書籍詳細

愛する人にはいつだって捨てられる運命だから
定価 | 1,320円(税込) |
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発売日 | 2025/04/11 |
内容紹介
猫の姿も人間の姿も美しい
「綺麗だな。お前はいつまでも美しい」孤独な青年ミカは男爵家の使用人として働いていたが、突然恋人の男爵令息に裏切られ謂れのない罪で屋敷から追い出されてしまう。不吉と言われる黒猫の獣人のミカは、いつも愛した人に裏切られ捨てられていた。身も心も弱り黒猫になって森を彷徨っていると、侯爵家の三男でありながら豪商であるライハルトに拾われる。しかし人嫌いな彼はミカをただの黒猫だと勘違いしているようで……? 「俺が拾ったんだから俺のものだ」人間の姿でいても、なぜか事あるごとにちょっかいをかけてくるライハルト。そんな彼に言い返すと、彼はなぜかいつも楽しそうで……? 愛を知らない二人が愛を知る、純愛ラブストーリー!
人物紹介

ミカ
黒猫獣人の青年。家族もおらず、恋人にも裏切られ彷徨っているところをライハルトに拾われる。

ライハルト
大グループの代表を務める豪商。名門侯爵家の三男だが、ワケあって疎遠に。ミカをただの黒猫だと思い拾う。
立ち読み
【第一章】
「ルイーザと腹の子をお前は殺そうとしたのか?」
そう問いただすローレンツの声は、怒りに溢れて震えている。
彼の腕に抱かれているのはルイーザだ。彼女の肩はか弱く、ローレンツに支えられていないと今にも倒れそうなほどだった。彼女の腰ほどまでに伸びる茶髪が、揺れるたびに煌(きら)めいている。黒髪のミカが持っていない麗しい髪を、ローレンツが大事そうに撫で付けた。
ミカもまた、ローレンツの言葉による衝撃で意識を失いそうなほどだった。奥歯がガチガチと音を立てて震えている。真冬の床についた両手の感覚がない。あまりのことに目が眩(くら)んで、広場を囲むヒルトマン家の使用人たちの顔も見えない。
ルイーザが妊娠した……?
ローレンツの子を……?
「答えろ、ミカ」
「忌(い)まわしい男だこと……」
ローレンツの両親であるヒルトマン男爵と夫人も、跪(ひざまず)いたミカを道端で死んだ獣を見るような目つきで見下ろして言った。
あたりを囲む使用人たちもまた、同じようにミカを蔑(さげす)む目をしているだろうことは見なくても分かる。彼らの視線が毒のベールとなってミカに襲いかかる。両手が震えて、姿勢を保つことができない。
ミカの背中は先程までヒルトマン男爵の杖で激しく叩かれていたせいで、燃えるような痛みが走っている。背中だけでなく頬も真っ赤に膨れ上がっていた。幾度も打ち付けられて、ミカはその場で立ち上がる力すら残っていない。
頭をぐるぐると巡り意識を濁らせるのは、ローレンツの言葉だった。
――『ミカ、お前には失望した』
十年以上も仕えていた男爵子息であるローレンツは、今朝方ルイーザと帰ってくるなりそう言った。
四つ年上のローレンツは、路地にいた幼いミカを拾った張本人だ。あれからローレンツの侍従として仕えていたが、そのローレンツは今、冷たく言い放つ。
「まさかお前がルイーザを虐めていたとは……」
怒り狂ったヒルトマン男爵も言う。
「ルイーザの妊娠を分かっていて彼女を殺そうとしたんだろう」
夫人は射殺さんばかりに目を細くした。
「私の宝石を盗んだのもお前だったのね」
どれも身に覚えのない言いがかりばかりで気が遠くなりそうだった。これは本当に現実なのか? 怯(おび)えて震えるルイーザをローレンツが抱きしめている。かつてローレンツが抱きしめてくれていたのは、自分だったのに……。
事の発端は昨晩だった。
夫人の宝石が盗まれたと屋敷で噂が走り、そこにルイーザが現れたのだ。
ルイーザは街で小さなカフェを営む町娘だ。ローレンツが足(あし)繁(しげ)くそのカフェに通っていることは知っていたが、この屋敷にルイーザがやって来るのを見たのは初めてだった。
ルイーザは細い体をよろめかせながら屋敷にやってきて、非常に具合が悪そうにしていた。まだローレンツが帰宅していないのでどうすべきか迷ったが、ミカはひとまずルイーザを客室に案内し、お茶を差し出した。
やがてローレンツが帰宅し、その夜、ルイーザとローレンツは二人してどこかへ出掛けてしまった。
二人が去る姿を見届けるのは、不安だったけれど、耐えられた。ミカはローレンツを信じていたからだ。
誰にも話してはいないが、ローレンツとミカは恋人同士だった。ヒルトマン家に仕え始めたのはミカがまだ、六歳の頃だった。孤児のミカは路地で蹲(うずくま)っていて、たまたま通りかかったローレンツがミカを拾い、屋敷に連れ帰ってくれたのだ。
ヒルトマン男爵家でローレンツの専属使用人として暮らし始めたミカはそれから数年後、ローレンツに愛を伝えられた。
彼の想いを受け止め、男爵と夫人には秘密の恋を始めた。誰にも言えない関係だったけれど、ローレンツはミカを愛してくれたし、ミカもそれに応えてきた。
そうして出会いから十年以上が経った。今日こそが、ミカの十八歳の誕生日だ。
……十八歳の誕生日には二人で出かけようと話していたのが、遠い昔のことのよう。
現実では、ローレンツはミカではなく半年前に出会ったルイーザの肩を抱き、男爵と夫人、屋敷の使用人たちは皆、ミカを侮(ぶ)蔑(べつ)の目で見下ろしている。
どうして、こんなことになったのか。ミカには受け止められない。ローレンツがルイーザと出会った半年前から、彼の心が自分から離れているのは察していたけれど……。
まさか、妊娠だなんて。
俯(うつむ)いたミカの視線の先、己の両手がぶるぶると震えている。頭の上では罪を叫ぶ声が続いている。ローレンツが言った。
「ルイーザを妬(ねた)んで、彼女の紅茶に毒を入れたとは本当なのか?」
そんなこと、知らない。ルイーザとローレンツが関係を持っていることすら知らなかったのだから。
あまりのショックで声すら出ない。ミカは赤い瞳を丸くしている。呼吸すら苦しくなり、倒れそうだった。だめだ。意識を保たないと。耐えなければ。
夫人が甲高い声で喚(わめ)き立てる。
「私の宝石があなたの部屋から出てきたわ。恐ろしい子ね」
加えて使用人たちのクスクス笑う声が耳に届く。ローレンツに贔屓(ひいき)されていると、昔からミカを虐めていた者たちだ。これまでずっと洗濯などの水仕事や厩(きゅう)舎(しゃ)の掃除など、皆の嫌がる仕事をいつも押し付けられていた。それでも耐えなければならなかったのは、自分に行く当てなどどこにも無いから。屋敷から放り出されれば今度こそ死んでしまう。だから、耐えていたのだ。
「お前みたいな薄汚い男をローレンツが連れて帰ってきた時から嫌な予感がしていたんだ」
ヒルトマン男爵が顔を顰(しか)めた。ミカにとって耐えるべき対象とは、ヒルトマン男爵でもあった。この十年でヒルトマン男爵に襲われかけた回数は両手では数え切れない。部屋に彼がやって来るのが怖くて、男爵が酒に溺(おぼ)れるような夜は寝ずに扉を塞(ふさ)いでいた。
そうやってずっと耐えてきたのに……こんなにも唐突に、終わりの日がやって来るとは。
「この者を屋敷から追い出せ!」
男爵が叫ぶ。その瞬間、使用人たちからもミカを非難する声が上がった。
ミカは顔を上げて、ローレンツを見つめた。しかしローレンツの瞳にはもはや、かつてミカを愛おしげに見つめていた光の一つも残っておらず、ただ蔑む目だけがある。
ミカは使用人の男たちに抱えられて、屋敷の外へと連れ出された。抵抗する力などない。ローレンツが「綺麗だ」と慈しんでくれたミカの赤い目は、腐った魚のように濁っている。
真冬の空からは雪が降り、冷たい風が吹き荒れていた。突き刺すような風がシャツ一枚のミカの肌に襲いかかる。黒髪が舞って、血の滲(にじ)み出る頬を掠(かす)めた。
「ローレンツ様、少しお待ちください」
すると凛(りん)と澄んだ声が耳に入り込んできた。
ローレンツの制止を振り払って、ルイーザが駆け寄ってくる。
雪の積もる地に放り投げられたミカは、力なく彼女を見上げた。
ルイーザは、小さな花のように身を震わせて、綺麗な眉を悲痛そうに下げた。大きな瞳に涙が溜まっている。ミカからルイーザを守るように使用人の男たちが立ち塞がるが、彼女は弱々しく「ミカ様にお伝えしたいことがあるんです」と声を絞り出す。
慈悲の言葉を投げかけると思ったのか、男たちが退いた。
ルイーザはふわっと膝を折り、ミカの耳元で囁(ささや)いた。
「哀れな男ね」
ミカは腫(は)れ上がった瞼(まぶた)を限界まで見開く。
目の前の雪には、自身の血が滲んでいた。
ルイーザは尚も甘く囁いた。
「本当にあなたが邪魔だったの。男のくせしてローレンツ様に気に入られているあなたが憎たらしくて仕方なかった。あなたは覚えていないでしょうけど、私たち、お店で会ったことがあるのよ。捨て子のくせしてローレンツ様に肩を抱かれながらお店に入ってきた時……あなたが私に目も向けずに幸せそうにしているのを見て、決めたわ。絶対にあなたから彼を奪い取るって」
ルイーザの長い髪が彼女の表情を隠し、誰からもその笑みは見えない。
「バカな男。宝石を盗んだのは私が唆(そそのか)した使用人なのに……こうも上手くいくなんて思わなかった。ローレンツ様が愛してるのは私よ。彼は男のあなたより女の私を選んだの。その綺麗な顔も、今じゃ台無しね」
ルイーザの細い指が、ミカの頬に触れる。傍(はた)目(め)からは憐(あわ)れむような仕草だが、彼女の爪は頬の傷に食い込んでいた。
「二度と、彼と私と私たちの子供の前に現れないで。誕生日おめでとう、ミカ様。プレゼントにひとつ教えてあげる」
鼓膜を揺らす冷たい声。心の奥底を撫ぜるゾッとさせるような言葉も、彼女の微笑も、雪風の音と髪が隠している。
「自分が愛される存在だなんて思わないことよ。あなたは捨てられたんだから」
ルイーザは両手を胸の前で握って、よろっと儚(はかな)く立ち上がった。
彼女を咄(とっ)嗟(さ)に支えたのはローレンツだった。ローレンツはルイーザの指についた血を見ると、わなわなと怒りで身を震わせた。
「彼女に何をしたんだ……!」
「いいの……ローレンツ様。少し噛みつかれただけだから……」
「なんだと!? 今すぐこいつを門の外へ捨てろ!」
ルイーザに夢中なローレンツの顔は彼女のための怒りで満ち溢れている。ここ数ヶ月、目が合うたびにどこか申し訳なさそうにしていた表情はもう無い。軽(けい)蔑(べつ)と憎悪の色を顔に浮かべた彼は、ミカを敷地外へ投げ捨てることを容赦なく命じた。
ミカはもう、声すら失っている。ルイーザに貶(おとし)められ、ローレンツに裏切られたことへ対する怒りは、心を砕くショックを超えられない。空が鈍(にび)色(いろ)の雲に覆われているからなのか、もうミカの視界から色すら失われてしまったのか。まだ夜には遠いはずなのに世界は暗く、降りかかる雪が倒れたミカの体に降り積もっていく。
どれほどそうしていただろう。近くにいては屋敷の使用人達に見つかって殴られるかもしれない。輝かしい館に背を向け、ミカは崩れそうな足を踏み出した。
暫(しばら)くして、視点が一気に下降する。
人前では必死に耐えていたけれど、とうとう体が変化してしまったのだ。
――これはローレンツ以外には誰にも話したことのない秘密だ。
ミカは極度の疲労を超えて限界に達すると、その身が黒猫の姿となってしまう。
十年以上前、ローレンツが抱え上げたのも黒猫姿のミカだった。連れ帰った猫が人間の姿になったとき、ローレンツは酷(ひど)く困惑していたけれど、ミカを受け入れてくれた。
自分の正体を理解し思い遣(や)り、同情してくれたローレンツ。ミカはぽろぽろと涙をこぼしてローレンツに感謝した。その後もミカは黒猫の姿でローレンツに抱きしめられることが度々あった。彼の優しい熱のおかげで、使用人達にいじめられ、男爵に迫られ、精神的に追い詰められて猫となっても独り、部屋の隅で耐えていけた。
でも今ミカは、雪の吹(ふ)雪(ぶ)く地を一人で歩いている。
猫の姿になったせいでより一層体力が消(しょう)耗(もう)していくのが分かる。身を削るような風が、思い出を少しずつ奪い去っていく。
ローレンツは少しも思わなかったのだろうか……。
こんなに寒い日に放り出されて、猫のミカが死んでしまうかもしれないということを……。
この地から離れなければならない。強くそう思った。ちょうど通りかかった馬車の荷台に飛び乗り、荷物の陰に隠れる。目を閉じると死んでしまうような気がしたから、大きく震える小さな体を丸めて眠らないよう必死に耐えた。
皮肉にも、今日はミカの誕生日だ。祝いの言葉を投げかけてくれたのはローレンツの新しい恋人であるルイーザただ一人だった。
――『自分が愛される存在だなんて思わないことよ。あなたは捨てられたんだから』
ルイーザの言葉は正しい。愛した人に裏切られるのは、これが初めてではない。
路地で生きる前、ミカには家族がいた。父は家族に暴力を働き、母は死んでしまった。よくある話だ。なんてことない。兄と二人で生きていけばいいと思っていた。でも、違った。
兄はミカに『全部お前のせいだ』と言い放ち、ミカを捨てた。
その際に兄がかけた呪いにより、かつて突き抜けるような空色の青だったミカの瞳は赤く染まった。
正体を隠さなければならなかったのに、ある夜、ミカが黒猫に変化することが人々にバレてしまった。自分が悪かったのだ。一人になったのは自業自得である。父に踏みつけられ、母は死んで、兄に呪いをかけられた身。
ルイーザの言葉は正しい。初めから自分は誰かに愛される存在なんかじゃなかった……。
「なんだこの黒猫はっ!」
「不吉は外に投げちまえ」
気が付けば馬車が止まっていた。男たちは黒猫を見つけると乱暴な手つきで森へと放り投げる。
かなり遠くまで走ったようで、雪は積もっているものの吹雪は止んでいた。寒い。じきに日が沈む。どこか大木に登って身を休めたいけれど、もう幹を登る力も残されていない。
今晩は越せないだろう。行く当てなんかないし、ここが何処かも分からない。
目が眩んで、痛覚が遠のいていく。歩いているのか、その場で足踏みをしているのかすら分からない。
「っ!?」
その瞬間、体が焼けるような痛みに包まれた。
鮮(せん)烈(れつ)な熱だった。炎に包まれたように痛みが全身に走り、頭の中が真っ赤に染まる。近くに矢が転がっていた。射られたと気付いた時には、ミカはもう倒れ込んでいた。
夜が来るまでもなかった。
あぁ、ここで死ぬんだ。
でもこれで良かったのかもしれない。
こんなにも恨まれる人生ならば、生まれてこなければ良かったんだ――……
「どうだ? 黒兎か?」
「猫ですよ猫! あぁ可哀想に!」
足音が二つ近づいてくる。
ミカの頭上から声が落ちてきた。
「へぇー」
「へぇーじゃないですよ社長! 背中が射られている!」
「ほぉ」
必死な声と、どうでもよさそうな声がミカの耳に届く。
後者の声は低く、美しかった。もうミカは全部がどうでも良くなっていて、心には何の気力も残されていなかったけれど、その声があんまりにも魅力的だったからだろう。
「黒猫、死ぬのか?」
ミカは最後の力を振り絞って瞼を開いた。
そこには、光があった。
先程までのミカの世界からは色の全てが抜けて、真っ暗だったのに、今は鮮やかな色がある。ミカの体を、どこか雑な仕草で男が抱き上げる。ブロンドの髪は白黒だったミカの世界に輝き、宝石のように煌めくその青い瞳もまた、暗い世界を打ち破る光に見えた。
綺麗だ。
今までに見たどんな色よりも。
――最期に美しい光が見られて良かった。
ミカは彼の腕に抱かれて、意識を手放した――……
◇
ふわ、良い心地……。
まだ目覚めてもいない中、一番に感じたのは『暖かいなぁ』ということだった。
真っ黒だった夢が暖かさを感じた途端、一瞬で乳白色の景色に様がわりする。見つめる先に、鮮やかな金色と透き通った海のような青が見える。
二つは絡み合うが決して融合しない。己の煌めきを残したまま一つの光の玉となり、こちらへ微笑みかけるように膨張と収縮を繰り返す。その柔らかな揺らめきは、音はないけれど優しい響きを心に齎(もたら)すかのようだ。
心……。
そう、俺には心がある。
俺、は、人間で黒猫。
「ッ……ミャッ!」
そうだ。
俺は、ミカだ。
(!?)
瞼を開いたのと肢(し)体(たい)が跳ねたのは同時だった。夢など見ている場合ではない。ミカは弾けるように身を起こした。
目覚めて暫く呆然とする。夢の中でいい気分だったのはそれもそのはずで、ミカが横たわるのは血の滲んだ雪の上ではなかった。
(ここは……どこだ?)
最後に感じた、誰かの腕の中でもない。
とてつもなく広いベッドだった。その異様な広さに、ミカはまだ己が黒猫の姿であると気付いた。
ふかふかのベッドに、小動物がちょうど横たわれる大きさの柔らかい布が敷かれている。誰かがミカのために用意してくれたかのようだ。誰が? 思い出そうとしても、何から思い出せばいいのか心が追いつかない。まるで記憶から己を防衛するみたいに頭がなかなか働かなかった。
だんだんと思い出していく。死にかけていたことは確かだ。裏切られ、暴力を受け、雪の吹雪くグレーの空の下に放り出されて……。
森の中で矢はミカを穿(うが)った。
そして誰かに、抱え上げられた。
「ニャア(どこ)?(?) ニャ、ニャー(何が起きてる)?(?)」
これは現実? 死後の世界にしては感触がリアルすぎる。俺は生き残ったのか? 声は猫だ。人間に戻っていない、ということはまだ体が回復していないんだ。
そっか。助かったのか……。
「おや、猫さん目を覚ましましたか」
「!」
ふと、遠くの扉が開かれて茶髪の男が顔を出した。
だ、誰? 困惑して身を震わすミカの元に、男は躊躇(ためら)いなく歩いてくる。
すっかり縮こまるミカを見下ろし、フッと微笑む。
「ミルクでも飲みますか? ちいさな体ですねぇ」
「ミャ……(誰?)」
「お、鳴いた。可愛らしい鳴き声だ」
ふと漏れた声にも茶髪の男は嬉しそうにした。瞳は綺麗な緑色で、容姿は若く見えるが、十八歳のミカよりは幾つか年上だろう。執事のような立派な格好をしている。雰囲気も優しく、ハンサムな男だった。猫を相手にしているからか笑顔が途切れない。この黒猫の正体が薄汚い人間と知ればどんな表情をするだろうか。
「……」
「驚いてるのかな?」
「ニャ(そう)……」
「ふぅむ。濡れ布で拭いてはみたけれど、まだ汚れてますね。お湯に入れましょうか?」
「ニャ、(や、)ニー(やめて)」
「嫌がってる? ははは」
思い出した。
この声は、森で意識を失う前に聞いた声だ。
必死そうに叫んでいた声。二人の男のうちの一人だった。彼はこの身を猫と疑っていないらしい。
(どうしよう……)
猫の姿に変化するのには自分の意思を伴わない。ストレスによって黒猫に変異するし、人間に戻るのも充分な休息を取ってからだ。
今みたいな完全な猫の姿になることもできるが、猫の耳や尻尾など一部だけ変化することもできる。その姿では人間の言葉も獣の言葉も聞き取れるし意思疎通できるけれど、完全な猫の姿では、人間に言葉は通じない。
つまり今のミカでは、目の前の人と会話ができない。
「ニャーニャー(猫じゃないのに)……」
「お腹が空きましたか? 君は不思議な猫ですね。社長の……ライハルト様の矢が当たったはずなのに、傷がすでに治っている」
「ニャー……ニャ?(ライハルト?)」
ライハルトとは、誰だろう。疑問が浮かぶと同時に、意識を失う前に聞いたもう一つの声の主だろうかと推察する。
黒猫のミカを抱え上げた男だ。あの、金色の髪が美しい青い目の人。
「ライハルト様はこのお屋敷の主人ですよ」
「ミャ(え)」
まさか言葉が通じたのか? と驚くも、まぐれだったらしい。ミカが恐れをなしたと受け取ったのか、茶髪の男は「怖がらなくて良いですよ」と微笑む。
「あの人は獣には比較的、優しいですから」
「ンニャ(そんな)……」
「人間には悪魔ですけれど」
「ニャ、ニャァ、ニィ(あ、あく、ま?)」
俺は人間なのに……と反応しても、通じない。それに意味が伝わって困るのはこちらの方だ。
ミカは己が黒猫に変化する身だと知られてはならない。この世には獣人と呼ばれる獣と人間どちらの容姿ももつ種族もいるようだが、ミカはあの屋敷とローレンツが連れ出す場所以外の世界を知らないので、同じ種族を見たことがない。
ローレンツに出会うまでの記憶は混(こん)濁(だく)していて曖昧だ。兄に恨まれていたことは覚えている。
呪われたこの赤い目が証明だ。かつて瞳は青く染まっていたが、呪いで赤くなった。
呪いはミカが『黒猫に変化する身』だと露見したことが発端でかけられた。何故か知らないが、獣人の中でも殊(こと)黒猫に関しては世間様に知られてはならないらしい。確かに黒猫は不吉の象徴とは言い伝えられるけれど、詳しいことは、分からない。そもそも子供の頃の記憶は酷く曖昧で、兄や母と暮らしていた時代のこともよく覚えていない。
「猫。小さな命。かわいい」
茶髪の男は猫が好きなのか、嬉しそうにミカをつついてきた。
「猫ちゃん、どうして傷が治っているんですか? うーむ不思議。まさか貴様、魔獣ではないな?」
「ミャー、アー(ち! がう!)」
「まぁ化け猫でもいいか」
まだ人間の姿に戻っていないということは、休息時間が足りないのだ。傷が治っている理由は分からない。昔からそうだった。人間の姿でも猫の姿でも、なぜか傷は治りやすいし、飢(き)餓(が)にも比較的強い。
むしろこのタイミングで人間に戻る方が厄介だ。厄介というか、絶望的である。猫の獣人ならまだしも、黒猫はダメだ。不吉な黒猫に変化する人間はきっと世界中から嫌われているに違いない。だから同じ体質だった兄や母は、黒猫の獣人だとバレないよう、慎重に生きていたのだ。
どうしよう。今は黒猫の姿のままでいて、後々逃げるべきか。
――そうして悶(もん)々(もん)としていたせいでもう一人の人物の登場に反応が遅れた。
「エルマー」
「ッニャ!」
彼が声を出してから、ミカは悲鳴を上げた。
心の奥底を揺らすような低い声だった。悲鳴が飛び出てから、ミカは恐る恐る顔を上げる。
「黒猫。なんだ。生きていたのか」
その光に覚えがあって、ミカは目を見開いた。ブロンドの髪が金色の蜘(く)蛛(も)の糸のように艶(つや)やかに煌めいている。青い瞳は宝石のように鮮やかで、微笑んでいると印象が柔らかいのに、声は鋭かった。
「しぶとい猫だな」
この方が『社長』であり、『ライハルト様』なのか。
ライハルトは冷たい表情でミカを見下ろした。ミカは、猫の姿でよかった、とこっそり安(あん)堵(ど)した。もしも人間だったら、彼に見(み)惚(ほ)れているのがありありと伝わってしまっただろう。
雪に埋もれた森で抱き上げられた時は、黄金で造られたような輝かしい髪と光の敷き詰められた青い瞳に魅せられて、これほど美しい容姿だと気付かなかった。
おそらく茶髪の男はエルマーという名で、彼もまた美男子ではあるが、ライハルトであろうこの男の美貌は思考停止してしまうほどだ。肌は白く透き通っていて、スッと通った鼻筋も、眉の形も描かれたみたいに完璧だった。瞳の色は角度によって煌めきを変え、深い海の色にも、雲ひとつない高い空の青にも見える。
非の打ち所がない美青年が、じっとミカを見下ろしている。真顔だからこそ、美しさに威圧される。男に見惚れるような趣味はないミカでさえ、所在ない感覚に陥るほどだった。
こんなにも綺麗な人が世界にはいたのか。背も高く体つきも立派だった。すっかり怯える気持ちも失せて、ミカはぼうっとライハルトを見上げている。
「社長、猫が怯えています。そう睨みつけないでください」
するとエルマーが心配そうに言って、ミカを庇(かば)った。ミカを見下ろしていたライハルトはふっと笑み、嘲(あざけ)るように言った。
「そうか? 怯えてはないだろ」
「はい?」
猫の表情が分かるのか? なんで?
ライハルトに指摘されミカはようやく我にかえり、キュッと口を閉じる。ふかふかした布の上にぽつんと座った小さなミカは、猫の彫刻のように大人しくジッとした。
「社長、この子をどうするおつもりですか」
「んー」
「今は起き上がる気力もあるようですし、ご飯を食べさせましょう。弱々しい猫です」
「……そうだな。ちっこいし、食べても美味くなさそうだな」
「怯えさせるようなことをわざと言わないでください」
「……ニャ(ひえ)……」
た、食べる? 俺を? 体が勝手にぶるぶる震えてくる。
エルマーと呼ばれた茶髪の男が、心配そうにミカを眺め下ろした。
「猫が社長に怯えてますよ。まるで人間の言葉が分かるみたいですね」
「はっ! たかが猫だろ」
ライハルトは無表情のまま鼻で笑った。標準が無愛想なのだろうか。目を細めて冷たい眼差しになると、瞳は魔法の氷みたいに見えた。
「肉にもならないならどうするかな」
「僕がお世話しますよ」
エルマーがニコッと笑顔を作る。ライハルトは「ふぅん」と呟(つぶや)く。
「勝手に殺さないでくださいよ」
「は? なぜ俺が獣の命なんか」
「社長の握力は強いので、加減を覚えずこの子に触ればあっという間に息絶えてしまいます」
「雑(ざ)魚(こ)猫だな。面白い」
(ヒィ……ッ)
青色の瞳が何の感情もないみたいにミカを見つめる。猫を単純に可愛がろうとするエルマーと違ってライハルトの思考が全く読めない。食う発言は冗談ではないのかもしれないとすら思えてしまう。
ミカはただただ混乱し、心の中で汗を垂れ流した。どうしよう。猫のままでも無事でいられるか怪しいのに、中身が人間だとバレたらどうなるだろう。
ライハルトが容赦なく矢を放ってきた時の痛みが身に蘇(よみがえ)る。雪に倒れ込んだ時も命の危機を感じたが、今もまたヒリヒリと凄まじい緊張感で気を失ってしまいそうだった。ライハルトが獅(し)子(し)のように見えてきた。黒猫のミカは必死に震えを押し込めて、意識を死ぬ気で保つばかりだ。
あんなに諦めていたのに、今は死にたくないと思える。生きた心地がしないミカは、絞り出すように笑みを作ってみた。
「ニャ……」
媚(こび)を売るために出来る限り可愛らしい鳴き声を出すが、少し鳴いただけで尻すぼみに消えてしまう。ライハルトは無言だった。ミカはぷるぷる震えながらライハルトを見上げている。その時間は一瞬だったのかもしれないが、極度の緊張に晒(さら)されたミカには悠久にも感じられた。
するといきなり体が浮遊し、次の瞬間にはライハルトの腕に抱えられる。
「こいつは俺の部屋に連れ帰る」
「ウニャッ」
「そんなに乱暴に掴まないでください!」
ミカは、恐怖でヒゲを揺らしながらもライハルトを見上げる。サファイアを埋め込んだような目が、感情もなく光だけをもってミカを見下ろした。
「黒猫。お前は俺のもんだ」
「ニャ……」
ライハルトがかすかに目を細めた。
「俺がお前に矢を放たなければ凍え死んでたぞ。俺が拾ったんだから俺のものだ。せいぜい感謝して余生を生きていくんだな」
言い終えると同時に、ライハルトは微笑みを引っ込める。
本当に一瞬だったけれど、ミカはその微笑みに遠い昔の光景を思い出した。兄に呪われた後、そしてローレンツに拾われる前だ。街の路地裏にいた時、ミカは『お婆ちゃん』と共に暮らしていた。
たった一年ほどの間だ。家族に捨てられたばかりのミカを拾ったお婆ちゃんは、決して笑顔の多い人ではなかったけれど、ミカを理不尽に扱わず寝る場所と食べ物を分け与えてくれた。何の見返りもなく、ミカを自分の小さな小屋に置いてくれて、そしてたまに、微笑みを向けてくれた。
ミカはどうしてか、ライハルトの一瞬の表情に彼女を見たのだ。
……もう自分は頭がどうかしてるのかもしれない。お婆ちゃんとこの男は全く似ていない。ライハルトは雑な手つきでミカの首根っこを掴み、「汚らしい猫だ」と吐き捨てているのだから。
「この子を社長の猫にするのですか?」
「何か文句あんのか」
ライハルトは刺すような口調で返す。エルマーは不(ふ)承(しょう)不(ぶ)承(しょう)に頷(うなず)き、ライハルトの片方の手にぶら下がるミカへ微笑みかける。
「猫さん、ご安心ください。社長はあなたを食べるなんてことしませんから」
「腹が減ったら分からねぇけど」
エルマーは構わず続けた。
「この国の民に猫を食べる文化はありませんから大丈夫ですよ。それにあなたもご飯をお腹いっぱい食べられます。ライハルト・デューリンガー様は西大陸に幾つもリゾート地を運営するお方です。お金には困りませんから」
「……ニャ?」
……え?
デュ、デューリンガー……?
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