げた。
「人を探してる」
「人? 誰?」
「知らん」
「知らない人を探してんの!?」
 そんな無茶な、と驚くカルイは当然の反応だ。
 それをライルも分かっているつもりだが、少し苛(いら)ついたので腹いせに紙くずを投げつけた。
「投げるなよ……だって知らない人を探すって意味分かんねーもん」
「そんなことなど私も重々承知している」
「じゃあなんで怒んだよー」
「お前の顔に腹が立った」
「八つ当たりじゃんっ!」
 隣で喚(わめ)くカルイを無視して、ライルは書類に視線を戻した。そんなライルにカルイはぶーたれながらも渋々仕事に戻る。
 しかしまだ話し足りなかったようで、手を動かすふりをしながらまたライルへ話しかける。
「それで、挨拶に来た人への贈呈品を準備してるわけか。でも相手が分かんないのに挨拶来られても分かんなくね?」
「いや分かる……はずだ」
「ふーん……」
 ライルのハッキリしない言い分に顔を上げたカルイ。
 訝(いぶか)しげな顔のカルイだったが、ライルの顔を見て表情を変える。
 それはきっと、どこか不安そうな、しかし諦めることを知らない友人の姿を見たからだろう。
「そんなに大切な人なんだ?」
「あぁ」
「見つかるといいな」
「……見つけてみせるさ」


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