書籍詳細
あっさり、物に釣られて。 騎士団長のお世話係を拝命しました
ISBNコード | 978-4-86669-450-4 |
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定価 | 1,320円(税込) |
発売日 | 2021/11/26 |
ジャンル | フェアリーキスピンク |
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電子配信書店
内容紹介
立ち読み
翌日の昼、私は魔術師塔の最上階で鳩にエサをあげながら、セオドア様のことを考えていた。
あの日、半月前、地下から逃げだした日の彼の言葉。
あれは、口止めのための求婚ではなかったのかもしれない——と今では思うようになっていた。
——だとすると、あんな風に突きはなしちゃって……傷ついたかしら。
セオドア様が私を望遠鏡で覗いていることは、エズラ団長から聞いている。
「クラリッサの心の準備ができるまで会いに来るな」とエズラ団長が釘を刺してくれたらしく、彼は一切、私の前に姿を現さない。その代わり、地下を出た翌日の夕暮れ、騎士塔から鳩が来た。
細い肢に結ばれたメモには「どうか遠くから姿を見ることを許してほしい」と見た目に相応しい力強く端正な筆跡で記されていた。
私は少し悩んで、見るだけなら別にいいかと「それくらいなら、構いません」と返した。
その結果が、これだ。望遠鏡による監視。
エズラ団長によると、あれは「顔を合わせるのが恥ずかしい」と言った私に、彼の姿を見せないための気遣いらしい。
——気遣いの方向が間違っているわ!
近ごろはそれでは足りなくなったのか、エズラ団長曰く「偶然の出会いに、一縷の望みをかけておるんじゃろう。ぷふふ」ということで、時々、中庭の噴水で鳩にエサをあげている。
五日前には家に来た。寮ではなく、グラスランド家の方だが。屋敷をながめているところを弟のマクスウェルに見つかり、そのまま母に会って「お嬢さんをください」と言ってきたそうだ。
そして、思い出の地巡りでもしているのか、彼の姿を屋台街や公園や庭園で見かけるという噂がチラホラ耳に届いている。
——私に会いに来ること以外、とりあえず全部やっている気がする……。
まるでベッドに乗るなと叱られて、ベッドの周りを歩きまわりながらキュンキュン訴える大型犬のようだ。その主張の激しい聞き分けのよさに呆れつつも、少しずつ絆されてきている自分がいる。
「うう……それは困る……!」
いつか根負けして受けいれてしまう未来がよぎって、うう、と頭を抱えたくなる。
絶対、顔を合わせたら負けだ。
「結婚は、したくない」
由緒あるランパート家の女主人が、魔術一筋で生きてきた私に務まるとは思えない。
「だから、したくないんだけれどなぁ……」
逃げつづけたところで、諦めてくれる気がまるでしない。はああ、と深い溜め息がこぼれる。
互いに記憶を消して、元の通りに時々目の保養にするだけの関係に戻れたら、どれほど気が楽になるだろうか。そんな身勝手なことを考えてしまう。
記憶を消すのは、精神に負担がかかる。テディを甘やかそうと決めたのは私の独断で、セオドア様は否応なく甘やかされただけなのだ。
それなのに、自分が楽になりたいがために彼に負担を強いるなんて最低ではないか。
——こんな考えだから、エズラ団長は、私の記憶を消してくれなかったのかしら。
自分だけ忘れて楽になるなど無責任だと。
本当はきちんとセオドア様と話をして、互いに納得をした上で動くべきなのだろう。
けれど、あの十日間でテディにしたこと、言ったこと、言われたこと、乞われるがままに応じてしまったことを思いだすと——もう、叫びたくなるほど恥ずかしい。
——セオドア様だって、そうじゃないの……?
それならば、やはり会わないまま互いに記憶を消して、なかったことにした方がいいのではないだろうか。またしても都合のいい考えが浮かんで、私は、ぶんぶんとかぶりを振る。
——ダメダメ、やっぱり一度、きちんと話をしないと。
いったいセオドア様は、あの日々を、どのように認識しているのだろう。
子供のころの自分がされたこととして記憶しているのだろうか。
それとも、つい最近の出来事として、しっかりきっかり鮮やかに覚えているのだろうか。
後者だとしたら、あのバスルームでの出来事も「しっかりきっかり鮮やかに覚えている」ということになる。私と同じように。
手のひらに伝わる脈打つ熱さ、扱きあげる指を弾く肉の感触、耳たぶをくすぐる乱れた吐息が、まざまざとよみがえり、私は思わず両手で顔を覆って叫んだ。
「ああ、無理! ダメ、絶対! 会えない! 無理!」
どのような顔をして会えというのか。
——そうだ! 手紙よ! お詫びの手紙を書けばいいのよ!
悪気はなかった。エズラ団長の許可が下り次第記憶を消すので、どうか許してもらいたいと。
それから、セオドア様の治療が上手くいくことを祈っていると。
そこまで考えて、ふと疑問が浮かぶ。そういえば、結局、何のための治療だったのだろうかと。
子供のころのつらい記憶のせいで心か身体に不調があって、退行治療を受けたのだとは思う。
けれど、エズラ団長は詳しいことは教えてくれなかった。気になるのなら当人に聞きなさいと。
——私のせいで、悪化とかしていないといいのだけれど……。
確認もかねて、やはり一度は話をした方がいいかもしれない。
そう思うものの、どうしても恥ずかしさが邪魔をして、一歩踏みだす勇気が持てない。
いったいどうすればいいのだろう。鳩の餌入れを握りしめ、ううう、と唸っていると、軽やかなノックの音が響いた。
「……はい。あら、図書室の主さん、こんにちは」
「こんにちは。エズラ団長は……ご不在ですか」
「今、エブリン様と一緒に、オリヴァーの恋の花園を見に行っています」
魔術師塔の三階には、オリヴァーをはじめ、植物を扱う魔術師がそれぞれの研究用の花や作物、薬草を育てている室内植物園があるのだ。
「了解です。では後ほど、出直します——おっと」
「あっ」
羽ばたきが響いたと思うと、ひらいた扉から一羽、鳩が飛びだしていってしまった。
「これは失礼!」
「いえいえ、私が追うので大丈夫ですよ」
謝るアーロンに餌入れをやんわりと押しつけ、私は鳩を追って階段を駆けおりていった。
「……ええと……どっちに行ったんだろう」
惜しかった。あと、もう少しで追いつけたのに。
ちょうど一名、寮へと帰る魔術師が塔の扉をあけるところだったのだ。
鳩を追って天井の方を見ていた私は同僚の背中に激突、鳩は広い世界へと解きはなたれた。
——日が沈む前には見つけたいところだけれど……。
寮の方かしら、とキョロキョロと天を見あげながら歩いていると。
「——クラリッサ?」
「ひぇっ!」
聞きなれた声に飛びあがった。
首を巡らせ見れば、少し離れた中庭の噴水前、鳩を抱えたセオドア様がこちらを見つめていた。
「セオドア様……と、鳩」
どうして今、どうしてここに、どうして鳩をセオドア様が——突然の出来事に頭が追いつかない。
「クラリッサ、会いたかった……! どうしても君と話がしたいと——」
ずんずんと近づいてくるセオドア様の必死の形相に、思わず「ひっ」と後退ると、ぴたりと彼は足をとめ、それから一気に地を蹴った。
「ひゃあぁっ」
考えるより早く、私は逃げだしていた。
「っ、まってくれ!」
まてるわけがなかった。背を向けて走る私を、屈強なる騎士団長が鳩を抱えて追ってくる。
ふたつの足音、ポッポゥポッポゥと響く鳩の鳴き声。
——何なの!? この状況はっ!?
だが、幼いころから弟と競った追いかけっこで、足にはそれなりに自信がある。
魔術師塔へ逃げこめば、地の利はこちらにある。大丈夫だ。
全速力で走りつづけて。
——ひぇえ、なんでそんなに速いのよぉぉぉッ!
五十歩ほどひらいていた距離は、またたく間にちぢめられ、足音はすぐ後ろまで迫っていた。
焦る私の目の先で、塔の入り口がギギィとひらく。
——やった! 誰か出てくる!
セオドア様も他人の前で無茶はしないだろう。
浮かびかけた笑顔は、扉の隙間から見えた鮮やかなマリンブルーの色彩に強ばった。
ききっ、と急ブレーキをかけ——「クラリッサ!」がしりと腕をつかまれて。
「——頼む! 私を捨てないでくれ!」
なんだか聞きおぼえのある台詞が響きわたった。
「……あらあら、お熱いこと」
ひらいた扉の向こうから聞こえた愛らしい声に、ピシリとセオドア様は固まって——即座に表情を引きしめた。
そうして立ちすくむ私の腕を引き、しゃなりと扉から現れた豪奢なドレスの姫君に道をゆずると、セオドア様は優雅に腰を折った。それに倣い、私も慌てて腰を落として目を伏せる。
「……ごきげんよう、ランパート卿。今日は、ずいぶんと暑いわねぇ。あなたの顔も赤く見えるわ。純白の鳩とのコントラストが見事な限りよ。ああ、暑い暑い。冷やさないとねぇ」
パタパタと絹の扇で風を送るエブリン様に、セオドア様の横顔が引きつるのが見えた。
「……お気遣いいただき、ありがとうございます」
「ふふ、どういたしまして。健康は大切だもの。……先日は私の愚かで無鉄砲な婚約者が、お世話になったそうね。どうもありがとう」
「いえ、職務を果たしたまでです」
セオドア様が厳かに答える。事情はわからないが、きっとまた手柄を立てたのだろう。気まずい現場を見られた衝撃から、もう立ち直っているのはさすがだ。
「そう。……ところで、クラリッサ」
エブリン様から声をかけられ、私は、ピッと背すじを伸ばした。
「っ、はい、殿下」
「こちらへ」
私は「はい」と答えて、すす、と殿下の前に進みでる。
「顔を上げなさい」
そろりと顔を上げ、サファイアの瞳にきらめく——いや、ぎらつく好奇の色にヒッと息を呑む。
「……何があったのかは知らないけれど、我が国が誇る騎士団の長に、あのような情けない台詞を言わせたのだから、話くらい聞いておあげなさいな」
くすりと笑われ、その「情けない台詞」を口にした張本人であるセオドア様をチラリと見るが、動揺した様子もなく——いや、耳たぶが赤い。
言われただけの私がこれほど気まずく、恥ずかしいのだ。セオドア様は尚さらだろう。
私は、おずおずとエブリン様に視線を戻した。
「……え、ええと、で、ですが殿下」
「クラリッサ、何を恐れるの? あなたは我が国が誇る魔術師団の団長補佐でしょう? か弱い令嬢でもあるまいし、自分の身くらい自分で守れるわよね?」
無理です怖いです。そう言いたかったが、私は「はい」と答えるほかなかった。
「そうねぇ、どこかで落ちついて……ああ、そうだわ。ここの地下に貴賓室があったわね!」
エブリン様の言葉に「えっ」と私が声を上げると同時に、セオドア様がぴくりと身じろぐ。
「密談用の部屋で、防音魔術もかけてあるのでしょう? ならば、秘密の話にはぴったりじゃない」
そっとセオドア様と視線を交わし、互いに首を横に振る。「何も話していない」と言うように。
エズラ団長とて、いくらエブリン様を可愛がっているとはいえ、ペラペラ私たちの事情を漏らすようなことはしないはずだ。
貴賓室の存在は王宮の皆が知っている。たまたま思いついて口にしたとしてもおかしくはない。
——おかしくはないけれど! 偶然にもほどがあるわ!
心の中で叫ぶ私に構わず、エブリン様は命をくだした。
「そこで、お茶でも飲みながら話すといいわ! 鳩は私が預かってあげる!」
「……はい。殿下の仰せのままに」
またあの部屋でセオドア様とふたりきりになるのかと思うと、気まずさで胃のあたりが重くなるが、しがない宮廷魔術師の身分で、王女の提案——というよりも命令に逆らう度胸はなかった。
うなだれた私の答えにエブリン様は満足そうに頷くと、スッと身を寄せ、私の耳元で囁いた。
「……こういう堅物は、本気になったら絶対に獲物を逃がさないわよ。ふふ、覚悟なさい」
鈴を振るような愛らしい声でくだされた宣告に、私は天を仰いだのだった。
かたり、と目の前にティーカップが置かれた。
「……ありがとうございます」
鮮やかな琥珀の水色。ふわり、と立ちのぼる芳香に緊張がゆるむ。
手を伸ばし、カップを持ちあげ、こくり、と一口。
「……相変わらず、とても美味しいです」
「……そうか、それはよかった」
向かいに腰を下ろしたセオドア様が、ぎこちなく微笑む。
そして、すとんと広がる沈黙。
——ううう、気まずい。
エブリン様に鳩を託し、地下に下りてきたもののなんとも落ちつかない。
こうしてテーブルで向かいあって紅茶を飲むのは、あの十日間で馴染んだ光景のはずなのに。
——でも仕方ないわよね……セオドア様とは初めてだもの。
ちらり、と上げた視線が、かちり、とぶつかった。
「セオドア様」
「クラリッサ」
見事に同時に呼びあう。
「……どうぞ、セオドア様」
「……いや、まずは君の話を聞こう」
話。話か。何を話せばいいのだろう。
「……話といいますか……その後、体調はいかがですか。頭痛などはございませんか?」
「いや。良好だ」
さらりと答えられ、「それは、何よりです」と微笑む。
他に伝えるべきことは何かと考え、ああ、あれは言っておかないと、と思いつく。
「……あのですね、セオドア様。私の記憶ですが、まだ消してもらっていないんです」
消すと宣言しておいて申しわけないという気持ちで口にしたのだが、セオドア様は「知っている」と真剣な面持ちで頷いた。
「消さないでほしい。エズラ殿に聞いたが、記憶を消すのは身体に負担がかかるのだろう?」
う、と私は返事に詰まる。デメリットを知った以上、生真面目な彼の性格からして「それくらい平気です」と言ったところで「そうか。ならば消してくれ」とはならないだろう。
「……ですが、その、私自身、忘れたいかなぁ、って思っているので……消したいんですが……」
「なぜだ」
「なぜって……」
セオドア様だって、私が覚えていては恥ずかしいでしょう——とは言えない。本人が消さなくていいと言っているのだから。
「それは……それはっ、私が恥ずかしいからです!」
ええい、と本音を口にすると、セオドア様は、そっと目を伏せた。
「……そうか。私もそうだ。術が解けた後、のたうちまわりたくなるほど恥ずかしかった」
そっと呟かれ、私はホッと?をゆるめる。
「そ、そうですか! では、忘れましょう! ね? 私も記憶を消します。ですから、一緒に——」
「嫌だ。絶対に忘れない」
地を這うような声に、ひっ、と息を呑む。
「……あ、あの、セオドア様?」
かたり、とセオドア様が立ちあがり、私も釣られて席を立った。
そろそろと横にずれ、一歩後退れば、一歩距離を詰められる。
ジッと見つめあいながら、一歩、また一歩と繰りかえして。
やがて、ドンッと壁に背がぶつかり、トンッと突かれたセオドア様の両手の間に閉じこめられる。
屈強な檻に囚われ、仰ぎみれば、怖いほど真剣な瞳が私を見つめていた。
——ひぃぃ、誰か、助けて……!
恋するまなざしと呼べるような甘くて可愛らしいものではない。狙いをさだめた獲物を見つめるかのごとき視線に、私は心の中で悲鳴を上げる。
エブリン様は「自分の身くらい自分で守れるわよね?」と微笑んでらしたが、本気のセオドア騎士団長に襲われて身を守れる女性が、この国にいると思っているのだろうか。
狼に睨まれた羊のような心地で見あげていると彼は悩ましげに眉を寄せ、ぽつりと呟いた。
「……あの十日間、私は本当に幸福だった」
「……そう、なのですか」
そう思ってくれるのは嬉しい。嬉しいが、口調が重すぎる。
「あの幸福な記憶を奪われるくらいならば、いっそ死んだ方がましだ。君にも忘れてほしくない。私との思い出を捨てたいなどと言わないでくれ……!」
怨念すら感じさせる声音に背すじが冷える。
死んだ方がましだなんて誇張表現だ。そうであってほしい。でも、それでも万が一、私が記憶を消したせいで彼がそのようなことになってしまったら……。
ううぅ、と呻いて、私はセオドア様の望む答えを返した。
「……わかりました。覚えていますから。あなたも覚えていてくださって結構ですから……!」
「……ありがとう、クラリッサ。結婚してくれ」
「え?」
なぜ、そこに話が飛ぶのか。プロポーズするような流れではなかっただろうに。
「……ダメです」
「私が嫌いか?」
思いつめたようなまなざしで問われては、?でも「嫌い」とは言えなかった。
「……好き嫌いの問題ではなく、結婚は無理なんです! 私には侯爵夫人は務まりませんから! だって、ほら……ご存じの通り、貧乏貴族の娘ですし、食い意地が張っていますし、昔っから魔術魔術で、ろくな淑女教育も受けておりません。こんなの、まともな令嬢とはいえませんから!」
どうにかこうにか口にした断り文句に、セオドア様は眉をひそめた。
「クラリッサ。君がまともでないのなら、まともな令嬢などひとりもいない」
「そんなこと——」
ありませんよ——と笑いとばそうとして、ふと口をつぐむ。彼の目を見れば、本気で言っているのだとわかったから。
「……クラリッサ。実は、先日、君のご家族に会った」
「え? ええ、存じてます」
せっかく娘を奪いに来た馬の骨を牽制する、威厳ある母親として振るまっていたのにバカ息子のせいで台無しになったわ——と怒れる母がマクスウェルの?をつねりたおしていた。
「そうか。……君の弟も母君も、それから言葉は交わせなかったが君の父君も、素晴らしい方だと思った」
しみじみとした言葉に、え、と耳を疑う。両親はともかく、マクスウェルもなのかと。
「このような素晴らしい人々に囲まれて愛され育った君が、私のような欠損だらけの人間に嫁いで、はたして幸せになれるのだろうかと……正直、不安になった」
罪を告白する咎人めいた悲痛な面持ちで打ちあけられ、胸が締めつけられる。
「……欠損だなんて……そんなこと……」
テディと過ごした十日間で、彼の事情はなんとなくだがわかっているつもりだ。
きっと幸せとはいえない子供時代を過ごしたのだろう。虐待者である母親もそうだが、父親の影も薄すぎる。きっと何ひとつ助けになってはくれない人だったのではないかと思う。
まともな愛情を注いでもらえなかったセオドア様は、きっと温かな家庭像というものが、上手に想像できないのだろう。そして、それを引け目に感じてしまっている。
——そんなの、あなたのせいじゃないのに……。
気づけば、テディにしていたように、うつむくセオドア様の頭に右手を伸ばしかけていた。
ハッとして下ろそうとしたところで、はっしとその手をつかまれる。
「あっ、あのっ」
「……だが、クラリッサ。それでも、私は君が欲しい。君でなければダメなのだ」
「セオドア様……」
「だから、クラリッサ、私と結婚してほしい」
「でも、私は……」
「君が仕事に誇りを持っていることは知っている。どうか、結婚後も続けてくれ。子供を授かれた暁には信頼のできる乳母を雇おう。社交の場にも無理に出なくて構わない。君がしたいことだけをして、したくないことは私がすべて補おう。どうか今のまま、ありのままの君で嫁いできてほしい。……君が、私を……嫌いでなければ……」
そう告白を締めくくってセオドア様は目を伏せた。私は唇を?む。
——どうしよう! 断る理由が見当たらない!
元から彼の外見は好みだ。性格も、あの十日間で知った分、テディのそれは好きになった。
仕事を辞めさせられるかもしれないという懸念も消された。
不安だった社交界でのつきあいも、できる範囲でいいという。
けれど、それでも——どうしてだか自分でもよくわからないが、私は頷けなかった。
彼から私に向けられる好意を素直に受けとれない。微妙な違和感を拭えないのだ。
「——きっとっ、セオドア様はきっと、退行時の意識に引きずられているだけです!」
苦しまぎれに口にした言葉に、傷ついたようにセオドア様が眉をひそめる。
「……違う」
切なげな視線に、うっ、と言葉に詰まりそうになるが、ここで頷くわけにはいかない。
「確かに、あの十日間で私はテディを愛しました。テディも愛してくれました。けれどっ、それは今のあなたではありません! だから、そのうち余韻も冷めて、きっと心も変わったり、したり、するかもしれませんし……! そ、その……その恋心はっ、本当に今のあなたのものなのですか!?」
話せば話すほど、藍の瞳に灯る熱量が増していく。怒りとは違う。悲しみでもない。彼の瞳の奥、燃えあがる激情に頭のどこかで「ダメ! 黙って!」と叫ぶ声がするが、私は言いきった。
「いっときの勘違いで結婚だなんて、絶対後悔しますから!」と。
しん、と沈黙が落ちる。セオドア様が私の腕をつかむ左の手はそのままに、右手を壁から離して、そっと私の?にふれた。ざらりとした硬い手のひらの感触に、じわりと?が熱くなる。
「……クラリッサ」
奇妙なほど穏やかな声音に「はい」と返す声が震える。
「口づけていいか」
いいわけがない。今、プロポーズを拒んだばかりだというのに。
私は合わせた視線をそらせないまま、「……ダメです」と呻くように答えた。
「テディには許して、私ではダメなのか」
「っ、そうです。ダメですっ!」
意地悪な問いに、ギュッと目をつむると、腕をつかむ力が消え、両の?を大きな手で包まれる。
「なぜだ? 同じ身体だろう?」
「そうですが、中身は違います……!」
正確には違うわけではないのだろうが、私の心情的に違うのだ。
今、注がれている、肌を焦がすような熱いまなざしは、セオドア様であってテディではない。
「クラリッサ、頼む。今の心で確かめさせてくれ」
「確かめるって、何を——」
問いながら、ひらいた目に飛びこんできたのは、目前に迫るセオドア様の顔で。
ああ、やっぱり睫毛が長いな——なんて思った瞬間、唇を奪われていた。
こつん、と後ろ頭が壁にぶつかり、ん、と彼の胸を押しかえそうとした右手を、またつかまれる。
声を上げようとひらいた隙間に押し入ってきた舌の熱さに、ぞくりと肌が粟立った。
——なんで? どうして、こうなっているの!?
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