書籍詳細
偽聖女の取り巻きでしたが不本意にも聖女代理やらされています
ISBNコード | 978-4-86669-493-1 |
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定価 | 1,320円(税込) |
発売日 | 2022/05/27 |
ジャンル | フェアリーキスピュア |
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電子配信書店
内容紹介
立ち読み
修道女の一日の大半は、〝祈り〟に捧げられる。生活区が分けられた男性修道士と共に大聖堂に集まって、朝と晩の礼拝を執り行うのだ。
今日は新しい枢機卿が祭壇に立つらしい。前枢機卿の失脚及び国外追放から半年経っていたが、やっと新任者を迎えるようだ。聖教会の最高顧問という立場の枢機卿は、慣例で六十歳以上の司教の中から選別される。決定まで長引いたのは偽聖女事件の後始末を担う形となるので、誰もしたくなかったからだろう。いったい誰が就くのか、修道女の間でも話題になっていた。
聖歌を歌い始めると、大聖堂の扉が開かれる。歌声の中に動揺が走った。それでも歌を止めるわけにはいかないので、動揺が混ざった聞くに耐えない聖歌が響き渡る。
いったい誰が枢機卿に任命されたのか。イルゼは通り過ぎる枢機卿を横目で見た。
深紅の生地に金の刺繡を施した式典聖装を纏うのは、金髪に明るい緑の瞳を持つ、白皙の美少年であった。年の頃は十代半ばくらいか。酷いとしか言いようがない聖歌に微塵の動揺も見せず、淡々と進んでいく。
十代の枢機卿など前代未聞だろう。社交界で有力貴族の顔を覚えさせられたイルゼであったが、少年枢機卿の美貌に見覚えはなかった。はて、と首を傾げる。もしかしたら、イルゼと同じくどこぞの愛人の子に責任を押しつけたのか。だとしたら大変気の毒である。
まさかの登場に驚いたのは、彼に対してだけではなかった。ザワザワ、と先ほどよりも大きなどよめきがあがる。聖教会に似合わない、漆黒の鎧を纏った騎士があとに続いたのだ。
頭のてっぺんから足先までを覆う板金鎧を装着しており、その姿はどこか邪竜を連想させる。
あまりの禍々しい雰囲気に、失神する者さえいた。
イルゼもまた視界が真っ白になり、目眩を覚える。それだけではなく、脳内に人の姿が流れ込んできた。
菫色の髪をかきあげ、愛おしそうにはにかむ美貌の青年。
彼は今にも蕩けそうな表情で、見つめてくる。それは恋人に向けるような特別なもので――。
記憶にない人物で気味が悪い。そう思い、イルゼはぶんぶんと首を横に振る。
司祭が祭壇に立つ若き枢機卿を紹介する声で、ハッと我に返った。
「こちらにおわすのは、新たな指導者たる枢機卿、フィン・ツー・アインホルン猊下である」
フィン・ツー・アインホルン――イルゼの中に叩き込まれた貴族名鑑に、その名は存在しない。
アインホルンという家名にも、覚えがなかった。いったいどこから連れてきたのか。ただ、その辺で拾ってきた美少年ではないのだろう。修道士や修道女を見下ろす目は、人の頂点に立つ者のそれである。二十歳にも満たないであろう少年は、年齢にそぐわない威厳を漂わせていた。
一方で、傍に立つ黒騎士は白を基調とした礼拝堂で浮いていた。微動だにせず、まるで置物のようである。イルゼの隣に座る修道女は騎士に怯えているのだろう。ガタガタと震えていた。
あの黒騎士は何者なのか。そんじょそこらの騎士ではないはずだ。思わず、イルゼはしげしげと見つめてしまう。すると、兜の隙間から覗く赤い瞳と視線が交わる。
血で染まったような見事な赤だった。微かに、発光していたようにも見える。
彼は、人間ではない?
ドクンと胸が大きく跳ね、イルゼは慌てて目を逸らした。胸を押さえ、ドクドクと脈打つ心臓が鎮まるのを待つ。黒騎士との距離はかなりあったが、まさか目が合うとは思っていなかったのだ。
改めてこっそり見ても、やはり黒騎士の姿は禍々しく、そして怪しさしか感じなかった。
その後、朝の祈りは滞りなく進んでいった。美少年枢機卿の、中性的な声で祈りが唱えられる。
修道女の中には、美しい枢機卿を前に熱いため息を零す者もいた。
一方で、イルゼの脳内は別のことで占められていた。先ほど見かけた黒騎士のことである。なぜか彼がずっと、イルゼのほうを見ているように思えてならない。視線が、これでもかとばかりに突き刺さっていたのだ。こちらが不躾な視線を送ったので怒っているのだろうか。わからない。また目が合ったら困るので、イルゼはひたすら壁のほうを見ながら、どこかにシミでもないかと探すよう努めていた。
朝の祈りのあとは、奉仕の時間である。今日、イルゼに振り分けられていたのは、大聖堂のパイプオルガンの裏にある部屋の掃除だった。早く掃除を済ませて、ほどよくサボりたい。なんて考えているうちに、朝の礼拝は終了する。黒騎士の姿はすでになかった。もう、出会うこともないだろう。そう決めつけ、記憶の隅へと追いやった。
イルゼは大聖堂に残り、振り分けられた部屋の掃除を開始した。窓を開いて空気を入れ換え、口には布を当てて縛ってから箒を握る。数日前に掃除をしたようだが、それでも埃が積もっていた。
手早く箒で掃いて水拭きする。ワックスで艶を出したら掃除は完了である。長年下働きを勤めていたイルゼの手にかかったら、これくらいお手の物であった。
聖教会では朝の奉仕時間をたっぷり取っている。あと一時間ほど続くので、掃除が終わったイルゼはそれまで自由に過ごせるというわけだ。
手を洗い、部屋の隅に置かれた木箱の上に腰を下ろした。懐に忍ばせていたパンを取り出す。
イルゼの体温で温められていたからか、朝食で食べたときよりしっとりしているような気がした。それでも、口の中の水分はこれでもかとばかりに奪われる。
あと何日、パンを口にできるのか。食事は日に日に貧しくなっていく一方であった。この硬いパンですら、支給されなくなる可能性が高い。イルゼは大事に大事に、ありがたいパンを口にする。
感謝の気持ちを込めつつ食べていたものの、口の中の水分が吸収されてしまったので何か飲みたくなった。当然、奉仕中の飲食は禁止である。ふらりと厨房に立ち寄って茶を一杯、なんてできるわけがない。そもそも茶の産地は降り止まない雨の打撃を受け、収穫できる状態ではないという。聖女の祈りがなくなった影響か、大雨や川の氾濫、嵐などの天変地異にも襲われていた。
王都も一週間雨が止まないという困った状況である。このままだと、確実に国は滅びるだろう。
真なる聖女がいなくなったのは、イルゼの父親であるエルメルライヒ伯爵のせいである。けれども、聖教会にはイルゼを責める者はいない。多くが関係者だからというのもあるが、聖教会は諍いを禁じていた。一度騒ぎを起こした者は、三日の断食と一年の謹慎が言い渡される。そんなわけで、怒りのはけ口としてイルゼに憎しみを向ける者はいなかったのだ。
だが、国の存亡よりも、イルゼは今現在、口の中の水分がなくなりつつある現状にうんざりしていた。ため息をひとつ零していたら、パタパタと鳥が羽ばたく音が聞こえた。窓枠に、白い鳥がちょこんと留まる。
あれは、元王太子ハインリヒと、偽聖女ユーリアの結婚式の際に空に放つ予定だった鳥だろう。平和の象徴として、結婚式の日に白い鳥を放つのがこの国の慣習なのだ。不要となったので、外に放たれたと思われる。
鳥は自由でいいなと思っていたらその鳥はイルゼのほうへと飛んできて、あろうことか頭上に着地した。
「え!?」
『ポウ!!』
おかしな鳴き声に、イルゼはぷっと噴き出す。頭の上からどかそうと手を伸ばしたら、ちょこんと手の甲に飛び乗った。
「な、なんなの?」
妙に懐っこい鳥であった。イルゼの目の前に持ってきても、飛び立とうとしない。そんな鳥の視線は、イルゼが持つ硬いパンにあった。
「これ、食べたい?」
『ポーウッ!』
まるでイルゼの言葉を理解しているかのように、高々と鳴いた。
「いいよ、あげる」
パンをちぎって床に投げると、白い鳥は『ポウ!』と鳴きつつ嬉しそうにパンを突いていた。それを見つめていると、どことなく心が癒される。これまで、誰かに何かを与えるという行為をしていなかったのだとイルゼは気づいた。
「そんなにパンが好きなら、また持ってこようか?」
そう言うと、白い鳥は顔を上げて嬉しそうに『ポウ!』と鳴いた。
「国内の天変地異が収まれば、もっといいパンが食べられるんだけれど」
『ポーウ……』
イルゼの独り言にも、白い鳥は反応を示す。だんだん面白くなってきた。
「愉快な鳥だから、名前でも付けてあげようかな」
ポツリと呟くと、白い鳥はハッとなる。期待の眼差しを、イルゼに向けているように見えた。
「名前、付けていいの?」
『ポウ!』
「だったら、命名――ハト・ポウ」
『ポ――ウ!』
白い鳥改めハト・ポウが鳴いた瞬間、眩い光を放つ。目を閉じたのに、左の瞼の裏に魔法陣が浮かんだ。瞼がカッと熱くなり、酷い片頭痛に襲われる。痛む箇所はいつもと同じ。左の目の周辺である。不可解な魔法陣が浮かんだのも左の瞼。
いったいどうして? そう思ったのと同時に、痛みはスッと消えた。
「え、なんで?」
光が収まって呆然としていると扉が勢いよく開けられ、朝の礼拝で見かけた黒騎士が飛び込んできた。突然の邂逅に、イルゼと黒騎士の時が止まったように思えた。
「あなたは……」
「――っ!」
◇◇◇◇◇
『そこで頼みがある。ふたりで、セレディンティア大国へ行って交渉してきてくれないか?』
「セレディンティア大国に行くのは、リアンの竜車を使ったらすぐだろうけれど……」
『残念ながら竜車は使えない。双方の国と繫がる魔装線路はないし、空からの侵入を防ぐ結界が張られている』
そのため、リアンは徒歩でセレディンティア大国からシルヴィーラ国へやってきたらしい。もちろん国境は閉ざされているので、ジルコニア公国を経路してやってきたようだ。今回も、同様のルートを辿ることになるという。
「でも、シルヴィーラ国籍の私が、セレディンティア大国に入国するのは難しいと思う」
『それは心配ない。何、簡単な手続きをするだけでいい』
フィンは薄く微笑みながら言う。セレディンティア大国の者の身内になればいいのだと。
「へえ、それだけで……身内?」
『ああ。リアンの妻として、セレディンティア大国へ行けばいい』
「は!?」
思いがけない対処方法に、イルゼは言葉を失った。なんて提案をするのだ。ありえないだろう。
そう言い返そうとしたものの、思いがけない方向から信じがたい声があがる。
「イルゼと結婚し、セレディンティア大国へ潜入する。その作戦、いいと思います!」
リアンが拳を握り、フィンの着想に同意を示していた。
「いや、いいわけないでしょう。そもそもセレディンティア大国の人と結婚なんて、できない――」
『いいや、できる』
フィンは一枚の書類を水晶越しに見せた。
『これは、亡命してきたセレディンティア大国の者との結婚を認める書類だ。亡命者が増えたのをきっかけに、聖教会が作った。旅券も書き換えが可能だ』
旅券はシルヴィーラ国とジルコニア公国の間で有効となる。セレディンティア大国への旅券は、ジルコニア公国で作ることが可能らしい。
『もちろん、本当に結婚するわけではない。セレディンティア大国の者との結婚は、枢機卿である僕の許可のもと国王に申請書を提出して、初めて受理される。婚姻許可証と旅券の発行は、聖教会で行われる。つまりは、婚姻届や旅券の申請書を提出せずに僕のところで止めておけば、いつでも婚姻関係は破棄できるし、その間に婚姻許可証と旅券を発行することも可能だ。もしも和平交渉が成功したら書類は処分しよう』
フィンが提案したナンセンスな作戦はひとまず頭の隅に除けておく。
セレディンティア大国へ潜入できたとしても、最大の難関があった。それは、国王との謁見である。自称聖女風情が、大国の王に会えるわけがない。
『それも心配しなくていい。リアンの実家は王家の親戚筋だ』
今になってイルゼは思い出す。アイスコレッタ家がセレディンティア大国の五指に入るほどの名家だったことに。
どこぞの貴族の息子であることはそれとなく察していたのに、家名について意識していなかった。リアン自身、見た目の情報量がかなり多かったので、細部にまで意識が回らなかったのだ。
聖女として国王に謁見できないのならば、権力者と繫がりがあるリアンと結婚し、妻として紹介してもらうしかないということだろう。
「だったらなおさら、偽装でも結婚すべきではないかと」
「イルゼ、それに関しては何も心配ありません。私はアイスコレッタ家の継承者ではなく、予備ですので」
実家の爵位は兄が継ぐらしい。庶子であり、長男でもないリアンには、財産も爵位もない。結婚に関しては、誰も気にしないだろうと言う。
「誰も気にしなくても、私は気にするから」
「イルゼは、ご結婚の予定があるのですか?」
「ないけれど」
「だったら、お、想い人が、いるのですか?」
問いかけた瞬間、リアンの全身がガタガタと震え始める。壊れた自動人形のようで恐ろしかった。
「想い人も、いない」
子爵令嬢、メイド、ユーリアの取り巻き、修道女と、イルゼはさまざまな立場にいた。男はいつだってイルゼを見下していたのだ。そんな中で、他人に好意を寄せる心持ちにはならない。聖女という立場になっても、それはあまり変わらなかった。
イルゼの奇跡が遅れたせいで、亡くなった人が大勢いると怒る者もいた。ユーリアの捕縛後に聖女になったくせに真面目に仕事をせず手を抜いていたのではないかと、責める言葉をぶつけてきたのだ。
どのような立場に立たされても、男は弱みにつけこんで見下してくる。自分よりも弱い者に対して強く出ることによって、自尊心を保っているのだろう。
ただ、リアンはこれまで出会った人達とは違うと思っている。彼はイルゼが聖女代理だとわかっていても、丁寧に優しく接してくれた。変な人だという印象は変わらないが、リアンが支えてくれたことに関しては深く感謝している。
リアンはセレディンティア大国の中でも名だたる大貴族のひとりだ。そんな彼が、妻を伴って戻ってきたとなれば周囲は驚くかもしれない。また、本人が知らないうちに持ちこまれた結婚話が破談となってしまう可能性もある。
「もっと、別の方法で行けないの?」
『もうひとつの案がないこともない』
リアンは腕組みし、眉間に皺を寄せながら口にする。
『聖教会の枢機卿たる僕が親善大使となり、イルゼ・フォン・エルメルライヒを妻として同行させるというもので――』
「フィン、それは断固として反対します! あなたが聖教会を離れると、困る者達が大勢いるでしょう。それに、セレディンティア大国側に拒絶されたら、元も子もありません。もっともスムーズに事を進めるには、イルゼが私の妻として同行し、国王に謁見を申し込むことかと。そもそも、枢機卿の結婚は、議会の承認が得られない限り、難しいのではないでしょうか? 先ほどの作戦にあった〝破棄〟が、できないというわけです。つまり、イルゼはフィンの正式な妻となってしまいます。イルゼ、フィンの妻になるのは、絶対に嫌ですよね? フィンは自分に厳しく、他人にはもっと厳しい男なんです。そんなフィンの妻になるのは、茨の道かと。イルゼもそう思いますよね!?」
リアンは早口で捲し立てる。大変圧のある、「ね!?」であった。
これまでにない口数の多さに、イルゼとフィンは圧倒されていた。
『えー、まあ、なんていうか、僕は意外と身内には優しい男なんだけれどね』
「噓です! 絶対噓! フィンは大噓つきなんです!」
「……」
イルゼはどうしたものかと、他人事のように考えていた。
フィンは「あとは若いふたりで話し合って」と言い、水晶通信を切った。
◇◇◇◇◇
「疲れましたか?」
「少しだけ」
「では、昼食は私が用意しましょう。イルゼは見ていてください」
「料理できるの?」
「ええ。とは言いましても、簡単なものしか作れないのですが」
大勢の前で食事をするのが苦手なようで、普段から市場で食材だけ買って調理していたらしい。
リアンは手首に巻かれた腕輪から、品物を次々と出す。鍋に皿、コップ、カトラリーなどなど。
イルゼはフィンから貰った食材入りのバスケットを取り出す。中にはベーコンにボンレスハム、バゲット、野菜に瓶詰めされた調味料など、豊富な食材が収められていた。
「ベーコンと野菜のスープを作りましょう」
イルゼは手伝いを申し出たが、すぐさま却下された。ハト・ポウが鍋に突っ込まないよう、見張っていてほしいと頼まれる。
『ポウ、ポ――ウ!』
そんなまぬけなことはしないと、ハト・ポウは訴えていた。しかしながら、料理に夢中になったリアンは気づかない。
彼は手際よくナイフで食材をカットし、鍋に放り込んでいく。水は魔法で作っていた。
「わざわざ魔法で水を作らなくても、湖の水があるのに」
「湖には、魔物の糞尿が溶け込んでいる可能性がありますから。きれいに見えても、実際は雑菌だらけなのですよ」
「ああ、なるほど」
浄化魔法できれいにすることも可能らしいが、水を作ったほうが手っ取り早いらしい。こういうとき、イルゼは世間知らずなのだと実感する。もしもひとり旅だったら、まっさきに湖の水を飲んでいただろう。
リアンは魔法で火を熾し、スープを煮込んでいく。続いてもうひとつ、平たい鍋を取り出した。それで薄く切ったボンレスハムを焼いていく。両面に焼き色が付いたら皿に載せ、続けて卵を割る。目玉焼きを作るようだ。
スープの材料に火が通ったら、塩、胡椒を振って味を調える。バケットを切り分けたら、昼食の完成だ。
「イルゼ、ハムは大丈夫そうですか?」
「ええ。これくらいの薄さだったら平気。おいしそう」
「よかった」
リアンの分のハムも薄い。分厚く切ればいいのにと思ったものの、彼は半分精霊である。たくさん食べる必要はないと言っていた気がする。神々に感謝の祈りを捧げ、いただく。
スープの具は火を通しやすくするためか、どれも細かくカットされていた。
「もしかしてこのスープ、聖教会のを再現しているの?」
「バレましたか?」
イルゼが食べやすいよう、胃に優しいスープを作ってくれたようだ。ベーコンなんかは、かなり細かく切り刻まれている。一口飲むと、ほっこりした。優しい味わいのスープである。
「イルゼ、いかがですか?」
「とってもおいしい」
「よかった」
以前から料理を振る舞いたかったようだが、機会がなかなかなかったという。
「あまり、料理の腕も自信がなくって。でも、おいしいって言ってもらえて、ホッとしました」
ハト・ポウはリアンがちぎったパンを、高速で突いていた。お腹が空いていたのだろう。
湖の畔で食事を堪能する。穏やかな午後であった。
風が吹き、落ち葉が舞う。ひらひらと踊るように漂う葉は、湖の水面に落ちた。小さな波紋が、湖に模様を作る。そんな自然の営みを、イルゼはぼんやり眺めていた。
なんてことのない光景なのに、どうしてか心癒やされる。
これまで、忙しない人生を送っていたからだろうか。ゆっくりと意味もなく進む時間が、この上なく心地いい。膝の上ではハト・ポウが微睡み、隣にはリアンがいる。これまでにない安心感をイルゼは覚えていた。
ふいに、ぽつりとリアンが呟く。
「この時間が、永遠に続けばいいのに」
それは独り言だった。けれども、イルゼはしみじみと言葉を返す。
「ええ、本当に。許されるならば、ずっとあなたの隣にいたい」
口にしてからイルゼはハッとなる。思わず唇を手で覆ってしまった。
無意識のうちに、思っていたことを口から発したようだ。いったいどうしてしまったのか。首を傾げていると、突然、リアンではない誰かの声が聞こえた。
――私も、あなたとずっと共に生きたい。
記憶にない誰かの発言である。イルゼはまたかと、頭を抱えてしまった。
「イルゼ、どうかしましたか? 頭が痛むのですか?」
「いいえ、平気。ただ、あなたについて考えると、不思議な声や見ず知らずの誰かの姿が浮かんできて……」
リアンはそういう経験はないという。やはり、おかしなことなのだろうか? まあ、いいと記憶の隅に追いやる。
頭が痛むのではないかとか、具合が悪いのではないかとか、リアンは過剰に心配する。本当に大丈夫だと、重ねて伝えた。
「ごめんなさい、話を逸らして。何を話していたんだっけ?」
「イルゼは、その、先ほど、ずっと私の隣にいたいとおっしゃっておりました」
改めて言われると、照れてしまう。
リアンは穴が空きそうなくらいイルゼを見つめていた。頰が熱くなっていくのを感じている。しっかり聞いていたようで、なかったことにはできないようだ。
「あの、イルゼ、それって――」
「ちょっと待って。今の発言は聞かなかったことにして」
「難しいです」
顔が熱い。胸もどくどくと早鐘を打っていた。どうしてだろうか。どこからどう見ても不可解な生き物としか言いようがないリアンと、共にありたいと思ってしまったのは。
ひと息つくような状況だったので、気が緩んでいたのかもしれない。
リアンはイルゼの手を握り、必死な様子で訴えてくる。
「イルゼ、やっぱり私達、正式に結婚すべきかと。かなり、相性がいいと思うのです。絶対に、幸せにします。苦労はさせません。どうしても無理と言うのならば、金銭面のお世話だけでもさせてください。あくせく働いて、給料のすべてを捧げます。むしろ、私がイルゼの夫を名乗るなんておこがましい。夫という名の下僕でも構いません。誠心誠意、お仕えします。だからどうか!!」
「いや、どうかじゃなくて」
ふいに、強い風が吹いた。これまで感じていた心地よいものではない。強く、乱暴な風である。
「え?」
誰かに腕を摑まれ、ぐいっと引かれる。
悲鳴をあげる暇もなく、助けを求める間もなく、体がふわりと宙に浮かぶ。リアンが腕を伸ばしたが、イルゼを捕まえることはなかった。
リアンと目が合った瞬間、目の前の景色がくるりと回転する。
「なっ――!?」
これまで湖の畔にいたのに、たった一度瞬いただけで見える光景が変わった。
いったいどういう状況なのだろうか? わからない。
景色が入れ替わろうとする刹那に見た、リアンの怒りが滲んでいた瞳が酷く印象的だった。
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