書籍詳細
転生したら竜族の王子に猛愛されてます
ISBNコード | 978-4-86669-679-9 |
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サイズ | 文庫本 |
ページ数 | 296ページ |
定価 | 836円(税込) |
発売日 | 2024/06/18 |
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内容紹介
人物紹介
ヒナタ
子爵家次男で下っ端の王宮事務官。
アレクシス
竜の血を引く王太子。二十五年前に伴侶を亡くしている。
立ち読み
その男と目が合った瞬間にヒナタの身体は固まった。
まずい。なんでこんなことに。
相手はこの国の王族で、しかも王太子殿下なのだ。
それに対してこちらは王宮事務官の下っ端に過ぎない者だ。そんなお方を直視するだけでも不敬に当たる。
あまりのことにいっきに頭から血が下がり、ふらつきかけたがからくもこらえる。
ここで尻餅をつくような不手際をしでかせば、上役からの叱責では済まされない。なにしろここは宮廷の舞踏会場なのだから。
ヒナタがなんとか体勢を立て直せたと思ったとき。
「そこの者」
多くの紳士淑女たちがさざめき合う会場のさなかでも、響きの良い男の声はよく通る。一瞬で場内が静まり返り、周囲の視線がアレクシス殿下の上に集まった。
そこの者とは誰だろう。まさか、とは思うけれど、いちおう動かずにいたほうがいいのだろうか。
戸惑っているうちにアレクシス殿下が足を進めてきて、ほかの誰でもない自分の前で立ち止まる。ヒナタはあわてて頭を下げた。
「おまえの名前は」
「ヒナタ・エルマー・エーレルトと申します」
内心の動揺を押し隠し、声を震わせないように返事するのが精一杯。すると、眼前の男から訝しげな問いが来る。
「ヒナタ?」
ここでさらに追い詰められた気分になった。なにしろ自分は下位貴族である子爵の次男。対する相手はリントヴルム王国継承権一位の王子。これ以上直答してもいいのだろうか。
困惑してすくんでいたら「顔を上げよ」とご下命が降ってくる。いやおうなくヒナタは言われた姿勢になった。
「聞き慣れない名前だが」
目の前には一度見たら絶対に忘れられない美貌がある。
彼の背中を覆う黒髪は艶めいていて、漆黒のその眸は黒曜石の輝きをたたえている。真の黒を有している髪と眸の色こそが、竜の血を引く王家直系の証なのだ。
並外れた美しさと彼のみが持つ迫力に気圧されて、ヒナタはつかの間茫然としていたけれど、近くの誰かが咳払いをし、それでハッと我に返った。
「ヒ、ヒナタの名前は、小官が産まれた折に祝福してくださった神官様から授けられた、そう聞き及んでおります」
さっきの言葉の意図を察して返事する。
「その神官の出身地は」
「東方の出というだけで、はっきりした出身地は存じません」
「そうか」
言うと、彼はおもむろに姿勢を変えた。
踵を返し、大股に去っていくその姿から、もはやヒナタごときになんの興味も持っていないと知らされる。
声をかけたのはたんなる気まぐれ。その程度のものだった。
ヒナタは遠ざかっていく王太子殿下の背中に一礼すると、可能な限りすみやかに舞踏会場を後にした。
会場を出て、廊下を進み、ふたつほど角を曲がって、ヒナタの足がふいにもつれる。とっさに手を壁について身を支え、まわりに誰もいないことを見て取ってから、湧きあがる感情に身をまかせる。
(う、嘘だろう……。まさかあの方が自分なんかと)
いちおうヒナタも下位とはいえ貴族の一員。建国祭などの催しで王族のご尊顔を拝する機会はなくもないが、雲上人は遥かに遠い存在だし、身分的にも実際の距離のほうもかなりの隔てがあったから、対面するなど思いもよらない。
なのに、自分がごく近いところからアレクシス殿下と言葉を交わすなんて。
いまでも信じられないし、なぜだろうと考えてもわからない。
まるで脅かされた小動物が巣穴に逃げこむようにして、ヒナタは自分の職場である王宮事務局に急ぎ足で戻っていった。
「遅くなってすみません」
言いつけを済ませたことを先輩事務官に伝えると、相手はちょっと首を傾げてヒナタを眺める。
「なにかあった? 少し顔色が悪いようだが」
「あ、いえ」
なにも、と言いかけて考え直す。これは報告する必要があるのじゃないか。
「じつは、王太子殿下から直々にお声をかけられる出来事がありました」
「ええっ」
驚いたのは先輩ばかりではなく、室内にいたほぼ全員。
「どうしてきみに?」
「エーレルト君、なにかしたのか」
「アレクシス殿下はなにをおっしゃっていた?」
まわりからの質問攻めに、一生懸命考えつつ応じていく。
「理由はわかりません。言われたとおり従者殿に伝言をお渡ししました」
指示どおりに動いていたし、特に不調法や粗相はなかったと思うのだが。
「会場に入ったあとも目立ってはいませんでした。殿下はなんとなくこちらを見られ、たまたまわたしが目に入って気まぐれを起こされたのかと」
「だけど結構離れた位置にいたのだろう」
「はい」
「名前を聞かれて、それだけだった?」
「そうです」
その折の状況を問われるままに答えていき、しかしこの場の誰も殿下がなぜそうしたかを解することはできなかった。
「まあ、たんなる気まぐれの範疇だろうな」
「そうそう。たまにはあることだと聞いているし」
「だが、あれはいま二十五歳くらいの者に限ってはいなかったか」
そこまで言って、ヒナタを囲む人達は思わせぶりな目配せをした。
「二十五歳の?」
なんのことだろう。ヒナタは疑問を口にしたが、返ってきたのははぐらかす言葉だけだ。
「エーレルト君には少々早い話題だよ」
「まあ、そうだよな。この子はまだ十八歳だし」
「尊貴なお方の思考は下々には測りかねる」
なぜかいっせいにうなずき合って、それぞれ自分の机のほうに戻っていく。
「あ。エーレルト君。具合が悪いようだったら、今日は早上がりしてもいいよ」
さぞ緊張しただろう、まだ顔色がすぐれないよと労られ、ヒナタは「ありがとうございます」と頭を下げた。
「でも、あと少しで切りのいいところまで片づきますから」
「わかった。じゃあ無理せずに」
この王宮事務局は尚書省の一部であり、国政の一般的な文書を司っている。おもな仕事は各部署から提出された文書の精査、記録と保管。忙しいがやり甲斐のある職場だった。
(さあまた頑張ろう)
ヒナタは気持ちを切り替えて自分の机に戻っていくと、目の前に置かれた業務に取りかかった。
「エーレルト君、ちょっと」
「はい。なんでしょうか」
呼ばれてヒナタは席を立つ。
「この計算書を確認して」
「承知しました」
上役が差し出す書類を受け取って、ふたたび自分の場所へと戻る。机の前で椅子に座って、さっきの書類の数字を睨むと、
「エーレルト君、この資料を集めてくれ」
今度は斜め向かいに座る先輩が、紙片を振って指示を出す。これにも了解の返事をし、どちらを優先するべきか考えた。
ええと。この資料は明日の午後に必要なもの、ならば多少は余裕がある。だったら、まずは計算書の確認から。
では、と書類に目を落とし、間違いがないことを確かめると、ヒナタは上役にそれを戻して部屋を出た。
王宮事務局は、横に長い王宮建物群の西翼に位置している。そして、東翼にあるのが王宮騎士団本部。
国王をお護りするのが近衛騎士団で、そのほかに王族方をはじめとする国家の守護を担うのが第一から第四騎士団。
つまり、こちらとあちらは文官と武官という括りになる。ただ、人員や所有する場所の広さをくらべると、武官組が圧倒的に多くて大きい。もっともどちらがより偉いというわけではなく、互いに派閥を作っての争いなどは特にない。派閥というのなら、むしろ宮廷内部のほうだろう。あちらは確か二大侯爵家の確執が有名だ。
廊下を行きつつヒナタがそこまで考えたとき。
「おい」
とっさにヒナタは足を止めた。振り向いてすぐ、誰なのか理解する。神殿長だ。
白い長衣に豪華な帯。手にした杖にも過剰なほどの飾り物がついている。
彼本来の居場所は、当然ながら神殿にあるのだが、なぜかしょっちゅう王宮に顔を出すと聞いていた。
「そちがエーレルト事務官か」
「はい。さようでございます」
神殿長は五十代半ばほどか。太り肉で尊大な言動は、ある意味彼の箔付けに一役買っているのだろう。
どちらにせよ、怒らせてはいけない人物。ヒナタはただ畏まってそこに控えているしかない。
「なぜ、そちのような者の名をあのお方は問われたのだ」
あのお方、で誰かわかった。舞踏会の一件を聞き、探りを入れに来たのだろう。
「申しわけございません。王太子殿下のお考えは、それこそわたしのような者には到底計り知れません」
すると、神殿長は「ふむ」と洩らしてこちらの全身をじろじろ眺める。
ヒナタの見た目は、両親や兄などに言わせると―おまえの頭髪は豊かに実る小麦色、大きな眸は瑞々しい若草色。それに、身長はさほど高くはないものの、均衡の取れたすらりとした身体つき―とのことだが、身内びいきの意見として割り引いて聞くほうがいいだろう。
現に、神殿長は冴えないものを見せられた表情で、鼻に皺を寄せている。
「あのお方がこんな子供を」
言い置いて、彼は小馬鹿にしたふうに両肩を上げてみせる。
「考えるのも無駄であるな」
それから小虫を払うように手を振ると「もうよい。立ち去れ」と命じてくる。
逆らえる立場ではなく、また正直この場から解放されるのはありがたい。
「失礼いたします」
ヒナタは目の前の男にお辞儀をし、急いで目的の場所へと向かった。
廊下で神殿長に呼び止められて以降は、アレクシス殿下との関わりを誰かに追求されるようなことはなく、さいわいにもあれ以上の出来事は起こらないようである。
神殿長とのやり取りから数日経って、ヒナタはいつもとおなじように仕事に精を出していた。
「この資料ですね。えっと。たぶん図書室に行けばあると思います」
書類の内容をざっと調べて返事する。ヒナタは今日も絶賛雑用をこなし中だ。
「じゃあ頼むよ。ついでに俺の予約の本も取ってきてくれないか」
「はい」
王宮の図書室は部屋といえども、地方の図書館よりは大きい。入室できるのは許可を得た者のみだが、王宮事務官は全員がすでにその許しを得ている。
晴れた日の午後、ヒナタは廊下の窓から差しこむ陽の光に自分の影を作りながら図書室に行き、言いつけどおりの書籍を持って来た道をたどっていた。
(お、重い)
資料用の本もだが、予約のそれらが思ったよりも多かった。せめて肩掛け袋を用意しておけばよかったが、すでに後の祭りである。ヒナタは結構な厚みのある本の山を両腕をプルプルさせながら運ばなければならなかった。
こんなときは自分の非力さが恨めしい。騎士団員とは言わないが、せめてもうちょっと筋肉がついていれば。
考えても詮無いことを頭に浮かべ、それでもよたよたと足を運んでいたところ。
「え、っ」
後ろから足音がして、そのまま抜き去っていくのかと思いきや、いきなり横合いから腕が伸びた。
「行き先は」
手に持っていた本を奪われ、ヒナタはつかの間ぽかんとした。
「どこまで行く気だ」
少しばかり苛立つふうに重ねて問われ、あわてて応じる。
「王宮事務局に戻ります」
そのあとさらにあせりながら隣に立つ男を見あげた。
「ですが、本は小官が運びますので」
「かまわない」
そう言われても、相手はこの国の王太子殿下なのだ。こちらはそうですかと引き下がれない。
なのに、当のアレクシス殿下は図書室の本をかかえてさっさと歩きはじめてしまう。
「お願いでございます。恐れ多いことですから」
「かまわないと言っただろう」
だけど困る。どうすればいいのかとアレクシス殿下の前後左右をちょこまか動き回っていたら、相手はちいさく吹き出した。
「面白いな。小動物を思わせる」
失笑されたが、こちらとしてはそれどころではない気分だ。
「本当に……お許しください」
半泣きになりながら彼のあとを追っているのを、相手は興味深そうに眺めるばかりで、いっこうに手にした本を返してくれない。
ヒナタは大股で歩く相手についていくのが精一杯。そうしてついに事務局のすぐ近くまで来てしまった。
「これは、アレクシス殿下」
廊下にいた事務官が王太子殿下を見て取り目を瞠る。その直後、急いで通路の端へと寄って深々と礼をするのを、ヒナタは進退きわまった状況で見ているほかない。
そうしているうちにさきほどの事務官の声が聞こえたのだろう、事務局長が大あわてで部屋から飛び出してきた。
驚いているのだろうが、とりあえずの笑顔を作ってなにか言いかけるのを彼は顎のひと振りでやめさせる。
「この荷物を引き取ってくれ」
事務局長が小腰をかがめて近寄って、書籍の山を彼から受け取る。それから上目遣いをしながら眼前の相手を窺い、
「あの。なにか不手際の段がございましたでしょうか」
おそるおそる上役が訊ねるのに、なんでもないふうに彼が言う。
「たまたま行き合わせて、重そうだったから引き受けた」
それだけだと黒髪の男は告げる。
そうしてあっさり踵を返すと、アレクシス殿下はそのまま来た道を戻っていった。
「エーレルト君、いったいなにがあったんだ」
殿下を見送ってのち、驚く局長に問われたが、どうにも返事のしようがない。
「それが、わたしにもわからなくて」
「わからないって」
「本当に心当たりはないんです。図書室の本を運んでいたときにあのお方が通りかかって、それを引き取ってくださったんです」
「そのときに王太子殿下はなにかおっしゃっておられたか」
「行き先は、と」
「それだけか」
「本は小官が運びますからとお伝えしたら、かまわないとお返事が」
「それから」
「お許しくださいとお願いしたら、あせっているその様子が面白いと」
小動物を思わせるともおっしゃっておられましたとヒナタは続けた。
「そのあとは」
「それだけです」
この会話に聞き入っていたまわりの者は、ここでいっせいに息を吐いた。
「だとすると、きみに不敬な言動はなさそうだ」
ややあってから局長が言う。
「助かった。竜の血を引くあのお方を怒らせるようなことがあれば、王宮事務局全員の首が飛ぶ」
聞いて、ヒナタは若草色の眸を瞠った。
「そんな。それほどに恐ろしいお方ですか」
局長は「いやいや」と首を振った。
「怒りっぽいお方ではない。臣下にことさら厳しい扱いもなされない」
だが、と局長はヒナタを見て言う。
「王宮に伺候するようになって、きみは半年あまりだろう。王族方のことについて、どのくらい知っている」
「はい。わが国の王族、ことに直系の方々は古より竜の血を引くのだと。また、そのためにリントヴルム国王陛下や王太子殿下は並外れて寿命が長いと聞いております」
「そうだな。それに、ただ寿命が長いばかりではない。国王陛下は竜王様から授けられた特別なお力でこの国を護っておられる。代替わりがあれば、次の国王陛下がそのお役目を引き継ぐのだ。ようするに、アレクシス王太子殿下は誰とも引き換えにできないお方。その尊いお方のご不興を買うというのがどういうことか、きみにだってわかるだろう」
「自分や家族だけではなく周囲の者も処罰の対象になるかもしれない。絶対に失礼があってはならないお方ですね」
「ああそうだ。それを肝に銘じてくれ」
ここで局長はあらためて周囲を見やる。
「話はこれまでだ。全員仕事に戻ってくれ」
ひとつ手を叩かれて、それを合図に皆はそれぞれ自分の机へと向かっていく。ヒナタもおなじようにしながら、疑問はいまだに残っていた。
以前神殿長に言ったとおり、アレクシス殿下のお考えは自分のような者には到底計り知れないものだ。
けれどもなぜ荷物持ちを買って出てくれたのか。ただの親切心なのか。
もちろんそれだけかもしれないが、なんとなく胸がざわつく。なんだか足元が不安定に揺れるような……これはいったいなんだろう。
「エーレルト君?」
いつの間にか足を止めて棒立ちになっていた。
「あ、すみません」
ヒナタは首をひとつ振ると、ふたたび忙しい日々の業務に戻っていった。
あの折に不敬な言動は特になかった。とはいえ、王太子殿下に荷物運びをさせたから、なにかしらの叱責があるのじゃないか。
そう思って数日びくびくしていたけれど、どこからもお咎めはないようだ。
(本当に助かった……)
ヒナタはあらためて自分の幸運を喜びつつその日の仕事を終わらせると、事務官用の宿舎に帰った。
リンネバウムと呼ばれるこの季節は、鈴のような実をつける木の花々がほころびはじめることからきている。太陽が力を増して、日も長くなり、本来気持ちの良い季節だが、残念ながらその夜は安眠にはほど遠かった。
久しぶりに『あの夢』を見たからだ。
夢の中で、自分は何者かの背中を追いかけている。必死で足を動かしているつもりで、なのにその誰かとの距離は少しも縮まらない。
待って。置いていかないで。せめて振り向いて、こちらを見て。
叫んだ言葉は、しかし声にならなかった。心臓をじりじりと焼かれているような感覚がして、痛くて、つらくて、なにより哀しい。
あの背中が誰なのかわかればいいのに。そうしたら、きっと呼び止められるのに。
けれどもどうしてもその名前が出てこない。
お願い、行かないで……っ。
「あ、っ」
いきなり目がひらき、敷布の上で上体を跳ねあげる。
夢の中で走っていただけなのに、息が苦しく何度も肩が上下する。無意識に額を拭うと、汗びっしょりになっていた。
「ゆ……め」
それを自分に言い聞かせるようにつぶやくと、ようやく大きな息ができた。
ああ……またこの夢か。
誰かを必死に追い求め、しかし決してつかまえられない。相手は一度も立ち止まらず、振り向いてくれることもまたなかった。
ヒナタは呼吸をととのえると、寝台から抜け出した。とりあえず汗に濡れた寝衣を脱ぎ、ざっと顔と身体を拭くと、新しい衣を箪笥から出そうとして、ふっとその手が止まってしまう。
どうしよう。今夜はもう眠れる気がしない。だったら、敷布の上で朝までじっとしているよりも、ちょっと外に出てみようか。
夜間に部屋を出てうろうろすべきでないことはヒナタにもわかっている。けれども、ほんのちょっとだけなら。
この王宮に来る前、エーレルト家が持つ王都の屋敷にいたときには、こんな夜は庭に出て散歩した。そうしたら、少しは気持ちが落ち着いたのだ。
ここに来てからは毎日が忙しく、また充実もしていて、もう『あの夢』は見ないのかもしれないと思っていたのに。
どうしてだろうと考えたその直後、なぜか数日前に見た殿下の姿が脳裏に浮かんだ。
「……あ」
ふいに自分の足元がおぼつかなくなった気がする。
いまはいつか。ここはどこか。自分は誰か。そんなことがいっきにあやふやになったのだ。
ただ『あの場所』に行かなければならないという切羽詰まった思いに駆られる。
そこがどこかはわからない。けれどもどうしてもたどり着きたい。
そんな闇雲な衝動に圧されるままにいつしか部屋を出ていたらしい。
「え……あれ?」
ふと気がつくと、ヒナタはどこか知らない場所に立っていた。いつの間にか寝衣から普段着に着替えていて、周囲はこれまでに見たことのない景色。我に返ってきょろきょろあたりを眺めてみたが、やっぱりおぼえのない場所だ。
この周辺は密な生け垣に囲まれていて、そこを透かして外を見ることはできない。
生け垣の内部は広く、立木があり、花壇もあり、小道をたどれば東屋に行けるようだ。その手前には大理石の噴水があり、澄んだ水音が聞こえている。
庭全体には王宮魔道士が設置したのか、ところどころに設けられた照明が白い光を放っていた。
すごく綺麗な場所だ。それが最初の印象で、同時になんだかほっとするような気持ちもしていた。
なんだろう。とても落ち着く。まるで自分がいるべきところに戻ったような。
そんなはずはないのだとわかっていても、その想いは消せなかった。
まだどことなくぼんやりした気分のまま、ヒナタは噴水の横を通り、東屋へと向かっていった。
「誰だ」
白い石造りの東屋の近くまで来たときに、男の声が耳に入った。
まだ夢の中にいる気分でいたけれど、ヒナタはハッと我に返る。
「あ……その」
「誰の許しを得て入りこんだ」
問われて、とっさには返事ができない。
東屋の人影は、アレクシス殿下だった。
愕然としてヒナタは悟る。ここは自分が来てはいけない場所だったのだ。
たぶん王族しか入れない憩いの庭。当然ながら自分などが足を踏み入れるところではない。
血の気の失せたヒナタが動けないままでいたら、相手は東屋から出てこちらのほうに歩いてくる。なんの言い訳も思いつかず、ヒナタは彼から断罪されるのを待つのみだ。
「おまえは……このあいだの」
近くまで来て、彼はヒナタがわかったようだ。きつく眉根を寄せていたその顔が、ふっと緩む。
「こんな夜更けに伝言か」
「あ、いえ」
緊急の用事があると思われたのか。しかし、そんなものは持ち合わせていなかった。
「申しわけございません。禁足地に立ち入ったのはわたしの落ち度でございます」
「どうやってここに入った」
アレクシス殿下の声音は平坦で、怒っているふうではない。けれどもその心情はヒナタには読み取れない。
「その。眠れないので散歩でもしようかと思いまして。そうしたらいつの間にかこちらの庭に」
口にしてみたら、なんとも間抜けくさい申し開きだ。自分でも嘘っぽく感じるのに、聞かされた相手のほうはなおさらだろう。
ふざけるなと言われるかとお叱りの言葉を待ったが、返ってきたのは違う問いだ。
「いつの間にかここにいた?」
戸惑う口調に、ヒナタも困って「はい」とうなずく。
「アレクシス殿下がこちらにおられるとは本当に知らなかったのでございます。ここに来るのも初めてで。なんとなく歩いていて、気がついたらこの庭に」
これは真実の言葉ではあるのだが、はたして信じてもらえるものか。なんとなくとか、気がついたらとか。あやふやにもほどがある。
きっと無理だと追い詰められた気持ちでいたが、しばらく経っても相手の反応が返ってこない。不思議に思ってそろそろと顔を上げたら、真正面にいる男はよくわからない表情でこちらを見ていた。
「伝言かと言ったのは冗談だ」
うんと長く感じられる時間が経って、こちらに視線を据えたまま彼がそう告げてくる。
「取次の事務官が入ってこられる場所じゃない。ここは宮廷でもごく限られた人間しか知らないからな」
どんな返しも思いつかない。ヒナタは無言で目を瞠った。
「そもそもこの庭に踏み入ろうと思うことさえできないようになっている。そういうふうに作ってあるのだ」
だとしたら、この庭そのものに魔法がかけられているのだろう。ヒナタはそう理解した。
でも、それならば自分はなぜ。
「いま一度聞く。どうやってここに入った」
ヒナタを見据えて低く問う。このとき彼を取り巻く気配がいっきに変わった。そうして漆黒の双眸が怖いほどの光を放ち、
「誰の差し金でここに来た」
殺される。掛け値なしにそう思った。
目の前のこの男が発しているのはまぎれもなく殺気だった。
「言え」
答えても答えなくても無事では済まない。
ただの下級事務官がここに断りもなく入りこんだ罪は逃れようもないのだから。
ヒナタは真っ青な顔色になりながら、わななく唇を動かした。
「誰の命令でも……ありません」
「嘘をつくな」
獣に食われる直前の小動物。その気持ちが痛いほどに思い知らされ、ヒナタはもう声も出せずに首をわずかに振るばかりだ。
「この結界を破れるのはそこらの魔道士ではできない技だ。言え。誰がおまえをここに寄越した」
「ほ、本当に。わたしは半分寝惚けたままにここにさまよいこんだのです」
「嘘だ」
彼はゆっくり首を横に振ってみせる。
「ここには誰も入れさせない。俺はそう約束したのだ。だから、安心してこの庭で遊べばいいと」
誰と約束したのだろう。思った直後、ひどく頭が痛くなった。
「あ……」
周囲の景色がぐにゃりと歪む。目眩の感覚に、こめかみの横を押さえてうつむけば、自分ではおぼえのない感情が胸の内に注がれる。
哀しい。せつない。苦しい。
それはそう訴えていた。
寂しい。つらい。会いたい。
声にならない声で、それは嘆き哀しんでいた。
ヒナタは知らず両手を前に差し出した。
まるで、そこにいる誰かを抱き締めようとするかのように。
お願い、そんなに苦しまないで。
いつかきっとそこに行くから。
誰にともわからないまま、ヒナタがそんな想いを心に浮かべたとき。
「……なぜ、泣く」
問われて、ほとんど無意識にヒナタは応じる。
「わたしは、泣いているのですか」
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