書籍詳細
絶対に結婚したくない令嬢、辺境のケダモノと呼ばれる将軍閣下の押しかけ妻になる
ISBNコード | 978-4-86669-603-4 |
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定価 | 1,430円(税込) |
発売日 | 2023/08/28 |
ジャンル | フェアリーキスピュア |
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内容紹介
立ち読み
マティアスが屋敷に戻ったのは、深夜だった。馬車から降りて屋敷を見上げると、フランチェスカの部屋に煌々と明かりが灯っている。
(彼女はまだ起きているのか)
いきなり部屋に訪れて『おやすみのキス』をねだられた夜から、はや二週間ほどが経っていた。あれから毎晩マティアスはフランチェスカの額にキスしていたのだが、ここ何日かは、ぱたんと訪れがなくなっていた。
最初は彼女の額に口づけることに戸惑っていたくせに、いざ姿を見せなくなると、フランチェスカが来ない理由が妙に気になってしまう。
(俺は彼女になにかしてしまったのだろうか……いや逆になにもしてない気がするんだが)
と、悶々としている。気になるくらいなら自分から尋ねればいいのだが、それができるなら苦労はない。
(そもそも、俺を気に入らなくなったのなら、王都に戻ってもらえばいいだけの話だしな)
彼女は貴族で、自分は『荒野のケダモノ』『野良犬』なのだから。
そう、頭ではわかっているのにモヤモヤが止まらない。
玄関で出迎えたダニエルに脱いだコートなどを手渡していると、
「マティアス様!」
手に紙の束を持ったフランチェスカが、エントランスホールにある螺旋階段をすごい勢いで駆け下りてくるのが見えた。
「フランチェスカ」
天使が金色に輝きながら近づいてくるのを見て、マティアスの胸の奥の心臓が乙女のように跳ねあがる。あんな勢いで走って、階段から転げ落ちてけがをしたら大変だ。
考えるよりも先に体が動いていた。発作的に手を差し伸べたところで、彼女は当たり前のようにマティアスの胸に飛び込んでくる。
「おかえりなさいませ!」
「たっ……ただいま戻りました」
なぜ彼女はこんなにいい匂いがするのだろう。香水を振っているわけでもなさそうなのに、甘くてさわやかな花のような香りがする。
(とは言え、くっつかれると……困る)
まるで子犬にじゃれつかれたような気分になりながら、フランチェスカの肩を両手でつかんで引きはがす。こちらを見上げるフランチェスカの鮮やかなブルーの瞳に見惚れていると、フランチェスカはハッと我に返ったように目を見開いた後、控えめに微笑みながら身を引き、紙の束を差し出した。
「これを見てください」
「ん?」
受け取りつつさらっと目を通す。
「舞台の企画書?」
フランチェスカの直筆なのだろう。相変わらず美しい端整な文字が、書面いっぱいにびっちりと綴られている。
「はい。花祭りのメインイベントとして、お芝居を上演したいと思いますっ。こちらが予算案で、特別協賛には王都の出版社であるオムニス出版を予定しています!」
「なるほど……?」
芝居を見たことがないマティアスは面食らってしまったが、その昔、王都で軍人として働いている時は、王族の護衛として何度か劇場に足を運んだことはある。どっちが俳優なのかと尋ねたくなるくらい彼らは美しく着飾って、芝居を楽しんでいた。当時のマティアスは世の中にはこんなに芝居好きがいるものか、と思ったものだ。
「ちなみにこの……ブルーノ・バルバナスという作家は?」
原作として記載されている名前を尋ねると、フランチェスカはぴくっと肩を震わせた。
「えっと……その人は友人なんです。花祭りのためにシドニア領民が楽しめる脚本を書いてくれることになっています」
さすが貴族令嬢だ。王都に作家の友人がいるらしい。だが一方で『ブルーノ・バルバナス』が友人だと聞いて胸がざわめいた。
(ブルーノ・バルバナス……気取った名前だな。フランチェスカとはどのくらいの付き合いなんだろう)
王都で小説を書いているくらいだ。都会の洗練された男に違いない。
「フランチェスカは、この男と親しいんですか?」
「えっと……BBとは親しいというか、なんというか……彼が作家としてデビューする前からの友人……というか?」
マティアスの問いかけに、妙に歯切れの悪い声で、フランチェスカは視線をさまよわせた。
いつもはハキハキしゃべるフランチェスカの態度に、怪しさを感じる。
(なにか俺に隠し事をしているような雰囲気だな)
じいっと食い入るようにフランチェスカを見つめると、彼女は見られていることに焦りを感じたのか、さらにそわそわし始めた。
「あのっ、BBは少なくとも小説を書くことに対してはいつだって真摯だし、面白いお話を書くことを人生の喜びとしている人間ですので……! その……善良かと問われれば、どうだろう、とは思うんですが、その……悪い人ではありません」
ブルーノ・バルバナスでBB。あだ名で呼んで妙に親しげだし、しかもフランチェスカから人となりを信用されているようだ。
(善良ではないが、悪い人でもない、か……)
なにか引っかかるものを感じたが、BBのことを語るフランチェスカの青い目は、こちらを見上げて濡れたようにキラキラと輝いていた。
信用してほしいと顔に書いてある。
(美しいな……)
人は好きなものを語る時、こういう顔をする。
いつも恋をしては失恋ばかりしている色男のルイスが、新しい恋に落ちた時。
ダニエルが趣味で集めている古い金貨を磨いている時。
部下たちが妻や家族を懐かしみ、語る時。
ではこのフランチェスカの表情には、いったいどんな意味があるのだろうか。
そう考えた次の瞬間、ふと、いらぬ妄想が頭をよぎった。
(もしかして……BBという男はフランチェスカの元恋人なのでは?)
その考えが頭に浮かんだ瞬間、なぜか石でも飲み込んだような気分になった。
貴族は皆愛人を持つ。恋愛と結婚は明確に別なのである。たまに恋愛結婚をする貴族もいるが、それはかなり希少だ。
(もちろん、彼女に恋人がいたとしても……俺にどうこう言うつもりはないが……)
そもそも王都を離れ嫁いできた彼女に『白い結婚』を申し出たのはマティアスだ。
いずれ自分との結婚に嫌気がさして王都に戻るだろう彼女のために、そのほうがいいと思ったことに偽りはない。
だがそれはそれとして、可憐で美しいフランチェスカに手を出して、彼女の人生を背負うのが恐ろしいという気持ちもあるのだ。
自分ひとりならどうなっても構わないが、フランチェスカを自分のせいで危険な目に遭わせてしまったら?
もしくは年甲斐もなくフランチェスカに夢中になって、手放せなくなってしまったら?
自分が変わってしまうのが怖い。
嫌悪の感情の向き方の問題ではない。ただ自分の心を他人に明け渡したくない、振り回されたくないマティアスにとって、誰かを特別に思うということは、恐怖でしかないのである。
(他人に執着などしないほうがいい)
仮にBBがフランチェスカの元恋人で、今は愛人だとしても、知らぬ顔をしていたほうがいいだろう。彼女の愛らしさに油断していたところで、急に背中に氷を押し付けられたような不快感を覚えたが、それは自分勝手というものだ。
なんにしろ、最初に彼女を拒んだのは自分なのだから——。
「なるほど……」
痛みから目を逸らし表情を引き締めて、ふぅんとうなずいていると、横でふたりのやりとりを見ていたダニエルが唐突に口を挟んできた。
「ブルーノ・バルバナスなら、私も著作を数冊読んだことがありますが、ロマンチックでありながら骨太な宮廷小説を書かれる方ですよ」
その瞬間、フランチェスカが目をまん丸に見開く。
「えっ、読んだことがあるんですか? その……BBは女性読者がほとんどだと思っていたんですが」
「ええ。商人たるもの、世間で流行しているものはとりあえず目を通すものですから。半分は勉強ですがね。まさか奥様のご友人とは思いませんでした。著書にサインでもいただきたいところです」
ダニエルはニコニコしつつ「旦那様、軽食を用意しますので食堂にどうぞ」と言ってその場を離れてしまった。
玄関には、フランチェスカとマティアスのふたりが取り残されてしまった。
BBの話題が出てから、なんだか妙に気まずい気がする。なにか言うべきかと迷っていたところで、先に口を開いたのはフランチェスカだった。
「あの……お芝居は、そこにも書いてあるんですけど『シュワッツ砦の戦い』をモチーフにしようと思っているんです。それでちょっと前からルイスやその時従軍されていた方々に、お話を聞かせてもらっています」
シュワッツ砦の戦い。マティアスにとっては苦い思い出だ。己の生き方に後悔はないが、八年前のあの日のことを思い出すだけで複雑な気分になる。
「なぜ、あの時の話をお芝居にするのかと、聞いてもいいですか?」
フランチェスカはこくりとうなずいて、少し心配そうに顔をあげる。
「勝手なことをしてごめんなさい。でも私、このお話は間違いなく領民に喜んでもらえる題材だと思っているし、偏見だらけの王都の貴族たちに、マティアス様のすばらしさを知ってもらう絶好の機会だと思っているんです」
(なるほど。俺のため、か)
フランチェスカの声には熱がこもっており、本気でそう思っているのが伝わってくる。
(なぜ、彼女は俺なんかのために必死になるんだろう?)
正直言って、マティアスは自分の評価などどうでもいいと思っている。やけっぱちになっているわけではなく、昔からそういうたちなのだ。
十五歳で軍隊に入ったのも、ただ生きていくためだけに選んだ道だった。思いのほか軍隊が性に合ったその後でも、上官に媚びをうってでも昇進したいという気持ちになったことは一度もなかった。ちょっとした運命のめぐりあわせで領主という身の丈に合わない身分になってしまったが、マティアスの内面はなにひとつ変わらない。
来る者は拒まず、去る者は追わず。
人は見たいように他人を見る。
「こうだろう」「こうに違いない」「こうに決まっている」と決めつけて、火のないところに煙を立たせる。そういうものだ。他人に期待するだけ無駄なのである。
だからマティアスは誰からも評価されたいとも思っていない。ただ目の前の仕事をこなすだけ。そうやって生きてきたのだ。
だがフランチェスカは、王都でまったく評判の良くない自分なんかに嫁いできたあげく、マティアスに認められたいからとあれやこれやと考えを巡らせている。
(俺に認められる必要なんてないのに)
彼女は王家にも深く縁がある侯爵令嬢だ。マティアスの評価を今更変える必要などどこにもないのだ。
「あの、マティアス様。やっぱりご自分をモデルにされるのはおいやですか?」
黙り込んだマティアスを見て、フランチェスカはそう思ったのだろう。やっぱり、という顔になった。
「私、余計なことをしてしまったでしょうか……」
「——あなたが謝る必要はありません」
「え?」
フランチェスカが不思議そうに首をかしげる。
「もちろん気恥ずかしい気持ちはありますが、皆が喜んでいるのは間違いないですから」
ルイスや部下たちは『シュワッツ砦の戦い』がお芝居として上演されると聞いて、ものすごく浮き足立っている。喜んでいるのだ。
それだけではない。早々に『シドニア花祭り』の噂を聞きつけた領民たちが『なにか手伝えることはないか』と、公舎にぞくぞくと訪れているらしい。この町には劇場なんて気の利いたものはひとつもないから、純粋に楽しみにしているのだろう。
民の笑顔のためなら、少々の恥はのみ込むべきだ。
自分をモデルにした男が主役だなんて、気恥ずかしくてたまらないのだとしても。
「フランチェスカ。領民のためにありがとう」
言葉を選んでそう口にすると、フランチェスカは驚いたように顔をあげた。
「マティアス様……」
正面から見つめてくるフランチェスカの目元には、うっすらとクマが浮かんでいた。
彼女が疲労していることに気が付いて、思わず彼女の?に手を伸ばして、そうっと瞼の下を指でなぞる。
「ところで、このところあなたがおやすみのキスをねだりに来ないのは、寝てないから? 少し寂しく思っていましたよ」
マティアス的には軽い冗談のつもりだったのだが。
「——っ」
その瞬間、フランチェスカの顔が、ぼぼぼぼぼぼ、と火をつけられたかのように真っ赤に染まった。
(あ、やばい)
自分が慣れ慣れしい態度をとってしまったことに気づいたマティアスが、手を引こうとするよりも早く、フランチェスカは「や、や、それは、そのっ、えっと、ではまた今日からおねだりします……」としどろもどろに口にし、くるりと踵を返して走り出す。
よろよろしたあぶなっかしい足取りのフランチェスカを見送りながら、マティアスもまた緩む口元を隠すように手のひらで顎を覆っていた。
「いや……可愛すぎるだろ……」
そして同時に、激しく気分が落ち込んだ。
素直に受け入れるしかない。
ああそうだ。フランチェスカは愛らしい。とても魅力的だ。
頑張り屋で行動派、とにかくなんでも自分でやってみないと納得しない強情な一面はあるが、他人を慮ることもできる、よくできた女性だと思う。
貴族の中でも特に身分が高い家系に生まれているはずなのに、いかにも貴族らしい傲慢な態度がかけらもない。
それは同じく平民のルイスやダニエルからも伝え聞いていた。
部下たちはすっかりフランチェスカにメロメロになっていて『マティアス様は本当にいい奥方様を貰ったよなぁ!』と喜んでいるらしい。
おそらく彼女は十八年間箱入り娘として生きてきて、貴族とはこうあるべきだという振る舞いを叩きこまれずに育ってきたのだ。おっとりしつつも純粋で、どこかパワーに溢れた性格は、彼女自身の気質なのかもしれない。
『白い結婚』の申し出を後悔はしていないが、フランチェスカの素朴で優しい振る舞いは、確実にマティアスの心を揺さぶっていた。
(——危険だな)
これ以上の好意を持ってしまえば、いずれ訪れるに違いない別れが辛くなる。
マティアスは胸元に手をやり、そうっと手のひらで上着の胸ポケットを押さえる。
その中にはお守りの『ポポルファミリー』が入っていて、ここにいるよ、と確かに伝えてくれているようだった。
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マティアスのことを考えるたび、心臓があり得ないくらい胸の中で跳ねる。
(私の旦那様、私をトキメキ死させる気なのかしら!?)
フランチェスカは書き物机に突っ伏してギギギと唇を引き結んだ。
ここ何日か、マティアスに見せるための企画書作成のため、夜更かしが続いていた。なので『おやすみのキス』を貰いに行くのを辞めていたのだが、なんとマティアスから、
『あなたがおやすみのキスをねだりに来ないのは、寝てないから?』
『少し寂しく思っていましたよ』
と言われて、顔から火が出そうなくらい照れてしまった。
あくまでもあれは冗談だろう。わかっている。大人の男というものは本気ではなくとも、そういう振る舞いをするものだ。兄嫁のエミリアからも『ジョエル様は天然の人たらしなんです!』と悲鳴交じりに聞いたことがあるのでよくわかっていた。
そしてフランチェスカも一応十八歳の乙女であるからして、素敵な異性から甘い言葉をささやかれれば、当たり前のようにときめいてしまう。
(いや、恥ずかしがってばかりではだめね。これは貴重な体験だわ! せめてこの気持ちを書き留めておかないと!)
フランチェスカは書き物机の引き出しから洋紙を取り出し、今の感覚を忘れないようにとマティアスから貰った言葉をがりがりと書きつけてメモを取る。
そうやって己の感情をすべて吐き出して、熱い紅茶がすっかり冷める頃、ようやくフランチェスカは一息つくことができた。
素敵な旦那様のおかげで、当分ネタ切れはなさそうだ。
「……ふぅ」
大きく息を吐いたところで、ベッドを整えていたアンナが少し心配するように声をかけてくる。
「お嬢様、楽しんでやられているのはわかるんですが、あまり無理はされないようにしてくださいね」
「ええ、わかっているわ。でも大丈夫。今の私はすっごく元気だから」
小説を書いている時、フランチェスカは自分でも信じられないくらいタフになる。
体だけではない、心もだ。全能感とでもいうのだろうか——。自分にできないことはないというような気になって、若干無理をしてしまう時があった。
(今は大事な時だし……もう少し頑張ろう)
まったく自重する気はないのだった。
それからフランチェスカは、マティアスの承認も得たことで、水を得た魚のように動き回った。
企画書の作成から予算の見積もり等々、舞台に関しては王都でブルーノ・バルバナスの著作を独占販売しているオムニス出版に特別協賛を正式に依頼した。BB初の舞台脚本ということで、今後書籍として出版する予定である。
なにもかもが順調に思えたが、すぐに問題が勃発した。
主役を演じる俳優がいないのである。
ケトー商会の応接間にはフランチェスカと仕事帰りのマティアス、ルイス、それにダニエルの四人が集まって額を突き合わせていた。
「大問題が発生しています。マティアス様にぴったりの役者がいないんです」
本番まであと二か月、長いようで短い。
お芝居をやろうと盛り上がったのはいいが、なんと一か月経っても劇団が決まらない。脚本は先日書き上げたのに、一刻も早く稽古に入りたいがそれどころではない。
「——」
マティアスは無言で「そんなこと?」という顔をしたが、フランチェスカはそれを無視してダニエルとルイスに熱っぽく語りかけた。
「となると、芝居は中止?」
ルイスが首をかしげる。
「いいえ、中止にはできません。お芝居は花祭りの目玉ですから」
フランチェスカはぎゅっと目元に皺を寄せて、ダニエルとルイスの顔を見比べた。
「とは言え、そろそろ決めないとさすがに困るんじゃないか?」
マティアスの言うとおり、花祭りまで残り二か月。いくら短いお話とは言え、主演を決めないままでは稽古も進められない。
「そうなんですけど……。主演に関しては、絶対に、絶対にっ、妥協したくないんですっ」
つい先日刷り上がった脚本の冊子を握りしめて、唇を引き結ぶ。
では王都だけではなく、他国から評判の劇団を招集してはどうか、とか。いっそ紙芝居にしてはどうだとか、議論だけが白熱する中、それまで黙っていたダニエルが、ふと思いついたように口を開いた。
「いっそのこと、旦那様ご本人が演じてみては?」
「——は?」
マティアスがきょとんとした顔になる。ルイスもフランチェスカも同じだった。?然としたところでさらにダニエルが言葉を続けた。
「脚本を拝見しましたが、旦那様の役は物言わぬ態度が原因で周囲に誤解を生むという役柄なので、それほどセリフの数は多くないですよね」
「ちょっ……ちょっと待てダニエル。俺が役者の真似なんかできるはずないだろう……!」
慌てた様子で、マティアスが椅子をがたんと鳴らし立ち上がったが、フランチェスカは声をあげていた。
「それですわ! すごい、その案最高です!!!」
そうだ。本人に似せた役者ではなく本人が演じればいいのだ。
思わず絶叫してしまったが許してほしい。フランチェスカは椅子から立ち上がり、そのままマティアスに駆け寄り、彼の大きな手をぎゅっと握った。
「ぜひぜひそうしましょう!」
「いや、さすがに役者の真似事なんて絶対に無理だ!」
珍しく激しく動揺した様子で、マティアスはぶるぶると首を振る。
普段冷静な彼の慌てた姿は珍しいが、それどころではない。
本人が演じるというアイデアを聞いてしまった以上、それ以外の選択肢はフランチェスカの脳内から吹っ飛んでいた。
「そんなことを言わずになんとか! マティアス様以外にマティアス様を表現できる人はいませんっ!」
「フランチェスカ、無茶を言わないでくださいっ! 素人の俺には絶対に、絶対に無理に決まっているっ!」
頑なに拒絶するマティアスだが、黙って様子を見ていたルイスが、いきなりひらめいたと言わんばかりにポンとこぶしを叩く。
「だったら奥方様も出演されたらどうです? 夫婦ふたりでなら大将もやれるでしょ?」
「えっ? 私が? なんで?」
いきなり自分におはちが回ってきて、フランチェスカはきょとんと目を丸くした。
「奥方様が男装して、ジョエル様を演じるんです。奥様が男装すればまさに花のような美青年になるでしょうし。なにより領主夫婦が舞台を上映するとなれば、そりゃあ盛り上がりますよ。絶対に成功間違いなしです!」
「え、ええっ、で……でも……」
フランチェスカはいきなりの展開に、言葉を失ってしまった。
さっきまでマティアスに舞台に立ってほしいと思っていたはずなのに、自分に矛先が向けられると一気に怖気づいてしまった。
(私がマティアス様と一緒に、舞台に立つ……?)
黙り込んだフランチェスカを見て、今度はマティアスがルイスに対して目をむく。
「お前、貴族が役者の真似事なんてするわけないだろうが!」
それを聞いたフランチェスカは慌てて首を振った。
「それは間違いです、マティアス様!」
「は?」
「観劇は王族の娯楽のひとつですから。私もおばあ様に誘われて、何度か王宮で兄様とお芝居を披露したことがあるんです」
身内の子供たちを着飾らせ、古典やおとぎ話を演じさせるのは、気軽に町に出られない王族の楽しみとしてはごく普通のことだった。
「見るだけではなくて、おばあ様や王様、大臣まで役者をしてお芝居を楽しまれることもしょっちゅうでした」
「——マジか」
マティアスは?だろうという顔でぽつりとつぶやき、それから目頭を指でぎゅっとつまんでうつむいてしまった。強張った肩のラインから彼の不安が伝わってくるようだ。
(そりゃぁ、私だって不安だけど……)
だがふたりならやり遂げられるのではないだろうか。そしてふたりで課題を乗り越えることによって、絆が結ばれるかもしれない。
(マティアス様が、私を好ましい人間だと思ってくれるかも!)
そう思うと、もうフランチェスカは止まれない。
不安よりも先に、なんとかなるだろうという謎の自信が込み上げてきた。
「マティアス様、不安なのはわかります。私だって不安です……。でも、ふたりで頑張ればできるんじゃないでしょうか。その、マティアス様の普段のお仕事の邪魔にならないよう、私もいろいろ気を配りますので、やりましょう……!」
ぐっとこぶしを握りマティアスに詰め寄った。
「これも領民の笑顔のためだと思って!」
その瞬間、彼は詰めるように息をのむ。
我ながら少しズルいと思ったが、マティアスは本当にこの言葉に弱い。
普段からプライベートもすべて投げ出して仕事をしている彼にとって『領民のため』というカードは最終兵器に等しいのだ。
「——わかった。あなたがそこまで言うのなら」
マティアスは何度も深いため息をついたが、最終的にOKしてくれた。
そうしてフランチェスカは、なんとマティアスと夫婦で花祭りの舞台に立つことになったのだった。
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