書籍詳細
社畜令嬢は国王陛下のお気に入り
ISBNコード | 978-4-86669-582-2 |
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定価 | 1,430円(税込) |
発売日 | 2023/06/30 |
ジャンル | フェアリーキスピュア |
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電子配信書店
内容紹介
立ち読み
視界がユラユラと揺れる。ツンとした鼻の痛みを無視して、前世のシアリエは弱々しく笑ってみせた。
『私には、仕事しかないもんね』
帰宅しても、温かく出迎えてくれる家族はいない。寄り添ってくれる恋人もいなければ、友人も、誰も自分を待ってはいない。けれど、仕事でなら……仕事でだけ、自分は必要とされるのだ。
だからいつも恐れていた。仕事を断った時、上司や同僚たちはどんな顔をするのだろうと考えると怖くてたまらなかった。
使えないと思われるのが、恐ろしくて仕方ない。唯一の取り柄で、拠り所でもある仕事でまで、上手く立ち回れないと思い知らされるのが。
だから、頑張って、頑張って頑張って——大好きな仕事のしすぎで、ぽっくり逝ってしまった。
「……寝覚めが悪い」
悪いどころか、最悪だ。前世の夢から目を覚ましたシアリエは、暗澹たる気持ちで呟く。
持ち帰った仕事を深夜までしていたので、机にうつ伏せ、椅子に座ったまま寝落ちしてしまったらしい。換気のために開けていた窓から吹きこむ夜風に長時間さらされていたことと、ずっと同じ体勢でいたことにより、すっかり冷えて固まってしまった身体が痛い。
心なしか鼻がグズグズする気がするし、何より全身が怠かった。しかしそれらを無視して、シアリエは支度に勤しむ。
前世の夢を見たからって、感傷に浸っている暇はない。今日から一週間、パージスの視察に行くのだから。
(中略)
シアリエとアレスの乗る広い馬車には、バロッドも同乗した。会議に同席して以来、彼は王宮内ですれ違う度に挨拶してくれるので、シアリエの中でとても好感度が高い。
が、彼が隣に座ろうとすると何故かアレスがいい顔をしなかったので、馬車が動きだす前に席替えを行い、今現在の席割はこうだ。
アレスの隣にシアリエ。そして彼の向かいにバロッドと、シアリエが持ちこんだ書類。
(何故こうなってるの……? 何故お一人で広々とお座りにならないの……?)
そんな疑問がこみ上げるが、シアリエが隣に座るとたちまちアレスが上機嫌になったため、どうやら空気の読めるバロッドも彼女も何も言わないことにした。
馬車が動きだすと、シアリエはできるだけ場所を取らないように書類を広げる。確認しておきたいことや片付けておきたい仕事が山ほどあるからだ。
「パージスまでは二日かかる。今からそんなに根を詰めてると、もたないぞ。お前、顔色も悪いしな。朝食は取ってきたのか?」
「大丈夫です。朝食は、ええと、取りました」
アレスの問いかけに答えながら、シアリエは内心で「リンゴチップスを一枚ね」と付け足した。元々忙しくて朝食を抜くこともままあるが、今日は体調的に胃が受けつけなかった。起きてからの倦怠感はずっと続いているし、頭も鈍く痛む。
けれど、そんなことを口走れば今からでも別の秘書官を宛てがい留守を言い渡されそうなので、シアリエは体調不良を黙っていることにした。
(とはいえ、酔いそうかも)
王の乗る馬車は一般のものより格段に揺れが少ないとはいえ、馬が走るスピードを速めるとやはり身体が上下した。ガタゴトと揺れる度に、ほぼ空っぽの胃がフワフワして吐き気を催してしまう。
そのため、市街地で昼食を取る際に一度降車できたことにホッとしたが、食は進まなかった。
アレスの鋭い目が探るように見てきたので、脂っこい料理は口に合わないと適当に言い訳する。そして彼の追及から逃げるように再び馬車に乗ったのだが、市街地を抜けて森の中に入ると、舗装されていない道のせいでますます揺れが激しくなった。
(う……そろそろ限界かも……)
連日の持ち帰り仕事による過労が、ここに来てピークを迎えているのが分かった。胃液がこみ上げそうになる度に書類から視線を上げ、窓の外を眺める。嫌な脂汗を額に浮かべながらできるだけ遠くの景色を見つめていると、不意にアレスが御者に止まるよう声をかけた。
「ここでティータイムを取る」
(え……予定より一時間早いけど……)
制服の腰に下げた懐中時計を確認し、そう思いつつも止まった馬車から降りる。何故アレスがティーブレイクの時間を早めたのか分からなかったが、今にも吐きそうだったシアリエとしては降車できてありがたかった。
「わ……綺麗……」
豊かな木々の隙間から、鏡面のように澄んだ湖が覗いている。新緑と青空が明度の高い水に映りこんで、得も言われぬほど美しい。それに森の空気は新鮮で、馬車酔いした身体に優しかった。
(この景色を楽しみたくて、陛下は早い時間にティーブレイクを取ろうとなさっているのかしら)
ならば納得だ。シアリエは吐き気がマシになるのを感じながら、胸元を摩った。湖畔では使用人たちが小枝を集めて火を熾したり、簡易のテーブルや椅子を用意している。
シアリエは北欧を彷彿とさせる景色にワクワクしながらも、体調がよければよかったのに、と残念に思った。
「さて、私もお湯を沸かしてお茶の準備をしなくちゃね」
今日のお茶くみ当番はシアリエだ。新鮮な空気のお陰で一旦酔いは治まったものの、熱っぽい身体を引きずりアレスの元へ向かえば、彼はキースリーに話しかけているところだった。
「キースリー、茶を頼む」
(え……?)
「陛下、本日のお茶くみ当番はキースリーさんではなく私です」
シアリエはブーツで地を蹴り、慌ててアレスたちの元に駆け寄る。しかしアレスからの返事は素っ気ないものだった。
「お前はいい。向こうで座ってろ」
「へ……でも……」
「シアリエー? 陛下はアタシをご指名なのよ。引っこんでなさい。後でアンタの分のお茶も持っていくから」
戸惑うシアリエに向かって、キースリーは腰に手を当てて言う。
(え……どうして? 陛下は、私の淹れるお茶を気に入ってくださっていると思っていたのに……。そりゃ、キースリーさんの方が勤めている期間が長い分、陛下の味の好みを熟知しているかもしれないけど……)
ショックだ。仕事を押しつけられることはあっても、取りあげられたことはないから、なおさら。
この状況を手が空いてラッキーと思う人もいるかもしれないが、シアリエは違う。自分には任せられないと判断されたのだろうかと、悶々としてしまった。
「今生でも人と上手く付き合えなかった私にはもう、仕事しかないのに」
することがなくなったので、落ちこむまま湖に沿って歩いていたシアリエの囁きが湖面を滑る。
些細なことで大げさなくらいナーバスになるのは、体調が悪いせいだろうか。それとも、これも嫌な夢を見てしまったせい?
仕事抜きでは両親とも妹とも良好な関係を築けず、婚約者には疎まれていた今生の自分に、職場という居場所を与えてくれたのはアレスだ。その彼に必要ないとか、使えないと思われたら、自分はどうなってしまうのだろうかと不安が過る。
居場所がなければ、アイデンティティが崩壊するのではないか。そう感じた瞬間、シアリエはうすら寒くなった。冷えを誤魔化すように両腕を摩る。
頭が痛い。内側から金槌で叩かれているみたいだ。熱が上がってきている気がする。
「……薬、貰おうかしら」
いよいよ我慢が利かないところまできたシアリエは、ふらつく足取りで馬車へと引き返す。王宮の医師が二名同行しているので、頭痛薬くらい持っているだろう。そう期待し、シアリエは医師を探した。が、首を巡らせた瞬間、ひどい目眩に襲われてしまう。
(あ、ダメかも————)
視界がグルリと回って、それから目の前がテレビの砂嵐のようになる。地面に倒れこむ寸前、遠くなった耳にアレスの焦ったような声が聞こえた気がした。
前世の夢を見るくらいなら、もう眠りにつきたくない。それくらい嫌だと思っているのに、どうしてまた見てしまうのだろう。
連日続く残業の帰り、くたびれた身体を引きずって、実家のインターフォンを鳴らしているのは前世の自分だ。手に持っている封筒には、両親から急遽必要になったと言われ、口座から引き出してきた金が入っている。出迎えた母親は玄関先でお札を数えるなり、落胆したように零した。
『これだけ?』
『これだけって……』
前世のシアリエは、長いこと新調できずに傷んだ仕事カバンを抱えて言った。
『私、ただでさえ家への仕送りで生活カツカツなのよ。これでも支援……』
『支援って何。アンタを生んで育てるのにかかった金を返してもらってるだけだけど?』
『そんな……』
『次はもっと頑張りなさいね。お父さんとお母さんが借金取りに追われても心が痛まない?』
(ろくに子育てもせず、博打に明け暮れて勝手に作った借金じゃない)
そう言えたなら、スッキリしたのに。ヒステリックに叫ぶ母や、手を振りあげる父が想像できてしまい、言いたい言葉はすべて喉の奥に引っこむ。
涙をこらえるために上を向けば、頭上に広がる夜空がとても寒々しくて。星明かりがない都会の空は、自身の真っ暗な心をそのまま映しだしたかのよう。
毎日、息がしづらかった。自分の周りだけきっと空気が薄い。家族から見た自分には、価値を見出せなかった。きっとただの金づる。都合のいい財布。
情けない両親から守ってあげようと可愛がっていた妹も、思春期を迎えると手に負えなくなった。職場まで遠い実家を出た前世のシアリエに対して、置いていかれたと恨んでいたのかもしれないが、本当のところは分からないままだ。
とにかく、こんな自分はきっと誰にも好かれないから、一人で生きている。息が苦しい。
でも、でもそんなシアリエも、仕事でだけは居場所を見出せた。だから————……。
「働かなきゃ」
前世の夢に魘されたまま、シアリエはうわ言を呟く。
できないとか、無理と言った時の、相手が失望する顔を見たくない。仕事だけが自分に価値を与えてくれるのに、たった一回、たった一言断っただけで冷たい態度をとられると、見限られた気持ちになるから。自分が縋れるものはもう仕事しかないのに。これしかないのに!
だから断らず、全部仕事を引き受けた。そしたら役に立てたという充足感が全身を満たして息ができるし……できるけど……。前世では身体がもたなかった。
「でも、今度はしっかりできるから……ちゃんとやるから……」
(今世では大丈夫。今度こそ上手くやれる。だって居場所をくれた! 陛下が!)
「私のこと、見限らないで……」
(じゃないと居場所がない)
「価値がないなんて、言わないで」
でないと私は————…………。
「死んでも言うかよ、そんなこと」
シアリエのより一回り大きな手が、繊手を握りこんで力強く言う。
安心感を誘うような声には聞き覚えがあり、シアリエは固く閉じていた瞼を震わせた。その弾みで、目尻に溜まった涙が耳に向かって流れていく。
その涙を追うようにして、目元に優しい口付けが落ちた気がした。
「ん……」
眠りの海を彷徨っていた意識が緩やかに覚醒していき、シアリエは瞼を押しあげた。
ぼやけた視界が焦点を結ぶのに時間がかかる。ウロウロと目線を彷徨わせると、美しい男の容貌が眼前に広がった。アレスだ。
「目が覚めたか?」
子守歌のように優しく、気遣わしげな声だ。安心感が、とろりとシアリエに流れこんでくる。
「ここは……」
光源が青白い月明かりだけのため分かりづらいが、天蓋付きのベッドに寝かされているらしい。薄暗さに目が慣れてくると、バルコニーに繋がる大きな窓を背に、アレスがベッド脇の椅子に腰かけてこちらを覗きこんでいるのが分かった。月明かりに照らされた彼のピアスが、神秘的に青白く輝く。
格子状の窓から見える満天の星は息を呑むほど美しく、夜空に豊かな運河を描いているのだが、今はアレスを彩るために周りに添えられているように見えた。
(すごく綺麗……)
アレスをモデルとした、幻想的な一枚の絵でも見せられているみたい。シアリエがそう思っていると、彼が口火を切る。
「湖のほとりでティータイムを取ったこと、覚えてるか? お前、そのティーブレイク中に馬車の近くで倒れたんだよ。ここはパージスへの道中にあるブレン領の領主の家だ」
「領主様、の……」
熱によって靄のかかった思考を何とか働かせ、シアリエは頭の中にタイムスケジュールを思い浮かべる。元より今晩はブレンの領主宅に泊まる予定ではあった。確か到着時刻は夜の七時だったはず。では自分は、倒れて秘書業務を放りだしてから、少なくとも五時間以上眠っていたことになる。
しかも、移動中の馬車でもずっと!
(今晩お世話になる領主様へのご挨拶は? 明日の段取りの確認は? ああ、そもそも領主様の館に着くまでの駅で疲れた馬を交代させる予定だったけれど、どうなったの?)
途端に疑問と焦りがごった返し、シアリエは蒼白な顔で起きあがった。いつの間にか解かれていたミルクティー色の髪を振り乱しながら。
「おい、無理に起きるな!」
けれど激しい目眩に襲われ、シアリエは再びベッドに沈む。叫んだアレスが背中に手を添えてくれたことと、フカフカの枕がクッションになってくれたお陰で衝撃は些細なものだったが、いきなり動いたせいで頭痛を抱えているのを思い出した。
「う……っ」
額を押さえて呻くと、水で冷やしたタオルがアレスによって当てられる。ベッド脇の椅子にかけた彼のそばには小机があり、そこに水の入った桶が置かれていた。
(もしかして、陛下がここで私の看病を……? それに、この立派な部屋は……)
王都よりも明るい星明かりが照らしだすのは、粋を集めた調度品の並ぶ客間だ。ここはシアリエが本来世話になる予定の部屋ではない気がした。だって豪華すぎる。
「シアリエ。お前が憂慮していることは全部キースリーとロロがやってくれたし、この部屋は領主が厚意で貸してくれたものだから何も気にするな」
シアリエの考えていることはお見通しなのだろう。アレスは事もなげに言った。
しかし、自分がしなければいけない仕事を同僚の二人が肩代わりしてくれたと知ったシアリエは、鉛を呑んだかのように気が重くなる。
(そんな……お二人もやらなきゃいけない仕事が山ほどあるのに、迷惑をかけてしまったなんて)
謝らなくてはいけない。シアリエは今度こそ慎重に身を起こす。
「陛下、大変ご迷惑をおかけしました。もう大丈夫です」
「無理するな。謝罪もいらねぇ。全然大丈夫じゃないだろ、お前。フラフラじゃねぇか」
「平気です」
「んなわけあるか」
アレスはシアリエの訴えを一刀両断した。
「王宮から連れてきた医師に診察させたが、過労と冷えによる風邪だと。疲れているところに突然王都と寒暖差のある地域に来たからだろうって……。俺がもっとお前を気にかけてればよかった。悪かったな。だから気にせず寝てろ」
「そんな、陛下がお謝りになることなんてありません……!」
シアリエは痛む頭を目いっぱい振って否定した。
「この風邪は、私が昨日窓を開けたまま眠ってしまったからです」
「窓を開けたままうたた寝するくらい疲れてたってことか? お前、頼まれてもいないのに仕事を持ち帰っていたらしいな」
シアリエはベッドの上でギクリと固まる。つい柔らかい掛け布団を握りしめれば、その動きを切れ長の目で追ったアレスが続けた。
「シアリエが倒れてすぐに、ロロから聞いた。仕事を持ち帰るのを止めなかったから、お前が無理をしたんだろうって落ちこんでいたぞ」
「あぁ……陛下、ロロは悪くないんです。私がロロに持ち帰ってもいい書類はあるかって尋ねて、それで……」
彼を都合よく利用したのだ。勝手に過労で倒れたのはシアリエの責任なのだから、彼が思い悩む必要なんて一切ない。
シアリエが慌てふためいていると、アレスが口を開いた。
「元気になったらロロにそう言ってやれ」
「いいえ。ご迷惑をおかけしたことを今すぐ謝罪してきます。それに、もう十分休ませていただきました。仕事に戻ります……っ」
これ以上床に伏せっているわけにはいかない。正直まだ喋ることさえ億劫なくらいしんどかったが、シアリエは切羽詰まった表情で掛け布団を捲った。
絨毯に両足をつけると、視線を走らせてブーツを探す。焦燥感が身を焼いているせいで熱いのか、発熱によって身体が燃えているように感じるのか、シアリエには判断がつかなかった。
(私のせいで、どれだけの予定が狂ったの? どれだけの方が迷惑を被った……!?)
仕事で人に予定を狂わされることはあれど、自分が他人に迷惑をかけたことは今まで一度もなかった。初めての失態に、シアリエは顔色を失くす。目当てのブーツはベッドの足元にあったのですぐに見つかったけれど、動揺から片足を通すのに時間がかかった。
(まずキースリーさんとロロに謝って、それからすぐにでも仕事の遅れを取り戻さないと……!)
ブーツの紐を編みあげる手が震えてもどかしい。
アレスはそんなシアリエの様子を見かねて唸った。
「誰も迷惑なんて思っちゃいねぇよ。……おい! シアリエ、聞け!」
悔悟の念に駆られて周りの声が聞こえなくなっているシアリエの両肩を掴み、アレスは言った。
「それで、ちゃんと息も吸え」
「……っ、は……ふぅ……」
いつの間にか息が浅くなっていたらしい。シアリエの呼吸音が、広い部屋にヒューヒューと響く。アレスの大きな手が背中に回って、何度か労るように摩ってくれる。制服越しに伝わる彼の体温に安心感を誘われ、シアリエはベッドにかけたまま、乱れた息を整えた。
「……落ちついたか?」
「はい……。陛下……申し訳ありません」
アレスからすれば、シアリエがここまで取り乱す理由がまるで分からないのだろう。しかし仕事こそがすべてのシアリエにとって、体調不良で迷惑をかけた失態は、万死に値するほどの重罪に感じられた。
「だから謝るなって。体調なんて誰でも崩す。そうだろ?」
アレスから諭すように言われ、シアリエは口ごもる。下唇を噛んで黙りこむと、彼はため息まじりにアッシュグレーの髪を掻いた。その仕草が自分に対する呆れを露にしているように感じられ、シアリエは華奢な肩を縮こまらせる。
「熱があるんだ。しかもまだ高い。寝てなきゃいけないだろ?」
「……熱があっても、働けます」
シアリエは頑なに主張した。
死なない限りは働ける。前世で一度高熱により倒れた時も、病院で点滴を打ってもらいながら持ちこんだパソコンで仕事をこなしたことがあるくらいだ。看護師から大目玉を食らったが、正直そんなの気にならなかった。本当に全然気にならないのだ。同僚たちのリアクションに比べたら。
前世のシアリエが職場で体調不良を訴えた時、彼らは目に見えて失望した。おそらく瞬時に、彼女が担当している仕事が自分たちに回ってくる可能性を考えたからだろう。だからシアリエは、病院で点滴だけ打ってもらってから職場にとんぼ返りして、仕事に励んだ。同僚たちに当てにできない奴だと見限られるのが怖かったから。自分の居場所は職場しかないのに、そこでまで存在意義を失くすのが恐ろしかった。
その恐怖に比べれば、風邪なんて何でもない。この世界に点滴はないけれど、働ける。だってもう十分寝た。流行り病じゃあるまいし、風邪くらいで死ぬわけじゃない。そう、だから——……。
「馬鹿言うな」
アレスは雷鳴のように低い声で、ピシャリと一喝した。
「働くのが好きなのは分かった。だが俺は、お前に倒れるまで仕事をしてほしいとは思ってない」
「…………」
「どうして無理をしてまで働く? 社会の歯車を回すためか? その心意気は素晴らしいがな、俺がお前を秘書官に選んだのは、無茶をさせたかったからじゃない」
(どうしてって……。そんなの……)
シアリエは下唇を震わせる。アレスに世話を焼いてもらっているというのに、高熱でブヨブヨにふやけた思考は彼に対する恨み言を沢山生みだし、出口を求めて胸の中で渦巻いた。
「だって……無茶くらい、しなきゃ……居場所がないじゃないですか……」
(そうよ。無理をしないと、仕事も任せてもらえない。今日のティータイムみたいに)
大人びた顔をクシャリと歪め、シアリエは唸った。
「働かない私には、価値がないのに……っ」
「あ? 何言って……」
「陛下こそ!」
シアリエはますます腹が立ってきた。ただの八つ当たりだと分かっているが、一度口を開いてしまったらもう止まらない。シアリエは恨みがましい目でアレスを睨みつける。
「陛下こそ……っ、どうして思う存分働かせてくださらないんですかっ? 働く場所を与えてくださったのは陛下なのに……陛下は……っ変です! 私のことを『自慢の秘書官だ』っておっしゃったり、仕事ぶりを褒めてくださる割には、私がサービス残業することも昼食を抜いて働くこともお叱りになる! 私が身を切って職場に貢献することを嫌がる! 私がそうすることで陛下は何も損をしないのに!」
感情的になりすぎているとシアリエは思った。普段の自分ならここまで感情をむきだしたりしないし、言葉だって選ぶ。だけど、熱がそうさせるのか、感情の起伏がコントロールできない。
(ああ、もう……っ最低。最悪だわ。誰がって、自分がよ。陛下に暴言を吐くなんて、それこそ自分の居場所を自分で失くしているようなものじゃない。私の馬鹿……っ)
片足だけブーツを履いた間抜けな自分の視界が、せり上がってきた涙でぼやけて揺れた。目頭が熱い。それなのに、足場が崩れていくような恐怖感に襲われて凍えそうだ。
シアリエの剣幕を呆然と見守っていたアレスは、我に返ると「落ちつけよ」と宥めるように言う。が、とうとうアメジストの瞳からボロッと一粒涙を零したシアリエを見るなり狼狽した。
「は……? 泣い……? 嘘だろ? 泣くなよ」
普段は大人びたシアリエが子供のように泣きだしたことに、アレスは泡を食う。しかし彼はすぐに持ち直し、シアリエを抱き寄せて背中を摩った。
「目、擦るなって。あー……泣くな泣くな。何で俺が無茶をするなって言ったか分かるか?」
「……それは……っ。それは……無茶して体調を崩して休まれると、迷惑だからですか……っ? 今みたいに……。でも私、大丈夫だから一刻も早く仕事に戻りますって言ってるのに……っ」
「違ぇよ」
アレスはシアリエの長い睫毛に引っかかった涙を指で拭いながら囁いた。
「頑張りすぎて心配になるから、無茶するなって言ってるんだ」
また一つ、熱を持ったシアリエの頬を白玉が滑り落ちる。彼の言葉の意味が上手く呑みこめず、シアリエはオウム返しした。
「心配になる……?」
(陛下が、私を?)
「ああ。社会の歯車を回そうと懸命に努力するシアリエは好きだが、お前の身体が心配だから無理はしないでほしいんだよ。欠員が出ると困るからじゃねぇ」
「そ……」
そんな。心配されるなんて、シアリエからはとても縁遠いことだ。だって、家族も元婚約者も、見向きもしてくれなかったから。ああでも、そういえばアレスは、以前にも定時で帰るように心配してくれたっけ。あの時は、『無理して体調を崩し、職場に欠員が出たら困るから心配』という意味だとシアリエは思いこんでいたけれど、彼は今、それを否定した。
シアリエが驚倒していると、頬を撫でてきたアレスが、
「こんなタイミングで言うつもりじゃなかったのに」
と小さくぼやいた。
「陛下?」
「いいか? よく聞け、シアリエ」
アレスは改まった様子で囁く。
「男ってのは単純に、好きな女が無茶してたら、心配でたまらないんだよ」
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