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悪魔な兄が過保護で困ってます3

香月 航 / 著
RAHWIA / イラスト
ISBNコード 978-4-86669-501-3
定価 1,320円(税込)
発売日 2022/06/27
ジャンル フェアリーキスピュア

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内容紹介

新しい悪魔の登場で、ユフィも作戦に協力することに!? 過保護な元・兄(婚約者)が黙っていない!
一難去ってまた一難、二人の愛を見せつけるファンタジック★ラブコメディ第3弾!!
「きれいなおにいちゃん」ではなく、生涯の伴侶となることをネイトにお願いしたユフィ。「ユフィが真面目で一生懸命で可愛いことは、俺が世界で一番よく知っている」ますますパワーアップするネイトの溺愛っぷりに照れつつも結婚の準備を進めていたが——隣国の王女が突然やってくることになり、なぜかユフィは王太子から王城の侍女に指名されてしまう。そして現れた御一行の中には、褐色の美男子が! しかもネイトの兄を自称していて!?
「ただの契約相手じゃない。俺の婚約者だ。俺の伴侶として、永遠に手放す気はない」

立ち読み

「ユーフェミアさん、こっちよ」
 指定された集合場所は、前庭をぐるりと取り囲む回廊だ。
 どうやら出迎えの場所は城壁の格子門ではなく、そこを抜けた先、正門として扱われる豪奢な鋳造扉の前らしい。
 石畳の馬車通路は両側に整えた芝生が植えられており、中央には花壇と小さめの噴水もある。ユフィが向かったのは、その周囲に歩道として設置された屋根つきの通路だ。
 そこにはすでに、ジュディスと侯爵家から連れてきた数名の侍女たちが待っていた。
「すみません、遅れてしまったでしょうか」
「いいえ、大丈夫。まだ余裕があるわ」
 慌てて駆け寄ると、美しい顔にふわりと微笑が浮かぶ。懸念していた目の下の隈は、化粧で隠すことに成功したようだ。
 白と薄緑でまとめたドレスも品がよく、ジュディス本人の柔らかな印象とも相まって、春の女神のような華やかさだ。
 今はサミュエルもいないので、口調もやや砕けたものになっている。
「本当にごめんなさいね。まさか王城がこんなに人手不足だとは、わたくしも思わなくて。皆を手伝ってくれて、ありがとう」
「そんな、ジュディス様のせいではありませんし、気にしないでください! いい経験ができたと思っておりますから」
 心底申し訳なさそうな女神に、両手を小さく横にふって返す。
 それに、根本的な人手不足というよりは、急な準備の皺寄せで大変だっただけだろう。今日王女を迎えてしまえば、いくらか余裕を持てるはずだ。
(逆に考えると、何をされるかわからないから構えておけって意味のようにも思えるけど)
 ウィレミナは十五歳だと聞いている。ユフィよりも一つ年下で、この国では成人もしていない『子ども』扱いだ。いくら王女といえど、少女一人でできることなど知れている。
「でもまあ、今日からも何事もないことを祈ります」
「……ええ、そうね」
 ジュディスを元気づけようと口にした言葉だったが、受け取った彼女は神妙な面持ちで頷くと、静かに胸の前で手を組んだ。
 五日の間に痩せてしまったのか、折れそうに細い指先が痛々しい。
「ユフィ、こっちだ」
「ジュディス。遅くなった」
 そうこう考えていると、別の棟のほうから男性たちがぞろぞろと歩み寄ってくる。
 先頭を歩くのは濃紺のマントをなびかせるサミュエルで、その一歩後ろには全く遠慮していない様子のネイトが随行していた。
(……うわ、格好いい)
 暖かな日差しに照らされた美貌の男性たちの登場に、思わず息を呑む。
 たった四日会っていなかっただけだというのに、ネイトの姿はびっくりするほど格好よく見えて、目が離せない。
 すらりとした長身、異国風の艶やかな容姿に純白の軍装がまあ似合うこと。
 この絵画から抜け出たような素晴らしい男性がユフィの婚約者だなんて、夢のようだ。
(……って、王太子殿下より先にネイトが声をかけちゃ駄目でしょう!)
 見惚れていたのも束の間、早速ネイトの無礼に気づいてしまったユフィは、大慌てで頭を下げる。
 ネイトがこの国で最強の騎士であることも、王太子が重用していることも周知ではあるが、頼むからもう少し、立場を弁えたり身分を考えたりして動いて欲しいものだ。
「よかった。昨夜よりはいくらか顔色がよくなったな」
「ご迷惑をおかけして、申し訳ございません殿下」
「何を言う。お前に無理をさせてしまった私の落ち度だ。本当にすまない」
 サミュエルはユフィを含めた他の侍女たちなど見向きもせず、真っ先にジュディスに近づくと白い頰にそっと手を伸ばした。
 婚約者の段階から公務にかかわらせるのはどうかと思っていたが、どうやらサミュエルとしても不本意な決定だったようだ。
 それだけ逼迫した状況なのか、あるいは〝ジュディスがすでに公務に参加している〟という事実が必要なのか。いずれにしても、ジュディスとの婚約が解消されることはありえないという証左にはなりそうだ。
「ユフィ」
 ぼんやりと未来の王太子夫婦を眺めていると、今度はユフィの未来の夫が近づいてくる。近くで見ても輝くような美男ぶりだが、彼の表情は何故か怒っている。
「ちょっとだけ久しぶりね、ネイト。王太子殿下に失礼なことはしてない?」
「知るかそんなもの。失礼なことをしてきたのは、王家のほうだろう」
「え」
 固まるユフィをよそに、ネイトはがしっと両手でユフィの顔を包み込む。続けて、口づけでもするような近さまで顔を近づけてきた。……怒りの表情のままで。
「な、なになに!? どうしたの兄さん!? こ、こんなところで」
 何がなんだかわからないユフィの心臓は大暴れだ。鼓動は跳ね上がり、今にも口から飛び出しそうなほど激しく脈打っている。
「だから兄さんじゃない。それは後で話すことにして、やっぱりユフィのもちもち肌が荒れているじゃないか! お前の侍女が着替えを届けに来たと聞いたが、化粧水とかその類のものは持ってこさせなかったのか? ……まさか、個人的な持ち物は認められないなんてことを言われたのか? だったら俺が、今すぐ抗議してきてやる!」
「え? は、え?」
 よくわからないまま、ネイトの大きな手のひらがユフィの頰をむにむにと撫でまわす。
 決して手つきが荒いわけではないが、イチャイチャしようとしているのではなく、何かを調べているような触り方だ。
「肌に水分が足りていないな、可哀想に。それから、髪も少しパサついているじゃないか。浴場の備わった階に部屋を用意したと聞いたが、王城の備品が質をケチっているなら笑い話だぞ。俺のユフィの髪は繊細なんだ。それともまさか、伯爵家で使っている洗髪剤よりも質の低いものしかないのか? 嘆かわしいな、王太子殿下」
「待って待って、さっきからなんの話をしてるの!?」
 ネイトのねちっこい指摘は今度は髪にも及ぶ。確かに、ユフィが客間を用意してもらった階には浴場が備わっており、洗髪剤なども備品を使っている。彼の言うような質の悪いものでもない。
「とりあえず、髪が傷んでいるとしたら、手伝ってくれるモリーたちがいないからよ?」
 ちょっと恥ずかしいと思いつつ抗議すると、ネイトはますます眉間に皺を寄せてから、首を横にふる。……これ以上、一体何だというのか。
「お前が一人での身支度に慣れていないのは当然のことだ。伯爵令嬢だからな。だが、この事態を招いたのは誰だ? 可愛いユフィに侍女もいない過酷な生活を課し、健康を損なわせた責任を負うべきは、この仕事をほぼ強制的に受けさせた王太子殿下だろう」
「ちょっとネイト、いい加減にしなさいってば!」
 ユフィの頰から手を離し、代わりに両手で守るように抱き着いてきたネイトは、ギロッと視線だけでサミュエルを睨みつける。
 過保護筆頭が四日会えなかったらどうなるか心配ではあったが、案の定ネイトは怒りを蓄積し、それをサミュエルへ向けることにしたようだ。
 これでは、抱き締められている恥ずかしさなど考えている場合ではない。
「あのね、ネイト。誰に向かってものを言っているのか、頼むから考えて言葉を口にして」
「無論、考えた上で言っている。貴族の娘でも、自ら行儀見習いなどに望んで勤めているのならいい。だが、ユフィは今回巻き込まれただけだ。しかも『王太子妃の話し相手になって欲しい』と聞いていたのに、城に残されてこんな生活を送ることになるのなら話が違いすぎる。詐欺だ。契約違反だ」
(いやまあ、だいたいはそのとおりなんだけど……)
 ネイトの言っていることは、一応正当な怒りだ。
 ただし、今回ユフィがくたくたになっているのは〝自主的に手伝いを申し出た〟という自業自得の結果が大きい。たとえ伯爵令嬢であってもこき使われそうだと、事態をちゃんとわかった上で行動したのだ。サミュエルを責めるのは間違っている。
 王城側は、ユフィをお客様扱いしようとしてくれていたのだから。
 そもそもの話、臣下であるユフィたちが、困っている主君たちを手伝うのは務めでもある。
「これは私のせいでもあるし、こんなところで言わなくても……」
 周囲には呆気に取られる王太子夫妻の他、ジュディス付きの侍女たちとネイトと一緒にやってきた護衛と思しき男たちがいる。
 しっかり視認はできないが、たぶん遠巻きに見ている者もいくらかいるだろう。
 ネイトの不敬ぶりをここまで多くの人に目撃されてしまっては、どうかばったらよいものか想像もつかない。
「人がいるところで口にしたのはわざとだぞ。証人が欲しかったからな」
「あなたの不敬の証人になってるのよ、このお馬鹿!!」
 ユフィが抱き締められたまま額に手刀を入れると「いてっ」と大して痛くもなさそうな呻きが落ちる。ちょっと嬉しそうに聞こえたのは気のせいだ。
「いいんだよ。今この場で、王女を迎える前に必要な話だったんだ」
 ネイトは少しだけユフィの頭頂に頰をすり寄せた後、再びサミュエルに視線を向けた。
 今度は睨みつけるのではなく、どちらかと言えば無表情に近かった。
「――そういうわけで、王太子殿下。取引といたしましょう」
「お前……ずいぶん素直に護衛に従事してくれると思ったら、機を見計らっていたのか」
 冷めたネイトの声に、他の護衛たちが腰の剣へと手を伸ばす。
 ふざけていた雰囲気は一瞬で霧散し、張りつめた空気にユフィの喉から嫌な音がした。
「いい、抜くな。これはわかっていた取引だ」
 サミュエルはやんわりと護衛たちを制すると、整った顔に苦笑を浮かべる。
「私は最初から、ユーフェミア嬢をはじめ、今回の急な件で迷惑をかけた者全員に礼をするつもりだったよ。内容は各々話をしよう。それで構わないか?」
「俺の分はいらないので、その分ユフィに色をつけてください」
「了解だ」
(ええ? いいの、これ)
 ネイトの失礼な態度を咎められるとばかり思っていれば、まさかのサミュエルが折れる形で解決してしまい、周囲がシンと静まり返る。
 ユフィ同様に、他の者たちも『ありえないことだ』と戸惑っているようだ。
「よろしいのですか、殿下」
「ああ、いいんだよ」
 たまらず声をかけてきた別の護衛にも、サミュエルは当然のように答えている。
 ネイトは得難い戦力とはいえ、さすがに甘いと誰もが思ったはずだ。
「こういう言い方をするとまた不敬でしょうが、殿下が賢明な方でよかったです。応じてくれないなら、見捨てようかと思っていました」
 さらにネイトは、サミュエルたちを煽るように続ける。周囲からすれば、雇われ側であるネイトが『見捨てる』なんて、ずいぶん厚かましいもの言いに聞こえただろう。
「ネイト、不敬だとわかってるなら、ちゃんとした態度取ってよ。お願いだから」
「愛する婚約者をこき使われて、黙ってられるほど俺は寛容じゃない」
「別に私は、無理強いされていたわけじゃ……」
「いいよ、ユーフェミア嬢。おそらくだけど、これは私から頼んでいた仕事なんだ」
 なんとか咎めようとするユフィを、あろうことかサミュエルが宥めてくる。
 さすがに反論しようかと思ったが……サミュエルのまとう空気が重くなったのを感じて、ユフィはとっさに口を閉ざした。
「ネイト、そういうことなんだろう?」
「……ええ。残念ながら、あなたの懸念は正しかった。〝アレ〟は俺でないと止められません」
 ネイトの口から出たひどく低い声に、サミュエルの顔からも表情が消える。
「ということは、お前と同郷の者なのか?」
「認めたくありませんけどね」
 サミュエルの手が、ネイトに倣うようにジュディスの肩を抱き寄せる。まるで、何か恐ろしいものから彼女を守るように。
「もしもの時は、止められるか?」
「尽力します」
 じりじりと張りつめていく空気に、先ほどとはまた違う緊張感が高まっていく。
(何? 一体なんの話?)
 二人が話しているのは、報酬のやりとりとはたぶん別のことだ。
 だが、最強たるネイトが、わざわざ尽力すると答えた。……普通の事態ではない。
(なんだろう。……ちょっと怖い)
 王城にはとても似つかわしくない空気になりかけたところで……それを壊したのは、正門から走ってきた伝達役の使用人の声だった。
「もう間もなく、ウィレミナ王女の馬車が到着いたします!」
「ああ。では、少し急ごうか」
 サミュエルはジュディスの肩をしっかりと抱いたままで、またマントを翻して歩き出す。
 随行するネイトもまた、ユフィの肩から手を離そうとはしない。
「ネイト、手」
「着いたら離す。それまでは、絶対に俺から離れるな」
 命令に近い口調は、やはり重々しい。過保護な抗議をしていた時とは、もはや別人のようだ。
(まるで、戦場にいるみたいな雰囲気ね……)
 客人を迎える場がそんなはずはないのに。他の護衛や侍女たちも困惑した表情のままでサミュエルに続いていく。
 といっても、集合場所と出迎えの正門は目と鼻の先だ。挨拶が終わった後は、彼らは広い前庭を馬車で移動するだろうし、ユフィたちの仕事は本当にただの挨拶への付き添いでしかない。
「リスゴー王国第四王女ウィレミナ様のご到着です」
 ほどなくして、先ほどとは別の門番が声を張り上げる。すでに開かれていた門はそのままに、出迎えに集まった人々や警備員たちが、ザッと音を立てて道の両側に整列した。
 サミュエルとジュディスは向かいの最前に、それ以外の者たちは一歩後ろに並ぶ。臨時侍女であるユフィは、ネイトからも離れて列の一番後ろだ。
(さて、我が儘お姫様は一体どんな顔をしてるのかしら)
 誰もが期待よりは好奇心で見守る中、二頭立ての大きく立派な馬車が正門の前に停まる。貴族の馬車と比べても豪奢な造りだが、リスゴー王家の紋章は見受けられなかった。
 やや疲労が窺える御者が席を降り、客車の扉へ手をかけた――直後、

「お会いしとうございました、サミュエル様!!」

 大きな音を立てて、馬車の扉が内側から強引に開かれた。
 「は?」と声も出せずに固まる皆を横目に、軽い靴音を立てて降り立つのは、明らかに気合いの入ったドレスを着込んだ少女だった。それはもう、あまりにもフリルとレースが多すぎて、一瞬布の塊が降りてきたのかと錯覚したほどである。
 このドレスをいつから着ていたのかは知らないが、狭くて揺れる馬車の中でこのまま来たのは大した精神力だ。
(この人が、お姫様?)
 動きに合わせて揺れる長い髪は橙色の混じった金色で、前髪を作っていない髪型のせいか表情がしっかりと見える。
 ツリ目がちのぱっちりとした緑眼に、喜色を浮かべてにんまりと口角の上がった唇。全体的に猫のような印象を受ける美少女ではあるものの、十五歳と言われると少々幼く感じられた。
 実際、身長も低めのようだ。集まった男性陣はもちろん、ジュディスやユフィよりもだいぶ小柄である。
「…………むむ?」
 勢いよく飛び出した王女――ウィレミナだったが、その直後には薔薇色の頰からさっと血の気が引いた。
 視線をわざわざ辿るまでもなく、彼女が見つめているのはサミュエルとくっついているジュディスだ。登場の仕方に驚いたのか、先ほどよりも一層サミュエルに密着している。
「無礼者! そなた、サミュエル様に何をしておる!!」
(いや、どうして今そんなこと言えるのっ!?)
 あまりの失礼さに眩暈すらしてくる。誰が見ても、今無礼と罵られるべきはウィレミナだ。
 まず、エスコートを待たずに馬車から飛び降り、名乗りもなく大きな声を張り上げるなんて、貴族の子どもでもしない。リスゴーの王家は、一体この少女にどんな教育を受けさせてきたのか。
「えっと……」
 言われたことを理解できていないのか、困惑するジュディスに対して、サミュエルは完全に目が据わっている。
 声を荒らげる怒り方よりも、静かに怒りをたたえているほうが恐ろしい。整った容姿の彼にされると、なおさらだ。
「ウィレミナ様! 申し訳ございません、サミュエル殿下!!」
 出迎えの空気が驚きから呆れに変わりつつある中、同じ馬車から転がるように女性が二人降りてきて、そのまま地面に額をこすりつけた。
 ユフィの装いによく似ているので、おそらくウィレミナについてきた侍女だろう。ガタガタと震えながら額づく様は、処刑を待つ罪人にすら見える。
 ……だというのに、真に叱られるべき元凶の少女は「何してるの」と言わんばかりの不機嫌顔なのだから、なんとも憐れな話である。
「……もういい」
「ありがとうございます!!」
 やがてサミュエルが吐き捨てるように告げると、彼女たちはバッと身を起こしてウィレミナを馬車へと二人がかりで引きずった。
「こら、やめよ! なんのつもりじゃ!」
 当然ウィレミナは不服そうだが、有無を言わせぬ身のこなしが、彼女たちの腕のよさを物語っている。
「侍女さんたちはまともそうなのに、主人がアレじゃ気の毒ね」
「違いない」
 ユフィがぽつりと呟くと、いつの間にか隣に来ていたネイトが頷きながら答える。
 サミュエルに対してすら不敬なネイトなので、もしもウィレミナが主人なら、秒で胴体と首をお別れさせていそうだ。
「離せ! 妾はまだサミュエル様に挨拶をしておる最中じゃ!」
「無礼者はこちらです! 一度お下がりください!」
 なおも喚くウィレミナを、侍女たちは無理やりにでも座席へ引きずりこもうとする。
「――なあに? 挨拶をするんじゃなかったの?」
 すると、座席の中からまた別の者の声が聞こえてきた。
(ん? 今の声、低かったわよね?)
 口調だけは女性のように聞こえたが、声質は明らかに男性の……それも、大人の色香が滲むような低いものだった。
 そう、声もいいと社交界で人気だったネイトのような。
「…………ッ」
「みっ!?」
 次の瞬間、ネイトが息を呑むのと同時に、ユフィのポケットの中もぶるりと震えた。
「な、何、どうしたの?」
 小声で確認してみるも、ネイトは黙ったまま馬車を睨みつけ、ポケットの中身はブルブルと震え続けている。どれだけ慌ただしく走り回っても、一日中爆睡していたディーがだ。
「よいしょっと」
 こちらの反応などお構いなしに、リスゴーの馬車はガタガタ揺れながらウィレミナを中へと押し込み、入れ替わるように長身の男が一人、ゆっくりと降りてきた。
 そよ風に吹かれて、薄青の上着の裾が躍るように揺れる。しっかりと金糸で刻まれた薔薇刺繡の生地の下では、中のシャツからフリルが覗いている。
 首元を飾るのは青いリボンとカメオブローチだ。シルエットだけは執事の燕尾服に似ているが、ところどころに遊び心があり、貴族令息や楽師のようにも見える。
 だが、その場の全員が目を惹かれたのは、彼の洒落た衣装のほうではない。
(褐色の肌と黒い髪……!)
 声を出しそうになったユフィは、とっさに右手で口を押さえる。彼の肌と髪はネイト同様の、艶のある異国めいたそれだったのだ。
 これが初めてならば、ユフィだって偶然だと思えた。しかし、同じ特徴の来訪者は三人目だ。ネイト、ディエゴに続いて、この男もまた美しい顔立ちをしている。
(待って待って。ディーも反応してるってことは、この人も悪魔なの!?)
 ユフィの体温が一気に下がり、背中を嫌な汗が流れていく。
 ディエゴが起こした悪魔崇拝者の事件は一応解決したが、王都は今もなお各地に爪痕が残っている。こんな状態でまた新しい悪魔に暴れられたら、今度こそ国の一大事だ。
(何より、隣国のお姫様が悪魔を連れてるなんてことが……?)
 スカートが揺れるほどの震えになってきたポケットを、静かに押さえる。
 長いまつ毛に縁取られた鮮血のような赤い瞳が、もったいぶるようにぱちりと瞬いた。

「あらやだ! ほんとにネイトちゃんじゃない! 久しぶりね」

 次の瞬間、三人目の美しい男は、ぱんっと顎の前で手を合わせると嬉しそうに笑った。
 一緒に動いた腰や脚は『くねっ』と効果音がつきそうな科を作る動きをしている。
 いわゆる、オネエさんの仕草だ。
「……あの、ネイト。お知り合い?」
「人違いだ」
 恐る恐る隣の婚約者に訊ねれば、間髪容れずに否定が返る。視線はサッと遠くに逸らされ、目の前のものを直視したくない様が伝わってくる。
「ちょっと、ひどいじゃないネイトちゃん! お兄ちゃんの顔を忘れちゃったの?」
『お兄ちゃん!?』
 予想外の言葉に、ユフィを含むほぼ全員の声が重なる。
 言われてみれば、彼の容姿は目の色以外ネイトによく似ている。ディエゴは気持ち優しげな顔立ちだったが、彼とネイトは少しキツめの美形だ。
「誰が兄だ、ふざけるな!! なんでしばらく見ないうちに、科を作って喋るような性格に変わってるんだ!?」
(え!? これは本物っぽい反応!?)


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