書籍詳細
気がついたら婚約者が妹とできていて悪女のそしりを受けています
ISBNコード | 978-4-86669-544-0 |
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定価 | 1,430円(税込) |
発売日 | 2023/02/27 |
ジャンル | フェアリーキスピュア |
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電子配信書店
内容紹介
立ち読み
継母に似て美しく成長しつつある妹に目を細め、エリーゼは庭園の二人に声をかけようとした。だが口を開く寸前、ぎくりと足をとめた。
エリーゼに背を向けて座っていたヨハンが手を伸ばし、アンネの?を指の背で撫でたのだ。
その仕草を、エリーゼは頻繁に見ていた。一緒に過ごしている最中にエリーゼが気を抜くと、彼は必ずああして?を撫でる。そして人差し指で顎先を捕え、エリーゼを振り仰がせた。
エリーゼはいつも、その至極自然な仕草に反応が遅れ、きょとんと彼を見返した。そうしてヨハンの顔が間近に迫ってやっと目的を悟り、両手で彼の口を押さえてキスを拒む。
だけど今日、彼がその仕草を見せた相手はエリーゼではなかった。彼の目の前にいるのは、社交界にも出ておらず、恋愛経験も皆無のアンネだ。
エリーゼは焦燥感と共に妹に視線を向け、ざわっと悪寒を覚える。
アンネは、今まで姉には一度も見せたことのない、潤んだ瞳でヨハンを見つめていた。?は紅潮し、魅入られたように彼しか瞳に映していない。
ヨハンは指先をアンネの顎先にかけ、そして躊躇いもなく顔を寄せた。アンネはうっとりと目を閉じ、二人の唇はすぐに重なった。
「——」
エリーゼは立ち尽くす。頭の中は真っ白で、唇を重ね合う二人を数秒、呆然と見つめた。
ヨハンはちゅっと音を立てて妹の唇を吸い、熟れた様子で顔を離す。微かに緊張感を漂わせる妹を見下ろし、くすっと笑う彼の声を聞いた瞬間、エリーゼの頭の中で何かの糸がバチリと弾けた。
エリーゼは猛然と二人に近づき、足音に気づいたアンネがこちらを見て、ひゅっと息を呑んだ。
「お、お姉様……っ」
ヨハンもさっと振り返り、エリーゼを認めるや?を強張らせる。
アンネは見る間に青ざめるも、エリーゼが見ているのは妹ではなかった。海を彷彿とさせるエリーゼの青い瞳が見据えるのは、不実な真似をした婚約者——ヨハンただ一人だ。
継母に虐げられ続けたエリーゼは、他人との諍いを厭い、微笑み以外の表情を滅多に見せない。しかしこの瞬間だけは、エリーゼの顔は怒りに染まっていた。青い瞳は憤りを露わにし、灼熱の炎で真っ赤に染まったかのように熱く燃え滾っていた。
ヨハンが立ち上がり、何か言おうと口を開きかけるも、エリーゼは彼の言葉を待たなかった。彼の目の前に立つや、エリーゼは大きく手を振り上げ、怒鳴った。
「——私の妹に、何をなさるの!!」
バチンといかにも痛そうな音が庭園に響き渡り、アンネが身を竦める。ヨハンは打たれた方向に顔を背け、そのまま動かなくなった。
エリーゼは怒りにまかせ、声を荒らげる。
「どういうおつもりですか……!! アンネは社交界デビューも済ませていない子ですよ……っ。何も知らないこの子を誑かすなんて、よくもそんな非道な真似ができますね……っ。この子はこれから多くの人と出会い、素敵な恋をするはずなのに……!」
——アンネは、人目を忍んで姉の婚約者とキスをするような、不道徳な真似をする子ではないのに……!!
思うように外を遊び回れなかった妹は、幼馴染みや姉の土産話を楽しむ一方で、物語の中の恋に強い憧れを抱いていた。
それがようやく叶う目処が立ち、エリーゼも自らのことのように喜びを感じていたのだ。あと少し体力をつければ、外を歩き回ることができる。社交の場に出て、素敵な出会いにも恵まれる——。
妹の幸福な未来を願っていたエリーゼの目には、うっすらと涙が滲んだ。愛情いっぱいに慈しみ、もうすぐ咲こうとしていた美しい花を、無残にも蕾の状態で自らの婚約者に手折られた心地だった。
——美しくなってきた途端、アンネに手を出されるなんて。社交界で十分に多くの花を楽しんでいらっしゃるくせに……っ。
エリーゼは言葉にはせず、心の中でヨハンを詰る。
ずっと気づかぬふりをしてきたが、彼はエリーゼと婚約して以降も、社交界で浮名を流していた。エリーゼが社交の場に出ないのをいいことに、あちこちで遊び呆けている。どこからともなく、そんな噂が聞こえてくるのだ。
エリーゼはそれを、あえて深く探ろうとはしなかった。彼には、生家の借金を肩代わりしてもらった恩義がある。それに結婚を先延ばしにしているという引け目もあった。
だけどその遊びの相手が妹ならば、話は別だ。
——アンネは浮気相手として遊ばれていい子じゃない。将来結婚を前提とした真面目な方と、清らかで素敵な恋をするべきなのよ……!
怒り心頭で睨みつけると、ヨハンは赤く染まった?を押さえ、ゆっくりとこちらを見返した。榛色の瞳を細め、苦笑いを浮かべる。
「キスの一つもさせてくれなかった、君が悪いんじゃないかな」
「……な……」
謝罪の一つもあると考えていたエリーゼは、自らが責められ、驚きに目を瞠った。
一瞬、自分が悪かったのだろうかと思ってしまい、戸惑い交じりに聞き返す。
「……何を、おっしゃっているのです……。私にできなかったから、アンネにしたとでも言うのですか?」
その確認の言葉を吐く毎に、気勢を削がれかけたエリーゼの心は再び怒りに燃え、まなじりを吊り上げる。
婚約者にキスさせてもらえなかったから、その妹に手を出していいなどという道理はない。
「私と触れ合えないから妹にだなんて、そんな不誠実極まりない振る舞い……っ」
——やはり貴方は妹に相応しくない!
ヨハンを責めようとしたその時、両手で口を押さえ硬直していた妹が叫んだ。
「違うの……っ。ヨハン様は悪くないの、お姉様……! 私が……私が、お願いしたの……!」
エリーゼは、全身からすうっと血の気が引いていくのを感じた。
——“私が、お願いしたの”——?
たった今耳が拾った妹のセリフは、にわかには信じ難かった。エリーゼは愕然とアンネを見返し、首を傾げる。
「……アンネ……。貴女、自分が何を言ったかわかってる……?」
女性には貞節が求められているこの世界で、自ら男性にキスをねだる淑女など有り得なかった。それも相手は姉の婚約者。
天使のように愛らしい妹からは想像もできないふしだらな願いを持ったと聞かされ、エリーゼは現実を受け入れ切れなかった。ヨハンに確認の視線を向けると、彼は眉尻を下げ、視線を逸らす。
否定の言葉が返ってこず、エリーゼは凍りついた。
その場はしんと静まり返り、次にどんな行動を取るべきか、エリーゼは迷う。その時、アンネが薄青色の瞳からぽろりと涙を零し、揺れる声で訴えた。
「私、ずっとお姉様が羨ましかった……っ。私がお部屋で寝ている間、お姉様は自由に外で遊べて、春から秋には一人でテュルキス王国にお出かけもできる。私にはない魔力だって持っていて、素敵な婚約者までいるのよ……っ。お姉様は、私がしたくてもできないことを全部なさっている。私が欲しいものを、いっぱいお持ちなのよ……!」
エリーゼは、言葉に詰まる。ミュラー侯爵家での生活は、妹が思うほどエリーゼにとっては幸福ではなかった。
テュルキス王国に出かけていたのは、偏にエリーゼを家から追いやりたいバルバラの望みだ。いつだったか忘れたが、常のように父と妹のいない場所でエリーゼを罵っている最中、彼女が言った。
『本当はテュルキス王国から戻らなくてもいいのよ。私はお前のような他人のいない家で過ごしたいのだから。せっかく魔法の勉強を理由にお前を追い出せるかと思ったのに、お前のお父様は必ず戻せとおっしゃるの。だから仕方なく社交シーズンが終わったら呼び戻してあげているだけよ』
そのテュルキス王国行きも、十五歳の時に祖父が亡くなって以来、途絶えてしまっている。
いつまでもエリーゼを快く思わず、隙を見つけては詰ってくる継母は散財をやめず、エリーゼは領地運用と資金繰りに苦しめられ続けてもいる。
だけど生家の借金のことも、継母の裏の顔も知らぬアンネからすれば、姉の人生は順風満帆に見えるのだろう。
精神的負担をかけたくなくて、エリーゼはこの家の実情を妹に話していなかった。健康体になり、夫となる人を見つけたあとで知っても遅くないと考えていたからだ。
それにバルバラの一面については、一生知らなくていいと思っている。
自身の母が姉をいじめていたなどと知れば、きっとアンネは傷つく。
妹の幸福だけを願うエリーゼは、生涯を通して彼女の心を守るつもりだった。そしてその妹に自由に動き回れる健康な体を持っている幸運を詰られると、言い返す気になれず、弱り切る。
いつものように黙り込んでしまった姉の反応を見て、アンネは続ける。
「お姉様は恵まれているのだから、一つくらい、私にくださってもいいじゃない……! 私、ヨハン様が好きなの……っ。お願い。私にヨハン様を譲って、お姉様……!」
ほろほろと涙を流して発せられた言葉に、エリーゼは微かに眉を顰めた。
——私にヨハン様を譲って。
それはまるで、姉の気に入りのおもちゃを欲しがる幼子のような言い方だった。
心からヨハンに恋をし、彼と結ばれたいと願っているにしては、論旨も随分と子供じみている。
彼女は“お姉様はたくさん素敵な物を持っている。だからその中の一つくらいちょうだい”と言っているのだ。
「……アンネ」
——貴女本当に、ヨハン様に恋をしているのよね?
エリーゼがはっきりと尋ねようとした時、ヨハンが胸元からハンカチを取り出し、アンネの涙をそっと拭いた。
「僕のせいで君に涙を零させてしまってごめんよ……アンネ嬢」
「ありがとう……ヨハン様」
妹は彼のそつのない仕草にぽっと?を染め、涙を拭ったハンカチを受け取る。ヨハンは甘い笑顔で首を振ると、エリーゼに向き直った。
「……そういうわけだから、僕はアンネ嬢と結婚するべきかと思うのだけど、どうかな?」
僅かばかり申し訳なさそうな顔をしつつも、あっさり姉から妹に乗り換えると言い出され、エリーゼは眉を上げた。
そういうわけとは、どういうわけだ。妹がヨハンに恋をしたから、婚約者を替えるべきだと言いたいのか。
これまで婚約していたエリーゼへの気遣いなど欠片もない態度に、呆気に取られた。
「まあ……今日まで私にご興味を持っていらっしゃるようだったのに、こんなにも簡単に妹に乗り換えるとおっしゃるのですか?」
エリーゼは虚を衝かれながらも、わざと悲しげな表情を作って聞き返す。
アンネとエリーゼ。比べるまでもなく、多くの異性が美しいと感じるのは妹の方だった。エリーゼの白い髪はマルモア王国ではあまりにも異質であり、老婆のように感じる者もいる。
ヨハンとしても明確に美しい娘の方がいいと考えるのは当然だ。
けれどエリーゼは彼に妹を譲る気にはなれなかった。妹と結婚すると言った彼の表情の中に、計算高い下心を垣間見た気がしたのである。
アンネがヨハンと結婚するとなれば、十中八九、バルバラの方針は変わる。
マルモア王国では、爵位は男性しか継げないため、アンネにもエリーゼにも継承権はない。だが、その夫が入り婿となれば、お家は存続できる。
バルバラは元よりエリーゼを他家に嫁がせて追い出し、残したアンネに婿を取らせてミュラー家を継がせるつもりだったのだ。もしもヨハンがアンネの夫になるなら、当然入り婿として迎えるだろう。
エックハルト男爵家には長男のヨハンの他にあと二人男児がいるので、先方の後継者問題も浮上しない。
それどころか、ヨハンがミュラー侯爵家に入れば、いずれ彼が当主となるのである。侯爵家の借金を肩代わりしてその娘を貰うより、格段に良い縁談になった。
——もしかして、ヨハン様はずっとこうなるチャンスを狙っていたの……?
エリーゼと婚約した当初からアンネとも仲良くしていたのは、入り婿となる機会を探っていたからか。
エリーゼは、ヨハンが心から妹を愛しているのかどうか疑わしくなり、思案する。
客商売という家業のおかげか、彼は話し上手であり、また聞き上手だった。多少時間を費やせば、バルバラがエリーゼを良く思っていないことも、アンネを溺愛していることも容易に悟れただろう。まして、経験豊富な彼にとって無垢な妹を手中に収めるのは、赤子の手を捻るより容易いと思われる。
ヨハンは困った表情で笑い、小首を傾げた。
「あれ、てっきり君には誰か他に好きな人がいて、仕方なく僕と結婚するのかと思ってたけど……もしかして、僕は焦らされてただけなのかな? 挙式時期の話になるといつもはぐらかしてたから、実は破談にしたいのかと意気消沈していたんだけど」
もったいぶっていたつもりはなかったエリーゼは、うっすら?を染めてたじろいだ。
「結婚時期を決められないのは、領地運用をする者が私以外にいないからだと申し上げていたでしょう……っ」
ヨハンは栗色の髪を?き上げ、目を眇める。
「へえ? それじゃあ君は、僕と結婚したいんだ?」
「……っ」
エリーゼはどういう返事をするのが正解か判断をつけかね、言葉に詰まった。そこに、妹がガタンと大きな音を立てて椅子から立ち上がり、悲痛な声を上げた。
「嫌よ……! ヨハン様と結婚するのは私じゃないと嫌……っ。私、お姉様よりずっとヨハン様をお慕いしているわ! お姉様は今だって、エドを忘れられないでいるくせに……! いつも左手につけている指輪は、彼からの贈り物でしょう!?」
◇◇◇◇◇
『ご覧になって、あの白い髪。あれがエリーゼ嬢じゃない……?』
『まあ、あれが……? 病でいつまで生きられるかもわからない妹の恋を邪魔しているなんて、酷い人もあったものよね……』
エリーゼはパチッと目を瞬かせる。
——どういうこと?
決して好意的でない噂話をしていた令嬢たちを振り返ると、彼女らはそそくさと離れていった。
エリーゼの耳は、また別の方向から聞こえた声を拾う。
『なんでもミュラー侯爵家の次女は、いつこの世を去るとも知れぬ命ながら、絶世の美少女なのだそうだ。自分とは似ても似つかぬ妹を妬んで、姉が嫌がらせをしているらしい』
『嫉妬に狂った女ほど、手に負えぬものはない。ヨハン殿も不憫だな』
——なんですって……!?
エリーゼは驚き、周囲を見渡す。あちこちから“儚い命の美しい妹を虐げる悪い姉”と噂する声が聞こえ、愕然とした。
——なんて噂が広まっているの……っ。アンネは余命幾ばくもない子じゃないわ! これから健康になって、社交界デビューを果たす予定なのに……!
妹大事のエリーゼは、自身が悪女として誹られていることよりも、アンネが今にも命を失うかのような言い回しに憤りを覚えていた。
——それにアンネとヨハン様の恋は、身内しか知らないはずよ。誰が広めたの……!
エリーゼは真っ先にバルバラの仕業かと疑った。だが彼女が噂を広めたなら、馬車の中でもっと意地悪そうに笑っていたはずだ。彼女ではない。それならば誰だ——。
考えだしたエリーゼは、すぐに当たりをつけ、目を眇めた。
通常なら噂好きの使用人が犯人候補に挙がるが、少なくともミュラー侯爵家に仕えている者たちは違う。彼らは元気だった頃の父を慕い、善意で薄給の仕事を続けてくれているのだ。ミュラー侯爵家の名を落とすような振る舞いはしない。
ミュラー侯爵家の不祥事を知っており、エリーゼを貶める噂を広めて実利を得る人物は、唯一人。
——ヨハン様ね……。
馬車の中では彼が純粋にアンネに恋をしているかもしれないと思ったが、この事態では怪しく感じた。
婚約破棄を受け入れないとはいえ、愛した女性の姉を悪人だと触れて回り、周囲の圧力を使って結婚までこぎ着けようとは——随分と強引だ。
エリーゼとアンネは、何をしたって一生姉と妹である。姉の方に悪い噂がつけば、結局愛した人にも悪女の妹というレッテルがつく。
本当に愛し幸福にしようと考えているなら、できるだけ事態を穏便に進めようとするはずだ。
この展開では、ヨハンはどんな手を使ってもアンネと結婚し、ミュラー侯爵の地位を得ることを熱望していると受け取れた。
エリーゼは入り口で渡された酒に軽く口をつけ、ため息を吐く。
——もう……嫌になるわ。あの子には今までの病など?のような状態で、晴れやかな社交界デビューを迎えさせてあげたかったのに……。
おかげでアンネには、嫉妬深い性悪な姉がいるという、いらぬ前情報がついてしまった。
エリーゼは好奇心旺盛な人々の視線を避け、テラスへと移動先を変更した。
五
迎賓館の西に位置するテラスには、誰もいなかった。宴は始まったばかりで、これから華やかなダンスの時間が始まるところだ。休憩が必要な頃合いではなく、この時間帯にテラスへ来るのは、エリーゼのように人目を避けたい者くらいだろう。
テラスの端に立ったエリーゼは、沈んだ表情で庭園を見渡した。
王宮の庭園は、ミュラー侯爵家とは雲泥の差で手入れが行き届き、大変美しかった。芝は整然と刈られ、桃色や白の小花があちこちで咲き乱れている。
きっと何の問題もない状態ならば、この庭も楽しめただろう。しかし自分のせいで妹に変な印象がついてしまったことが発覚した今、エリーゼは景色を楽しむ気分ではなかった。
アンネと婚約すると言い出したヨハンは、とてもではないが妹を大切にするとは思えない人物だ。彼女にはお勧めできない。だが当の妹には『お姉様なんて、大っ嫌い』と叫ばれるくらいには迷惑がられており、世間もまた、余計な真似をする姉だと言わんばかりの陰口を叩き始めている。
ならばいっそ、二人の恋を認めるべきかとも思うが——いかんせんエリーゼは、いっかな考えを改められなかった。
——だって浮気性のヨハン様と、一途な恋に憧れているアンネよ……。
到底上手くいくとは思えず、エリーゼは泡が弾ける振る舞い酒を見下ろし、ぼそっと呟いた。
「……噂話って、どうすれば消せるのかしら……」
噂がすぐにも立ち消えてしまえば、アンネが社交界デビューする頃には皆忘れているだろう。
エリーゼは現実逃避気味に、思考を明後日へと向けた。
「私の魔力がもっと強かったら、記憶操作もできそうなのに」
五歳から十五歳までの間、エリーゼは祖父のもとで魔法の勉強をしていた。だが片親が只人であるエリーゼの魔力は、一般的な魔法使いよりも弱く、大した魔法は使えなかった。エリーゼが使える魔法の中で一番役に立つのは、治癒魔法くらいである。それも祖父のように命に関わる刀傷などは癒やせず、咳をとめたり、熱を少し下げたりできる程度だった。
今夜宴に参加できなかったアンネに対しては継母の目を盗んで治癒魔法をかけたが、熱は完全に下げ切れてはいない。酒で身体を壊した父に対しても同様で、日頃から力の及ばぬ自分を歯がゆく感じているエリーゼは、短く諦めのため息を吐いた。
「記憶操作なんて、どうせ私の魔力じゃできないわよね……。あるのかどうかも知らないけれど」
投げやりに呟いた時、突然背後から応答があった。
「あるよ。だけど禁忌魔法だから、使うなら君は遠からずラーヴァの牢獄に収容されるだろうけど」
誰もいないと思って独り言を呟いていたエリーゼは、びくっと肩を揺らし、振り返る。いつの間に近づいていたのか、真後ろに青年が立っていた。
間近に人がいるだけでも驚いたのに、エリーゼはその青年の顔を見て、目を瞠る。
漆黒の髪に、美しい紫の瞳。胸に徽章が輝く、青を差し色にした漆黒の軍服。
間近で見ると、首元には銀の鎖がかけられていて、小洒落た印象だった。鎖の先は衣服の下に隠され、どんなチャームがついているのかはわからない。
それは、会場内をざわつかせていたブロンセ王国王太子の、横に立っていた人物だった。
遠目から見ても整って見えた造作は、間近で見るともはや彫刻じみており、エリーゼはなぜか目のやり場に困る。
眉は凜々しく、面白そうに自分を見下ろす瞳は視線が合えば逸らせそうにもないほどに綺麗な色だった。高い鼻に、薄い唇。顎はシャープで形良く、ヨハンよりも背が高い。そのせいか、向かい合っているだけで圧迫感を覚えた。
——圧迫感……?
普段と異なる自身の感覚に内心首を傾げ、改めて彼を見たエリーゼは、原因は背の高さではないと察した。
——この方、ちょっと距離が近いのだわ……。
青年は、その気になれば軽く腕を伸ばす動作だけでエリーゼを懐に抱き寄せてしまえそうな距離に立っていたのだ。
テラスの端にいたエリーゼはそれ以上後ろに下がれず、そのまま自分の迂闊な発言を訂正する。
「も、申し訳ありません。今のは、本気ではないのです……」
◇◇◇◇◇
「これで、多少は回復されると思うよ。さっきヨハン殿たちと話していた“代理執行権認可手続き”についても、風向きが変わると思う」
アンネとヨハンが婚約するまで、あと二週間程度しか猶予はない。それしか考えていなかったエリーゼは、すぐにはアルフォンスの言っている意味を汲み取れなかった。
彼はきょとんとするエリーゼの表情にふっと笑い、穏やかな足取りで近づいてくる。目の前に立ち、そっとエリーゼの?を大きな手で包み込んだ。
「……エリーゼ嬢。今まで一生懸命頑張ってきた君に、俺ができるだけのギフトを贈ろう。また何か辛くなったら、どうぞ俺に連絡をして。最大限、君を救うよう努力すると約束する。君の幸福を、俺はいつも祈っているから」
彼は聞き取れるかどうかの声量で、呪文を唱える。それは何の呪文かと尋ねたかったけれど、そっと額を重ねられ、エリーゼはそれどころではなくなっていた。恋人でもない男女が、こんなに傍近くにいてはいけない。理性が警鐘を鳴らすも、自身に注がれる温かな眼差しや、甘い声、額から伝わる彼の体温が長く凍りついていた胸の血潮を溶かしていくのを感じ、動けなかった。
自分だけを熱く見つめる紫の瞳に、魂まで吸い取られてしまいそうな心地で、目が逸らせない。
鼓動は乱れ、エリーゼの心は懐かしくもコントロールの利かない感情に満たされていった。
『……エリーゼ。君は幸せにならなくちゃダメだ。俺は君の幸福を、何より祈ってるよ』
出会って間もない頃、自分は穢れていると信じていたエリーゼと額を重ね、エドはお説教するみたいに優しい言葉をくれた。その声が、耳に木霊する。
気弱だったエリーゼの全てを受け入れ、魔法の使い方だけでなく、時に抱き寄せて励まし、恋する気持ちまで教えてくれた大切な友人。
——エド以外、私にこんな祈りを捧げてくれる人はいなかった。
エリーゼは過去が懐かしく、同時にアルフォンスの言葉が嬉しくて、瞳を潤ませる。
「……どうして、そんなに優しくしてくださるのですか……? 私たちはついこの間、会ったばかりなのに」
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