書籍詳細
あなたを解放してあげますね! まずは婚約解消を目指します
ISBNコード | 978-4-86669-693-5 |
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定価 | 1,430円(税込) |
発売日 | 2024/07/29 |
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内容紹介
立ち読み
「ヒューゴ、あなたは本当に、私に南に帰ってきてほしいの? 何の役に立たなくても、私がお飾りの公爵夫人になってあなたの隣に立っていれば、あなたはそれで満足ですか?」
「……」
ヒューゴは息をのみ、体をこわばらせる。
やっぱり私を選ぶなんて本心じゃないよね。公爵夫人に相応しい女性と、愛し合って結婚して、二人一緒に公爵家を守っていきたいよね。
「父には、私が死んだと伝えてください。そうすれば、諦めもつくでしょう」
最終手段だと思っていたけれど、父が私とヒューゴの結婚にこだわるのなら仕方がない。私が死んでしまえば、父もヒューゴに愛している女性との結婚を認めるだろう。ヒューゴも喜んでくれると思ったのだけど、まるで怒っているように声を大きくした。
「私と結婚することを、一度は承諾してくださったじゃないですか。私が何かしましたか? 何か失言を? 神殿のことに口だししたのが不愉快だったなら謝罪します」
ヒューゴは深く頭を下げる。
「そんなっ、やめてヒューゴ。そうじゃないの」
「ではなぜ急に婚約をやめると」
「……」
元婚約者のデージーと結婚させてあげたかったから。でも今さっき恋人ではないと否定されてしまった。もう何て言えば納得してもらえるのかわからない。
「私より公爵夫人に相応しい女性はたくさんいるでしょう」
「相応しくないなどと誤魔化さないでください。はっきり言ってください。私と結婚したくなくなったのだと。縁を切りたいのだと」
いつもどおりの無表情だけど、ヒューゴは少し苦しげだった。胸に当てた手には力が入り、黒い服にぎゅっと皺が寄る。呼吸もわずかに乱れているように思えた。
もしかして、すぐに帰ると言わない私に凄く怒ってる?
「婚約は嫌だと言ってくださるだけでよかったのに。他の女と結婚しろだなんて」
「違う、」
否定しようとして気がついた。ヒューゴにとって、公爵家の一人娘でいとし子の私は、誰よりも公爵夫人に相応しい女性なのだ。私が母から、公爵家にいらない子供だと言われて育ったことなど、ヒューゴは知らない。だから、私が相応しくないと言うのは、婚約から逃げるための言い訳だとしか思えないんだ。
「ヒューゴ、聞いて、」
「このまま東に残るのですか?」
珍しく私の言葉を遮るように、ヒューゴが聞いてきた。
「東の公爵と結婚するのですか?」
「ヒューゴ」
「東でいとし子として癒しを続けるのですか? 南ではなく?」
平坦な口調、変わらない表情。でもどんどん早口になっていく。怖いと感じた。
「なぜですか。なぜ南を離れるのです。私が南の次期公爵になったから? 私の近くにはいたくないから? あなたも私を化け物だと思っているのですか?」
「違うっ! どうしてそんなこと」
「俺は! 俺はただあなたのそばにっ、あなたを守れたら、それで。夫になどと、大それた願いはもう諦めます。だから、ユーフェミア様、どうか」
その時、コツコツと扉をノックする音に、私もヒューゴもハッとなった。
「フィリス様、お休みですか? 扉を開けてもよろしいでしょうか?」
きっと夜番のメイドだろう。私たちの話し声が聞こえてしまったに違いない。
ヒューゴは素早く私のすぐ横をすり抜け、バルコニーへと出ていく。私を振り返ることもなく、来た時と同じように、バルコニーの手すりの上からふわりと宙を舞うように姿を消してしまった。
「フィリス様?」
焦れたようなメイドの声。答えなければと思いつつ、私は床の上にへたり込んでしまう。
「…………暑い。どうして?」
開いたままの窓から入ってきた風が肌に触れ、ひんやりと感じられる。
室内だけが異様に暑く、いつの間にか、ひどく汗をかいていた。
***
夜明け前の最も深い闇の中を、ヒューゴは拠点にしている宿屋へと走っていた。想定していたより長居をしてしまったせいで、夜明けが迫っている。人目につくわけにはいかないと急いでいるので息苦しさを感じていたが、それよりも頭の中を占めるユーフェミアの泣き顔で胸が苦しくてたまらなかった。
副神官長ジョナスは、ユーフェミアは婚約を嫌ったのではなく、身を引いたのだと教えてくれた。それならば、元婚約者についての誤解を解けば、ユーフェミアは戻ってきてくれるのではと思ったのだ。一刻も早く誤解を解き、ユーフェミアを南に連れ帰りたかった。
他の女を愛していると思われていることも、仕方なく婚約していると思われていることも、ヒューゴには我慢できなかった。自分の気持ちを知ってほしくて、愛を告白してしまった。
ずっと胸の内に秘めておくつもりだった。政略結婚だから、ユーフェミアは結婚してくれるのだ。愛していて執着しているなんて知られたら、気持ち悪いと嫌がられるだろうとわかっていた。
恐れていたとおり、ユーフェミアは照れることも、喜ぶこともなく、口を閉ざしてただ泣いた。泣くほどに嫌がられてしまった。ユーフェミアにとってヒューゴは、親が決めた政略結婚の相手でしかなく、愛し合う恋人としてはあり得ない相手なのだろう。
お飾りの公爵夫人で満足かと聞かれ、答えることができなかった。ヒューゴが望んでいるのはお飾りの公爵夫人ではなく、心を通わせた相愛の妻だから。ユーフェミアを己の妻として独占し、溺愛して、常にそばに置かなければ満足などできないと自覚していた。
何の役に立たなくてもと、ユーフェミアが言ったのにもひっかかってしまった。それは、公爵夫人として跡継ぎを産むことさえしないということだろう。ヒューゴの子供を妊娠するつもりがない、そういう行為はしないという拒絶なのだと思ったら、絶望に目の前が暗くなり、何も言うことができなくなった。
もし、政略結婚のお飾りの妻で十分だと噓をつけていたら、ユーフェミアは安心して帰ると頷いてくれただろうか。だがそう言えなかったヒューゴは、彼女に対する強い劣情や執着を見抜かれ、嫌悪されてしまったのだろう。その後、ヒューゴが何を言っても、ユーフェミアは戻ると言ってくれなかった。ヒューゴに相応しい相手を選べと突き放され、死んだことにしろと一切の関わりを拒絶されてしまった。
夫になりたいなど、本来なら絶対に手の届かないユーフェミアに対して大それた願いを持つから、手痛いしっぺ返しを食らったのだ。
だが、このままユーフェミアが南からいなくなってしまったらどうすればいいのか。どれだけ拒絶されても、ヒューゴはもう、ユーフェミアなしで生きてはいけないというのに。
なんとか夜明け前にヒューゴは宿屋に帰りついた。
宿屋の二階の部屋へと、窓からふわりと降り立つ。誰にも見咎められることなく戻れたことに、ふっと安堵の息がもれたのだが。
「誰だ」
真っ暗闇の部屋の中、誰もいないはずだというのに、わずかに人の気配を感じた。しかも三人。ヒューゴの手は腰に伸び、剣の柄を握っていた。
「どーも。妙なとこで会うね、南の次期」
記憶にひっかかる声。そして、部屋の最奥から人影が動き、窓からの月光が届く薄闇へと移動してくる。
ひらひらと振られる手のひらと、まっすぐにヒューゴのほうを向いている顔、銀の髪が闇の中で白く浮き上がって見えた。
「……西の」
西の公爵家の長男、アルマン・エア=アルブム。西の公子と幼い頃から呼ばれ、成人して正式な次期西の公爵に指名された。現在、二十歳。背中に届くほどの長い髪は銀色。青い空を切り取ったような青い瞳。すらりとした長身で、鞭のように引き締まったしなやかな体軀をしている。
南での婚約披露パーティーに来たアルマンに、ヒューゴは初めて会った。煌びやかな衣装がよく似合う、気品のある優美な男という第一印象だったのだが、今ここにいるアルマンは、優美というよりも油断ならない夜盗のよう。にやりと口の端を上げるアルマンは、優美なだけの貴公子よりもずっと魅力的な男だった。
「南ではよくも騙してくれたな。なーにが婚約だ。ユーフェミア嬢は婚約を望まず、東にいたんじゃないか」
「……」
無表情に口を閉ざすヒューゴに、アルマンは舌打ちをする。
「若様、そのような乱暴な話し方はおやめくださいと、何度もお願いしているではありませんか」
と、もう一人、部屋の影の中から困り顔で出てきた男。アルマンと同じぐらいの長身で、アルマンの倍ぐらいは体の厚みがありそうな、見るからに軍人とわかる姿勢のいい男だった。
ヒューゴの視線を受け、男は一歩前に出ると、深々と頭を下げる。
「南の次期公爵ヒューゴ・エア=ルーバン様にご挨拶申し上げる。私は西の公爵アルブム家に仕えるルドルフというもの。西の次期公爵アルマン様の護衛をしております。お目にかかれて光栄です」
そして三人目、南の副神官長ジョナスが苦虫を嚙みつぶしたような顔で進み出る。
「お二人は王都で神官長様にお会いになり、フィリス様に会うために東に来られたそうだ」
ジョナスは公爵令嬢ユーフェミアではなく、いとし子フィリスと言った。西の二人がすでにユーフェミアとフィリスが同一人物だと知っていると、ヒューゴに教えてくれたのだろう。
「フィリス様は神官長様に、君との婚約を解消するために協力してほしいと手紙を書いていてね。王都でそれを読んだ神官長様は、アルマン様に助力を願い出たそうだ。フィリス様を南から救い出すのに協力してほしいと」
「救い出す?」
ヒューゴは思わず繰り返してしまった。
だとしたら、ユーフェミアが救い出されるのは、ヒューゴのもとからということになる。ユーフェミアはヒューゴのもとに不当に捕らえられている、ヒューゴのもとにいることが彼女の意思に反していると認識されているということだ。
どんな手紙をユーフェミアが書いたのか。そこにどれほどのヒューゴに対する拒絶があったのか。思い出されるのは、先程のユーフェミアの泣き顔だった。ヒューゴはぐっと拳を握り締め、泣きたいような叫びたいような気持ちをこらえた。
「ヒューゴ・エア=ルーバン。君もユーフェミア嬢との婚約には乗り気じゃないと聞いている。元婚約者と結婚するつもりだったんだろ?」
西の次期公爵アルマンが話しだす。
「だとすれば、我々の利害は一致していると思わないか?」
「利害?」
「俺はユーフェミア嬢と結婚したい。君はしたくない」
「……」
「君はすでに次期公爵としての披露を終えている。ユーフェミア嬢との結婚がなくなっても、次期公爵の座は揺るがないだろう。心配なら、俺が後押ししてもいい」
アルマンは自信たっぷりにそう言って、華やかな笑みを浮かべる。
西の公子アルマンは、現公爵の第一子として、豊富な魔力と西の加護である風の力、恵まれた体格を持って生まれた。次期公爵になることを疑問視されたこともなければ、対等なライバルも存在しない。
そんなアルマンは自信に満ち溢れ、自分の持つ力と影響力について正しく把握している。傍系の伯爵家次男に生まれ、実力だけで這い上がってきたヒューゴからは、傲慢に見えるほどに。
「東での治療を終えた後、ユーフェミア嬢は南に帰らない。俺と一緒に西へ行く。君は南に帰り、南の公爵に事実を報告すればいい。そうすれば、すべて丸くおさまる。君も俺も、希望どおりの結婚ができるというわけさ」
何が丸くおさまるのか。ヒューゴはふっと息をつき、笑い出すのをこらえる。
「凄い自信だな」
ぼそりと口の中でつぶやかれたヒューゴの低い声は、アルマンには聞こえなかったようだ。
ヒューゴには、ユーフェミアを求める気持ちの強さでは誰にも負けないという自負がある。身分も能力も容姿でも、ヒューゴがアルマンに勝てるところが何もなくても、ユーフェミアを想う気持ちだけは負けないと、ヒューゴは自分を奮い立たせる。
「まず、私はユーフェミア様との結婚を望んでいる。元婚約者のことは、ユーフェミア様の誤解だ。だから、あなたとの利害は一致しない」
「……」
「南は、ユーフェミア様こそ次の公爵夫人に相応しいと考えている。熱望していると言っても過言ではない」
胸を張って立ち、自信を感じさせる口調で言い放ったヒューゴには、次期公爵に相応しい威厳があった。威圧しようという意図で西の公子を睨む。
だが西の公子はヒューゴの視線を平然と受け、ヒューゴを睨み返す。アルマンも伊達に幼い時から西の公子と呼ばれているわけではない。
二人の次期公爵は双方一歩も譲らずに睨み合う。先に口を開いたのはアルマンだった。
「ユーフェミア嬢がどんな誤解をしているのか知らんが、彼女からの申し出によって神官長様は南での縁談を無効にしようと動かれている。君が縁談を強行しようとすれば、神殿を完全に敵に回すことになる。意味はわかるよな?」
「我々南の者は、ユーフェミア様をお慕いし、公爵夫人になられることを心待ちにしている。軍人は特にだ。もしユーフェミア様を西へと考えるのなら、きっちりと筋を通し、南を納得させてもらわなければならない。でなければ、このことは後々まで大きな禍根となり、南と西の協力関係は崩れてしまうと断言しよう。東にいるユーフェミア様をこっそりと西に持ち帰るような真似は、南には到底受け入れられるものではない」
ヒューゴは迷いのないきっぱりとした口調で言い切った。威厳だけではなく、凄みのある口調と態度に、アルマンの後ろに控えていた護衛のルドルフなどは、自然と半歩下がり頭を下げていた。
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