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英雄になれなかった子

朝顔 / 著
aio / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2025/01/10

内容紹介

百年に一度、偉大なる英雄の力を持つ一人の「英雄の子」が誕生するはずのグラディウス帝国に、二人の英雄の子が誕生した。その英雄の子の一人でありながら力が弱いルキオラは偽物だと冷遇され、孤独に生きていた。英雄の力が覚醒する成人の儀式の直前、ルキオラの前に異国から来た騎士・オルキヌスが現れる。彼の優しさに触れ惹かれていくルキオラ。しかしオルキヌスには、英雄の謎を暴かなければならない理由があった。運命に翻弄される中、使命に囚われたルキオラを奪い去りたいと、オルキヌスは熱い想いをぶつけてきて……。「必ずお前をここから救い出してやる」英雄という存在に運命を握られた二人が未来を切り開く、純愛ラブストーリー!

人物紹介

ルキオラ

百年に一度生まれる「英雄の子」の一人。もう一人の英雄の子に比べて力が弱く、偽物だと周りから蔑まれてきた。

オルキヌス

剣の腕を買われ、異国より雇われた騎士。なにやら「英雄」について調べているようで……。

立ち読み

第一章 二人の英雄様


「英雄様だ!」
「英雄様がいらっしゃったぞ!」
 色とりどりの花びらが舞っている。
 沿道ではたくさんの人々が、拍手をして花びらを撒(ま)いて、歓声を上げていた。
 羨(せん)望(ぼう)の眼差しが向けられるのは、二台の馬車だ。
 先頭を進む馬車の窓から、人々の歓声に応えるように手が出てきた。
 それだけで、人々は熱狂の渦となる。
 後方を走るもう一台の馬車、その車内で箱が揺れるような歓声を聞きながら、ルキオラは静かに目を閉じた。
「よろしいのですか? ヘルト様は民の期待に応えていらっしゃるようですが……」
 ルキオラの従者であるウルガが、困ったような様子でそう問いかけてきた。
 必要ならばルキオラにヴェールをかけて、窓を開けるのが彼の役目だからだろう。
 ルキオラはゆっくり目を開けた。
「……彼らが求めているのは、私ではないから」
 そう言ったルキオラは、口にしたことでよけいに虚しい気持ちになって唇を噛んだ。
 外から聞こえてくる歓声、それは自分に向けられたものではない。
 ただ英雄様、と呼ばれるモノに向けて、一斉に歓声と拍手を送っている。
 どちらが偽者なのか、今はそんなことはどうでもいいのだろう。
 目の前を通る馬車から、とにかく一目でもいい、その姿を見たいと集まっているのだ。
 まだ神殿に入ったばかりの神官見習いであるウルガの目には、やる気のないルキオラのことはどう映っているのか。
 困惑したような空気から、彼も長くはないなとルキオラは察した。
 ルキオラの従者は一年続いたことがない。
 みんな苦い顔をして辞めていく。
 憧れの英雄様の従者になれたというのに、ガッカリだったという視線を浴びながら、頭を下げて出て行く彼らをもう何度となく見送った。
「疲れたんだ。少し眠らせてもらう」
 ルキオラは花びらが舞っている外の様子から逃れるように、下を向いて今度こそ目を閉じた。
 ウルガは何も言わなかった。
 早く、早く終わってくれ。
 ルキオラはいつもそう願っていた。


 およそ千年前、混(こん)沌(とん)の世を制圧して、グラディウス帝国を勝利に導いた英雄がいた。
 彼の名は誰も知らない。
 ただ、英雄と呼ばれた彼が死んだ時、人々は悲しみに暮れて、また元の世界に戻るのではないかと恐怖と混乱に包まれた。
 世界を創生した、銀髪で赤い瞳を持つ女神ルナ。
ルナを神として崇(あが)める帝国の神殿では、代々長にあたる者が女神の言葉を神託として受けることができた。
 汚れのない魂を持っていた英雄は女神に愛されていた。
 英雄が死んだ後の神託では、その死を悼(いた)んだ女神が、百年に一度、英雄の魂を蘇らせてその日に生まれた子に宿すとされていた。
 その子が生きている間は、女神の加護により、国の平和、富と繁栄は約束される。
 だから英雄の子を大切にしなさいという神託だった。
 こうして百年に一度、グラディウス帝国では、魂下ろしという儀式が行われて、その日に生まれた子には、英雄の魂が宿った印が発現した。
 その子は英雄の子と呼ばれ、神殿に保護されて後の英雄様として大切に育てられる。
 英雄様となった子は、英雄と同じ力が少しずつ使えるようになり、成人までに完全体となる。
 成人を迎えるとその力は徐々に消えてしまうが、その者が生きている限り、平和な世が約束される。
 しかし、女神の加護があっても、力をなくした英雄様は人と同じ寿命で死んでしまう。
 英雄様が死んだ後は、暗黒期と呼ばれて、次の英雄様が誕生するまで耐え忍ぶことになる。
 飢(き)饉(きん)に災害、戦争など数々の困難が国を襲い、人々はますます英雄様を待ち望み、神殿に信頼を寄せた。
 今や帝国は皇帝と神殿が二本の柱となって国を支えていた。
 そして今から十九年前、魂下ろしの儀式が執り行われ、新しい英雄様が誕生した。
 百年に一度、脈々と受け継がれ行われてきた儀式。
 英雄様の魂を宿した子には、額に魂の形を模したという紋章が刻まれている。
 魂下ろしの儀式がいつ行われるか、それは公表されないため、生まれた子に印があった場合、必ず神殿に届けなくてはいけない。
 儀式が行われた後、神殿に急ぎ向かう馬車があった。
 馬車が到着すると、中から現れた者の手には、額に印がついた生まれたばかりの子が抱かれていた。
 百年に一度、繰り返されるこの光景。
 神官達が膝を地面につけて、祈りを捧げながら英雄の子の誕生に喜びの声を上げる。
 しかし、この年は違った。
 そこにもう一人、子を抱いて駆け込んできた者がいたのだ。
 そしてその子の額にも、魂の紋章が刻まれていた。
 今まで一度として、英雄様が二人生まれたことはない。
 二人の英雄様の誕生に、辺りは静まり返った後、混乱と動揺が広がり騒然となった。
 そこに現れたのが神殿長だった。
 神殿の最高位として君臨する彼は、二人の子を見比べた後、これは不幸な偶然によって魂が分かれてしまったのだろうと告げた。
 おそらく成人になり、完全体となる頃には本来受け継ぐはずだった子の方に、全て力が戻るだろうと。
 だからそれまで、二人は手厚く保護して、どちらが選ばれてもいいように、英雄様として育てるとした。
 こうして、歴史上、初めて二人の英雄様が誕生した。


 真っ白な石材で造られた神殿の門を抜けて、馬車はゆっくりと進んで白い石壁に囲まれた馬車回しに到着した。
 いつも通り、迎えの姿はなく神殿の玄関口は静寂に包まれている。
「おかしいですね。誰も出てこないなんて……」
 今日から従者として働き始めた彼は、まだここの常識について何も聞かされていないようだ。
「先の馬車がもう到着しているからだろうね」
「えっ……、ですが、ルキオラ様を待たずに下がったのですか?」
 ウルガは信じられないという様子で首を振って外の様子を確認していたが、本当に誰一人いないので驚いていた。
「君は地方の神殿から来たばかりだったね。一週間もすれば慣れるよ」
「慣れる……というのは……?」
 呆気に取られて動けない従者をいつまでも待っていられず、ルキオラは自分でドアを開けて外に降り立つ。
 主人がさっさと出て行ってしまったので、ウルガはやっと気がついたのか、申し訳ございませんと、言いながら追いかけてきた。
「覚えておくといいよ。ここに英雄の子は二人いるが、本物は一人だけだ。みんなそれが誰だか分かっているんだよ」
 まるで自分が偽者だと言うように淡々と言い放った後、ルキオラはまた歩き始めた。
 白鳥神殿と呼ばれる、帝都の中心に聳(そび)え立つ中央神殿。
 それがルキオラには白い要塞に見えて、いつ見ても胸が苦しくなる。
 目が覚める度に、なぜ自分が選ばれたのだろうと考えてしまう。
 今は十九、成人と呼ばれる二十歳を迎えた時、全てから解放される。
 そう思って生きてきたが、そうなった時、すでにいらないものとされている自分に、どのような道が残されているのか。
 まるで監獄に入るような気持ちで、ルキオラは神殿に足を踏み入れた。
 生まれてからずっと、この神殿が自分の家で、ここでの生活しか知らない。
 振り返って空を見上げたルキオラは、高い空を飛んでいく鳥の姿を見て目を細めた。
 息を吐いたルキオラは、神殿の方に顔を向けてまた歩き始めた。


 神のいたずらか偶然か。
 英雄様の魂を持って生まれてきた子は二人だった。
 前代未聞の事態に、神殿と皇帝のいる宮殿は大騒ぎになった。
 今か今かと待ち望んでいた国民に向けて、すぐにお触れが出されて、二人の英雄様の誕生は世間に広まった。
 民は英雄様が生まれることを待ち望んでいたので、それが二人であればもっと国が繁栄するのではと考えて、喜んで歓迎した。
 最初に神殿を訪れた子は、子爵家に生まれた貴族の子だった。
 そして後から来たもう一人は、帝都の町外れの貧民街に住む、行商を営む平民の親から生まれた子だった。
 名誉なこととはいえ、貴族の両親は生まれたばかりの子との別れを惜しんだ。
 英雄様はすぐに神殿に引き取られて、自分達の子ではなく国の宝となってしまうからだ。
 一方、平民の子の方は、夫婦の八番目の子であり、もともと食い扶(ぶ)持(ち)を減らすため人買いに売る予定だったらしい。
 国から多額の恩賞金を得ることになり、その子の親は喜んで子供を差し出したそうだ。
 生まれも違えば境遇も違う、しかしそんな二人の容姿は、全くと言っていいほど同じだった。
 神話に登場する女神ルナと同じ、白く透き通った肌に輝く銀色の髪で、瞳の色は女神とは違うが、二人とも若葉を思わせる淡い緑色で同じだった。
 顔立ちも見分けがつかないくらいで、双子にしか見えなかった。
 歴代の英雄様は、皆、同じ容姿で生まれてきたので、おかしなことではなかったが、同じ顔が二人というのは、不思議な光景だった。
 ただ、一つだけ違いがあり、平民の子は口の横に小さなホクロがあった。
 神殿では、ホクロは前世で犯した罪の数と教えられており、それを見た神官達はなぜ英雄様にと顔を顰(しか)めたという。
 こうして神殿で保護されることになった貴族の子はヘルト、平民の子はルキオラと名付けられた。
 始めは二人とも同じように手厚く保護され、英雄様と呼ばれて大切にされた。
 しかし、成長するにつれて、二人には少しずつ違いが現れた。
 幼い頃からヘルトは、愛くるしい笑顔を振り撒き、誰からも好かれた。言葉も文字も早くに覚えて、健康的で体力もあり、頭の回転も早かった。
 何をするにもどんどん吸収して、さすが英雄様と呼べる才能を発揮していった。
 一方、ルキオラは体が弱く幼い頃は寝てばかりいて、言葉を話すのがずっと遅かった。やっと話し始めても、ろくに舌が回らず、舌足らずな喋(しゃべ)りで周囲の失笑を買った。本を読むのも時間がかかり、体を動かせば怪我ばかりする。教師も呆れるぐらいできない子であった。
 同じ立場の子が二人いれば、比べられるのは当然だ。
 めきめきと輝くように成長していくヘルトの横で、いつまで経っても芽が出ず地面に這(は)いつくばっているルキオラは、間違えられた子、偽者だと呼ばれるようになった。
 やがて、英雄の力が発現すると、それは火を見るより明らかになる。
 戦場で何日も戦い続けられるような体力と、戦闘能力、重傷者もたちまち回復させてしまう治癒力、その全てをヘルトは使えた。
 一方、ルキオラに発現したのは、わずかな傷を治せるくらいの治癒力のみだ。
 十歳を過ぎた頃になると、力の差は歴然となり、ルキオラを支持しようなどという者は誰もいなくなった。
 神官達が尊敬の目で見て崇拝する英雄様は、ヘルト。
 一人ずつ、自分の側から人が離れていき、一人になったルキオラは、早く解放されたいと思うようになった。
 自分が英雄様でないことは明らかだ。
 成人に近づいてもなお、なぜしがみつくように力が消えずに残っているのか。虚しくて寂しい日々に、ルキオラの心は冷たく凍りついてしまいそうだった。


 神殿の廊下を歩きながら、ルキオラはゲホゲホと咳(せ)き込んだ。
 暖かくなってきたが、まだ朝晩の冷え込みがあるので、どうやら風邪をひいてしまったようだ。
「ルキオラ様、大丈夫ですか?」
「大丈夫。部屋に戻って少し休むから」
 後ろを付いて歩くウルガが声をかけてきたが、ルキオラは大丈夫だと言って歩き続けた。
 こんなところで従者に支えられながら歩いたりしたら、また仮病か、病弱な英雄様だと笑われてしまう。
 気丈に振る舞って一人で歩かなければ、ここではまともに生活できないのだ。
 ただでさえ支給される服は、薄い布を重ねて纏(まと)うもので、体の弱いルキオラは寒さを感じる。
 暖かい服が欲しいと頼めば、贅沢だわがままだと言われて、結局何一つ頼んだ通りにはならない。
 部屋までもう少しだと必死に足を運んでいたら、廊下の角から、鏡から抜け出してきたように自分と同じ容姿の者が現れた。
 周りにたくさんの神官を侍(はべ)らせて、ケラケラと笑いながら楽しそうにお喋りをしていた。
「あれぇ、ルキオラ。これから礼拝? さすがに遅いんじゃない? 僕はもう済ませてきたけど」
「いや、今日は略式で済ませた。部屋に戻ろうかと……」
「もしかして、また体調が悪いの? みんなに迷惑かけて、本当に困った子だね」
 ルキオラの様子をじっと見て、眉を顰(ひそ)めたのはもう一人の英雄様であるヘルトだ。
 姿形は同じであるのに、この歳になると二人の違いは明らかになっていた。
 生命力に溢れて、明るく輝いているのがヘルト。
 いつも暗く沈んでいて、石のように固まった表情しかできないのがルキオラ。
 幼い頃は見分けがつかないと言われたが、今では誰が見てもどちらであるかはすぐに分かった。
「君も、大変だね。もし嫌だったら、僕のところに来てもいいんだよ。うちは仕事も楽だし、いつでも歓迎してあげる」
 そう言って妖艶に微笑んだヘルトは、ウルガに話しかけてきた。
 周りの神官達のこめかみが揺れて、明らかに嫉妬している表情になったのが分かる。
 神殿は下働きの女性を除き、基本的に男しかいない環境であるので、同性に恋愛感情を持つことは珍しくない。
 特にヘルトは明るくて華やかな雰囲気がある。話術にも優れて人の心を手玉に取ることが上手い。ヘルトが一度微笑めば、誰もが心を奪われてしまうと言われていた。
 今までもこうやって、何人もの従者がヘルトに魅了されて、ルキオラの元を去っていった。
 ルキオラは横にいるウルガの様子を見たが、ウルガは頭を下げたまま動かなかった。
 従者は主人といる時、許可がなければ他の人間と会話をしてはいけない。ウルガは思っていたより真面目な男のようで、それを忠実に守っていた。
「ふーん。今度のは、よく躾(しつ)けているね」
「もういい? 早く行きたいんだけど」
 手を上げてヒラヒラと振って見せたヘルトは、どうぞと言って笑った。
 その馬鹿にしたような態度をいちいち相手にすることも、もう疲れた。
 下を向いてさっさと通り過ぎようとしたら、すれ違い様にヘルトがルキオラの耳の近くに顔を寄せてきた。
「偽者」
 顔を上げたルキオラに向かって、ふわりと微笑んだヘルトは背を向けて、何もなかったかのように、また神官達と談笑しながら歩き出した。
 その後ろ姿を見ながら、ルキオラは胸に手を当てて、大きくため息をつく。
 ヘルトとの仲は昔から変わらない。
 お互い同じ容姿で同じ立場、ルキオラは仲良くしようとしたこともあったが、ヘルトは最初から敵意のこもった目を向けてきた。
 顔を合わせれば、バカにされていじわるなことばかり言われてきた。
 それは鏡のように見える相手への反抗心なのかよく分からないが、ヘルトとまともに話ができたことなどほとんどない。
 おそらく、それはこれからも変わることはないだろう。
 ヘルトの姿が消えてからも、ルキオラは足が固まってしまったように動けなかった。
「話には聞いていましたが、これほどまでとは……」
 黙っていたウルガが口を開いた。
 ヘルトと顔を合わせると、誰もが頬を染めて浮かれた表情でヘルトの話をするのに、ウルガにその様子はない。
「お前は真面目な男なんだな。そういえば、体格も神官見習いにしては、ずいぶんと立派だ」
「へ? 私ですか?」
 突然話の風向きが自分に変わったので、ウルガは驚いたようだった。
「いや、あの、元々騎士志望だったんです。ただ、訓練で足をやってしまいまして……。その頃、両親も他界して、どうしようかという時に、見習いの話をいただいたんです。ほら、見習いにしては、年がいってますでしょう」
 確かに神官見習いはまだ十代になったばかりの子が多いが、ウルガはすでに二十歳を過ぎているように見える。
 この年で見習いということは、神官になるのはかなり先になってしまうので、出世は望めないだろう。
「前にいた地方の神殿では、年寄り扱いでしたから。英雄様のお世話ができる大役を仰せつかって、どんなに嬉しかったか。誰に何を言われようと、しっかりお務めさせていただきます」
 変わった男もいるものだと、ルキオラは思った。
 長く就いてくれる従者がいるなら、それに越したことはない。
 ウルガは見た目に目立った特徴はなかったが、茶色い髪に茶色い目の男らしい顔立ちをしており、優しい目が印象的だった。
 これからよろしく頼むと言って、ルキオラは部屋に戻ることにした。
「そういえば、先ほど衛兵が話していましたが、警備が増えたらしく、誰か高貴な方が神殿にお見えになるみたいですよ」
 その言葉に深く沈んでいたルキオラの心は一気に浮上する。
 ただ息を吸っては吐き、針の上を歩くようなこの生活で、ルキオラにとって唯一の心の支えとなるものがあった。
 先ほどまで寒気がして、倒れてしまいそうだったのに、今は心に降っていた雨が上がって、眩(まぶ)しいくらいの気持ちになっていく。
「いつ、その方がいらっしゃるのか、聞いてきてくれる?」
 先ほどとは打って変わって明るい表情を見せたルキオラに、ウルガは不思議そうな顔で、はいと言って頷いた。


 英雄様と呼ばれる者は、決められた日程に基づいて毎日を過ごしている。
朝晩に行われる二度の礼拝のほか、週に二回、午前中に政治や商学、外交についての座学がある。午後は剣術の授業があり、本を開いて兵法を学ぶ時もあるが、ほとんどが実戦だ。
 英雄様は貴重な存在なので、実際に戦場に出ることはないが、訓練は続けられていた。
 ただ、ヘルトとルキオラは力の差が違い過ぎるので、授業は個別に行われている。
 そしてもちろん、英雄様としての仕事もある。
 神殿の行事に地方の神殿への参拝、救護院や孤児院への訪問、皇家主催の催事、貴族のパーティーに出ることなど様々だ。
 しかし、力の差が出始めてから、神殿はルキオラをあまり外へは出さないようになった。
 特にパーティーなどの華やかな場所に出るのは、いつもヘルトだけだった。
 どうしても出ないといけない神事など、二人で行動する時も、別々の馬車に乗って移動する。そのため、ヘルトとは現地で対面するくらいで、顔を合わせても会話することはなかった。

 鏡に映った自分の顔を見て、ルキオラはなんてひどい顔だろうと思いながらため息をついた。
「どうしたんですか? さっきからため息ばかりですね。何か心配事ですか?」
 部屋の掃除をしていたウルガが、箒(ほうき)を持つ手を止めて話しかけてきた。
 鏡台の前に座って、鏡の中の自分と睨(にら)めっこしていたルキオラは、自分の頬を指でつまんで引っ張る。
「ひどい顔だと思って。目の下が黒いし、口角が下がっている。この前は陰気な顔だと笑われたけど、その通りだと思うよ」
「そんなことを……っ、女神ルナの化身だと言っていいくらい、私には美しく可(か)憐(れん)に見えます」
「ヘルトはね、そうだと思うよ。だけど私はダメだ。何をやっても上手くできない。愚鈍さが顔に現れているよ。口の横のホクロも本当に嫌いだ。前世の罪だと笑われる度に、切り取ってしまいたくなる」
 そう言うとウルガは苦い顔になってしまった。
 ここに来て日も浅く、神殿の常識もまだ分からないウルガに、こんなことを言っても困らせるだけだとルキオラは自(じ)嘲(ちょう)する。
「ルキオラ様……」
「ごめん……変なことを言って……。私は少し、おかしいんだ。忘れて」
 檻(おり)に閉じ込められたような環境で、鬱(うっ)屈(くつ)された思いは日に日にルキオラの心を蝕(むしば)んでいった。
 ルキオラが悲しそうに笑うと、ウルガは息を呑んでから箒を壁に立てかけた。
「私は元々、地方の出身で、その地域ではホクロが前世の罪の数などという話は聞いたことがありません」
「へぇ……、それなら、どう教わったの?」
「それは……」
 ウルガが何か言いかけた時、ドンドンとドアが強く叩かれる。
 慌ててドアに駆け寄ったウルガが応対に出ると、中に入ってきたのは、ヘルトの従者をしている神官見習いの少年だった。
「礼拝堂に来るように、神殿長からの伝言だ」
 ヘルトから何を吹き込まれているのか分からないが、敵意剥(む)き出しの目でルキオラを睨んだ後、返事も聞かず少年はさっさと部屋を出て行った。
「何だ……あの者は……ルキオラ様に無礼なっ」
「ウルガ、そろそろ慣れただろう。ここでは神官から下働きまで、みんな私にはあの態度だ。ヘルトが完全体になれば、私の力は吸収される。みんなそれを待っているんだよ」
 ルキオラが悲しそうに目を伏せるのを、ウルガは何も言わずにじっと眺めていた。
 心が千切れそうな気持ちになることは何度もある。
 でも先ほどの知らせはきっと、間違いなくあの人に関することだと分かったルキオラは、力を取り戻して椅子から立ち上がった。
「早く行こう。あの方が帰ってきたんだ」
 萎(しぼ)んでいた花が急に咲いたようになり、ウルガは驚いた顔をしていた。
 一刻も早く会いたいと、ルキオラは逸(はや)る気持ちを抑えながら、礼拝堂へと急いだ。


第二章 皇太子の帰還


 ルキオラの背丈の二倍ほどある、女神の姿が彫られた大扉が開かれると、長い椅子が連なった一番奥の祭壇の中央には、神殿長が立っていた。
 神殿長の前に立って談笑しているのが、帝国の大星、皇太子であるファルコンだった。
 太陽の光のような輝く金色の髪に、華やかに整った目鼻立ち。宝石のごとく輝くサファイアブルーの瞳、長身でしっかりと鍛えられた男らしい体つきは、遠目で見てもうっとりとするくらい美しかった。
 美しい、という言葉は彼のためにあるのではないかとルキオラは思う。
 早く近くで見たいと中央通路を足早に進んでいくと、先にファルコンの隣に来ていたヘルトの姿を見つけ、ルキオラの胸がチクッと痛んだ。
 ルキオラが近づいていくと、それに気がついたファルコンが笑顔になって手を上げた。
「ルキオラ! やっと来たのか! 待ちくたびれたぞ」
「ファルコン殿下、ご無沙汰しております」
 軽い身のこなしで壇上から華麗に下りたファルコンは、ルキオラに近づくと親しげに手を握ってきた。
「元気そうだな。どうしているのか心配だったんだぞ。手紙もくれないなんてひどいじゃないか」
「ご公務の邪魔をしてしまっては申し訳ないので……、今日、お越しになると聞いて楽しみにしておりました」
「それは嬉しい。長く続いた外遊も終わった。しばらくゆっくりするつもりだから、ここへは頻繁に顔を出すよ。また以前のように懇意にして欲しい」
「ええ、もちろん。光栄です」
 ゴホンッと咳払いの音が聞こえたのでそちらを見ると、神殿長が難しい顔をしていた。
 それを見て、いたずらっぽく片目をつぶったファルコンは、ルキオラの手を引いて壇上に上がる階段を上った。
 ファルコンはルキオラより二つ上で、幼い頃から神殿に出入りしていた。
 皇太子として礼拝に訪れていたのだが、いつも途中で抜け出して、ヘルトやルキオラの元に遊びに来た。
 ファルコンがいる時は、ヘルトもいじわるをしなかったので、その時だけは三人で遊んで楽しい時間を過ごしていた。
 その関係は成長しても変わらず、ファルコンは公務や授業の合間を見つけてはルキオラに会いに来てくれた。
 ファルコンだけは、ルキオラにひどいことをしたり言ったりすることはない。
 ファルコンはルキオラにとって特別で、立場は違うが幼馴染のような存在で、この生活で心の支えでもあった。
 ファルコンにエスコートされて壇上に上がると、それを見たヘルトは不満げな顔で目を逸らした。
 神殿長は豊かに蓄えた白い髭(ひげ)を重そうに揺らして、遅れて登場したルキオラに厳しい目を向けた。
「ルキオラ、遅いではないか。殿下の到着を何度も知らせたのに、またお前は……どうせ寝ていたのだろう」
「いえっ、そんな……知らせは先ほど聞いたばかりで……」
 先ほどから礼拝堂内にいる神官達が、ルキオラの遅刻を無礼だとコソコソ話す声が聞こえていた。
 ヘルトの仕業かもしれないが、ルキオラへの知らせがわざと止められていたようだ。
 神殿長は英雄様に相応(ふさわ)しくないルキオラのことを嫌っており、ルキオラの言い訳など聞きたくないという顔で睨んできた。ルキオラの言葉を信じてくれたことなど一度もない。
 神殿長の隣にいるヘルトが、わずかに微笑んでいるのが見えて、ルキオラは悔しさで唇が震えそうになった。
「神殿長、ルキオラを責めないでください。ルキオラとは旧知の仲です。私は構いません」
 その時、ファルコンが間に入ってルキオラを庇うと、堂内には感嘆のため息が漏れた。
「さすがファルコン殿下、皇太子として、愚かな失態を許す広い心を持っている」と、集まった者達は口々にそう言ってファルコンを褒め称えた。
 自分に非はないと主張できる雰囲気ではなくなってしまい、ルキオラは静かに口を閉じた。
 この話はきっとすぐに広まるだろう。
 ファルコンが人格者だと言われるなら、自分はそれでいいとルキオラは言葉を飲み込んだ。
「本当、殿下はいつも怠(なま)け者のルキオラに甘いですね。僕のことも、もう少し可愛がってくださいよ」
 今までニヤニヤと笑うだけで黙っていたヘルトがやっと口を開いた。
 自然にファルコンの隣に立って、腕に手を絡めて自分の方へ引き寄せる。
「何を言っているんだ。私にとっては二人とも大切な友だ。たとえ立場は違っても、友として二人を大切に思っている」
 ファルコンはそう言ったが、ヘルトに引き寄せられたからか、ルキオラと繋いでいた手がスルッと滑るように離れてしまった。
「はははっ、皇家と神殿が、手を取り合うのは大変喜ばしいことですな。来月は皇帝への謁見も予定されていますし、しばらく英雄様も宮殿に通うようになります」
 初めて聞く話にルキオラは耳を傾けた。
 成人の儀に関係したものであるなら、ますます自分の居場所が消えてしまう気がして胸が痛んだ。
「そういえば、側近の方々の顔ぶれが変わりましたな」
「ええ、外遊先から数名連れて帰ってきました。皇帝になるには、やはり広い視野を持ち、他国の考え方も取り入れなければなりませんから」
「さすが、殿下。我らが帝国の未来は明るいですな」
「腕の立つ者はいますか? 今度僕にも紹介してください」
「分かった、分かった。今日は連れてこなかったが、一番の凄腕を護衛に就かせた。次は紹介しよう」
 ヘルトが猫撫(な)で声でファルコンの腕にもたれかかると、ファルコンは笑いながらヘルトの髪を撫でていた。
 帝国の皇太子に馴れ馴れしく接するなど本来であれば不敬にあたる。
 だが、英雄様であるヘルトには、それが許されているし、ファルコンも喜んで受け入れている。
 ルキオラはその様子を一歩引いたところから眺めていた。
 ファルコンは優しい。
 だが、それはルキオラだけに限ったことではない。
 どんな者にも心を配る素晴らしい皇太子として知れ渡っている。
 ルキオラにとっては唯一の光だが、ファルコンにとっては、たくさんいる友人の一人という認識だろう。
 それにヘルトが完全体となれば、彼の行き先は決まっている。
 英雄様は成人の儀が終わった後、その生涯を皇帝の側近として手厚く保護されて過ごす。
 帝国の平和と繁栄の象徴として余生を送るのだ。
 そう、今目にしている光景は、未来の光景そのものだった。
 ファルコンの側で幸せそうに微笑むヘルト。
 いつまで自分は、ファルコンの光を目にすることができるのだろう。
 檻から解放されたいと願いながら、光を失いたくないと願ってしまう。
 自分の中に感じる英雄の魂の存在。
 言葉に言い表せないその感覚が消えるまで、残された時間は少ない。
 ファルコンの笑顔を見たルキオラは、胸が締め付けられて、泣きそうになるのを堪(こら)えるしかなかった。


 ひらひらと青い蝶が飛んできた。
 切り取った空が落ちてきたみたいな、目の覚めるような青が綺麗だなと思いながら、ルキオラは手を伸ばす。
「あ、いつの間にっ! 窓から入ってきたんですね。すぐに外へ……」
 蝶に気がついたウルガが、ハンカチを広げて追い出そうとしたので、ルキオラは待って、と言って止めた。
 蝶はルキオラの頭の周りを飛んだ後、伸ばした人差し指の上に羽を休めた。
「無理に追い出さなくても、少し休んだら飛んでいくよ」
 馬車の外の景色は、花畑から町並みに変わろうとしている。
 早く行かないと、蜜が吸えなくなるよと話しかけると、蝶はお邪魔しましたと言わんばかりに、優雅に羽を震わせて、開いていた窓から飛んでいった。
 今までそこにいたのに、幻のように消えてしまった蝶の姿を探して、ルキオラが窓に顔を寄せると、切り立った崖と、その上に天に向かって剣のように伸びる大きな建物が見えた。
「ああ、もう皇宮の近くまで来ていたんだね」
「約束は午後でしたから、十分間に合いますね。寝過ごしたなどと言われるようなことは、絶対にないように致しますので!」
 前回ファルコンが神殿を訪問した時、ウルガはルキオラに話が来るのが遅くなったことを自分の責任だと言って、真剣に日程を確認するようになった。
 あれはウルガのせいではなく、ただヘルトの嫌がらせなんだと言っても、ウルガはそれを察知できなかった自分の責任だと言って頭を下げてきた。
 こういう時、彼が元々騎士を目指していたという言葉がしっくりくる気がする。
 義理堅く律儀、真面目で融通が利かないところは、神官というより騎士の方がよく似合っていると思った。
「そんなに気合を入れなくてもいいよ。私はオマケみたいなものだ。その証拠に、ヘルトは先に入宮しているだろう」
「ヘルト様だけ、一週間も早く呼ばれるとは、何かあったのでしょうか」
「異国の騎士を迎えたから、内輪で剣術の大会を開いたみたいだよ。ヘルトは剣術が得意だから参加したんだと思う」
 三年間の外遊で、ファルコンが持ち帰ったものは知識だけではなかった。
 各国の凄腕と呼ばれる剣の使い手に声をかけて、積極的に引き抜いてきたらしい。
 グラディウス帝国で要職に就けるということは、名誉だと考える者が他国にも多い。
 この国の貴族達も、優秀であれば身分を問わずに採用するというファルコンの考え方を絶賛しているらしく、民の人気もかなり上がっているのだと聞いた。
 彼らはファルコンの側近に就いたと聞いたが、ヘルトのことだ。一週間もあれば全員に声をかけて、すっかり自分の仲間にしているだろう。
 ルキオラのことは、仮病ばかりの怠け者で、英雄様と呼ぶのに相応しくない、力もないくせに威張ってばかりいる男だとか、神殿で言っている話をそのまま使っていそうだ。
 今まで何人の者がそう聞かされて眉を顰め、ルキオラの前から消えていったか分からない。
 ウルガは職務への忠実さゆえに自分に付いてくれるが、彼とて仕事を離れたら、いつまで優しい顔をしてくれるか……
 周囲に見放されてきたルキオラは、人のことをどう信じていいのかすら分からなくなっていた。


 グラディウス帝国、現皇帝のニコラス十三世は、十代の時に父である前皇帝が崩御し皇帝となった。
 二本の柱である神殿と共に、大陸で広い国土を持つ帝国を治めている。
 帝国は女神の加護を持つ英雄様の存在によって、安定した治世を維持できるとされているが、英雄様が不在の暗黒期でも、ニコラス十三世の時代は大きな危機に直面することはなかった。
 そのため、強運の皇帝と呼ばれている。
 皇帝と神殿長によって、魂下ろしの儀は行われるため、ルキオラに記憶はないが、おそらく初めて皇帝に会ったのは、生まれてすぐだろう。
 自分の時代の英雄の子が二人であったことに皇帝はどう思ったのか、ルキオラには分からない。
 皇帝の姿を見ることはあるが、皇帝と直接話すことは禁じられているからだ。
 皇帝は女神と同等に尊い存在だと言われている。
 ファルコンのように皇太子の時代は、堂々と姿を晒(さら)して人前に出て、自由な会話も許されているが、皇帝となった後は、自身の姿をむやみに晒すことはできない。
 戴冠式では、口元より上を全て隠す仮面を着けて登場し、宝石の鏤(ちりば)められた冠を載せる。
 冠と同じく、宝石がこれでもかと埋め込まれた仮面は、女神ルナの化身である猫の形を模したもので、これも気が遠くなるくらい昔から代々受け継がれてきたものだそうだ。
 今では皇帝の姿を目にできるのは、神殿長と皇后となる者、後はわずかな側近のみということだった。
 もちろん英雄の子はその一人に入る。
 しかしルキオラが皇帝に会ったことなどこれまで数えるほどしかなく、しかも遠くからしか見ることができなかった。
 ただ、派手な仮面と白くて立派な口髭、体格は良さそうだが少し丸まった背中が印象的で、そんなことくらいしか覚えていない。
 今回の皇帝への謁見は、英雄の子が十九の誕生日を迎えた祝いのものだと聞く。
 今まで誕生日など祝われたこともないので戸惑うばかりだったが、後もう少しで成人になるということもあり、どちらが本物の英雄様か見定める意味もあるのかもしれないなとルキオラは思った。


 宮殿に到着して馬車を降りた後、正門付近を歩いていると、遠くから馬の蹄(ひづめ)の音が聞こえてきた。
 迎えに来てくれた騎士達から危ないので下がるように言われて、ルキオラは通路の端に移動する。
 そこに現れたのは、白い軍服を纏った集団で、馬に乗って地面を揺らしながら一斉に走ってきた。先頭を走る馬に乗った騎士が白い薔薇(ばら)が描かれた旗を掲げていたので、彼らが皇宮騎士団だということはすぐに分かった。
 帝国騎士団は一般の騎士と皇宮騎士とに分かれていて、中でも皇宮騎士は花形と呼ばれており、武に優れた者だけが選ばれる。
 主に皇族の警護を担当し、皇帝の楯(たて)となり手足となるのだ。
 皇宮騎士になるのは大変名誉だとされていて、騎士を志す者にとっては憧れの仕事だ。
 いつも式典などでその勇猛な姿を遠くから眺めていたが、彼らが実際に走っているところを見るのは初めてで、嬉しくなったルキオラはつい一歩前に出てしまった。
「ルキオラ様!」
 夢中になって騎士達の姿を見ていたら、次の瞬間、馬が蹴り上げた泥が飛んできてルキオラの頬に当たる。
 ビシャッと冷たい感触がしたので頬に触れると、細かい砂利が混じった茶色い泥がベッタリと付いていた。
 クスクスと笑い声がしたので見ると、神殿から同行した神官達が、ルキオラの顔を見て口に手を当てて笑っていた。
 このままでは城内に入ることができない。
 ウルガはすでに両手に荷物を抱えていたが、大変だと慌てて荷物を地面に下ろしていた。
 恥ずかしいがウルガが何か用意してくれるまで、このまま待つしかない。
 その時、勇ましく走って行った軍馬のうち一頭が足を止め、ルキオラの前まで戻って来て、騎士が馬から下りた。
 さっきまで白い服の騎士達が見えていたのに、目の前に現れたのは漆黒の軍服を身に纏った男だった。
 背は見上げるほど高く、風に黒い外(がい)套(とう)が靡(なび)くと中には鍛えられた逞(たくま)しい体躯が見えた。
 戦場で会ったら震え上がってしまうかもしれない。
 いかにも強そうな男の登場にルキオラは息を呑んだ。
「怪我はないか? 顔を汚してしまって、申し訳ない」
 まるで猛獣と遭遇したかのような緊張を覚えたが、聞こえてきたのは耳によく響く低い声だった。
 そこにいたのは、真っ黒な艶のある髪に日に焼けた肌、キリッと男らしい眉で精(せい)悍(かん)な顔つきの男だ。
 勇ましく整った顔は一度見たら忘れられないくらい印象的で、切れ長の目の中には赤い瞳が光っている。その瞳がルキオラを捉えると、一瞬顔が引き攣(つ)ったように見えた。
「いえ、飛び出てしまったのはこちらです。私を気にせず、行ってください」
 ルキオラは男に向かって微笑んだ。
 男は驚いたように目を瞬かせた後、不思議そうな顔になって、ガサゴソと自分のポケットからハンカチを取り出してルキオラに差し出してきた。
「あ……ありがたいですけど、申し訳ないです。見ず知らずの方の物をお借りするなんて……」
「……そういうわけにいくか。こちらのせいで汚れたままにはできない。先ほど池で洗ったばかりだから少し濡れている。簡単に拭くから後でよく洗ってくれ」
 男はそう言って、ルキオラが断るために広げた手を無視して、ルキオラの頬をハンカチで勝手に拭いた。
 ついでに手の汚れまで拭かれて、男のハンカチは泥の色に染まってしまった。
「俺は皇宮騎士団に配属になった、オルキヌス・エルミネアだ。……君はもう一人の英雄様だな?」
「え? ええ……そうですが」
 なぜ知っているのだろうと思ったが、皇宮の騎士なら顔を覚えていても不思議ではない。
 ルキオラは手を胸に当てて、軽く目を伏せた。
「顔を拭いていただきありがとうございます。英雄の子の一人、ルキオラと申します」
「さて、これはますます、マズいことになったぞ。英雄様のお顔を汚したなんて、俺の命も今日までか」
 変わった言い方をする人だ。
 この国の人間なら、英雄様と聞いただけで、冗談を言うことなんてできないはずだ。
「大丈夫です。私は英雄の子であって、ないようなものなので。これくらいのこと、誰も気にしません」
 ルキオラがそう言うと、オルキヌスは片眉を上げた。仕草がいちいちカッコいいなと思ってしまった。
「それでも卿が気にするのならば、このことは二人だけの秘密にしましょう」
 久しぶりに外部の人と話したのが新鮮で、いつもは言わない冗談を言って、ルキオラは口元に指を立て微笑んだ。
 これだけ大勢に見られていたら、二人だけの秘密になるはずがない。気を使わせたくないルキオラの、精一杯の冗談だった。
 それを見たオルキヌスは、軽く目を開いた後、ぷっと噴き出すと、大きな口を開けて豪快に笑った。
「なるほど、こちらの英雄様はなかなか面白い方だ。では、このことは二人だけの秘密ということで」
 ルキオラと調子を合わせてくれたオルキヌスは、口元に指を立ててニヤリと笑った。
 すでに他の騎士達は城内に戻っていたので、オルキヌスもまた、颯爽(さっそう)と馬に飛び乗り行ってしまった。
 ルキオラは騎士の後ろ姿を見送った後、あまりに印象的過ぎる男に首を傾げながらしばらく動けなかった。


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