書籍詳細
初恋の皇子様に嫁ぎましたが、彼は私を大嫌いなようです1 なんせ私は王国一の悪女ですから
ISBNコード | 978-4-86669-702-4 |
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定価 | 1,430円(税込) |
発売日 | 2024/08/28 |
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内容紹介
立ち読み
皇城の大広間に入った瞬間、クラリッサの耳は周囲の音を正確に拾った。
「あれがラウレンツ様の奥様?」
「アベリア王国の……」
「悪女だって噂だけれど、大丈夫なのかしら」
「すごく美人じゃん。俺あの子になら遊ばれても良いかな」
「いや、フェルステル公爵の嫁だぜ。止めとけ。睨まれたらやばいっしょ」
「ラウレンツ様と結婚するのは私だと思ってたのに」
噂話をされることも、周囲から冷めた目を向けられることも、クラリッサは慣れている。今更こんなことを気にするほど柔ではない。
クラリッサはラウレンツの腕に添えた手に力を入れないよう、こっそりと深呼吸をした。微笑みを浮かべて、周囲の声は何も聞こえていないふりをする。
「ねえラウレンツ。流石、皇城の大広間はとても華やかね」
聖書由来の神々が描かれた天井と、深紅の壁紙。窓ガラスは何もないように見えるほど透明だ。外の庭園がライトアップされていて、大広間の中やテラスからでも楽しむことができた。
そして何より、きらきらと光を反射する二つのシャンデリア。中心で光っているのは蠟燭ではないようで、揺らめきは最小限で、会場はまるで昼間のように活気付いている。
こんなところでもアベリア王国との技術力の違いを感じた。
「そうだね。この大広間は、夜会や大規模な外交の場でも使われているんだ」
「流石だわ」
近付いてきた給仕からラウレンツがグラスを二つ受け取り一つをクラリッサに渡した。
「ありがとう」
「もうすぐ始まるようだ。国王陛下がそろそろ出てくるから……」
「あら、ぎりぎりだったのね」
伝えておいてくれれば、もっと余裕を持って支度をしたのに。そう思って言ったが、ラウレンツは僅かに眉間に皺を寄せる。
「……うちは直前でも問題はないけど、それでも次からはもう少し早い方が良いだろう。見られるのは、あまり好きではないんだ」
「綺麗な顔なのに、勿体ないわね」
確かに大広間に入ったとき、クラリッサは周囲の視線が気になると思っていた。ラウレンツも気付いていたのか。
クラリッサは慣れたものだが、ラウレンツも普段から慣れていると思っていた。
「――……どっちが」
「何か言ったかしら?」
「いや――」
ラウレンツが何かを言いかけたとき、コールマンが高らかに声を上げた。
「皇帝陛下、並びに皇妃殿下ご入場――!」
噂話に夢中になっていた者達も、恋の始まりの駆け引きを楽しんでいた者達も、家族や友人同士で会話に花を咲かせていた者達も、仲の良さそうな夫婦や恋人達も、皆が一斉に口を閉じる。
奥の扉から入ってきた皇帝夫妻は、会場内をぐるりと見渡してゆっくりと歩いている。がっしりとした身体つきに、年齢と共に経験を積み重ねてきた人間の重みある背中。
アベリア王国の国王はクラリッサの父親だが、それより二回りほど年上のクレオーメ帝国皇帝は、厳格でいて荘厳といった雰囲気で、クラリッサを圧倒した。到着したときに一度会っているが、そのときにはラウレンツの成長ぶりに気を取られ、まともに見ていなかった。今思えば、よくこれだけの存在感がある人間に緊張せずにいられたものだ。
じっと見つめすぎたのか、それとも孫であるラウレンツを見つけたからか。皇帝がクラリッサに気付いたようで、ぱちり、と一瞬目が合った。
思わずびくりと小さく震えたクラリッサは、今度こそラウレンツの袖を持つ手に力を入れてしまう。服が引っ張られたラウレンツが違和感から自身の腕に目を落とした。
次いでラウレンツの両親である皇太子夫妻と、皇子達が入場してくる。
皆が並んだところで、皇帝が乾杯のグラスを掲げた。
「皆、今宵は満月だ。満ちた月の美しさに酔い、語らい、大いに楽しむとしよう」
その言葉で、皆がグラスを掲げる。
クラリッサはここでやっと、この夜会が月見の宴であることを知った。だから夜にも拘らず窓のカーテンが全て開けられていたのだ。
クラリッサは皇帝に圧倒された震えを、夜会の趣旨を教えてくれなかったラウレンツへの小さな怒りに変換して、背筋を伸ばしてグラスを傾けた。
爽やかな味の果実酒が、するりと喉を通り抜けていく。
「クラリッサ、貴女は酒を飲んで平気か?」
ラウレンツが問いかけたのは、クラリッサと飲むのが初めてだからだろう。パートナーの女性が酔って醜態を晒せば、それはラウレンツのせいでもある。
「私は強いから大丈夫よ」
「……それもそうか」
それは、悪女が酒に弱いはずがないか、ということだろうか。
見た目を変えたことで以前よりもまだ普通に会話ができるのは嬉しいが、やはり誤解されたままでいるのは寂しい。だからといって直接クラリッサが悪女だというのは噓だと言ったところで、きっと意味はない。それどころか、何を企んでいるのかと疑われる可能性すらある。
結局変わらないのだと自分を納得させながら、クラリッサは皇帝夫妻が踊るファーストダンスを眺めた。長く連れ添ってきたが故に乱れが全くないダンスを、無意識に目が追ってしまう。
すっかり夢中になっていて、曲が終わった瞬間、クラリッサは一気に意識を取り戻す。社交の場で何かに集中して周囲からの視線の存在を忘れるなんて、これまでほとんどなかったのに。
そんなことをしていたら、完璧な悪女でなんていられなかったから。
クレオーメ帝国に嫁いできて約ひと月。どうやらクラリッサは、フェルステル公爵邸の使用人達との穏やかな生活に慣れすぎてしまったようだ。
そんなことを考えていたクラリッサを知ってか知らでか、ラウレンツが突然クラリッサから手を離した。
「――踊って、いただけますか?」
隣にいたはずのラウレンツが、クラリッサに左手を差し出していた。
優雅に腰を折るその姿は、皇族らしく堂々としている。眼鏡のレンズ越しの青い瞳がクラリッサの目をまっすぐに射貫いた。そこに僅かに悪戯な色が浮かんでいるのは、クラリッサの気のせいだろうか。
「あ……そ、そうね」
クラリッサは誰にも気付かれないように、ちらりと周囲を確認する。
皇帝夫妻が踊った後は、皇族が踊ることになっているらしい。
ラウレンツは臣籍降下しているが、他にも現皇帝の直系である家の当主達も出ているから、ラウレンツも該当するようだ。
そして今日、クラリッサとラウレンツは結婚後初の社交の場で、誰もが興味を抱いている。
先にダンスフロアに出ている皇族達が、皆ラウレンツとクラリッサを見ていた。
クラリッサは困惑と緊張を隠して、慣れた微笑みを身に付ける。
そして、皇族達にも決して見劣りしない、今夜の月より美しいのは自分だけだと思い込むように、心の芯をぎゅっと太くして、ラウレンツの手に右手を重ねた。
「ええ、喜んで。一緒に楽しみましょう」
大きな声ではない。しかし浴びた注目の分だけ周囲を威圧するように、よく通る声で。この会場にいる者全員に、クラリッサの声が聞こえるだろう。
艶のある声でクラリッサが返事をすると、ラウレンツは僅かに目を見開いて、口元の笑みを深くした。
「面白いな」
ラウレンツがクラリッサの手を引いた。その確かさに鼓動が早まった。
新婚だからか、他の皇族達が中心に行けというように場所を空けてくる。ラウレンツもそれに応えて、当然のようにクラリッサを今夜の中心に連れて行く。
向かい合い、クラリッサの腰をラウレンツの手が支える。クラリッサは自然な仕草で、自身の腕をラウレンツに沿わせた。
音楽が流れ始め、最初の一歩を同時に踏み出した。
くるり、と回ると、クラリッサのドレスの裾もふわりと舞う。
ラウレンツのリードはどこか過保護で、クラリッサには少し窮屈でもある。
何かやらかさないかと心配しているのだろう。側に置いて、問題を起こさないようにしたい。そんな感情がそのまま乗っているかのようで、少し硬い。
「――大丈夫か?」
心配しているかのような言葉に、クラリッサは少し苛ついた。
アベリア王国一の毒花。
美しく咲く悪の華。
その姿は作り物だったが、確かに、クラリッサが積み上げてきたものだ。
ラウレンツに心配されるほど、過保護な檻に入っていられるほど、大人しいものではない。
「……私を、誰だと思っているのかしら」
クラリッサは次の見せ場で思いきりラウレンツの腕の中から飛び出した。
二人、ペアで踊っている形を崩さないようにしながらも、思いきり身体を動かしてラウレンツをクラリッサのペースに引き摺り込む。
ラウレンツは元々ダンスが得意なのか、最初こそ驚いたふうだったものの、すぐにクラリッサに付いてきた。
手を取り、離れ、また戻り、離れて、すぐに引き寄せられる。
自由に舞う蝶のように。
蝶を誘う芳しい花のように。
クラリッサとラウレンツのダンスは、会場中の視線を集めていた。
「貴女は……まったく」
ラウレンツがクラリッサにしか聞こえないよう耳元で囁く。
ほんの僅かに息が上がった、普段よりも吐息の多い響きにぞくりとする。
踊っているせいではない頰の上気に動揺しながらも、クラリッサは感情のまま、ラウレンツに笑顔を返した。
「楽しいわ。とっても、楽しいわね」
どれだけ無茶をしても、ラウレンツは適切にクラリッサの手を引いて、離れすぎないようにしてくれる。その安心感も満足感も、クラリッサが初めて味わうものだった。
こんなに楽しく踊るのは初めてだった。
無理に悪女を演じなくて良い。ただ、クラリッサがありたいように立ち、ありたいように踊れば良い。なんて心が自由なのだろう。
いつの間にか忘れていた子供の頃のような無邪気な笑顔が零れ出た。
音楽が終わりに近付いてくる。
思いきり踊った身体の疲労感よりも、もっと踊っていたいという高揚感の方が大きい。
いつの間にかラウレンツも楽しげだった。
もっと。もっと。
この楽しい時間が、終わらなければ良い。
少しずつ速度を落としていく演奏に、クラリッサの足取りも重くなる。
最後にくるりと回ってラウレンツに引き寄せられると、抱き締めるようにそっと身体に腕が回された。
「はぁっ……はぁ」
乱れた呼吸が周囲に気付かれないように、クラリッサは肩を動かさずに薄く開けた唇の隙間から息を逃す。少し汗ばんでいるのは、調子に乗りすぎたせいかもしれない。
クラリッサよりもずっと落ち着いた呼吸をしているラウレンツは、そんなクラリッサの手を引いてダンスフロアを横断した。
「えっ、何? どうし――」
「少しテラスで休もう」
ちらりと振り返ると、ダンスフロアでは踊っていた皇族達が戻っていき、周囲では男女が誘い誘われを繰り広げていた。どうやら、もう出番は終わりらしい。
クラリッサは素直にラウレンツの言うとおり、一番近いテラスに向かう。扉を開けて外に出ると、今日が月見の宴だからだろう、テラスには休憩用のソファとサイドテーブルがあった。
並んで座ると、給仕が二人分のグラスを持ってくる。
腰を下ろしてグラスを傾けると、火照った身体に冷たい液体が染み込んでいくのを感じた。
「あまり勢いよく飲むと酔うと思うけど」
「強いから大丈夫なのよ」
クラリッサは言い返して、また一口飲んだ。
ソファには少し厚手のストールも置いてあり、クラリッサは遠慮せずにそれを肩に掛けた。
「この後、落ち着いたら皇帝陛下に挨拶をして、それからしばらく挨拶回りをすることになる。大丈夫か?」
「ええ、平気よ」
ラウレンツは冷たい人なのだと思っていたが、こうして一緒に過ごしてみると、心配しすぎなくらいクラリッサを気遣ってくれている。そういうところは、幼い頃から何も変わっていないのかもしれない。
「これでもアベリア王国の王女だもの。社交の場には慣れているのよ」
クラリッサは、ふふん、と安心させるように胸を張る。
それを見たラウレンツは、左手で眼鏡の位置を直して眉間に皺を寄せた。
「……隣で黙って笑っていてくれれば良いから。本当に、余計なことは言わなくて良いから。頼むから、問題は起こさないでね」
ラウレンツが念を押すように言う。
クレオーメ帝国ではもう悪女のふりをする必要がないクラリッサは、絶対大丈夫だというように微笑んだ。クラリッサが問題を起こさなければ、揉め事など起こらないだろう、という自信があった。
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