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サトリ令嬢の見透かせない感情

朱里 雀 / 著
八美☆わん / イラスト
ISBNコード 978-4-86669-443-6
定価 1,320円(税込)
発売日 2021/10/27
ジャンル フェアリーキスピンク

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内容紹介

麗しき公爵令息の心は、野獣な欲望でいっぱい!?
心の声が聞こえる貧乏貴族令嬢と見た目完璧な公爵令息。嘘と本音が絡み合う恋の攻防戦!
WEBで大人気作品、大幅加筆修正+書き下ろしを収録して書籍化!
人の心の声が聞こえるという特殊な力を持つ貧乏貴族令嬢のアダリーズ。ある時出会った公爵家の跡取りディートリヒは、眉目秀麗で完璧な男と言われ社交界で人気だが――「このまま寝室まで攫って押し倒してぇ……」次々聞こえてくるアダリーズへの不埒な煩悩の数々。実は彼女への愛をこじらせまくって、妄想を炸裂させていたのだ。それを恋心とは気付かず、アダリーズは体目当てとドン引きする。しかし少しずつ彼の優しさに触れて心が揺れ始め!?
「君が好きだ、どうしようもなく好きだ。初めて会った時から君は特別だった」

立ち読み

「アダリーズ嬢、もう少し二人でいませんか? どうせ、デインとリリアナは時間を忘れて見つめ合っているでしょうし」
 後ろ手を摑まれ、アダリーズは振り向いた。
 ――逃がさない。
 先程の美しい瞳とはまた違う、獣が獲物を狙っているかのような鋭さで、ディートリヒはアダリーズを見つめていた。
 追い詰められて、この美しい薔薇園に閉じ込められる。そして、獣にゆっくりと食い殺されてしまう。そんな予感がアダリーズの頭を支配する。
 怖くて今すぐ逃げてしまいたい。
(怖い? 何で怖がるのよ、私。この人は頭の中が変質者なだけ。そりゃあ、リリアナを傷つけた奴らには容赦しなかったけれど、私は心の声さえ無視していれば安全よ。こんな男、平気に決まっているじゃない)
「失礼」
 強引に繫がれていたディートリヒの手がアダリーズから離れた。
「大丈夫です。では、ボードゲームでもしませんか? 勝った方が負けた方の言うことを聞くという条件で」
 アダリーズは手で髪を後ろに払い、胸を張って、顎を上げた。ディートリヒに対し感じた恐怖を振り払うために。
 絶対に勝てる自信があるからだが、ディートリヒはアダリーズの胸が大きく揺れたことしか考えていない。いつものディートリヒだ。
「いいですね、やりましょう。アダリーズ嬢に何をお願いするか、考えないと」
 ディートリヒが微笑み、早速、邪な願い事を唱える心の声が聞こえてくる。
 ――王城の侍女の仕着せ、誰の趣味で採用されたかは知らんが、露出は少なくとも体の形がよくわかって、前々からアダリーズに着せてみたかったんだよな。それ着せてご主人様、とでも呼ばせて奉仕させたい。が、そんな願い事するわけにもいかないか。嫌われないように、紳士的な願い事しねぇとな。
(もう、充分敬遠しているけど、それに何より……)
「ディートリヒ様は私に勝つおつもりのようですが、それは絶対にありえません。私が勝って願い事をさせて頂きます」
 アダリーズもまた微笑んだ。
「では、お手並み拝見といきましょうか。まあ、勝つのは私ですが」
 ――随分な自信だが、後悔させてやる。そして、あいつと二度と話すなと言って、腕の中に閉じ込めて、耳に息を吹きかけ……。
 アダリーズは聞くに堪えないディートリヒの心の声を受け流し、美しい薔薇園を見て心を落ち着かせた。



 勝負は最初からディートリヒの優勢だった。どこで見守っていたのか、いつの間にか現れた公爵家の侍女が東屋にボードゲームとそのための机と椅子、温かい紅茶と歯に優しいクッキーまで用意してくれ、すぐにディートリヒとの対決は始まった。
 煽りすぎたせいか花を持たせてくれる気は勿論なく、僅差でディートリヒが勝つような筋書きにしてくれるつもりもないようだ。
(大人げないわね)
 アダリーズは考えるように腕を組み、首を傾げた。
「アダリーズ嬢、棄権されてもいいんですよ?」
 ――よりによってこの俺様に勝負を挑むとはな。まあ、考えている顔が可愛いからいいか。だからこそ、完膚なきまでに倒して、涙目にさせたいわけだが。
 相対するディートリヒは足を優雅に組み、余裕の表情だ。
(頭に来た。私が勝ったら、二度と私を性的な目で見るなって言ってやろうかしら)
「まさか、勝負はここからですよ。ディートリヒ様がどの駒を取られたらお嫌かわかりますもの」
「おや、強気ですね」
 ――取られたくない駒ねぇ、アダリーズは俺がその言葉に反応し、駒を見ると思っているのか。視線を読む気だろうが、侮るなよ、そんな手に引っかかって右端のナイトを見るほど甘くはない。
 アダリーズはすかさずナイトを取った。
 ――気づかれたか! だが、勝機はまだまだある。
 新たな作戦を思いついたディートリヒはアダリーズの駒を取り、次に取られたくない駒を心の声で自白してくれた。
 アダリーズは勿論、その駒を取る。それを何往復か続け、今度は優雅に微笑んだ。
 勝負は一気にアダリーズに優勢に傾いていた。
 ディートリヒは盤上を睨みつけている。
 ――このまま続けても俺の負けは動かない。
「貴女の勝ちだ」
 ディートリヒは静かに負けを認めた。悔しさで荒れた心の声が聞こえてくるのに、その表情はいつものように優美だ。
 向かい合って座っていたディートリヒが立ち上がり、アダリーズの前に跪き手を取った。
「さあ、何でも願い事を仰ってください、我がお姫様」
 ――負けた、俺が負けた。神童、天才、秀才と呼ばれてきた、この俺が。恥ずかしい。俺は己の才能に驕っていたのか? 公爵家の嫡男としてこれまで努力してきたつもりだったが、修業が足りてなかったのか。
 ディートリヒの心の声は、負けた自分自身を酷く責めていて、アダリーズはたちまち卑怯な手段を使って勝ったことに罪悪感を抱いた。
(ちょっと鼻っ柱を折るだけのつもりだったけれど、彼にとってはただの遊びではなかった。彼はダンバース家の跡取りとして厳しい教育を受け、誇りを持っていたはずなのに、安易に傷つけてしまった)
「アダリーズ嬢、願い事は?」
「あ、えっと、ええっと……」
 ズルをしたことを謝罪することはできない。心の声が聞こえる秘密を知られてしまうことになる。言えば、たちまちディートリヒはアダリーズの正気を疑うだろう。
(私って自分のことばっかりね、本当なら誠実に謝るべきなのに)
「何でもいいですよ、ドレスでも宝石でも、好きなものを贈らせて頂きます」
(ズルしたんだから、あんまり図々しい願い事はだめね)
「今度、公爵家の馬に乗らせて頂いてもよろしいですか?」
 アダリーズが願いを告げると、ディートリヒがにっこり笑った。
「勿論、アダリーズ嬢は欲がないですね」
 ――ついでに、俺という種馬にも乗ってくれねぇかなぁ。
(やっぱり、二度と話しかけないで、って言えばよかった!)
 ディートリヒの心の声がいつもの不埒なものに戻り、アダリーズは反省も忘れて苛立った。
「そろそろ戻りましょうか」
 ディートリヒが立ち上がり、恭しくアダリーズの手を取って東屋から出ようとしたが、ふと視界に捉えたものがあり、アダリーズはディートリヒの腕を引っ張って止め、東屋の陰に隠れた。
 そして、気づいてほしくて上目遣いで視線を送る。はからずも、抱き合っているような体勢になっていたが、アダリーズは気付いていなかった。
 ――アダリーズが俺を見つめている? 顔を上げて、俺を見ている。
 ゆっくりとディートリヒの顔が近づいてきた。
(睫毛、長いわね。私より長いんじゃない?)
 ついに吐息が触れ合う距離になった時、アダリーズはディートリヒの耳元にそっと顔を持っていき囁いた。
「ここにいてはマクラーレン伯爵とリリアナの邪魔になってしまいます。移動しましょう」
 薔薇園の入り口で、マクラーレン伯爵とリリアナが薔薇ではなく互いを見ていた。
 ――さあ、言うんだ、俺。リリアナ嬢、あなたをお慕いしています、と。
 ――さあ、言うのよ、私。デイン様、あなたをお慕いしています、と。
(早く、言えばいいのに)
 移動しようと言ったくせにアダリーズが体を反転し、柱の陰からハラハラと耳を澄まして二人を見守っていると、ディートリヒの心の声が聞こえてくる。
 ――アダリーズに負けた挙げ句、勘違いして何をやってるんだ、俺は。死にたい。
「えっ?」
 アダリーズがディートリヒの心の声に驚いて、思わず声を上げると、ディートリヒがアダリーズから離れた。マクラーレン伯爵とリリアナにも気づかれてしまい、二人の視線がアダリーズに向けられる。
「あっ、アダリーズ嬢、ディートリヒ」
 マクラーレン伯爵とリリアナの顔は真っ赤に染まっており、アダリーズはしくじったことを反省した。
 ――俺は駄目な奴だ、告白する勇気もない。なんて意気地がない男だ。リリアナ嬢に相応しい男ではない。
「お二人とも、どうなさったの?」
 マクラーレン伯爵が肩を落としていて、アダリーズは流れを変えようと、頰を染めるリリアナに薔薇園に来た理由を聞いた。
「アリス、あなたいつもならもう帰る時間だけど、お母様がお夕飯を一緒にいかがかって。もうすぐ始める予定なんだけどどうかしら?」
 まだ、夕方と言える時間帯で、夕餉にしては早いなとアダリーズが小首を傾げた。
「仕事に戻る自分のために早めてくださることになりまして、すみません」
 マクラーレン伯爵は恐縮している。
 なるほど、リリアナの恋を応援する公爵夫人がマクラーレン伯爵を逃がすわけがない。だが、そのためには公爵家に滞在しているアダリーズも誘わないと不自然、ということだろう。
「ありがとう、でも、今日はそろそろ……。いえ、そうねお相伴に与るわ」
 アダリーズはディートリヒと一緒にいるのに疲れたので、帰りたかった。
 しかし、リリアナにお願い、と涙目で見つめられると、どうにも弱く、ついつい頷いてしまった。



 公爵家の柔らかいパンを齧り、アダリーズは幸せだった。
 流石は公爵家。何を食べても美味しい。前菜とスープも素晴らしかった。いっぱいあるから、こそっと父とスペンスに持って帰ってあげたいくらいであるが、向かい側にディートリヒが座っているから難しい。
 ――パンを食べているデイン様も素敵、真正面で見られてここは特等席だわ。パンを千切る時の節くれだった手。大きな口からは、綺麗な歯並びが見える。そして、飲み込む時に動く喉。私、あのパンになりたい……。
 アダリーズは横に座っている親友のリリアナが初恋を拗らせて、おかしな方向に向かっていることに危機感を覚えた。同時に納得もした。やはり、リリアナとディートリヒは血の繫がった兄妹なのだ。
 生暖かい視線をリリアナに向けていると、公爵夫人がマクラーレン伯爵に声をかけた。
「マクラーレン伯爵、薔薇園にディートリヒとアリスちゃんを迎えに行ってくださってありがとうございました。リリアナはちゃんとご案内できました?」
 ――リリアナ! 何を惚けているの!? ここで押すのよ! 女からグイグイ行ってもいいじゃない!
 公爵夫人は力強い心の声とは違い、にっこりと微笑んでいる。
 本日は仕事でダンバース公爵がいないため、本来ならば公爵が座る全体を見渡せる中央の席には公爵夫人が座っている。
「ええ、勿論です。ついでに薔薇園も案内してくださって、とても綺麗でした」
 ――薔薇園の中で佇むリリアナ嬢、綺麗だったな。
 ――デインのことだ。どうせ、リリアナが綺麗だったと考えているんだろうな。
 マクラーレン伯爵の考えていることをディートリヒが当てた。
「私は薔薇の種類など全く知らないのですが、リリアナ嬢は丁寧に解説してくださいました」
 ――リリアナ嬢に夢中で一つも覚えていないが……。
 ――はいはい、リリアナに夢中で何一つ覚えてないんだろ?
 ディートリヒの投げやりな心の声にアダリーズは笑ってしまいそうになり、顔を伏せた。流石は親友同士、ディートリヒにはマクラーレン伯爵の考えは筒抜けであるようだ。
「大したことはしてませんのに、褒めてくださってありがとうございます」
 ――お母様の前だから、社交辞令を言ってくださったのね。優しいところも素敵!
 リリアナの心の声は勿論弾んでおり、意中の人に褒められた喜びで頰も染まっている。そしてマクラーレン伯爵もまた、そんなリリアナに見惚れている。
 ――リリアナ嬢の頰が赤くなっている。何て可憐なんだ!!
 ――もう一生やってろ。
 ディートリヒの心の声がとても疲れて聞こえた。
「アリスちゃんもディートリヒと薔薇園に行ったのよね?」
「あ、はい、そうです」
 アダリーズは完全に油断して黙々と食べていたので、公爵夫人に話題を振られて焦った。
「とっても立派な庭園でしたので、私ったら夢中で見て回ってしまい、お仕事でお疲れのディートリヒ様を余計疲れさせてしまいました」
「優しいのね。ディートリヒのことなんか全然! 気にしなくていいのよ。体力だけはあるんだから。それより薔薇園、気に入ってくれたなら良かったわ。あの薔薇園には家族の思い出が詰まっているの」
 ――だから、ちゃんと引き継いでくれる方に嫁いできてほしいわ。
 それは多分、大丈夫だろう。そつのないディートリヒは嫁選びにもそつがないはずだ。公爵家をきちっと支えてくれる素晴らしい女性と結婚するだろう。
(私みたいな貧乏男爵家の娘と違って、家柄から、容姿から、性格から完璧なディートリヒ様に似合いの女性……)
「そうなんですか」
「ええ、私と夫が出会ったのも薔薇園だったの」
「それは、素敵ですね」
 ――そう。私の可愛いお髭さんと出会ったのも、薔薇園だったのよね。あの頃は髭も勿論生えていない、子供だったけれど……。
(私の可愛いお髭さん?)
 アダリーズは聞こえてきた心の声に硬直した。
 アダリーズは、この時まで知ってはいたが理解していなかった。ダンバース公爵夫人は、リリアナとディートリヒの母親だということを。
 ――彼ったら、いきなり薔薇を私に渡して結婚しようって言うんだもの、驚いちゃったわ。無理やり手で薔薇を摘んだものだから、怪我していて、痛みで涙目になっているのが可愛くて、可愛くて。先代の公爵と公爵夫人はとても仲が悪くて、彼はいつも寂しかった。私も似たような境遇だったから、すぐに仲良くなれて、私たちはずっと一緒だった。そして彼が初めて私の背を抜かしたあの日……。
 アダリーズは固唾をのんで公爵夫人の心の声を聞いていた。
(あの日、……何があったの)
「今度のリリアナの誕生日、あの薔薇園で開こうか?」
 ディートリヒが声を出したせいで、公爵夫人の妄想が止まってしまった。
(いいところだったのに)
 ――リリアナ嬢の誕生日、俺は誘ってもらえるのだろうか。贈り物はもう用意してある。それを渡す時に俺はこの想いを告げて……。
 ――私の誕生日、デイン様は来てくださるかしら。もし来てくださったら、私、私、その日こそはデイン様に告白を……。
 ――誕生日も無理そうだな、これは。
 そうして、リリアナとマクラーレン伯爵は見つめ合い、互いの世界に没頭し始めた。それをディートリヒが冷めた目で見ている。
「そうね、それはいいかも。でも、迷ってしまうお客様が出ないか心配だわ」
「あんな一本道、何を迷うっていうんです?」
 公爵夫人の懸念をディートリヒが一笑に付した。
「でも、あなたは迷ったじゃない」
 食事をするディートリヒの完璧な所作が止まった。
「いつの話ですか? 覚えがありませんね」
「リリアナが産まれてすぐの頃よ。私も探しに行きたかったのだけど、体がまだ本調子じゃなくて皆に止められたから覚えているわ。あなたったら、婆やに手を引かれて泣きながら私のもとに帰ってきたくせに、泣いてない、自分が迷ったんじゃなく、皆が迷っていたんだって言い張ってね。大変だったわ」
「また、懐かしい話をしますね」
「あなたって子供の頃から、本当に強情だもの。何年か前、領地に行った時も……」
「その話はもういいでしょう」
 ――やめろ、やめてくれ、その話をするな。アダリーズにこんな話聞かせんじゃねぇよ。
 ディートリヒが恥ずかしくてのたうち回りたいのに、平然とした顔をしている。
(絶対に人に弱味を見せたくないのね。矜持が高すぎるんだわ。それにしても意外と可愛いところがあるじゃない)
 誰も母親には勝てないものである。アダリーズは笑いを嚙み殺した。
「そうだ、アダリーズ嬢、実はあの薔薇園の薔薇で香油を作って販売しているんです。お一つ、今日の薔薇園見学のお土産にお持ち帰りください」
 ――話を変えなければならない、絶対に。
 公爵家が香油販売をしているだなんて知らなかった。いつものアダリーズなら確かに気になって飛びついてしまう話題だが、そうはいかない。
「いえ、そんな。お夕飯を頂いた上にお土産なんて頂けませんわ。それより、領地で何があったんですか?」
「つまらない話です。お客様に聞かせるようなものではありません」
「あら、面白いかどうかは聞いてみてから判断するものでしょう?」
 アダリーズはちょっと意地悪な気持ちになっていた。ディートリヒに対し優位に立てているためである。
 ――アダリーズが顔を輝かせている。どうやら俺をやり込めて楽しむつもりらしいが、そうはいくか。
(勿論、やり込めてあげるわ。公爵夫人から色々聞き出してあげる)
 アダリーズとディートリヒが互いに、一歩も引かない態勢で微笑み合っていると、口火を切ったのはリリアナと見つめ合い続けていたマクラーレン伯爵だった。
「香油といえば、ディートリヒが学生時代に商談をまとめたものですよね? 未だに根強い人気だと聞いています」
 ――しまった、話に入らずずっとリリアナ嬢を見てしまっていた。つい、リリアナ嬢を目に焼きつけることができる甘美な時間に浸ってしまったが、あんなに見つめてしまい、リリアナ嬢は不審に思ったかもしれない。
 ――よし、流石は俺の親友! いつでもリリアナを嫁に持っていっていいぞ!
 ディートリヒがマクラーレン伯爵を褒め称える心の声が聞こえてきて、アダリーズは悔しかった。
「ええ、そうなの。ディートリヒがいきなり商家と話をまとめて、急遽、販売することになったから吃驚したわ」
 公爵夫人が頰に手を当てた。因みにリリアナは未だにマクラーレン伯爵を見つめている。
「あれは元々、ディートリヒが後輩を助けるために計画したので、急な話になったんですよ」
 マクラーレン伯爵が過去を懐かしむように優しく微笑んだ。
「デイン、その話は……」
 ――デイン、お前もか!
「いいじゃないか、悪い話をするわけじゃない」
 マクラーレン伯爵の言葉にアダリーズも追従した。
「是非お聞きしたいです」
「私も気になるわ」
 公爵夫人も知らなかったのか話に乗ってきて、アダリーズは再び優勢に立った。因みに、それでもリリアナはまだマクラーレン伯爵を見つめている。
「あれは寮生活最後の年でした。商家の出の後輩が、乳母の死に目に会いたいから帰省したいと寮監に申請を出したんですが、寮監が嫌な奴でしてね。権威主義で平民には意地悪な人で、曰く、乳母は家族ではない。家族の用事でないと認めないと却下したんですよ。それで、泣く後輩を見たディートリヒが、裏で手を回したのです。公爵家の薔薇で作った香油を販売するにあたり、公爵家と後輩の家で契約することになったので、後輩とともに後輩の実家に行くと申請を出してね」
「そうだったんですか」
(普通にいい話だったわ。でも、意外。ただの顔が良くて、お金持ちで、仕事ができるだけの男ではなかったのね)
「その時ちょうど寮を抜け出したかったから手伝ってやっただけだ」
 ディートリヒの頰が少し赤くなっている。
(照れている)
 ――照れているな。
 ――照れているわ。
 ――学生時代を思い出すデイン様も素敵!
 最初に聞こえた心の声はマクラーレン伯爵、次が公爵夫人。最後は言わずもがなである。
「ディートリヒは人気者で学生時代からよくモテました」
 アダリーズは首を傾げた。ディートリヒとマクラーレン伯爵は男子校出身だったはずだ。
(いや、偏見はよくないわ。同性のことが好きな人の心の声を聞いたことがあるけれど、普通の人だった。誰を愛そうが、他者を傷つけさえしなければ、それはその人の自由。心を縛ることはできないし、してはいけないものね)
「学生時代のマクラーレン伯爵もディートリヒ様も素敵でしたでしょうね」
 アダリーズが頷くと、マクラーレン伯爵の顔が愁いを帯び始めた。
 ――あの頃はディートリヒがまだ体が出来上がっておらず、中性的な美少年だったせいで、いつもつるんでいた俺と恋人同士だという噂が学園内を駆け巡っていたのは、リリアナ嬢には絶対に知られたくない。
 アダリーズは思わず食い入るように目を見開き、マクラーレン伯爵の顔を見た後、ディートリヒに視線を移した。
 ――灰色の学生生活だった。「デイン様とディートリヒ様、悔しいですが、お二人の絆には割って入れません。お二人の幸せをいつまでも祈っております」っていう、謎の手紙を何通も貰ったな。
 ディートリヒもまた愁いを帯びた顔をしている。
(確かにお似合いかも……)
 アダリーズは少年期のディートリヒと、その肩を抱くマクラーレン伯爵を妄想し、耽美な世界に浸りながら、デザートを頂いた。



 馬の蹄が土をゆっくり蹴る音が優しく響く。豪華な織物の天井にふかふかのソファ。普段ならそろそろ腰が痛くなっている頃だが、流石は公爵家の馬車といったところだ。馬車を操る御者は、心の声まで無口で、馬のことしか考えていない仕事熱心なところもいい。
 アダリーズは夕食後、公爵家の馬車でディートリヒに家まで送ってもらっていた。
 勿論、アダリーズはディートリヒの同乗を固辞した。しかしディートリヒに、遅くまでお嬢さんをお預かりしたのだからお送りするのは当然のことです、と言われ、公爵夫人にも心配だからディートリヒに送らせてねと、微笑まれると断れなかった。
 しかも、押しに負けて香油も受け取った。
 アダリーズも見たことだけはあるものだった。高価だが巷で人気の品だ。憧れていたので、本当はかなり嬉しい。早速、髪につけようか。それとも、芳香剤として楽しもうか。
 アダリーズが香油の用途を気分よく考えながら、ディートリヒを見た。
(ディートリヒ様、眠そう、凄く眠そう)
 仕方がないのかもしれない。徹夜で仕事して、薔薇園を散歩して、ボードゲームをして、夕飯を食べたら眠くなるに決まっている。それに、この馬車を操る御者の技術がすばらしく上手いのだ。丁度よい速さで揺れ、段差に気を使ってくれているのか、跳ねることもない。
(静かにしてあげよう)
 アダリーズは窓の外を見た。日が暮れ始めている。
「失礼」
 ディートリヒを見ると、首を振って眠気に耐えていた。
 ――眠い、眠くて、眠くて、眠い。こんなに眠いのは学生時代の哲学のじゅぎょう……。
 最後が聞こえなくなったディートリヒの心の声も、いつもよりゆっくりで、柔らかい。
 ――はっ! 寝るな、寝るな。アダリーズに幻滅されてしまう。
 ディートリヒは眠気に抗おうとしているが、こっくり、こっくり、首が揺れ、あんまりにも眠そうなので、アダリーズは優しく声をかけた。
「大丈夫です、私のことなんか気にしなくていいですよ」
(これ以上、幻滅しようがないもの)
「気になるよ、アダリーズ」
 それは、ともすれば車輪の音にかき消えるような小さな声だった。
 ――探して、見つけたら目で追って、近づいて、会話して、微笑んでほしい。リリアナに向けている笑顔を少しでも俺に向けてくれたら、そうしたら……。
(そうしたら?)
 しかし、アダリーズが続きを聞くことはなかった。
 ディートリヒの寝息が聞こえ始め、完全に眠りの世界の住人になったようだ。
 美しい青色の瞳は閉じられているが、その美貌は少しも損なわれない。
 それどころか、絵画として画家が競って描きたがるだろう。
 そんなディートリヒがアダリーズをどうしたいというのだ。
 静かな車内にアダリーズの鼓動の音が響いているような気がする。
(もしかしたら、ディートリヒ様は私に好意を抱いている? いや、まさか? でも……)
 アダリーズはこれまでのことを思い出した。
 出会いこそ最悪だったけれど、ドレスは仕立て直してくれたし、今日も香油をくれたわ。
 それに、この前は二人でダンスも踊ったし、いつも話しかけてくるわ。
 心の声だって……。
「そのでけぇ胸、揉みてぇな」「とりあえず、空き部屋に連れ込みたい」「目の下に黒子があるのは反則だろ」
(うん、体目当てだわ)
 これまでの心の声を思い出して、アダリーズの頭は冷えた。とても冷えた。


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