書籍詳細
冷遇されてますが、生活魔法があるから大丈夫です
ISBNコード | 978-4-86669-659-1 |
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定価 | 1,430円(税込) |
発売日 | 2024/03/27 |
ジャンル | フェアリーキスピンク |
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電子配信書店
内容紹介
立ち読み
そうこうして。パーティー当日。
レックは、背後に何人もの女性を引き連れて小屋へやって来た。
「レックさん、その方たちは……」
「ウチの従業員です」
「「「奥様、お支度をお手伝いさせていただきます!!」」」
出版社の従業員が何故アメリアの支度を手伝うのか?
「え、どういう……」
「さささ、奥様! お時間がありませんから、お早く部屋の中に!」
「これよりお支度が終わるまで男子禁制ですよ!」
「ひっ……!?」
女性たちに小屋へ押し込められたアメリアは、あれよあれよという間に裸に剝かれ、ベッドへ転がされた。
「「「さあぁ、奥様! 全身、磨いて参りますね!」」」
従業員の皆さんの顔がこわい。
「よ、よろしくお願いします……?」
そんなこんな。
全身にオイルのようなものを塗られ、こねくりまわされたかと思うと、髪にはヘアパックだろうか、蜂蜜のようなものを擦り込まれタオルでグルグル巻きにされる。
しばらくしてお風呂で全てを洗い流し、乾かした後、化粧をし髪を整えてもらい、着替えをして完成だ。
この世界に転生して初めて化粧をした。もちろんアメリアは化粧道具など持っていない。化粧品や服は元より、靴やバッグ、帽子や手袋、アクセサリーに至るまで、全てレック、というか、出版社が用意してくれたようだ。申し訳ない。
「「「奥様、お似合いです~!」」」
「はは……、皆さんのおかげです……」
姿見の中に、疲れ果てた女子が一人。
つ、疲れた……。着飾るというのは、こんなに大変なことなのか。リリーたちはよくあんなにたくさんの茶会やら夜会に出ていたな……。
しかも、アフタヌーンドレスというのか、リリーたちが着ていたものよりは、露出も少なくボリュームも抑えめではあるのに、この疲れっぷりだ。
今回は貴族の集まりではないし、それに真昼間だ。そういったTPOを考えてくれているので、まだマシなのだろう。これでコルセットなど巻かれたら死んでしまう。
「ささ、奥様。だん……」
「だん?」
「いえ、レ、レック様が馬車でお待ちですので、急ぎましょう! おほほほほ!」
従業員に手を引かれ、歩き出す。
そういえば、ここへ来て初めて小屋の敷地より外に出る。庭に出ることはできたのであまり気にしたことはなかったけれど、また一つ、世界が広がるようで、僅かに心躍った。
そして忘れていたが、門まで結構遠いのだった。慣れないヒールでよちよち歩き、やっとのことで馬車へ辿り着いた疲労困憊のアメリアをレックが迎えた。
「レックさん、お待たせしました。色々と手配をありがとうございます」
「……」
ペコリと頭を下げるも、レックはアメリアを一目見た途端、目を見開き、固まってしまった。
……何かおかしかっただろうか。
といっても、そちらが用意したものを着ただけなので、文句は受け付けないけども。
七分袖の、アメリアの瞳の色に合わせた若草色のアフタヌーンドレスはとても可愛らしく見える。
ドレスといってもワンピースに毛が生えたくらいで仰々しくもなく、袖は多少透け感あるレース素材だが、アメリアにも抵抗感なく着られた。
ちりばめられた黒の刺繡がとても繊細で、生地も上質なものだ。固まるとしたらドレスではなくアメリア自身の問題なのだろう。馬子にも衣装、とか? はーい、文句は受け付けません(二度目)。
レックもいつものダルダルな上着ではなく、小綺麗になっていた。
上質そうな白いシャツに小洒落た紺色のスーツ。胸ポケットに若草色のチーフが挿してあるのがまたお洒落だ。もしかして気を遣ってアメリアのドレスに合わせてくれたのだろうか。
普段は隠すようにわざと緩めの服を着ているようだが、今日はその厚い体軀も長い足も、惜し気もなく晒されていた。
端的に言って、ものすごく格好いい。
まるで知らない男のようで、緊張する。
「……」
「……」
無言で差し出された手を無言で取り、馬車に乗り込む。
全く華美なところはないが、とても広い馬車だ。アメリアがガーランドから来た時に乗った辺境伯家の馬車と同じくらいかもしれない。なるほど、先ほどの従業員の皆さんや、監視の騎士も同乗するなら、これくらいは必要なのだろう。アメリアはなるべく場所を取らないよう端へ寄った。
「? 何故そんな端に?」
「え、」
後から乗り込んできたレックが疑問を呈すと同時に、バタンとドアが閉まる。
「あ、あれ? 私たちだけ? 従業員の皆さんや、騎士様は……」
「……後から来ます。騎士、サマは馬なので」
「で、ですが、二人きりは……」
監視の騎士に車内から視線で訴えると、やはりまた眉を下げて頷かれる。何なん、いつものその頷き!
戸惑うアメリアを他所に、向かいに座ったレックが合図を出すと馬車は走り出してしまった。
「あの……」
「は、はい」
心臓の音がうるさい。こんなキメキメのイケメンと二人きりになどしないでほしい。心臓の音が聞こえてしまいそうだ。
「その……ドレス、お似合いです。あまりに綺麗で驚いてしまいました」
「あ、ありがとうございます。綺麗ですよね、このドレス。私こんな立派な服を着たことがなくて、用意していただいて、感謝しています」
「いや……」
斜め前に腰かけているレックだが、馬車は十分広いにもかかわらず、足が長すぎてアメリアの足と触れそうだ。ぶつからないように少し離れようと腰を浮かすと、男の骨張った手がアメリアの手を取った。
「えっ……」
手袋越しの手の甲に、ふにゅ、と柔らかい感触が広がる。
確かに見えているのに何が起きているのか分からない。それが男の唇の感触だと理解するのに少し時間がかかった。
「……っ、えっ……!?」
レックがアメリアの手に口づけている。
引くことも払うこともできず硬直していると、伏せられていた長い睫毛が動き、揺らめく不思議な色の瞳が上目遣いにアメリアを映した。
「……ドレスではなく、あなたの美しさに声が出なかった」
「っ、」
手が熱い。口づけられた部分が手袋の下でじくじくと熱を持つ。
「……失礼しました」
「え……」
アメリアの手が震えるのを見てか、男の熱がそっと離れていった。
「あまり……女性のことを褒めたことがないので……その、あなたの小説を参考にしてみたのですが、どうやら失敗したようですね。申し訳ありません」
「私の小説?」
「騎士が跪いて、令嬢の手の甲に口づけをして愛を乞うていたので……その、あなたはそういうのがお好みなのかと」
「愛……って、え!! え!?」
レックは学習が失敗した犬のようにシューンと肩を落としている。
な、なんだ! 編集者としてお勉強したことを実践してみただけか! 学習能力、高!
中世ヨーロッパ然としたこの世界なら手の甲にキスをするのなんて挨拶として当たり前。もちろん知識として知ってはいたし、そういうシーンも書いてきたけど、実際やられるとこんなに恥ずかしいものなんだな……。
本心でないにしろ男性が女性を褒めるのも息をするように当たり前のことなのだろう。リップサービスというやつだ。前世日本人で、しかも喪女だったアメリアには、あまりにレベルが高い。
「え、えーと、あの……びっくりしちゃって。私、貴族としての礼儀とかも分かってないですし、それに、あのシーンはイメージというか、私の好みとかそーいうことでは……」
「好みではなかったですか」
「え、いや……」
何故畳みかけてくるんだ。めっちゃドキドキしたよ。何なら今も、体中に手の甲からの熱が駆け巡っている。
「嫌、でしたか」
また上目遣いの瞳。濃茶の奥でぬるりと漆黒がたゆたう。
「……嫌……では、ないです」
そう言うと、レックは一瞬瞳を瞬かせ、僅かに微笑んだ――ように見えた。
顔が熱い。男が発する妙な色香に飲み込まれそうになる。
アメリアの中の何かが崩れそうになったその時、馬車が静かに止まり、御者が到着の報を告げた。
会場は品の良いビストロだった。
通りより続く木々に隠された小道を進むと見えてくる、隠れ家のような入口。そのドアをレック、そして監視の騎士と共にくぐれば、意外と広い店内は明るく、既に人で賑わっていた。壁にはワイン棚を囲うように古めかしい絵が大小飾られ、独特の空気を作り出している。
「奥様! お待ちしておりました」
レックにエスコートされながら店内へ進むと、バイオレットが人込みから顔を出す。
「こんにちは、バイオレットさん。盛況ですね」
「いえいえ、内輪ですから。それより今日は一段とお綺麗ですね。常日頃より奥様はもっと着飾った方が良いと思っておりました」
うんうんと感慨深げに頷いているバイオレットもまた、今日は華やかな装いだ。髪色に合わせた淡い紫のワンピースの裾がふわりと広がり、変わらずきっちりと纏められた髪の毛にも可愛らしい真珠の髪飾りがあしらわれている。
「ありがとうございます。何から何まで手配して下さったレックさんや出版社の皆さまのおかげです」
アメリアが頭を下げると、彼女は何とも言えない微妙な顔になった。
「あー……まぁ、そうですね。主にレックさんが動いてくれた……ようです、はい」
「?」
「そ、そんなことより奥様! ご紹介したい方たちが! えーと、あ、いたいた!」
そうしてバイオレットに紹介されたのは、同じく作家として活動をしているという女性二人だった。
「ご紹介しますね。こちらがデイジーさん、こちらがジェシカさんです。お二人とも奥様と同じく弊社から恋愛小説を出版していただいてます」
本当はもっといるのだが、なんせ広大なデュボア領だ。作家はアメリアを入れて、この三人しか集まらなかったという。
はじめまして、と挨拶をしてくれた二人は共に平民なのだそうだ。二人とも茶色の髪で、フリルのついたブラウスにスカートとシンプルな装いだが、とても可愛らしい。
可憐に三つ編みのおさげにしているのがデイジー。対して、ジェシカは肩ほどに切り揃えられた髪を、大きなリボンをカチューシャのようにして可愛らしく纏めている。
ちなみに、二人ともペンネームだそうだ。
「はじめまして。キサラギです」
「まぁ、あなたが!?」
「女性でいらしたのね」
倣ってアメリアもペンネームを名乗ると、二人は一様に驚いていた。「如月=二月」という概念もこの世界では分からないだろうし、結果、中性的というか性別不詳と思われていたらしい。
「ご著書拝読しておりますわ」
「私も」
「え、あ、ありがとうございます」
大変失礼ではあるが、アメリアは二人の本を読んだことがなかった。自由に書店に行って本を選ぶこともできないので、今まで他の小説を目にしたことがなかった。
今度バイオレットに頼んだら買ってきてくれるだろうか。お願いしてみよう。
これから読んでみる旨を伝えたら、二人はニコリと微笑んでくれた。
しばらく食事を楽しみ、そして目的である取材もさせてもらっていると、局長がやって来て挨拶を受けた。
局長は人の良さそうな恰幅の良い紳士であったが、アメリアが辺境伯夫人であることを知っているので、やたらとへりくだられ、疲れてしまった。
何故かレックのことも気にしていたし、何なのだろう。編集部員であるレックが仕事もしないでアメリアに張り付いているから気になるのかもしれない。現にバイオレットは忙しく動いていて、一所にいない働きぶりだ。
「……ふぅ」
普段、気儘におひとりさまを楽しんでいるもんで、たまにたくさんの人と交流すると楽しい反面、気疲れしてしまう。
アメリアのため息を耳聡く聞き付けたレックが心配の色を浮かべた。
「お疲れでしょう。予定していたことは全て終わりましたし、そろそろ帰りましょうか」
「そうですね。その前にお手洗いに行ってきます」
そう歩き出すと、男性二人はついてこようとする。
「え、トイレですよ?」
「はい。扉の外でお待ちしています」
えぇぇ……。しかし、レックはともかく騎士は監視なのだから仕方ないのかもしれない。中に一緒に入られないだけマシと思おう……。
そして、恥ずかしながら男性二人を伴ってトイレの前に着いた時、中から話し声が聞こえた。先客がいるようだ。
「……ラギさんてさ、どう見ても貴族だよね」
「ですよね。あの金髪といい、上質な服といい」
自分のことを言われていると分かり、ノブを握る手が反射的に止まる。これは入ってはいけないヤツだ。
先ほど紹介されたデイジーとジェシカであろうその声は高く響き、外までよく聞こえた。
「私、局長に聞いちゃったんですけど、あの方ただの貴族じゃなくて、デュボア辺境伯様の奥様らしいですよ~」
「マジで!? 辺境伯様の奥様って、あの『悪女』の!?」
「ですです~」
ちょ、局長クチ軽! ダメじゃん! 個人情報漏洩じゃん!
しかも「あの悪女」――「あの」。
トホホなことに噂は市井にがっつり出回っているらしい。
「あー、なる~。なんか男前二人侍らせて、女王様ってカンジだったもんね~」
男前二人って……確かに男前だけどさ。一人は編集部員で一人は見張りの騎士だ。ちらと後方を見やると、男前二人も困ったように顔を見合わせている。
「……奥様、私が言ってきましょうか」
見かねて騎士がそう言うも、アメリアは首を横に振る。女子トイレに騎士が踏み込んだら、それはそれで問題だ。
「貴族の奥さんがちょちょっと書いた小説がヒットしてーなんて、は~羨まし! こっちなんてさ、生活のために書いてるのにさぁ~」
「ですよね~」
アメリアとて生活のためなのだけれど……と、あえて訂正するのも馬鹿らしく、苦いものが込み上げる。
いくら「悪女」で冷遇されているとはいえ、まさかあんな暮らしぶりだとは彼女たちも思ってはいないのだろう。金髪はともかく、彼女たちが言う「上質な服」だって実は借りたものなのに。
「もう、帰りま……」
立ち去ろうと踵を返したところで、運悪く出てきた二人と鉢合わせしてしまった。
「あ」
「「あ……」」
うわぁ、気まず……! もっと早く帰れば良かった……!
彼女たちは取り繕うことも忘れ、顔色を青くしている。レックと騎士が前に出ようとしたが、アメリアが手で制すと再び後ろへ戻った。敵対したいわけじゃない。
しかし、その一連の流れがまた気に触ったらしく、彼女たちの眉間に皺が寄る。
「お貴族様は御付きに守られていいですねぇ~。平民なんて旦那は頼りにならないし、私も誰かに庇われてみたいわぁ~」
「え……」
「ちょっと、大丈夫ですか、デイジーさん……後で何をされるか……」
「大丈夫よ。どうせこの人、辺境伯様に見向きもされてないんでしょ? 何もできやしないわよ」
それは純然たる悪意。
外に出ると、こんな悪意に晒されるのだな……。黒くなる心とは裏腹に、頭はどんどん冷え、冷静になる自分がいる。
「ほら、何も言い返せないじゃない」
黙るアメリアをいいように取ったのか、デイジーがにやりと嗤う。
「それともお貴族様は平民風情とは話せないということかしら。私たちの本も手に取らないくらいですものね。流石『悪女』様だわ」
「それは……」
「皆さん! 何してるんですか!?」
バイオレットの声が響いた。どうやら騎士がバイオレットを連れて来てくれたらしい。
彼女が間に入りその場は収まったけれど、騒ぎを聞き付けた局長も巻き込んでの騒動になってしまった。
しかし、アメリアの耳には何も届かない。
謝罪を繰り返す局長を尻目に、レックによってアメリアは問答無用で馬車に押し込められ、足早に会場を後にした。
流れる車窓からの街並みは、行きはあんなにキラキラして見えたのに、今はぼんやりとしか見えない。
レックと二人馬車に揺られ、特に口を開くこともなかった。
――「貴族の奥さんがちょちょっと書いた小説がヒットしてーなんて、は~羨まし!」
デイジーが言った言葉がリフレインのように頭に響いている。
ちょちょっと書いたわけじゃないんだけどな……。
今になって怒りがふつふつと湧いてくる。
ガーランドにいた頃は、それこそ寝る時間を削って書いていた。デュボアへ来た当初も、生活を整えるのにそれどころではなかったし、今でこそ時間はできたが、創作はそう簡単ではない。調べものもろくにできない環境で、アメリアなりに努力し物語を紡いできたつもりだ。
創作は、生活の糧であり、趣味であり、そしてアメリアの心を支えてきた。どんなに辛い時も、物語の中に没入することで乗り越えてきたのだ。
それを「ちょちょっと」なんて言われたくない。
こぼれそうになる涙を堪え、唇をきゅっと引き結ぶ。
ガーランドにいた時も悔し涙なら散々滲ませてきた。
――泣くな。こんなことで泣いてはいけない。
アメリアの震える手を、レックが静かに見ていた。
「……今日はありがとうございました」
小屋に到着し、アメリアはレックに一礼をした。
てっきり城の門までかと思いきや、小屋まで送っていくと言い張ったレックだが、ここまで特に話すでもなく、静かに時は流れるばかり。既に夕刻を迎えた陽はとろりと傾き、オレンジ色の光が二人を照らした。
「じゃ、また……」
早く一人になりたい。こういう時はとっとと寝て、忘れてしまうのが一番だ。
もう一度頭を下げドアノブに手をかけると、男のゴツゴツした手がふわりと重なり動きを塞がれる。
「え……?」
視界に影が落ちる。後ろからレックの体が覆い被さってきて、ドアとの間に囲われてしまった。
ち、近い……っ!
背から彼の胸の厚さと熱い体温を否応なしに感じてしまう。
「……あの女は、あなたの小説が売れているのに嫉妬して、あんなことを言ったと」
「へ?」
「……だから、あなたは何も気に病むことはない」
真摯な低い声が耳に響く。敬語が外れてしまっているが、どうやら落ち込むアメリアを心配してくれたらしい。
「あは……、そう、ですか……。ごめんなさい、無駄に落ち込んじゃって」
……別にいいのに。こんなことで今更傷つきはしない。
今まで、直接「悪女」だと糾弾されたことがなかったから、どこか他人事のような気がしていた。今日は面と向かって悪意を向けられ、驚いただけ。
「……大丈夫です。明日には元気に……」
「強がらなくていい。あなたは十分頑張っている。こんな環境でも挫けず、いじけず、明るく生活しようと努力している。その上、自分の能力で立派に生計を立てているではないか。誇っていい」
「そんな……大袈裟な……」
放っておいてほしい。今はその優しさがアメリアの心を蝕む。
「……っ!」
大きい手がアメリアの細い肩を摑むと、クルリと体を反転させ、向かい合わせになった。
摑まれた肩が痛い。男の整った眉は固く寄せられ、瞳は奥で揺れる漆黒の更に奥に紅が揺らめいている。
「あなたの努力を、見ている者は見ている。騎士たちやバイオレット嬢や……俺も。あなたの強さを知ってはいるが、こんな時くらい我慢しなくていい」
「……っ」
何故、この男は、アメリアの中へ中へ、踏み込んで来ようとするのか。
――やめて。蓋を壊さないで。抑えていたものが溢れてしまう。
「誰も見ていない。俺だけ……。弱いあなたを、俺だけに見せてはくれないか」
お願い。
一番柔らかい部分に触れないで――。
「……ふ、ぅ、」
ずっと張っていた何かが決壊したように涙が溢れた。
ボロボロと雫が後から後からこぼれ落ちる。落ちた雫がレックのシャツを濡らし、玄関ポーチに幾つも跡を残した。
泣くほど辛かったわけじゃない。
冷遇とはいっても放置されただけで、暴力を振るわれたわけでも命を狙われたわけでもない。大抵のことは細々とした魔法で何とかなったし、ミアやバイオレットだっていてくれた。
――ただ、気付いてしまった。
誰かに認めてほしかったのだと。
この、よく分からない世界で頑張っていると、誰かに言ってほしかったのだと。
「ふぅ、う……」
何も期待していないと言いながら、この温かい体温を求めていたことを。
「アメリア……」
レックの右手は、涙を拭おうと、おろおろ忙しなくアメリアの頰を撫でる。
――何故、この男は私の名を呼ぶのだろう。何故、私に触れるのだろう。
優しく触れる体温が温かい。長年溜まっていた膿が落ちるように涙がとめどなく溢れてくる。こんな憑き物が落ちるような涙は転生してから初めてだ。
「……ふ、う、……ご、めん、なさ……っ、止まら、なく、て……」
「……アメリア……」
二、三度、骨張った指が柔らかな金髪を梳くと、薄く形の良い唇が涙に濡れた目元をちゅ、と吸う。
「え……」
手袋越しのものとは明らかに違う弾力と体温。
驚いて強張った体を宥めるように男の手が細い肩を撫で、唇はそのまま頰の涙を吸い、アメリアのそれを塞いだ。
「……!?」
その触れるだけの口づけは、ひどく優しい。
様子を窺うように鼻の頭や唇の周りにも触れ、また唇に触れる。
「……んっ」
僅かに漏れたアメリアの声にレックがびくりと揺れた。
男の唇は一度ちゅ、と音を立てて離れると、アメリアのふっくらした上唇を舐め、再び角度を変えて少し深く重なってきた。
「……んんぅ!? ……っ!?」
ちょ、待っ……。
もしかしなくても、これはキスか……!? キスされてるのか!? 私!?
この続きは「冷遇されてますが、生活魔法があるから大丈夫です」でお楽しみください♪