書籍詳細
青の王と深愛のオメガ妃
ISBNコード | 978-4-86669-645-4 |
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サイズ | 文庫本 |
ページ数 | 288ページ |
定価 | 836円(税込) |
発売日 | 2024/02/19 |
お取り扱い店
電子配信書店
内容紹介
人物紹介
セレン
リザニアール王妃の神子。レイとの子・エリノアを出産して以来、発情がこなくて…。
レイ
リザニアール国王のアルファ。妻と娘を溺愛している。
立ち読み
「これが葡萄の花ですよ」
農夫が手を添えて見せてくれた房に、セレンは目を丸くした。
細い茎が放射状にのび、球形をかたちづくった先端に、白く小さな突起がいくつもついている。花、と言われて想像したのとは、まったく違った見た目だった。
「白いところだけがお花なんですか?」
セレンがそう聞くと、農夫はにこにこして頷いた。
「ええ。花穂といって花びらがないから、知らないとわからんでしょう? でも香りはいいです。嗅いでみてください」
言われるまま顔を近づけると、かすかに蜜のようなにおいがする。奥ゆかしくも甘い香りは心地よく、セレンはため息をこぼした。
「こんなに小さくても、本当にお花なんですね」
「今年は花のつきがいい。実もいいのが採れそうですよ。畑の端まで、どの木も順調です」
農夫は嬉しそうだった。彼が振り返った広大な葡萄畑を、セレンも眺めた。
緑の葉を茂らせた低い木は、遠くまで規則正しく並んでいる。木々の向こうは砂漠が広がり、上空には眩しいほどの青空が、どこまでも続いていた。季節はもうすぐ鳥の月を迎える。ちょうど、群れをなした鳥影が横ぎっていくところだった。木々のおかげか、砂漠から吹いてくる南風も爽やかに感じられる。
ここはリザニアール国の王都の外れにある、国有の葡萄畑だ。先先代の王の時代に開墾されて以来、農夫たちが守り育ててきて、近年ようやく安定した収穫ができるようになった。
葡萄はそのままでも食べられるし、加工して酒や調味料にもなる。味がいいと、外国への荷としても人気があるのだそうだ。
「自慢の畑ですよ」
農夫は尊敬のこもった眼差しを、セレンの横に立つ男――レイへと向ける。
「レイ様が即位されてから毎年、天候に恵まれていて、葡萄もほかの作物も出来がいい。ありがたいことです」
「天気は俺がどうにかできることじゃない」
拝みそうな勢いの農夫に、レイは苦笑した。
「収穫が増えたのは、おまえたちがよく世話をしてくれるからだろう。感謝するのはこっちのほうだ」
鷹揚だが穏やかな声音で語りかけ、恐縮する農夫の肩を叩くレイの姿を、セレンは誇らしい思いで見つめた。風になびく長い金の髪、堂々とした長身と端正な顔立ち、燃えたつように強い光をたたえた青い瞳は以前と変わらないが、身に纏った雰囲気はぐっと落ち着きと威厳を増している。
レイがリザニアール国の王に即位して丸三年が経った。金髪に青の目という、この国生まれらしからぬ容姿のために、以前は王としての素質を疑われたこともある彼は、今や「青の王」と呼ばれ、国民に支持される存在だ。王子時代も街では人気者だったけれど、慕われるだけでなく敬愛されるようになったのが、セレンにとっても嬉しい。
農夫は手拭いを握りしめ、セレンにもあたたかい笑顔を向けた。
「気候がいいのだって、きっとレイ様とセレン様のおかげです。王に運命のつがいがいらっしゃるから、神様もお喜びなんでしょう。エリアナ姫も、元気にお育ちだとか」
「――はい。おかげさまで」
微笑んで頷いたけれど、ほんの少し、返事には間があいてしまった。
エリアナはセレンとレイのあいだに生まれた子だ。農夫の声にも表情にも、他意がないのはわかる。でも、「姫」と言われると、セレンはどうしても身がまえずにはいられなかった。姫には、リザニアール王の資格――アルファ性がないからだ。
世界には、男女の性別のほかにもうひとつ、オメガとアルファという性が存在する。アルファは男性にしか現れず、アルファとして生まれると、オメガとのあいだにしか子をなすことができない。
一方オメガは、男性にも女性にも一定数現れる。女性はもちろん、男性であってもアルファと交わって子供を産むことができるのがオメガだ。ただし、初めての発情を迎え、身籠れる身体になってから十六年で、オメガ性は消失してしまう。以降は第二性別を持たない普通の人間になるが、アルファ以外となら子供を持つことができるし、オメガ性であるあいだも、アルファ以外の男性とつがって子を作ることもできる。
この不思議な二つの性別について、リザニアールにはこんな神話が言い伝えられている。
はるか昔、この地にやってきたリザニアールの王族は、神に出会いお告げを受けた。
「この土地に住まい治めるならば、我が子と愛を結ばねばならない。結ばれた愛によってのみ、平和と豊穣が守られるだろう」
そうお告げになった神は、オメガという第二の性別を持つ神の子をつかわし、王になる資格を持つ者にはアルファという性をお与えになった。
この言い伝えに基づき、リザニアールではオメガ性を持つ者は「神子」として大切に扱われている。王族の男性は次の王となる子供を得るために神子を妻にめとるのだが、神子から生まれる子供がすべてアルファ――男性とは限らない。
レイに選ばれたセレンは、異例なほど早くに授かったものの、生まれたのは娘だった。
第一子が姫だったことは、王宮内の多くの人を落胆させた。
きっと、普通に結ばれた王と神子だったなら、初めての子供が娘でも、ここまでがっかりされなかっただろう。セレンとレイはいい意味でも悪い意味でも、特別なのだ。
弟の母である神子・ミリア妃に疎まれ、外見のせいもあって敵が多かったレイは、第一王位継承権を持ちながらも王になる気はなく、わざと自堕落に振る舞ってきた。
セレンのほうは、神子だった母のアリアが盗賊と許されない恋に落ちた結果、罪の子として生まれてきた。幼いころから砂漠の中の神殿で下働きをしていて、王宮に来たのはレイの気まぐれのせいだ。神子だとわかったのはそのあとのことだった。オメガ性は遅くとも十四歳までには現れるはずなのに、成人するまで一度も発情したことがなかったのだ。
レイはセレンと出会い、愛したことで王になる決意をしたものの、即位に際してはいくつかの事件があった。国民は新王とそのつがいの神子との恋物語をもてはやすけれど、政を担う議会では、「本当にレイが王でよかったのか」と疑う目も残っている。
だからこそ、妊娠がわかったとき、セレンは男の子だったらいい、と祈ったものだ。
アルファを産めれば、神にも認められたつがいなのだ、と思ってもらえる。レイを支持する人にも支持しない人にも納得してもらうには、王子を産むのが一番だった。
けれど生まれてきたのは娘で、レイは心から喜んでくれたけれど、セレンは我が子を愛しく思うのと同時に、申し訳なく感じずにはいられなかった。
せめて次の子を身籠れればいいのだが、エリアナを産んで以来、発情は一度も来ていない。
その上先日、王弟エクエスとつがった神子が男の子を産んだ。
レイとエクエスは、どちらが王位を継ぐかで長年論争の種だったが、王にならなかったエクエスの最初の子供がアルファだったことは、再び王宮内を騒然とさせた。やはりエクエスのほうが王の資格があったのではないか、と言う者もいるし、バシレウス――王位の第一継承権を持つ者に与えられる名前を、エクエスの息子につけるべきだ、と主張する人間も出てきた。再び王宮や議会が荒れる元だと、嘆く声もある。
産んだ子が女の子だったこと、以降は身籠れる状態にならないこと。エクエスのほうが息子を授かったこと。
王宮の中では、どれも変わった生い立ちの神子のせいではないか、と非難する人もいるから、もしかしたら国民もがっかりしているかもしれないと、セレンは不安に思わずにはいられなかった。
「エリアナはとんでもなく可愛いんだ。今度来るときはあの子も連れてこよう」
ひとりしゅんとしたセレンをよそに、レイが上機嫌で農夫に告げ、農夫は「お待ちしてます」とにこにこした。そこに、「セレン!」と遠くから声がかかる。
「飲み物の用意ができたよー!」
休憩用の小屋のそばで手を振っているのはヨシュアだ。ヨシュアも神子だが、今は王宮を離れて街で暮らしている。伴侶のナイードが仕事でいないときは、葡萄畑や刺繍工房の手伝いをしているのだった。農夫たちと同じ格好が、意外と似合っている。
セレンがレイと連れ立って戻ると、素朴な木のテーブルに、葡萄酒に柑橘の果汁と蜂蜜水を加え、たくさんの果物を入れた飲み物が、大きな器で用意されていた。ヨシュアはそこから柄杓ですくい、グラスに取り分けてくれた。
「レイ様が氷を差し入れてくださったから冷たいよ。みんなも飲んでね」
「こりゃあありがたい」
セレンたちを案内してくれた農夫が嬉しそうに声をあげた。すでにテーブルについていた農夫たちも、なごやかに笑いあう。
「レイ様が王様になってから、ありがたいことばっかりだな」
「神子様が昼飯をこさえてくれたり、こうして飲み物を配ってくれたりするしな」
「王もお妃も、しょっちゅう来ては気にかけてくださる」
「王様は王宮が窮屈なだけかもしらんがねえ」
冗談めかしてひとりが言い、どっと笑い声が沸く。レイも笑いながら、グラスをひとつ取った。
「そのとおり、王宮より畑のほうが居心地がいいんだ。これからも来るから、みんな怠けられないぞ」
「レイ様が来なくたって怠けんよ、大事な葡萄だからなあ」
「レイ様こそ怠けんでくださいよ、市場のほうじゃ最近見かけないってみんな言ってましたからね」
遠慮のない受け答えは、昔から親しくつきあってきた証拠だ。楽しげにしているレイを微笑ましく見守りながら、セレンもヨシュアからグラスを受け取った。
甘くて冷たい葡萄酒と柑橘の飲み物が、渇いた喉に染み渡った。おいしい、と呟くと、ヨシュアが顔を覗き込んでくる。
「セレン、大丈夫? 少し顔色がよくないみたい」
「そう? 大丈夫だよ」
「嘘だ。離れて暮らしてても、小さいころから友達なんだよ。セレンが無理してるかどうかはすぐわかるんだから」
ヨシュアは両手でセレンの顔を挟んでくる。真剣な表情で覗き込まれ、自然と笑みが浮かんだ。
「ヨシュアは元気そうだね。また綺麗になったみたい」
「僕のことはいいの! セレンの心配してるんだよ」
ヨシュアは唇を尖らせながらも、確かめるようにセレンの顔や頭に触れ、それから両手を握った。
「セレンのことだから、みんなに気を遣って、またいろんなこと我慢してるでしょ」
「そんなことないよ」
首を横に振ってみせたが、レイまでが心配そうに寄ってくる。セレンの額に触れた彼は、すぐに腰を抱き寄せた。
「今日は暑いからな、日差しを浴びすぎたかもしれない。向こうの陰で少し休もう」
「具合は悪くないですよ。僕のことは気にしないでください。レイ様、みんなとお話ししたいでしょう?」
「セレンの体調のほうが大事だ。おいで」
やんわりと、しかし逆らえない強さで小屋の西側へと促され、セレンはヨシュアと農夫たちにそっと目礼した。みんな案じる表情なのが申し訳ない。日の当たらない、涼しい場所に置かれた木の長椅子にセレンを座らせたレイは、自分も腰を下ろすと、髪を撫でてくれた。
「つらかったらもたれかかるといい。頭が痛かったり、だるかったりしないか?」
「どこもなんともないです。ヨシュアもレイ様も、心配しすぎですってば」
「ヨシュアの言うとおり、顔色がよくないぞ。――でも、昨日よりは元気そうだ」
レイはわずかに目尻を下げると、セレンの額に口づけた。
「この前エリアナが熱を出したときは、セレンも無理をしたからな。その疲れが、やっと癒えてきたみたいだ」
「エリアナが熱を出したのはもう七日も前ですよ。あのときの寝不足なんて、とっくによくなってます」
「結局風邪がうつって、セレンの熱が下がったのは一昨日じゃないか。一緒に寝てくれるようになったのは昨夜からなんだから、まだ調子が悪くてもおかしくない」
「もし体調が悪かったら、レイ様と一緒に寝てないです。僕、昔から身体は丈夫だって言ってるじゃないですか」
下働きのあいだは休んだことなんかなかったのに、レイはセレンをか弱く繊細な人間のように扱う。大切にしてもらえるのは嬉しいが、できることなら心配はかけたくなかった。
「もうすっかり元気です。畑から王宮まで走って帰れるくらい」
握り拳を作って見せると、レイは溶けるように表情を崩した。
「王宮までか。それはすごいな」
「あ。レイ様、できないと思ってるでしょう。僕、走るのもけっこう速いですよ?」
「頼もしいが――だったら」
微笑んだまま、レイが顔を近づけた。
「もう風邪がよくなった証として、口づけてくれないか? 昨夜は念のためとか言って、させてくれなかっただろう」
青い瞳が甘い色をたたえていて、セレンはぱっと赤くなった。
「ここ、外ですよ」
「誰も見ていないし、見られても困らない」
「レイ様が困らなくても、みんなが……、ん、」
みんなが遠慮してしまうのに、と思ったが、レイの唇が掠めるように触れて離れると、それ以上なにも言えなくなった。背中に回ったレイの手が、愛しむ動きで撫でてくれている。まつ毛を伏せてしまえば今度はしっかりと唇が重なって、セレンは手探りで彼の服を握りしめた。
粘膜の濡れた部分が触れあって、ぴちゅ、とかすかな音がたつ。熱い舌が唇の内側をくすぐったが、深くは差し込まれず、かわりについばむように、何度も吸われた。セレンは完全に目を閉じずに、間近なレイの顔を見つめながら、自分からもそっと唇を押しつけた。
(レイ様――レイ様)
彼に口づけられるのが好きだ。キスのたびに、レイはひどく幸福そうな顔をする。見ると愛されているのだ、という実感が湧いてきて、セレンもとても幸せな気持ちになるのだった。
心も身体も満たされていて、ただ幸せで、なにも怖くない時間。
うっとりと目を閉じると、レイはさらに数度ついばんでから、優しくセレンの頭を抱き寄せた。
「今夜は久しぶりに、三人一緒に食事をしよう」
「エリアナも喜びます」
もうすぐ三歳になるエリアナはレイに抱っこされるのが好きだ。レイも、王族らしくないと言われるほど、娘を可愛がっている。
レイは慈しむ眼差しでセレンを見つめながら、丁寧に髪を梳いた。
「体調が平気なら、ヨシュアと少し話してくるといい。エリアナの熱だけでなく、ここのところ忙しかったから、ずっと気を張っていただろう? まだ時間はあるから、ゆっくりしていこう」
「レイ様……」
きゅんと胸が痛んだ。彼の言う「忙しかった」は、王宮の神子殿の主としての、セレンの仕事のことだ。レイが即位して以来、ミリア妃からセレンが引き継いだのだが、妊娠のこともあって、本格的に役目をつとめるようになったのは一年ほど前からだった。
今年は二年に一度の特別な日、『神の夜』があって、王宮に新しい神子がやってくる。
神子たちは大切な存在だから、オメガ性がわかると砂漠の中にあるイリュシアという町の神殿に集めて育てられる。神子としての教育を受け、成人すると王宮へと迎え入れられるのだが、王宮側ではその準備のため、決めなければいけないことや確認するべきことが山積みだった。
神子になって日の浅いセレンは戸惑うことも多く、補佐する王宮神官長にはよくため息をつかれてしまう。王妃らしくない、神子をまとめるのに相応しくないと言われてしまうから、なんとか役目をまっとうしようと、夜遅くまで勉強する日もあった。
レイには、気づかれていないと思っていたのだけれど。
「心配させてしまって、ごめんなさい」
「責めているわけじゃない。セレンが頑張っているから労りたいんだ」
ちゅ、とおでこにキスをして、レイは立ち上がった。セレンの手を引いて立ち上がらせてくれ、もう一度抱きしめる。
「セレンとエリアナは俺の宝だ。誰がなんと言おうと、俺はセレンが産んでくれたのがエリアナでよかったと思っている」
「……レイ、様」
「エリアナもだが、愛するセレンには誰より幸せでいてほしい。だから我慢したり遠慮したりしないで、なんでも話してくれ。控えめで優しいのはセレンの美徳だが、少しでも不安なことがあるなら、俺にだけは伝えてほしいんだ。いいな?」
「――はい。ありがとうございます」
葡萄畑を見にいこう、と急に誘ってくれたのは、きっとこの言葉を伝えるためだったのだ。
エクエスの息子のこと、自分の身体のこと、役割のこと――それらをセレンが後ろめたく思っているのを、レイは受けとめてくれている。
身体の芯までじぃんと痺れて、セレンはそっとレイに抱きついた。広くたくましい胸に顔を埋め、幸せだ、と噛みしめる。
言いつけどおりに働けばよかったころと違い、自分で決めたり、考えたりしなければならない立場は神経を使う。けれど、王の妃であり、愛される神子でいられるのは、願っても得られない幸福だ。レイと、二人の愛の証である娘のために、もっと頑張ろう――と、セレンは改めて思うのだった。
桃色の大理石を使った優美な建物は、正式には神子妃宮という。王や王弟、第一王子とつがって子を産んだ神子が、妃として住む宮だ。かつてはミリア妃が独占し、自分の私邸のように使っていた場所だった。
セレンはレイが居住する本宮に部屋を与えられていて、ここで寝起きすることはない。だが、神官たちと顔をあわせるのは神子妃宮で、という決まりがあり、神子殿の主としてのつとめがあるときは、長い時間をここで過ごす。
住まいにもなる宮だから、室内も庭も明るく美しく、一年を通して快適に過ごせるように造られているのだが、セレンには少し居心地が悪かった。豪華な調度品も磨き抜かれた床や柱も、自分が使うには贅沢すぎる気がする。
「では次に、神子殿の図書室に収める巻物について、検めの日時は来週半ばでよろしいですか」
建物と同じ桃色の大理石でできた大きなテーブルの向こうから、王宮神官長のヘレオがそう訊いてきた。着ているのは神官と揃いの服だが、斜めにかけた長の証の頸垂帯にはびっしりと刺繍がほどこされている。イリュシアの神官長よりもやや若く、恰幅のある身体つきや口髭を生やした顔は、堂々としていて押しが強い。元神子にしては珍しい外見だった。
彼に冷ややかな目つきで見つめられ、セレンは頷いた。
「はい。……その、確認にはリータにも同席してもらっていいんですよね?」
リータは、セレンたちが王宮に到着したときに親切にしてくれた年上の神子だ。エクエスに選ばれ、先日男の子を産んだ当人だった。現在は子供につきそっている時間が長いのだが、普段はセレンの補佐役として手助けしてくれている。
おずおずと切り出すと、ヘレオは馬鹿にするような表情になった。
「私としても、リータ様がいたほうが安心です。彼女のほうが決まりにも詳しい。もっとも、本来ならば我々神官におまかせいただく仕事ですから、慣例どおりにしていただければ、こんな手間をかけなくてもすむのですがね」
「でも、神子たちが読むものですから。できたら神子たちにも参加してもらいたいです。全員じゃなくても、読書や勉強が好きな何人かに……」
ヘレオがわざとらしく咳払いした。じろりとセレンを睨み、口髭を指でひねり上げる。
「商人が来るのに神子は近づけられませぬ。セレン様は三年も王宮にいて、いまだにしきたりもご理解いただけませんか」
侮蔑に満ちた声音に、セレンは小さく身を縮めた。しきたりなら、もう頭には入っている。でも、変えたほうがいいこともあるのではないか、と思うのだ。
「今は、街で暮らす神子もいますよね。商人の方は別室で待ってくれますから――」
「たとえ別室でも、王宮の神殿にいる以上は許されません」
セレンの言葉を遮って、ヘレオは叱るように言った。
「神子は神聖な存在です。王たちのために神が遣わした尊い者を、下賤の者のそばに近づけるなど、本来はあってはならないこと。王が特別にお許しになったとはいえ、セレン様だってオメガですから、わざわざ商人のために別室を用意しなければならないんですよ。――もっとも、長いことただの下働きでいらしたセレン様にはわからないでしょうが」
蔑む視線を向けながら、ヘレオは露骨な嫌味を言い放ち、また口髭をひねった。
「神子たちを預かる王宮神官長として、私も憂えているのですよ。相変わらず威厳や責任感とは無縁のようですが……まあ、それも仕方ないかもしれませんね。なにしろ、セレン様は普通の神子ではありません。姫を産んだきり神子らしい身体の変化さえないんですから。――それとも、私が不覚にも気づかないだけで、発情されていますか?」
セレンは黙って俯いた。ヘレオはこつこつと踵を鳴らして近づいてくると、大胆に顔を寄せてにおいを嗅いだ。
「ああ、残念ながらあのにおいはしませんねえ。残念ながら、ねえ」
こんなことは、本来なら許されない振る舞いだ。王族の子を産んだ神子は、子供の性別にかかわらず、神官長よりも身分は上になる。ましてセレンは王妃として選ばれた身だ。無礼なことなどできないはずが、セレンの出自を知っているヘレオは、決して敬おうとしないのだった。
「私は最近思うのですよ。本来、オメガ性を持って生まれたなら、もっと前からわかっていたはずです。セレン様が巧妙に隠してきただけで、実は以前から発情していたのだ、と考えるほうが、成人してから急にオメガになった、というよりもありえる話です」
「そんな……僕は本当に、」
「早いものなら十歳ごろには発情することもありますからね」
ヘレオはこうしてなぶる口調になると、セレンにはしゃべらせない。口をひらいても遮って、一方的にまくしたてるのが常だった。
「セレン様のように罪の子なら、もっと早くに発情することもありそうだ。だからもしかしたら、もうオメガではないのでは、と案じております。オメガでなくなったのに王宮に居座るならば、図々しいと言わざるをえませんからね。王子をお産みになったならともかく、女児をひとり産んだだけではねえ。居座るならせめて神子をたばねる主として、相応の働きをして役に立つと示していただかなければ、我々神官も困るのです」
「……いたらなくて、申し訳ありません」
どうにか謝罪の言葉を口にしたものの、ヘレオに謝っても意味がないことは、セレンもわかっていた。彼の言葉は理屈の通らない、ただセレンを傷つけるためのものだから。
案の定、ヘレオはますます蔑む目つきになった。
「謝っていただきたくて苦言を呈しているわけではありませんよ。今の神子殿の現状を、セレン様は嘆かわしいとは思わないのですか? レイ様は一度もいらっしゃらない、エクエス様もリータとつがってからは贈り物をくださるだけ。たまに前王の弟君たちがお茶にいらっしゃるだけでは、神子が可哀想です。それもこれも、あなたのせいでしょう。下働きが長かったセレン様は妃の身分を手放したくないのでしょうが、私利私欲のために大勢の神子を虐げるなどあってはならない。いずれは不適切な者を相手に選んだ陛下のご判断も、疑われることになりますよ」
まくしたてたヘレオはそこで息を吸い、さらになにか言おうと口をひらいたが、使用人が控えめに声をかけてきた。
「セレン様。そろそろ五度目のお祈りの時間でございます」
「すぐ行きます」
ほっとして立ち上がると、ヘレオは面白くなさそうに舌打ちし、足りなかったのか吐き捨てるように言った。
「せいぜい心を込めて祈るんですな。ちゃんと身体が疼きますように、濡れて陛下の相手がつとめられますように、と」
卑猥な侮辱の言葉に、うなじのあたりがざわりとした。ヘレオもかつては神子だったはずなのに、彼は神子を軽蔑している節がある。なかでもセレンのことは、穢らわしいと思っているようだった。
セレンは小さく一礼してヘレオの前を通りすぎた。嫌われたり、蔑まれたりするのには慣れている。なのに、神子妃宮を出ても胸のざわつきがおさまらなかった。
(ちゃんとしないと……いい神子でなければ、レイ様まで悪く言われてしまうんだから。エリアナだってどんどん嫌われちゃう)
神子殿の祈りの間に向かいながら、やっぱり、とセレンは自分に言い聞かせた。
(やっぱり、あのことをレイ様に頼んでみよう)
以前から考えてはいたものの、レイが簡単には頷いてくれないだろうと、相談するのを諦めていたことがある。けれど、もう先延ばしにはできない。レイがセレンをかばうあまり、また議会での立場が悪くなりつつあると、エクエスに教えてもらったからだ。
彼をひとりにしたくない、と思って恋に落ちて、愛しているのに、自分のせいでかえってレイを不幸にするなんて駄目だ。これ以上、レイに孤立してほしくなかった。
神子殿の敷地に入ると、神子たちも祈りの間へと向かうところだった。セレンに気づいてもただ通り過ぎる者もいれば、おじぎをしてくれる神子もいる。挨拶されて頭を下げ返していると、神子のひとりが振り返った。リータだ。
「セレン!」
優しげな雰囲気はそのままに、大人の女性らしい容姿になった彼女は、セレンにとって頼れる姉のような存在だ。神子たちに嫌われているわけではないけれど、今ひとつ馴染めないセレンに、いつも彼女だけは声をかけてくれる。
「リータ。もうみんなと一緒にお祈りしても平気なんですか? 赤ちゃんは?」
「私もあの子もとっても元気よ、ありがとう」
笑顔で近づいてきたリータは、セレンの顔を見ると心配そうに首をかしげた。
「セレンこそ大丈夫? 悲しそうな顔してるわ」
「――ヘレオ様に叱られてたんです」
「もう、またなの? ヘレオ様にも困ったものね」
リータは細く編み込んだ髪を揺らして、神子妃宮のほうへと視線を向けた。
「あの人、王宮神官長に思ったような権力がないってわかって腹を立ててるのよ。イリュシアではテアーズ様の取り巻きだったけど、あのことがあって以来、自分が一番偉い神官になる、って張りきり出したんですって」
『あのこと』というのは、ミリア妃が処分された事件のことだ。彼女は王宮にいる神子を、逃げるのを手伝うと騙して売り払っていた。
「そうだったんですね……知りませんでした」
セレンはそういう情報には疎い。
「でも、ヘレオ様が来てからもう三年経つけど、すごくいらいらされているのは最近ですよね?」
「セレンったら、ずいぶん前からいじめられてるじゃない。あなたは気にならなかったかもしれないけど、みんな心配していたのよ」
リータはよしよし、と頭を撫でてくれる。
「でも、たしかに最近ひどいわよね。私にもすぐいやなことを言うの。たぶん、レイ様が今年もイリュシアには行かないって言ったせいじゃないかしら」
「……そうかもしれませんね」
セレンは困って目を伏せた。神子を王宮に迎えるにあたっては、王族が『神の夜』にあわせて砂漠の町イリュシアまで行くのが決まりなのに、レイは二年前、まだエリアナが小さいからと言って行かなかった。「迎えにいくのは王族なら誰でもいいはずだ」とレイは言ったが、慣例では王子が生まれて成人するまでは、王自らが行くものだ。
「そんな顔しないで、セレン。レイ様が決めることは、私たちにはどうしようもないもの。ヘレオ様のことも、レイ様にちゃんと言って、対応してもらったほうがいいわ」
リータは背中も撫でて慰めてくれ、セレンは微笑み返した。
「ありがとうございます」
リータの言葉はありがたいが、セレンはレイに言うつもりはなかった。ヘレオは神官なのだから、神子の中で一番上に立つセレンが対処すべきことのはずだ。
(レイ様、ただでさえお忙しいんだもの。それにヘレオ様は、僕のことは嫌いでも、レイ様が王様に相応しくないとは言わないから、レイ様にとっては味方だ――今は、まだ)
あまりにセレンがいたらなければ、ヘレオもレイを悪く言いはじめるかもしれない。それだけは避けたかった。嫌味や暴言は、セレンが我慢すればいいだけのことだった。
祈りの間に入り、神子たちの一番前に出る。祭壇の前で膝をつき、セレンは両手を組みあわせた。こうべを垂れて、無意識でも唱えられるようになった祈りの言葉を声に乗せる。感謝と愛を伝えながら、願う。
(レイ様が、僕のお願いを聞き入れてくれますように)
彼がまた、周囲から疎まれたりしませんように。誇り高く立派な王が、大勢の人に愛されますように。
個人的なことを神に祈るのが神子として正しいか、セレンにはわからない。けれど、セレンからレイにできることは少ないから、祈らずにはいられなかった。
祈りを終えたセレンは、急いで本宮へと戻った。この季節はまだ日は高いが、エリアナの夕食の時間なのだ。
「しぇえんっ」
乳母と待っていたエリアナは、舌足らずにセレンを呼んで、抱き上げるとぎゅっとしがみついてくる。髪色は黒でセレンにそっくりだが、目は綺麗な青をしていた。動物も虫も大好きな活発な性格のいっぽう、綺麗な装飾品に目を輝かせるおしゃまなところもある。全体的に愛らしい子猫のような魅力が溢れていて、乳母たちやレイには溺愛されていた。
セレンにとっては不思議な宝物だ。エリアナと離れているときは、男の子に産んであげられたらもっと幸せだっただろうに、と悲しくなるのに、ふにゃふにゃとやわらかい彼女を抱きしめると、ただ愛おしさが湧いてくる。とんとん、と背中を叩いてあやせば、穏やかで満ち足りた気持ちになれた。
「遅くなってごめんね。二人でごはん食べようね。今日はレイ様、まだお仕事みたいだから」
部屋にいないということは忙しいのだろう。エリアナは少しのあいだ、レイを恋しがってぐずったが、使用人がテーブルに食事を並べるとけろっとして手を伸ばした。
「しぇえんっ。ぱん!」
「パン好きだね。ペーストはどれにする?」
「こえっ」
指差した野菜のペーストを、たっぷりパンに塗ってやる。エリアナは最近、なんでも自分で選ぶのにこだわっているのだ。自分で選んだわりに「やっぱりいや」と拒否したりするのだが、そのときのぷうっと膨れる顔がまた可愛いのだった。
一時期はなんでもいやいやと言われてせつなかったけれど、子供にはそういう時期があるからと、乳母たちが慰めてくれて助かった。
(僕も子供のころは、こんなふうに変なわがままを言ったりしたのかな)
幼いころの記憶が、セレンにはほとんどない。覚えているのは暗い、冷たい夜の部屋だ。高い窓から夜空が見えていて、とても寒くて、膝を抱えている記憶。心細く、わけもなく「ごめんなさい」とばかり考えていた。あれは、何歳のことだったのだろう。
「しぇえん、たべゆ?」
明るく無邪気な表情で、エリアナが見上げてくる。食べてるよ、と微笑み返し、セレンはスープを匙ですくった。ほどよくあたためられて、肉と野菜の味がよく出たおいしいスープだ。エリアナが真似をして自分も匙を持ち、こぼしながらも口に運ぶ。
「どう? スープもおいしい?」
「んーっ。おいちっ」
にこおっ、とエリアナが笑う。ふふ、とセレンも笑ってしまった。
(可愛いなあ。ずっと見ていたくなっちゃう)
舌足らずな話し方も丸い頰も愛おしくて、こうして一緒に過ごしていると疲れが消えていくようだ。ぴた、と頭に頰をくっつけると、乳母がエリアナ用のお茶を用意しながら、微笑ましそうに見つめた。
「セレン様が普通の母親のように付き添ってくださるから、エリアナ様はのびのびお育ちですねえ」
「……あんまり、王族らしくはないですよね」
三人いるエリアナの乳母たちは、皆セレンにも好意的だ。だから言葉に他意はないとわかっていても、セレンは少ししゅんとした。
「わたくしはよいことだと思いますよ。陛下がお決めになったことですし、陛下ご自身も幸せそうです」
お茶の器をエリアナの近くに置き、乳母は前掛けの上で丁寧に両手を重ねた。
「わたくしは長く王宮でお仕えさせていただいておりますから。レイ様は実のお母様の記憶がない分ミリア様をお慕いで、寂しい思いをなさってたでしょう。だから自分のお子様には、親にたくさん甘えさせたいのだろうな、と思ってたんです」
乳母の中でも一番年上の彼女は、もう祖母のような年齢だ。言われて初めて、セレンも納得がいった。
「そっか……レイ様は自分みたいに寂しい思いをさせたくなかったんですね。――気づきませんでした」
エリアナが生まれた直後に、レイは俺も面倒を見る、と宣言していた。一緒に遊んだり、ミルクをあげたりしたい、と言って、当時はずいぶん王宮内がざわついたものだ。国の政にかかわるわけではないから、レイが独断で決めたのだけれど、議会の長老たちは今でもいい顔をしない。セレンがもともと下働きで、いまだに王妃らしくないから、その悪影響がレイにも及んでいる、と彼らは考えているらしかった。セレンがエリアナを抱いて執務室に行ったりすると、露骨に眉をひそめる人もいる。
「もちろん、セレン様のためもあるでしょうけどね」
乳母はセレンの分もお茶を淹れてくれた。
「セレン様のお母様も早くに亡くなられたのでしょう? きっとお寂しかったでしょうから、レイ様はご自分と同じように、セレン様も子供を可愛がって育てたいと考えるだろうって、配慮してくださったに違いありませんよ」
「――きっとそうですね」
レイの性格ならありえることだった。乳母が「上手でしたね」と褒めてエリアナの口元を拭いてくれる。当然の顔をしてなすがままになっている娘を見ながら、セレンはじわっと胸の奥が熱くなるのを感じた。
エリアナはもうこんなに大きい。危なっかしいながらも歩けるようになって、セレンの名前も呼べるようになって――今年の秋には三歳になるのだ。
セレンとレイが出会ってからは、もうすぐ四年。
(レイ様は、ずーっと僕に優しい)
セレンがそうと気づかないときでさえ、深く優しく想ってくれている。
ふいにレイに会いたくてたまらなくなって、セレンは急いでスープを飲み干した。エリアナが食べ終えるまでつきあってやり、風呂は乳母に頼む。
「レイ様はまだ執務室でしょうか?」
出入り口のそばに控えた侍従に聞くと、彼はちょっと口ごもった。
「謁見の間に向かわれたと聞いております。緊急のお目通りを願う方々がいたそうです」
「こんな時間に、珍しいですね」
普段なら、この時間には官吏たちも仕事を終えているはずだ。だが、急な来客があるのは初めてではない。
「じゃあ僕、控えの間で待ってますね」
そう言うと侍従は気まずそうな顔をしたが、早くレイに会いたかったセレンは気にせずに謁見の間を目指した。隣の控えの間にいれば、謁見が終わったらすぐに会える。
だが控えの間に入ると、すぐに侍従の表情の理由がわかった。大きな声が、謁見の間から聞こえてきたのだ。
「これは正式な神託ですぞ。聞きたくないとおっしゃられても、我々には陛下にお伝えする義務がございます」
「どうせろくでもない内容なんだろう」
「兄上」
つまらなそうに応じたレイを、エクエスが諌めた。言ってみろ、と彼が促して、「では申し上げます」と声をあげたのはヘレオだった。
「神の庭より、何十年ぶりかでご神託があったと伝達がございました。こちらが書面、そしてこちらが使いの神官でございます。神官長テアーズをはじめ、すべての神官の署名を確認し、正式なものと認定いたしましたので、陛下へご報告申し上げます」
セレンは謁見の間へ続く扉のそばで身を硬くした。神話以外に神様のお告げがあったなんて、これまでセレンは聞いたことがない。でも、神殿では下働きだったから知らなかっただけかもしれなかった。
謁見の間からは、ヘレオにかわって、別の神官らしき人物の声が響いてくる。
「このたびのお告げによりますと、王妃となられたセレン様は、リザニアールにとって祝福された相手ではない、とのことです」
びくっ、と思わず肩が揺れた。自分の名前が出るなんて思ってもみなかった。神官は緊張のせいか、声を震わせながら続ける。
「セレン様は神の子であるどころか、アルファを惑わし、堕落させる邪悪な精霊の化身であるそうです。このまま寵愛すれば、大地が怒りに震え、悪しきものを罰するだけでなく、尊きものも奪うだろう、と」
(……ひどい)
セレンは両手で口を押さえた。神様は怒ったら、セレン以外にも罰を与えるつもりだ、ということだ。
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