書籍詳細
残り物には福がある。3
ISBNコード | 9784-8-6669-303-3 |
---|---|
定価 | 1,320円(税込) |
発売日 | 2020/06/27 |
ジャンル | フェアリーキスピンク |
お取り扱い店
電子配信書店
内容紹介
立ち読み
「——ん……」
木漏れ日の光と湿った土の匂いがして違和感を覚える。次いで聞こえた甲高い鳥の声に驚いて、瞼を押し上げれば、視界いっぱいに緑が広がっていた。
——目が覚めたら森の中でした。
そんなモノローグがポンと頭に思い浮かぶほど、青々しく緑が茂っていた。
「え……?」
呆然と周囲を見渡そうとすると、誰かにがっちりと抱き締められていることに気がついた。だけど慣れた感触に「……旦那様?」と、声をかけてみる。うん。この筋肉の硬さと逞しさは間違いない。
「……はい。ナコ、どこか怪我はありませんか?」
少し余裕のない掠れた声に驚いて咄嗟に身体を起こそうとしたけれど、腰に回された手は痛いほど強くてぴくりとも動かない。
「旦那様! どこかお怪我なさったんですか?」
状況も忘れて慌てて尋ねると、わたしを抱き締めていた旦那様はようやく身体の強張りを解いた。
はー……、と細く長いため息をついたのが気配で分かる。
ど、どうしたんだろう……。
いつにない旦那様の様子に不安になって、顔を上げて覗き込もうとしたけれど、後頭部に回されていた手にぎゅむっと胸の中へ押さえ込まれた。
……これは見られたくないということでしょうか、旦那様。
でもそういう時って滅多に見られない、レアな表情してることが多いんだよね……。ついついどうにか見られないかとじりじりしていると、ふっと頭の上で吐息が零れた。
「……貴女が一人で元の世界に帰ってしまうと思って、肝が冷えました」
ぼつりと呟かれた言葉にようやく、わたしは直前の出来事を思い出した。
確かにあの浮遊感は召喚された時と同じだ。すっかり忘れていたけれど、初めて異世界召喚された時も、あんな風に全身の毛穴が開くような嫌な感覚に襲われたのを覚えている。
「ということはここは日本……?」
思わずそんな言葉を口にすれば、旦那様はゆるりと首を振った。
「いえ、ベルデであることは間違いないでしょう。そこにベルデにしか生息しないレサカの木がありますから」
腕の力を緩めた旦那様は、私の背中越しに正面を指さす。その先にあるのはキリンの身体の模様のような表皮の木だ。燃えにくく耐久性があるので、家を建てる時によく使われている。ベルデの特産品の一つなので、わたしもリンさんに叩き込まれて知っていた。
「そうなんですか? ——……よかったぁ……」
ほっとしてそう呟けば、旦那様は一瞬黙り込んだ。ややあってから、腕に力を込めてこちらを気遣うような静かな声で尋ねてくる。
「……よかった、ですか? ナコは帰りたいとは思わないのですか。貴女の生まれ故郷でもありますし、元の世界はとても文明が発達していて便利で素晴らしいものもたくさんあるのでしょう?」
「……え? わたしそんなこと言ってましたっけ?」
「よく話しているでしょう? 『カメラ』や『携帯』があれば、と」
「カメラ……」
ぎょっとして目を?く。そもそも『カメラ』や『携帯』が欲しいのは、あくまでも旦那様の姿を写真として永遠に残したいからであって、決して帰りたいわけじゃない。
「あの、カメラっていうのは、一瞬で景色や、人物を紙に写すことができる機械なんです。後で何度も見返すことができますから、旦那様の勇姿を撮りたいって思って、つい」
「私、ですか……」
何故だか驚いたような旦那様の声に「ん?」と引っかかる。
もしかして旦那様、『カメラ』や『携帯電話』なんかの便利電子機器のために、わたしが元の世界に戻りたいなんて勘違いしてた……? まぁ、一日だけ行けるならもちろん持ってくるし、ビデオも盗聴器も欲しいくらいだけど、いやそれ犯罪……むしろ、わたし帰んない方がいいな! 確実に犯罪者になる自信がある!
ちょっと思考が明後日の方向に逸れたけれど、旦那様の不安を見過ごすわけにはいかない。今まで気づかなかったけれど、わたしが前の世界の便利なものの話題を出す度に、もしかして旦那様は不安に思っていたのだろうか。
いや、もしかすると……神殿に新しい神子が召喚されたって聞いた時から気にしてた?
「……っ」
そういえばお屋敷に知らせに戻ってきてくれた旦那様と、リビングで顔を合わせた時、確かにちょっと違和感を覚えた! なんてことだ。わたしとしたことが痛恨のミスである!
「……旦那様」
これはちゃんと言っておかねば。
こういうしょーもない行き違いで、男女の仲が拗れるのは物語の山場の一つである。盛り上がりなんぞ知らん! 仲違いのフラグなんて絶対立てさせないからね!
フラグクラッシャーナコとなるべく、ぐっと旦那様の腕を?んだ。そしてしっかりはっきり宣言する。
「あの、旦那様! 『カメラ』とか『携帯電話』とか元の世界の便利なものとか、確かに時々思い出すことはあります。だけどそれは旦那様を……さっきも言ったように撮って残していつでも眺めたいとか、面白い場所なら旦那様と一緒に楽しみたいとか、向こうの美味しいものを一緒に食べたいとか、全部! 全部! 旦那様に?がってるんです。だから旦那様がいない世界に、わたしが一人で戻ったって全然意味がないんです!」
真っ直ぐ伝われ!
こんなに愛が溢れてるのに、旦那様を置いて元の世界に帰るなんてありえないのに!
最後の方はなんだかむっとしてしまい、ちょっと乱れていた旦那様の頭をくしゃくしゃにしようとして、ぐぐぐっと顔を上へ向ける。そして、それこそさっきの比じゃないくらいの違和感を覚えた。
「え、え、……ええ!?」
思わず叫べば、旦那様がようやく腕の力を抜いてくれた。そのまま起き上がり、目を丸くして驚くわたしの顔を覗き込んでくる。
「どうかしましたか?」
気づけばそう尋ねる声もいつもより少しだけ低く掠れている。鼓膜が痺れるようなバリトンボイスに強制的に我に返った。
「旦那様! あの、……っ顔! お顔が!」
「顔が?」
こてりと首を傾げる旦那様の額に前髪がかかる。邪魔に思ったのか?き上げようとした旦那様も気づいたらしい。上げた手をじっと見つめた後、?を撫でた。
「これは……」
尋ねるというよりは確認するように言葉を続けた。
「元の姿に戻っていますね」
こくこくとわたしは旦那様に頷くのが精一杯。
——そう。なんとわたしの言葉通り旦那様のお姿が、初めて顔を合わせたあの頃へと戻っているのである。
目映いばかりの金の髪は、冬の月を思わせる冴え冴えとしたシルバーグレイへと。切れ長だった目元は柔らかくなって、年輪を刻む皺へと続いており、いっそう彫りが深まった印象へと変化していた。澄んだコバルトブルーの瞳だけが元のままで、懐かしさに初めて顔を合わせた時の気持ちが鮮明に蘇る。
いや、これはこれでめちゃくちゃ渋くて格好良いんだけど……!
ついでにリンさんの『ナコ様、枯れ専でしたか』発言もどこからか聞こえてきたけれど、今はそんな場合じゃないし、そもそも、違うっつうの!
ますます頭の中は収拾がつかなくなってくる。
「だ、旦那様っ、ちょ……夢かな、まだ目が覚めてな!? あ、でも夢なら勿体ないから目に焼きつけときたい! 今こそカメラ! 誰かわたしにカメラを!」
「落ち着いて下さい。ナコ。……少し違和感があるとは思ってましたが、なるほど……」
つい本音がダダ漏れして興奮するわたしを落ち着かせ、旦那様は?から顎へと手を滑らせて顔の造作を確認する。
そして長めの前髪を引っ張って髪色を確認した後は、自分の手を開いては閉じ、腕を伸ばして皮膚の感じや血管なんかを観察していた。
淡々と一連の動きを繰り返す旦那様はとても冷静だ。
一人パニック状態のわたしはなんだか置いていかれた気分になってしまった。……そっとほっぺたを抓れば、やっぱり痛い。
「痕がつきますから駄目ですよ」
目敏い旦那様に見つかって、めっとするように私の指を外して、抓った?を優しく撫でてくれる。その指は、ごくごく微妙にカサついて硬く、それも少し懐かしい。
う、嬉しいけど、夢じゃない、ってこと?
なんで、旦那様の姿が元に戻ってるの? あ、いや別に旦那様が御年を召していようが若かろうが文句なんてない。むしろ神子の特殊能力がなければ、今のこの状態こそ普通だったはずなのだから。
「新しい神子の力と関係しているのかもしれません」
「新しい神子の力……って、っあ、……ユイナちゃん!」
慌てて立ち上がり周囲を見渡す。
わたしの馬鹿! なんで今まで忘れてたんだ!
……緑が深くて見通しも悪い。だけど視界で確認できる範囲に、ユイナちゃんの姿はなさそうだ。緑の中でもユイナちゃんが身に着けていた臙脂色のブレザーなら、よく目立つだろうから。
……わたしと旦那様だけ瞬間移動したってこと? そうかな……うん、そっちの方がいいよね。ひとりぼっちでこんな森の中に放り出されたらわたしでも泣く。ましてやあんなに幼い子なら尚更だ。
「ここに来る直前、あのユイナと呼ばれた神子の指先から放たれた光が、ナコの身体を包み込んでいました。彼女の特殊能力は触れた人間を『転移』させるものなのかもしれません。……何故このような森の中に飛ばされたのかは分かりませんが」
「……魔法みたいな話……」
瞬間移動とかいうやつだろうか。自分だけじゃなく人も飛ばせるなんてすごいんじゃない? ……いやなんでわたしだけエロゲーみたいな特殊能力……。ちょっと女神様を恨んでしまう。
それにしても旦那様の推察力がすごい。確かに状況から察するにそれが一番理にかなっている。思い起こせば『どっか行って!』って言われた直後だったもんなぁ。まさに言葉通り。
……逆に目の前で人間が消えて、ユイナちゃん怖い思いしてないかな。……心配だ。
真っ赤な目を思い出して胸が痛くなったものの、まだ見慣れない旦那様の顔を見つめて、肝心なことに気づいた。
「……あ、でもそれでどうして旦那様が元の姿に戻ることに?」
「そうですね。……推察でしかありませんが、ナコの力と新しい神子の力が作用し、ナコの力が一時的に打ち消されたか、あるいは上書きされたのかもしれません。以前、ナコにも神殿の資料を見たと話したことを覚えていますか? 神子同士の力は時に打ち消しあったり反発したり、思わぬ方向に作用すると記してありました」
んん? つまり……えっともう一回『したら』また若返る可能性もあるってことなのかな。あ、でも結局わたしの若返り能力って巷で言われている通り、本当に一回きりのものなのか実際のところ分かってないんだよね……。
もしくは時間を置けば、旦那様はいずれまた若返った姿に戻る、ってことになるのだろうか。なんかややこしいな!
自分で自分に突っ込んでから、不意にざわりと心が騒いだ。
このまま戻らなかったとしたら……もちろん、若返った時よりも確実に寿命は短くなってしまう、わけで。
「……ナコ?」
「いえっ! しばらくは様子見しかなさそうですよね!? あの、お身体の調子はどうですか」
「大丈夫です。特に異常もありませんし、身体もさほど違和感なく動けます」
そう言うと旦那様も立ち上がり、周囲を見回す。少し視線を落としたかと思うと、一方向を見つめてから、またわたしに向き直った。
「それほど深い森というわけでもなさそうです。獣道に子供や女性の足跡が残っていますし、おそらく近くに村があるでしょう。とりあえずそちらに向かいましょうか」
「あ、……はい!」
落ち着き払った声でそう説明されたものの、その冷静さに逆に狼狽える。そういえば若返った時も旦那様一人冷静だったなぁ……嬉しい、って言ってくれたっけ……なんだか三、四年前なのにもっとずっと昔のことのように思える。
「どうかしましたか?」
「あの、いえ……あの、旦那様は、どうしてそんなに冷静なんですか?」
あまりにも不思議で思わずそう尋ねてしまったわたしに、旦那様はゆっくりと口角を上げた。くすりと笑う声も低くてそれだけで艶があり、ふいに心臓を揺さぶられてしまう。
「貴女がいてくれますから」
目尻の皺が濃くなり、一気に雰囲気が柔らかくなる。少し困ったような笑い方に『あ、懐かしいな』なんて改めて思った。この笑い方がすごく優しくて好きで、あの頃、とても安心した。
「光を纏った貴女が消えかけた時に、貴女を失うことより怖いものなんてないと、改めて思い知りました。ナコさえいれば私は——」
乱れていたらしい髪を耳にかけられ、乾いた指先が耳朶を掠めた。
「怖いものなんて何もないのですよ」
愛おしげに細められたコバルトブルーの瞳に見つめられたまま語られた言葉を反芻し、眩暈に倒れそうになった。ぶわああっと瞬時に熱くなった顔に、旦那様は「おや、真っ赤だ」とからかうようにくすりと微笑んだ。
——っくあああああ!
待って、待っ!? 久しぶりのイケオジ(イ)様バージョンの旦那様の耐性がすっかりゼロになってて困る! 気障な言葉に渋みが乗ってものすごく……イイ……! 控えめに言って最高……! っああああ……っ好き……!
この続きは「残り物には福がある。3」でお楽しみください♪