書籍詳細
コワモテ将軍の甘すぎる結婚事情
ISBNコード | 978-4-86669-240-1 |
---|---|
定価 | 1,320円(税込) |
発売日 | 2019/10/28 |
ジャンル | フェアリーキスピンク |
お取り扱い店
電子配信書店
内容紹介
立ち読み
ミルティーユがアメルハウザー公爵家に来て、半月が瞬く間に経った。
「いってらっしゃいませ、ヴォルフ様」
気持ちの良い朝日の中、ミルティーユは城に行くヴォルフを見送りに門まで出る。
「……ああ」
ヴォルフがチラリとミルティーユを見て、短く頷いた。
黒地に銀模様のマントがついた近衛騎士団用の軍服に、長剣を腰に差したいでたちは、しっくりとヴォルフに馴染んでいた。
険しい顔付きの彼は、立っているだけで他者を圧倒する迫力を備えているけれど、この半月でミルティーユはその迫力にもすっかり慣れた。
しかし、こうして見送りに出れば彼はいつも短く返事をしてさっさと馬車に乗り込むのに、なぜか今日はミルティーユをじっと……いや、ギロリというのがピッタリの眼光で見据えたまま、一向に動かない。
「……?」
ミルティーユは笑みを張りつけたまま、背筋を冷や汗が伝うのを感じた。
ドキドキしていると、ヴォルフが一歩大きくこちらへ踏み出した。
続いて彼の手が勢いよく突き出され、ミルティーユの顔のすぐ横で、背後にあった壁をドンと叩く。
「ひっ」
不愛想な口調や顰めっ面には慣れたけれど、これには驚いて変な声が出た。
ヴォルフが覆いかぶさるように身を屈め、鋭い眼光がミルティーユに近づく。
相変わらず彼とは、寝室こそ一緒だけれど『消灯! 就寝!』『かしこまりました!』で、夫婦の営みには至らない。
こんなに至近距離になるのは初めてで、動揺と驚愕から反射的に目を瞑りそうになった時、彼が押し殺したような声を発した。
「き、希望する品を言え!」
「……え?」
ポカンと、ミルティーユは目を丸くする。同時に、傍らで一部始終を見守っていたフランツが大きく咳払いをした。
「ヴォルフ様? 僭越ながらそれではいささかお話が伝わりにくいかと思われます」
「っ……少し、間違えた」
ヴォルフが素早く身を離し、ミルティーユはホッとした。
「ヴォルフ様、あの……何か?」
まだバクバクしている心臓を抑えつつ尋ねると、ヴォルフがそっぽを向いて視線だけこちらにジロリと向けた。
「ここに来たばかりなのに、日中もなかなか忙しくして観光や外出もまだとフランツに聞いたからな。つまり、その……必要な品でもあれば、城へ行くついでに買って来ようかと……」
「まぁ、お気遣いありがとうございます」
思いがけない言葉に、ミルティーユは口元を綻ばせた。
母国とシュレーゼンはもともと交流が盛んな隣国同士で、上流階級なら互いの言語も普通に習う。
とはいえ、ミルティーユは本来、こちらに嫁ぐ予定などなかった。国外貴族も招かれるような宴に出られるのも、成人後になってからだ。
よって、シュレーゼンの貴族情勢には疎く、ヴォルフのような有名人の噂話や、国外情勢の知識として主要な家の名をいくつか知る程度だ。
ヴォルフは社交嫌いで有名な上に、兄夫妻が急逝して慌ただしく家を継いだというような事情も広く知られているので、これまで社交面での付き合いは最低限で済ませていたらしい。だが、妻帯すればそうもいかなくなる。
大抵の招きは夫婦同伴となり、屋敷で宴を開く時に采配を振るなど、社交面で貴族の妻の役割は大きい。
ミルティーユが何か失態をすれば、夫のヴォルフに恥をかかせてしまう。
そこで結婚式の準備と並行で、シュレーゼンの歴史から主だった貴族の情報などを徹底的に学んでいるところだ。
そのせいで観光や買い物に出る余裕はまだないが、身の回りの品はお気に入りを十分に持参してきたので、今のところ不自由はしていない。
「品物の不自由は特にありませんが、優しいお気持ちならばどれだけ頂いても嬉しいです。ヴォルフ様のお気遣いだけ、ありがたく胸に頂きますね」
感謝を込めて礼を言うと、ヴォルフは無言で頷き、なぜかスタスタと屋敷の方へ戻っていった。中に入り、玄関扉をバタンと閉める。
(忘れ物でもしたのかしら?)
そう考えた瞬間、屋敷からメイドたちの声が響いた。
「だ、旦那様!? どうなさったんです!」
「そんなところに転がって、ご気分でも悪いのですか!?」
——一体、中で何が……?
フランツの方を見ると、私は知りませんとばかりにさっと視線を逸らされた。
どうしようかと思ったが、すぐに玄関の扉が開き、ヴォルフが何事もなかったように淀みない歩みで戻ってくる。
「……騒がせたな。行って来る」
ポカンとしているミルティーユの脇を通り抜けざま、ボソリと呟くと、彼はさっさと馬車に乗り込んだ。
走り出した馬車を、ミルティーユは呆然と見送ったが、その姿が角を曲がって見えなくなると我に返った。
「フランツさん。実は、折り入って内密のご相談があるのですが……」
傍らのフランツに小声で囁くと、老執事は一瞬驚いたようだが、見る者に安心を与える微笑を浮かべて頷いた。
素早くミルティーユと邸内に戻り、居間で人払いを済ませて話すように促す。
「秘密は守りますのでどうぞお話しくださいませ。私の手に負えぬ案件ならば、ヴォルフ様にもご相談するようお勧めするかもしれませんが、御安心なさいませ。アメルハウザー公爵家の人脈と力をもってすれば、大抵のことは穏便に解決できますぞ」
「あ、いえ。それほど大層なものではなくて……」
慌ててミルティーユは両手を振った。
内密の相談なんて言ってしまったから、どうもフランツは随分と大仰な問題にとらえたようだが、これはミルティーユの個人的な悩みだ。
「では、如何様なお話でしょうか?」
訝しげなフランツに、ミルティーユは恥を忍んで白状することにした。
今朝、ヴォルフに険しく凝視された時、見透かされたのではないかと内心で冷や汗ダラダラだった理由は……。
「どこか、人目につかず運動のできる場所を探しているのです。じ、実は……お菓子の食べすぎで太ってしまいました!」
この二週間というもの、ミルティーユは忙しいながらも心安らかで楽しい日々を送っていた。
フランツをはじめ、公爵家の使用人はきさくで感じの良い者揃いだ。
使用人の人数が随分と多いように感じたが、戦で後遺症の残る怪我をした部下や、夫を亡くした寡婦を雇っているそうだ。
だから、屋敷の使用人は皆ヴォルフを慕っており、結婚が決まって良かったと喜んでミルティーユにもとても好意的に接してくれる。
ノワも、恩人で友人でもあるミルティーユがここにいる限り、屋敷の中では姿を消さないと皆に約束し、その人懐こさからたちまち人気者になった。
バシュレ侯爵の流した悪評は、主にフロレンスの社交界でだけ広まっていたようだから、単にこちらにまでは届いてないだけかもしれないが、それについても何も言われずホッとしている。
そんな風に不満など微塵もない生活で、特にお茶の時間は至福だった。
アメルハウザー公爵邸では、初日に食べたフルーツケーキ同様、非常に美味しいお菓子が毎日、お茶の時間に出てくるのだ。
甘酸っぱい木苺タルトに、ほろ苦さと濃厚な甘さが絶妙なチョコレートケーキ。サクサクした歯触りが病みつきになるクッキー……。味もさることながら見た目も凝っていて、文句のつけようもなく素晴らしい。量だって、ノワと一緒に食べても十分すぎるほどにある。
毎日、今日の茶菓子はなにかと楽しみでたまらない。
こちらに来た時には、慌ただしい荷造りや急な輿入れへの不安から、げっそりとまではいかなくとも、かなりやつれて?せてしまった。
それが、会ってみればヴォルフは意外と寛大な人で、思った以上に公爵家の生活は順調。
しかも、美味しいお菓子をたっぷり楽しむ毎日である。
このままでは体重もすぐ元通りだと、内心で苦笑していたが……。
今朝、お気に入りの細身のドレスを着ようとしたミルティーユは、体重が元通りどころかしっかりと増え、胴回りがきつくなったのに気づいて青褪めたのだ。
まだコルセットを締め直したらなんとかドレスは着ることができたが、よくよく鏡を見れば心なしか?もふっくらしてきた。
そこでただちに減量計画を実行するべく、フランツにちょうど良い場所がないか相談しようと思ったのだった。
空が微かに日暮れの色を帯びはじめてくる時刻。
動きやすい乗馬服に着替えて髪も一つに束ねたミルティーユは、ノワを連れてそっと裏庭へ向かった。
垣根で囲われた裏庭は、芝生ではなく平らに踏み固めた土の地面で、綺麗な花壇や樹木の代わりに古い井戸と洗濯場の跡がある。
今では裕福な家なら、洗濯用の魔道具が当然のごとく地下に備えられている。洗濯メイドが毎日井戸を囲んでお喋りしながら衣類を洗うこともなくなった。
雑草もなく綺麗に整備されたここは、ヴォルフが毎朝剣の鍛錬に使っているそうだ。
しかし、それ以外の時間には特に活用されていないので、今朝フランツに相談してここが適切だと勧められた。
「これもミルティーユのためだ。厳しくいくよ」
キリッと表情を引き締めたノワは、気分を出しているのか額に長いハチマキまで巻いている。
「ええ。お願いするわ。私が弱音を吐きそうになったら遠慮なく叱り飛ばして」
ミルティーユも瞳に真剣な光を宿す。権力も財力も体脂肪の前には無力で、これを解消するには地道な努力しかない。
軽く身体をほぐしたミルティーユは深呼吸をし、リズミカルな足運びで鍛錬場をグルグルと駆けはじめた。
ノワはその横を軽々と飛び、両手をメガホンみたいに口の周りに当てて声を上げる。
「さぁっ! 明日も美味しいおやつを食べるために、頑張ろう!」
声援を送るノワの熱血指導に従って一生懸命走りながら、ミルティーユは己を戒める。
(もうリラは傍にいないんだから、これからはもっと気をつけなくちゃ。実家でリラが目を光らせてくれていた頃の気分で、つい自己管理を怠ってしまったんだもの)
リラは実に有能なメイドで、優しく親切ながら、ミルティーユの悪い部分はきちんと指摘する厳しさも持っていた。
つまり、太ると知りながら大好きな甘いお菓子だけは我慢できないという悪い癖だ。
リラは毎朝、ミルティーユのコルセットを締めて体形をチェックし、太りすぎの兆しが出れば即座に『体重増加警報』を発した。
そうなると、増えた分が元に戻るまでおやつを半分以下に減らし、さらにはリラと一緒に毎日、裏庭で人目を忍んでのランニングが待っている。
一般的に貴族令嬢の運動と言えば、優雅に庭を散策したり踊りの稽古をしたりするものだが、それだけではダイエットにならない。
ミルティーユが淑女らしからぬことをするのは極端に嫌った父も、娘が不健康に太るよりはマシだと、目を瞑って見ないことにしていた。
だが、こちらで部屋付きになった中年のメイドも優しく親切だけれど、まだ会って間もないミルティーユに遠慮したのかもしれない。
太ってきたなんて指摘することもなく、コルセットの締め具合も緩くしていたので、一番細身のドレスを着るまで体形の変化をはっきり自覚できずにいた。
だが、太ったのは間違いなくミルティーユの自己管理が甘かったせいである。
さらに、それを自覚してショックを受け、本日のお茶菓子は半分にしようと決めたくせに、出されたチーズケーキを二切れとも、気づけば完食していた。
この屋敷で出されるお菓子はあまりに美味しすぎて、食べないとか減らすとかは、意志の弱い自分には不可能だと思い知らされた。
身体にピッタリした乗馬服もきつくなっていたが、なんとかまだ着ることができたことに、ミルティーユは走りながら心より感謝する。
(今朝、ヴォルフ様がじっと私を見ていたのも、きっと歴然と太ったのが目についたからだわ!)
羞恥に悶えたい気分で四角い鍛錬場をしばらく走った後、少し休憩することにした。
隅に置いてあった水筒のレモン水を飲み、ふぅっと息を吐く。渇いた喉に、爽やかな風味の水が染み渡って心地よい。
「ま、お菓子が美味しくて困るなんて、幸せな悩みかもね」
肩に座ったノワに話しかけられ、ミルティーユは苦笑して頷く。
「とても贅沢で幸せな悩みね。お父様と色々あったって、私がとても恵まれていることには違いないわ。輿入れ話が来た時はどうなるかと思ったけれど、ヴォルフ様は治癒魔法での慰問を容認してくださる上に、こうして不自由ない暮らしをさせて頂いているもの」
世の中にはおやつを楽しむどころか、その日の食事や治療費にも事欠く人もいる。世界の不公平をなくすなんて大それたことはできなくとも、せめてできることをしたい。
「ふーん。それでミルティーユは、気持ちよく結婚できそうなくらい、ヴォルフさんを好きになれたの?」
急にそんなことを言われ、ミルティーユは思わず噎せ返った。
「ケホッ……! ええと……ヴォルフ様は良い人だと思うわ。噂に聞いていた話と、実際には随分と違っていたのだし……」
少々気まずくて、言葉尻が小さくなっていく。
シュレーゼンでも一部の保守的な貴族男性は、女性騎士や女性魔術師が活躍するのを喜ばないそうだ。
しかしヴォルフは初顔合わせの時に、ミルティーユが治癒魔法で慰問したことを褒めてくれたように、女性が魔法や武術で活躍するのを忌避したりしないとフランツから聞いた。
ヴォルフは英雄と称えられる反面、戦に勝つための手段は選ばず、足手まといなら味方も容赦なく斬り捨てるという、恐ろしげな評判を合わせ持つ。
だが、実際には戦場でも無暗に暴力を振るうことは決してなく、特に敵味方問わず民間人への被害は決して出さぬようにと、軍の規律を保つのに一番力を注いでいたそうだ。
足手まといの味方を切り捨てるというのは、シュレーゼンの軍で素行の悪かった一味が他国の村で略奪をしていたのをヴォルフに捕らえられ、逆恨みで流した誹謗中傷だった。
また彼は自身の功にこだわることもなく、必要とあらば格下となる相手の補佐をすることも厭わない。必要なのは国の勝利で、個人的な栄誉ではないと公言していたそうだ。
圧倒的な強さだけでなく、広い度量や柔軟な考えも合わせ持っていたからこそ、シュレーゼンの長い戦乱に終止符を打つまでの英雄になれたのだろう。
「ヴォルフさんは良い人……かぁ。ミルティーユは今まで、好きな人と結婚したいとか、考えたりしなかったの?」
「ないわ。だって私は、赤ん坊の時からセドリックと婚約が決められていたもの。好きな人なんかいなかったと、ノワも記憶を見たじゃない」
「僕が見たのは、ミルティーユが自分の恋愛話なんか何もしなかった記憶だけだよ。君が何を考えていたかまでは知らないもん。誰にも言わなかっただけでセドリックの他にも好きな人がいたとか、恋に憧れがあったとか、それくらいもなかったのかなと思っただけ」
しれっと言い返され、ミルティーユはグッと息を詰めた。
年頃になれば、若い令嬢方の話題は恋愛が大半を占めるといっても過言ではなかった。
茶会に行けば、どこそこの令息が素敵だとか、舞踏会で意中の人と踊れたとかで盛り上がる。婚約者のいる令嬢でさえも、憧れだけなら別だと瞳を輝かせて参加していた。
自分はセドリックを好きだけれど、彼女たちが熱っぽく語るようなキラキラとした想いを抱いたことはなく、他の男性に惹きつけられたこともない。
それよりも、甘くて美味しいお菓子と魔法の練習の方が、よほどミルティーユを夢中にさせる。
茶会ではいつも空気を読んで恋愛話に相槌を打っていたけれど、皆が夢中になっているのに理解できない自分は、恋愛試験に落第しているみたいで居心地が悪かった。
「残念ながら、ノワの言う『それくらい』もなかったわ。恋愛小説も読んだけれど、なんだか現実味のないお伽噺を読んでいるみたいで、さっぱりだったの」
少々悔しくて口を尖らせ、言葉を続けた。
「それに、ヴォルフ様だって仕方なく私を娶ったけれど、あまり好みではなく困っているのかもしれないわ」
「え? なんでそう思うの?」
今度はノワに目を丸くされ、ミルティーユは慌てて咳払いをした。
「ええと……そう! 初日に、求婚はお母様からの推薦で、御自分は関与されていないと聞いたから……」
ヴォルフは少々不愛想だが、親切で寛大な人だ。
今朝だって、式の準備や勉強が忙しくて買い物もままならないだろうと気を遣ってくれた。
ただ、彼がミルティーユと床を共にしながらも『休戦』と称して、指一本触れずにいるのも事実だ。手を出す気になれないと言われているも同然だろう。
だが、そんな事情までノワに話す気にはなれなかった。
「ああ、ヴォルフさんはちょっと口下手なところがあるもんね。でも、間違いなくミルティーユを気に入っていると思うよ」
「そ、そうかしら? ……ええ、確かにご親切にして頂いているものね」
考えてみれば、ノワは性別のない妖精だ。男女の恋愛と単なる親愛や友情、親切心などを一緒くたにしているのかもしれない。
とにかく話がこれで終わったことに安堵し、ミルティーユは水筒を置くと、また走りはじめた。
それからもミルティーユは時折水分補給をしながら、熱心に走り続けた。ノワがすぐ横を飛びながら声を張り上げる。
「あと五周! 今日もチーズケーキをいっぱい食べちゃった分、走ろう!」
軽々と飛んでいるノワは汗の一つも滲んでいない。熱血指導教師の役がすっかり気に入ったらしく、実に楽しそうだ。
「はぁ……ノワも毎日いっぱい食べていたのに……はぁ……全然変わらないわね」
「妖精が必要なのは人間の気持ちや魔力だけで、美味しいものを食べても栄養にはならないからね。太ったりもしないんだ」
「はぁ……そうなのね……」
食べ物では栄養にならないというのはまた苦労もあるだろうが、ミルティーユ以上におやつを満喫しながら太らないなんてノワを、ちょっとだけ羨ましいと思ってしまう。
やがてようやく目標の周回数に達し、ミルティーユがゆっくり歩いて息を整えはじめると、不意に物陰から大きな人影が姿を現した。
「ヴォルフ様……」
現れたのはなんとヴォルフで、ミルティーユはピシッと全身から音が聞こえそうなほどに硬直した。
運動で激しく動悸していた胸が、今度は違うドッキリでバクバクと鳴る。
「い、今の……ど、どこから、見て……」
「ノワが、あと二周と声をかけたあたりからだ。随分と熱心に走り込んでいたから急にやめさせるのも悪いと考え、終わるのを待っていた」
「……お気遣いありがとうございます」
真っ赤になった顔を俯け、ボソボソと答えた。
いつもヴォルフはもう少し帰宅時間が遅いのに、今日に限って早いなんて。
「留守中に鍛錬場を勝手に借りて失礼いたしました。今日はお早かったのですね」
「ああ……今日は特に用もなかったのでな。早めに帰宅したところ、貴女がここにいるとフランツに聞いて不思議で見に来たんだが、もしや乗馬や運動も好きだったのか?」
尋ねられ、ミルティーユは思わず視線を泳がせる。
「い、いえ。運動は、別の好きなものを得る手段でして……」
「別の好きなもの?」
ワケが解らないというように怪訝な顔をされ、ミルティーユは観念した。
この場を適当に言い訳して誤魔化したところで、これはずっと隠し通せるものでもない。
「お恥ずかしい話ですが、減量目的に運動をしておりました」
「減量……」
「はい。私は元から甘いお菓子に目がありませんが、こちらで毎日出されるお菓子があまりに美味しくて……いえ、責任転嫁するつもりはありません! あのように美味しいお菓子を残したり食べないという選択は耐えられませんので、食べた分だけきっちり運動します」
こんな話をして、食い意地の張った女だとさぞ呆れただろう。
?然とした様子のヴォルフに、ミルティーユは胸中で溜息をついた。
「そういうことだったか。貴女は、どのような菓子が特に好みなのだろうか?」
しかし、彼が唐突に初めて見るような満面の笑みを浮かべたので、今度はミルティーユが?然として目を疑った。
どうして、お茶菓子の話題にここまで熱心に食いつかれるのだろうか。
ヴォルフも無類のお菓子好きというのならともかく、彼が好んで食べている姿はこの二週間でまだ一度も目にしていない。
「え? そうですね……少々、悩んでしまいます」
狼狽えながら、つい正直に答えてしまった。
この二週間で食べた様々なお菓子を思い起こすと、自然とその味も思い出して顔が緩んでしまいそうになる。
たっぷり走り込んで空腹になっていたのと、ヴォルフの思いがけない反応や質問に混乱していたところへ、数々の美味なる思い出がミルティーユの脳内をさらにかき乱す。
「悩む?」
「ええ。というのも……こちらのお菓子が、どれもこれも美味しすぎるのです!」
気づけば拳を握り締め、ミルティーユは力説をはじめていた。
「初日に頂いたフルーツケーキも目を見張る美味しさで、木苺ジャムのタルトは絶妙な甘酸っぱさで生地もサクサクと歯触りが良く、チョコレートケーキやチーズケーキなどもこってり濃厚なのにしつこすぎずいくらでも食べてしまいそうになります。昨日のお茶に出たアイシングクッキーも、美味しいのはもちろんのこと芸術的な可愛らしさで皿を見た瞬間から高得点です。その中で、好みのものなど私には選べません! 全て最高です!」
夢中で早口にまくしたててしまい、我に返ったミルティーユは慌てて口元を両手で覆う。
「も、申し訳ございませんでした。見苦しい姿を……」
恐る恐るヴォルフの表情を窺ったが、彼は今度も呆れている様子はない。
「いや。貴女は本当に菓子が好きなのだな」
むしろなぜか、普段は眼光鋭く顰めっ面に近い表情なのが?のような笑顔で、宝物を認められた少年みたいに嬉しそうに目を輝かせている。
こんな表情もできたのかと、驚きつつもその笑顔はとても魅力的で、ミルティーユの心を鷲?みにした。心臓が奇妙に跳ね、惹きつけられて目が離せない。
胸の奥を握り込まれたみたいに、少し切なくて苦しいような……そのくせ幸せなような……何とも表現しがたい不思議な感覚に襲われた。
微動だにせずヴォルフを見つめてしまうと、彼はさっと表情を引き締めてミルティーユから目を逸らし、不自然にコホコホと横を向いて咳払いをした。
「何であれ、しっかりと食べて身体を鍛えるのは良いことだ。ここならいくらでも好きに使ってくれ」
そのままヴォルフは素早く踵を返し、足早に立ち去ってしまった。
「ヴォルフ様は一体、どうしてお菓子のことにあれほど熱心だったのかしら?」
遠ざかったその後ろ姿が見えなくなるまで呆然と眺め、ミルティーユは呟いた。
「ねぇ、ノワ……あら?」
ノワに話しかけていたつもりだったのだが、ふと横を振り向くとさっきまで傍にいた小さな妖精は姿を消していた。
妖精が皆そうなのかは知らないが、ノワはとにかく好奇心旺盛で気まぐれなところもあり、こんな風にいきなり黙って姿を消すのもいつものことだ。
ミルティーユが本日のノルマを走り終えたので、どこか屋敷内の他所に行ったのだろう。ともあれ、今日は付き合ってくれたことに感謝する。
水筒の残りを飲み干しながら、ふとミルティーユの胸に小さな疑問が湧いた。
(そういえば……ヴォルフ様も毎晩、どこに行っているのかしら?)
初日の晩と同じく、ヴォルフは毎晩ミルフィーユが幻視魔法で寝入った素振りをしていると、こっそり出かけていく。窓からそっと覗くと、着替えて庭へ出ていくのも同じだ。
そしてなかなか戻らず、ミルティーユが眠気に耐えかねて本当に眠ってしまうと、朝になれば何もなかったように部屋に戻っている。
きちんと寝衣に着替え、寝台にいて『境界線の向こう』で横になっているのだ。
不思議だが、寝たふりをして様子を窺っていたというのも後ろめたく、どこに行っているのか面と向かって尋ねる勇気はない。
(それに、わざわざノワに口止めしたくらいだから、やたらに知られたくないことなのでしょうね)
ヴォルフが深夜にどこへ行っているのか、ノワは知っている。
ここに来て数日経った時、ミルティーユが彼のおかしな行動について相談したら、ノワのビクリとした反応ですぐに何か隠し事だと解った。
正直なノワは、自分がヴォルフの行き先を知っているのはすぐ認めたけれど、どこで何をしているのかは内緒にする約束をしたと言い、教えてくれなかった。
だからミルティーユも、それ以上は聞かないことにした。ノワは大切な友人なのだから、自分のつまらない好奇心で困らせたくない。
(もしも大した秘密じゃなくたって、大っぴらに知られたくないことは誰でもあるわよね。……私も今、お菓子に目がなくてダイエットなんて知られたのは相当に恥ずかしかったもの)
うんうんと頷き、自分を納得させる。
とにかく、ヴォルフに恥ずかしいことを知られてしまったが、呆れられるどころか意外にも嬉しそうな反応をされて驚いた。
『——何であれ、しっかりと食べて身体を鍛えるのは良いことだ』
去り際に彼が言ったことを思い出し、ミルティーユはポンと手を打った。
「あ、もしかしたら……」
頑強な身体づくりのために、軍人は常にたくさん食べて激しい訓練をするそうだ。
たとえ、お菓子を食べすぎたあげくの減量目当てという理由でも、よく食べて熱心に運動したことは良しと、彼は好意的にとらえてくれたのだろうか。
そう考えれば疑問も解けたし、久々に思い切り身体を動かすのは、疲れたけれどなかなか爽快だった。
ミルティーユはすっきりした気分で、水筒とタオルを持って裏庭を後にした。
この続きは「コワモテ将軍の甘すぎる結婚事情」でお楽しみください♪