書籍詳細
落ちこぼれオメガと一途な騎士の溺愛結婚
ISBNコード | 978-4-86669-696-6 |
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サイズ | 文庫本 |
定価 | 836円(税込) |
発売日 | 2024/08/20 |
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電子配信書店
内容紹介
人物紹介
セノ
Ω。娼館に勤める男娼だが、一度も発情期が来たことがない。
イルネド
α。生真面目な性格の騎士。ある日従兄弟に連れられ、娼館へやってくる。
立ち読み
1
たとえ同じ場所にいて、同じように息を吸って吐いて、同じように笑っていたとしても、決して交わることのない世界がある。
今、隣に座っている客の男は、普段はそういう別世界にいるのではないかとセノは直感的に思った。
金髪碧眼、男らしく整った容貌に頑強な肉体。見るからに仕立てのよい服。
オメガの男しかいない高級娼館に、なぜ来たのだろう。こんな立派で真面目そうな……一目でアルファとわかるような若い男が。
「セノです、よろしくお願いします。お兄さんのこと、なんて呼べばいい?」
厚い革製の黒いチョーカーを首にはめ、水色の扇情的な薄衣を纏うセノは、男の隣でこれみよがしに脚を組んだ。緊張した面持ちの若い男は、太腿の付け根まであらわになっている脚ではなく、セノの目を見た。
「……イルネド、といいます」
控えめな口調だ。高圧的で偉そうな感じも、鼻持ちならない感じもない。もしかしたらこれが「普通」の男なのかもしれないが、ここに来る客としては新鮮だった。
この世界には、体格に優れ、統率力も支配欲も強いアルファという性がある。それと対になるように、体格は華奢だがアルファを強制的に惹きつける性、男でも子を生せるオメガという性がある。それ以外はベータだ。アルファもオメガも男にしか現れず、数は少ない。特にオメガ男性は中性的で美しい外見と発情期を持つことで、世間的には珍しがられていた。
オメガはどこの家に生まれるかがすべてだ。良家に生まれれば大事に育てられるし、物心つく前からこんなアルファの許婚になることだってあるかもしれない。だがろくでもない父親のもとにいたセノのようなオメガは、性と時間を切り売りして生活していくしかなかった。
イルネドは、体が沈み込むようなふかふかの長椅子に姿勢良く腰掛けている。首元が詰まった服を着た姿はお堅そうなのに、アルファ独特の香りは強くて、その差にかえって煽られる。本人の意思とは別に、自身の性的魅力を強くオメガに訴えかける、いい香り。
それに顔立ちだけ見ると、本人の生真面目そうな雰囲気とは裏腹に、どこか甘い感じがある。太い眉がキリリと上がっている反面、目は少し垂れぎみで、唇が肉感的だからかもしれない。
でもこんなところに来るアルファは、実はそれほど多くはなかった。アルファなら……特にこの客のように見た目がいい男なら、黙っていても相手が寄ってくるから、わざわざ娼館に来る必要がないのだ。
客の中で一番多いのは、アルファのように振る舞いたい裕福なベータの男。あとは有り余る性欲を持つ化け物アルファか、妻子やオメガの愛人がいても寂しいと言う、おじいちゃんアルファが少し。
とはいえ、この娼館『柘榴石』は一応高級な老舗として知られていたから、アルファの客も多いほうだろう。美貌だけでなく、会話や接客技術にも長けたオメガが揃っているというのが売りだ。国で二番目に大きな州の州都にあり、王都にもほど近い。古い石造りの建物が並ぶ街のはずれにたたずんでいるせいか、店にもどこか落ち着いた雰囲気がある。大繁盛とまではいかないが固定客も多く、それなりに人気のある店だった。
セノは酒を注いで渡すと、自分は酒に見せかけた茶を飲みながら、チラリと横目で見た。視線に気がついたのか、イルネドは青い瞳をわずかに揺らす。戸惑いと、それでも隠しきれない本能的な興味。
それを存分に感じ取り、セノは微笑んだ。若い男娼たちからの、焦げつくような視線が刺さる。それも仕事の燃料になると思うセノは、心の中で「ありがと!」とつぶやいた。なんでお前が、と妬まれてなんぼの世界だ。
十五歳でここにやってきてから早十一年。二十六歳になったセノは一番の古株だ。セノを指名するのは長い付き合いの客がほとんどで、こんな若い男を接客するのは久しぶりだった。
常連客がイルネドを連れて店に入ってきた瞬間から、オメガたちは色めきたっている。他の客の相手をしていても、パッと目がいってしまうほどの圧倒的なオーラ。隠しきれない強者の香り。
しかしイルネドは群がる二十歳前後のオメガを前にして、完全に固まった。店員からどの子がいいかと訊かれ、遠巻きに見ていたセノを見つけると、「落ち着いている人を……」と指名したのだ。
セノの黒い髪と黒い瞳は、この国では比較的珍しい。昔はエキゾチックな魅力があるとよく言われたし、似たような体格になるオメガばかりの中では余計に目立つ。
だから指名しただけなのだろうが。
―うまくやれば、すごい上客になるかも。
不慣れな分、かえってハマるかもしれない。オメガの誘惑に勝てるアルファなんて、いないのだから。
イルネドは「酒は飲めないんです」と遠慮がちに言った。
「ウソでしょ!? 絶対飲めるくせに〜!」
セノがふざけまじりに笑って肩をこつんと触れ合わせると、イルネドの耳が赤く染まった。
自分だってまだまだいける。一部の男娼や客からトウが立ってると言われるのは日常茶飯事だったから、セノはふふんと優越感に浸った。
「いや、こいつ聖騎士だから、飲めないのは本当だって。体質じゃなくて倫理観の問題」
イルネドを連れてきた常連の若い貴族、サティアスが言った。彼もまたアルファだが、こんなところに来て割と綺麗に遊ぶ珍しいタイプだ。
「えぇーっ、こんなとこ来ていいの!? ……って、聖騎士サマって何してる人だっけ?」
セノが無知なふりをすると、サティアスは笑いながら偉そうに講釈を垂れた。
「セノちゃん、その歳で知らないの~? 聖騎士っていうのは聖教会に所属する汚れなき身なの。大昔は異教徒と戦うとか役目があったけどさぁ、今は教区内の治安維持くらいだから暇なんだよ。それなのに毎日修行僧みたいな生活で……」
それぐらい知っている。けれど感心したような相槌を適度に打ち、サティアスの機嫌を取った。年配で世の酸いも甘いも知る客の場合は話を合わせるが、こいつはなんでも上から目線で教えるのが好きなのだ。
イルネドとはどういう間柄なのだろう。
「……だから酒はダメ、女とヤるのもダメ。資格剥奪、騎士団放逐。キビシイよね。でもオメガに関する規定はない……だろ?」
サティアスはイルネドに話を振ったが、当の本人は相変わらず硬い表情をしたまま黙っている。サティアスはイルネドの肩をドカドカ叩いた。
「つまり、こういうことだ。オメガとだったらイチャイチャしても問題ない」
セノは会話を切らさないように割って入った。
「そんな人連れてきちゃダメですよ〜」
その気もないのに連れてこられたなら、常連にさせるのはさすがに難しいかもしれない。とはいえ嫌な感じの客じゃないから、ここにいる間は楽しんでくれたらいいなと思った。
「あの、僕の飲んでるもの、味見してみます? ……実はこれ、お茶なんです」
耳元で言うと、イルネドは「えっ」と言ってセノの手元の杯を見た。セノは飲みかけの茶を渡してから、両手でさらにその手を包み込み、「飲んでみて」と囁いた。硬い剣だこのある大きな手。この手で内腿を撫でられたら痛そうだ。
「気に入ったら、全部飲んじゃっていいよ」
イルネドは半信半疑の顔で一口飲んだ。
「……あ、お茶だ」
イルネドがつぶやいて、セノに小さく笑った。少し見せただけの笑顔ですら眩しい。こんなところに来なくても、引く手あまただろう。
ちょっとだけ困らせてやりたくなり、体を密着させて「間接キスしちゃったね」とからかうと、推定童貞男子は案の定真っ赤になった。今日び、十歳の子どもでもこんなふうにはならないと思う。
それを見ていたのか、サティアスについている若い男娼が声を張り上げた。
「え〜セノさん、キス嫌いなのに〜! 間接も無理なのに直接なんて死んでも無理とか裏でよく言ってますよね〜!」
「そうなの? ひどっ」
サティアスがそれに乗っかる。
……確かにキスは禁止にしているが。
客の前で言うんじゃねえよふざけんなと軽い殺意を覚えつつ、セノはイルネドだけをじっと見つめた。
「聖騎士様だから。神に仕えていらっしゃる尊い方なんでしょう、清らかだから全然嫌じゃない」
イルネドは視線を泳がせてから、またセノを見た。
「……実は、聖騎士団を辞めさせられそうなんです」
「えっ、なんでそんなことに」
「父から結婚して家督を継げと言われていて」
「でも聖騎士を続けたいんだ?」
イルネドは黙ってうなずき、茶を一気に飲み干すと、空になった杯をセノに返した。そこにサティアスが口を挟む。
「だからさ、オメガと結婚しちゃえば、聖騎士の規約も破らないし……」
「規約じゃない、誓約だ」
イルネドが律儀に訂正を入れる。
「ん? あ、ハイハイ。その誓約を守ったまま聖騎士でいられるし、後継ぎもできて万事解決だろ」
結婚を考えているのに、娼館に来ていいのだろうか。
「あの……僕から言うことじゃないけど、ここでそういう相手を探すのはどうかな……」
セノがイルネドに話しかけると、無神経な声がかぶさってきた。
「セノちゃん、さすがにオレだって、いとこの番が男娼でいいなんて思ってないって。ここでオメガに慣れて、いい相手にいいところ見せられるようになったほうが得策かなと思ってさ」
したり顔で諭してくるサティアスに、セノは心の中でグーパンチをお見舞いした。
客にありがちなこういうところが大嫌いだ。馬鹿にしているその男娼とのひと時に、高い金を払っているくせに。
けれど笑って「ですよね」と言おうとした瞬間、イルネドが鋭い声を上げた。
「そういう言い草はないんじゃないか? ここにいる人たちに失礼だろう」
まっすぐに差す光のような言葉が、不覚にも胸に来る。
やっぱりこの人は常連にはならないだろうなと思った。周りがお膳立てしてやれば、相手なんてすぐに見つかるだろう。いや、きっとさっきみたいにオメガのほうから群がってくる。
でも……だからこそ、指名客にしてみたい。本来なら交わらない世界にいるアルファ。陽の当たる遠い世界から来た、高貴な騎士様。
偶然交差した今この時を、もう少し長引かせてみたい。どんな人なのか、もっと話してみたい。
それが単なる好奇心から来る感情なのか、野心から出たものなのか、セノには区別できなかった。
―ううん、そんなことどうだっていい。
セノは冷静に考えた。どうすれば、この人がここに来るようになるだろう。何を言えば、心に一番響くだろう。
「オメガと話したことってないんですか?」
さりげなく話題の方向性を変えると、イルネドはセノに改めて向き直った。
「……まったくないわけではないです。奉仕活動の中で、番のいる方とお会いしたこともあります。ただ親族や友人にはいませんから、親しく話したことは……」
「じゃあオメガについてはあんまり知らないの?」
「恥ずかしい話ですが、その、巷で言われていることが本当なのかどうかも、自分には判断がつかなくて」
イルネドはためらいがちに言った。
オメガは淫乱で年中発情しているとか、乱暴にされるほど喜ぶとか、ずいぶん間違った噂が流布しているのだ。
「噂はだいたい嘘です。でもオメガの体質って特殊だから、もし本当にこれから結婚相手を探すつもりなら、ちゃんと知っておいたほうがいいかも。発情期の期間とか、頻度とか、その対応策とか」
セノが穏やかに言うと、イルネドは真剣な顔で聞いていた。
「……結婚相手を探すつもりはないです。聖騎士を辞めたくもない。だからどうしたらいいのかわからなくて。いとこに相談したら、気分転換だと言って連れ出されたんです」
相談する相手を間違えているのではないかと思ったが、親族ならば仕方がない。セノは微笑んだ。
「悩んでるんですね。人生は自分のものだから、自分で決めるほうがいいと思うけど、誰かに迷いを話すだけで気持ちが整理されることもありますよ。僕でよければただの聞き役になります。とりとめのない話でいいんです。ここで聞いたことをよそで話すことは絶対しないし」
イルネドは少し戸惑ったように言った。
「……話すだけでいいんですか? 高い酒を頼んだりしなくても……? 家は裕福なほうですが、自分の自由になるお金は、それほど……あとは、性的な接客もちょっと」
セノは思わず素で笑ってしまった。
「無理にお酒を勧めたりなんてしないし、お茶を飲んで話すだけならそれほどの金額にはなりませんよ。お客様にはくつろいだ時間を過ごしてもらえればそれでいいんです」
娼館と言っても、表向きは酒などを提供するだけということになっている。ただ「酔い潰れた」客のために「休み処」を二階に用意していて、その介抱に店員があたることもある、というのが建前だ。介抱というのはもちろん性的なものなのだが、挿入行為は禁止されている。もちろんこっそりと持ちかける客は多く、お金欲しさに店の外でやる若い男娼もいるが、店にバレたらクビだ。
細く長くこの仕事を続けたいセノは、店の決まりと後ろの純潔はちゃんと守っていた。
「若そうなのにしっかりしてるね」
セノが茶化すと、サティアスが「オレより年下だけど、老けてるだろ」と言った。イルネドは苦笑した。
「二十四です。セノさんは?」
「ん、それより上〜」
「セノちゃんはさ、もうここのヌシだよ。大ベテランの年寄りオメガってやつ。指名客もじいさんが多いしな」
確か同い年のサティアスを絞め殺したくなる衝動を抑え、セノは正直に言った。
「二十六だよ」
「そうなんですか。見た感じでは、年下なのかと思ってました。でもしっかりしてるなって……」
イルネドがはにかむように笑った。いい子だ。かっこいいのにかわいい。
「セノちゃんはえっちな接客売りじゃなくて話術でじいさん転がしてるから、訓練してもらうのにちょうどいいかもな」
もう黙ってろと言いたい気持ちを抑えつつ、セノはイルネドと距離を空けて座り直した。
「イルネド様、今度はお一人でまた来てください。やっぱりオメガのことを知ってもらって、ちゃんとした人と番になってほしい。飢えた野良オメガに陥れられないためにも」
お一人で、のところを強調しつつ、セノはイルネドの目を熱く見つめた。
「飢えた野良……?」
「発情期のオメガには、どんなに屈強なアルファも逆らえないから」
セノが笑うと、イルネドは虚を衝かれたような表情をしてから、視線をさまよわせた。
それからひと月後、イルネドは本当に一人でやってきた。受付でセノを指名し、同時に茶を頼む。
やっぱり来ないよなと思って期待しないようにしていた分、結構うれしい。あまりガツガツいかないようにしなければ、とセノは心を落ち着かせた。
店の一階は、テーブルと長椅子が配された仕切り席が連なっている。店の奥には二階へと続く螺旋階段があり、その横では楽隊が生演奏していた。客の燻らす紫煙が薄い幕のように視界を遮って、外界とは違う退廃的な空間を作り出す。
セノは通路をゆっくり歩いて、イルネドが待つ席へと向かった。やってきた姿を見て、若い騎士は恥ずかしそうに目をそらす。かわいいなと思いつつ、隣に座った。
「来てくれてうれしい」
「また来てください、と言われたので……」
営業の言葉を本気にとったらしい。
「あれからどう?」
「……父とは平行線です」
イルネドは口を真一文字に結んだ。
「父はもともと、聖騎士団に所属することを一時的なものと考えていたみたいで」
「どうして聖騎士にこだわるの?」
イルネドは大きく息を吐いた。
「母が敬虔な人だったんです。……と言っても、自分を産んですぐに天に召されたので、実際の顔もよく知りません。でも普段から教会での礼拝を欠かさなかったらしいです。周りから母の話を聞くうち、小さい頃から自分も通うようになりました。そこに母がいる気がして。昔は聖職者になることを夢見ていましたが、父に止められて聖騎士団に入りました」
騎士団なら途中で抜けられるが、一度聖職者になったら辞めさせるのは大変だろう。
貴族でも、こんなに真面目な子が育つのだなと感心した。とはいえこういう性格だと、褒めても励ましても負担に思いそうなので、まずは寄り添うことにした。
「敬虔な方だったから、神様が早くそばに置きたがったのかな。お父様も、家族を二人も教会に取られたくないのかも」
イルネドは苦笑した。
「父はそこまで信心深くはないですが、母の死後は何年も悲しみにくれていたらしいです」
「今は?」
「周りの勧めで再婚して、歳の離れた弟と妹がいます。自分としては弟が家を継げばいいと思ってるんです」
「なるほどね……」
セノが茶を勧めると、イルネドはこの前来た時よりもくつろいだ様子でゆっくり飲んだ。
「騎士団でずっと頑張ってきたのにな……」
「どんな活動をしていたの?」
「日常すべてが鍛錬なので、体を鍛えることや武芸の稽古もありますが、地域の清掃や炊き出しの手伝い、夜間の見回りとか、奉仕活動も多岐に渡ります。放蕩息子を矯正しようと親が無理やり入れる場合もあるんですけど、すぐ逃げたりするから、向いてないと辛いのかもしれない」
「イルネド様は向いていそう」
イルネドは恥ずかしそうに少し笑った。そういう顔は、どこか少年っぽさが滲んでいた。
「騎士団の生活は厳しいけれど充実していました。……あと、様はつけなくていいです」
「お客様だし」
「自分のほうが年下なので」
「えーっ、そんな理由?」
イルネドはさらに笑った。
「相手より年上で困ることがありますか? 騎士団では完全に年功序列です」
「やっぱり若いほうがいいっていうお客様が多いから」
冗談めかして言ったら、イルネドの顔が曇った。
「あの……こういうところでお仕事をしているみなさんは、ちゃんと生活できているんでしょうか」
しまった。査察に来た市の役人すら抱かないような心配をされている。「なんでこんな仕事してるの?」といちいち聞いてくる客にはいらつくが、今そういう感情は湧かなかった。
「複雑な育ちをしている人も多いけど、うちは高級店だからそれなりにお金はもらえるよ。一応寮もあるし」
「ひどい扱いとかは……」
「ひどいお客はどこも出入り禁止にする。それにうちは本番ナシだから」
「本番って、なんですか」
澄んだ目で訊かれ、セノは絶句した。
「……あの、挿入のこと……えーと、その、男同士でもお尻を使ってできるから……」
イルネドは目をわずかに見開いてから、真っ赤になってうつむいた。
「……物知らずですみません。一応生殖に関する知識はあります」
生殖。聞き慣れない単語がかえって生々しい。こっちまで恥ずかしくなってしまう。
「ううん……夜の商売の言葉なんて、知らなくても大丈夫」
一緒に顔を赤らめてどうする。十年以上この仕事をしているくせに。プロらしくしなければ。
セノは形勢を立て直し、明るく言った。
「じゃあどうやってアルファとオメガが子作りするかは知ってるんだ?」
「えぇ、まぁ……その……発情期中のオメガの肛門内にアルファの男性器を挿入して射精すると受精して、子どもができるということくらいは……」
医者の説明みたいだ。
「うん。正解。でも巷では発情期って年中あると思われてる節も結構あるけど、それは間違いで、普通は年に四回くらい。もっと少ない人もいるし、強さも人によりけりだけど。それ以外の時にしても、子どもはできないよ」
イルネドは目を合わせず、さらに顔を赤くして訊いた。
「あの……すごく下世話な質問なんですが……発情期って、どう対処してるんですか。実は奉仕活動で会ったオメガの人は、みんなその間が大変だと言っていたので……だから番になるアルファを求めると」
「薬もあるけど、高いからお金のないオメガは買えないんだよね。完璧に抑えられるわけじゃないっていうし。部屋に閉じこもってやり過ごすのが多いんじゃない?」
実はセノは発情期が来たことがない。周りを見ていると辛そうだし、発情期が終わった直後に客と裏で本番して、予期せぬ妊娠をしたあげくにクビになった男娼もいる。この界隈では有名な医者を教えて餞別を渡したが、彼がその後どうなったのかは知らない。悲惨な生活にはなるだろう。
だからこのまま発情期が来ないほうがありがたい。
「セノさんは、番の人は……」
「いないよ」
いたとしても、こんな場で本当のことは答えないが。
「もし番ができたら、この仕事は辞めるんですか」
「え〜っ、どうかなぁ。わからない」
笑顔で誤魔化したが、イルネドは真剣な表情で答えを待っている。それを見たセノも、真面目に答えた。
「番はいらないかな。……誰かに頼るより、自分の力だけで生きていきたいんだ」
「一方的に頼るというより、支え合う関係なのかと思っていました。番の……婚姻関係というのは」
正論だと思う。でもそれは貧しいオメガの実態を知らないからだ。セノは微笑んだ。
「僕もそれが理想。でもオメガって発情期があるし、もともと体が丈夫でない人が多いから、普通の人ができるような長時間労働とか肉体労働は厳しい。それでこういう仕事につきがちなんだよね。あっ、でもある意味これも肉体労働ではあるけど」
セノも季節の変わり目は必ず体調を崩してしまう。熱が出てだるい上に、腹痛や頭痛など一気にいろんな辛さが襲ってくる。
「だから、こっちが支えてあげられることなんて少ないと思うんだ」
「でも、人には得手不得手がありますよね。収入が同じくらいでなくても、それだけで相手に頼ってることにはならないんじゃないでしょうか」
普通の仕事もできないオメガの自分ができることなんて、アルファの性欲処理係くらいな気がする。でもイルネドのような考え方を知って、少し救われた気分になった。こんなアルファの番になれるオメガは幸せだ。
「そうだね……そういうふうに考えてくれる人となら番になれるかも」
イルネドは納得したように小さく何度かうなずく。セノはいたずらっぽく微笑んだ。
「君ならすぐ番相手が見つかると思う。その気になりさえすれば」
「そうですか?」
「でも発情期のオメガが来たら即逃げないと。いくら普段真面目に過ごしてても、さすがに理性飛んで襲っちゃうよ。その後ずっと自分を責めると思う。その性格じゃ」
セノは人差し指でイルネドの胸をつんと突いた。厚い筋肉が硬すぎてすごい。
「聖騎士団にいたら、そういう事態も少なかったと思うけど……」
イルネドは神妙な顔でうなずいた。突かれたところに手を置き、セノを見つめる。
「騎士団を辞めるなんて、想像もつかないです」
「自分で決めたことならいいんだろうけどね」
「でも父が言っていることもわかるんです。自分のわがままだとは思います。親の言うことに背くなんて……」
「親だろうが、嫌なものは嫌って言っていいんじゃない? それはわがままじゃないよ」
イルネドは顔を上げて、ぼんやり天井を見た。
「誰かに決められる人生って、辛いよね」
「もっと大変な生活をしている人もたくさんいるのに……これぐらいで辛いだなんて言えません」
「でも何か不満があったら、ずっと後悔の人生を送ると思うよ。あの時、やっぱりこうしておけばよかったって」
イルネドは顔を戻し、大きく息を吐いた。
「……自分の意志で、人生のすべてを決められる家に生まれたかったな」
ポツリと漏らした一言で、相当上流の家なのだろうなとわかった。特に長男だから、何かと縛られることも多いのかもしれない。
「この仕事してるとね、悩みとか大変さを人と比べたりすることって無意味だなって思うようになったんだ。その人の辛さは、その人だけのものだから」
セノの指名客は、年齢の高い人も多い。一見成功しているように見えても、壮絶な苦労をしている人もいる。その受け止め方もそれぞれだ。
イルネドは、迷子になった子どものような顔でセノを見た。
「……また来てもいいですか」
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