書籍詳細
半年後に円満離婚のはずが、なぜだか溺愛されています
ISBNコード | 978-4-86669-701-7 |
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定価 | 1,430円(税込) |
発売日 | 2024/08/28 |
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内容紹介
立ち読み
「…………っ」
朝。目が覚めたら寝台の隣で上半身裸の男友達が眠っていました。ちなみに自分も真っ裸です。
頭の中で現在の状況を客観的に説明してみたフレアは、人間予想外の出来事に見舞われると頭が真っ白になって言葉も出てこないのだなあとしみじみ感じ入った。
(え……どういう状況? ていうか、ここはどこ?)
寝台の中でもぞもぞ動いたフレアはこちらを抱き込むように眠っているリディウスをごろんと反対側へ転がし、半身を起き上がらせた。それから周りを見回す。
落ち着いた色合いの壁紙に彩られた正方形の客室だ。今自分たちが眠っているのは天蓋付きの大きな寝台で、横にはサイドボード。それから窓辺には二脚の椅子と小さな円卓が置かれ、寝台の正面に設えられた暖炉のマントルピースの上には置時計や風景写真が飾られている。
(ええと……昨日はわたし、イグレシア公爵家主催の仮面舞踏会に出席していたのよね。それでお酒を飲んで……飲んで……?)
一杯で酔いが回った気がする。あのカクテルには強い酒が使われていたらしい。
そういえば隣にいたリディウスが制止するような台詞を言っていた気もするが、昨日のフレアは聞く耳を持たずに飲んでしまった。
なぜなら彼はまるでフレアの保護者にでもなったかのように「いくらイグレシア公爵家主催とはいえ、仮面舞踏会で羽目を外す出席者だっているんだ。二、三曲踊ってもう満足しただろう? 早く帰った方がいい」などと諭してきたのだ。
リディウスが心配するのも無理はない。過去にフレアは、言い寄ってくる男たちへの対応に苦慮しているところを、二度も彼に助けられたことがあった。
それが縁でフレアは新興男爵家の娘であるにもかかわらず、リーヒベルク公爵位を受け継ぐリディウスと知り合い、気の置けない友人という関係になったのだから。
だというのに、昨夜は反発心と舞踏会の高揚感も手伝い、リディウスの前で帰らない宣言までして、給仕係が持つ盆の上からグラスを取り一気に呷った。
そして見事に酔っぱらったというわけだ。
(体が熱くなってドレスを脱いで……リディウスにわたしの方からくっついた気がする……。そしてまさかこんなベタオブベタな展開になってしまうとは……。事実は小説よりも奇なりって、あれ本当だったわ)
覚えている限り昨日の記憶を脳内で思い返したフレアは頭を抱えた。いや、まさか酒に酔った勢いで男友達と男女の関係になってしまうなんて思わないではないか。
「はあ……まさか現実だったとは」
まるで夢を見ているかのようにふわふわした出来事だった。てっきり夢だと思っていたのだが、その割にところどころ鮮明に覚えている。否、酔いが醒めた今、リディウスとの夜の残り香のようなものが肌や耳に残っていることを知覚する。
見下ろした上半身には赤い痣のようなものがいくつもついているし、倦怠感に包まれてもいる。足のつけ根の奥が妙にひりひりするのは、初めて男性を受け入れたからであろう。
今年二十歳になったフレアは友人たちにも既婚者が増え、未婚ながら性知識はしっかり持ち合わせている。
一方、一夜の相手であるリディウスはまだ夢の中だ。
「このあと……どうしよう?」
多分話し合いが必要なんだろうけれど。何を話せばいいのか。二年も友人関係を続けてきたリディウスが相手というのが気まずい。いや、これが見知らぬ誰かであれば今頃悲鳴を上げて逃げ出しているけれど。頭の中は大忙しだ。
「もう。何だってあなたは眠ったままなのよ」
フレアは隣を覗き込んだ。
すると、目を閉じていてもまざまざと分かる美貌が目に飛び込んでくる。
「……こうして見ると、ほんっとうにきれいな顔をしているわねぇ」
蜂蜜を溶かしたような金の髪はさらさらしているし、固く閉ざされた瞼を縁取る睫毛も同じく金色で、そのへんの女性よりも長いのではないだろうか。
シャープな顎のラインと形の良い鼻梁、厚くも薄くもない絶妙な形の唇。文句のつけどころのない美貌の持ち主である。
「寝顔なんて滅多に……ううん、こういうことでもなければ一生拝めなかったのだもの。せっかくだから観察しておこう」
フレアはリディウスの髪に触れてみたり、喉の出っ張りが上下に動く様子をまじまじと見つめてみたりする。
一種の現実逃避である。
少々したのち、フレアの目の前で観察対象が「ん……」と呻いて目をぱちりと開く。
リディウスは焦点を合わせるように幾度か目を瞬いた。
身を起こした彼がフレアを見つけ、その頰に手を伸ばしてきた。
「おはよう、フレア」
◇◇◇◇◇
フレアの口から「離婚した方がいいと思う」と発せられた直後。
「どうして!?」
リディウスは即座に身を乗り出していた。
フレアは激昂するメンブラート伯爵からリディウスを庇うために交際宣言を行った。かれこれ二年ほどお付き合いをしていると。
彼女だって理解しているはずだ。真剣交際を匂わせるそれが行き着く先が結婚であることを。
現にメンブラート伯爵はすぐに矛先をリディウスに変え、その真意、つまり将来を誓った真剣交際であるのかと問いただしてきた。
リディウスにとって正念場であった。彼女を想う心は本物だ。ずっと恋焦がれてきた。彼女と結婚したくてアルンレイヒに赴任してきたくらいなのだから。
それでもアルンレイヒでのフレアの保護者役を自認しているメンブラート伯爵を納得させることができなければ、彼女と前に進むことはできない。
だからリディウスは伯爵から目を逸らすことなく、本心を伝えた。彼女を想うその心を。
まさか今すぐに結婚契約書に署名をしてみせろと言われるとは考えてもいなかったが、ここで引いたらリディウスのフレアを想う心はこれ以降信じてもらえなくなる。
フレアは成り行きに驚いていたようだったが、リディウスを庇うために交際宣言を行ったくらいだ。結婚してもいいと少しは考えてくれているのではないか。
そのように考えていたのだが。
「ええと、理由は色々とあるけれど……」
顔から血の気を引かせるリディウスの前で、フレアがつうっと視線を逸らした。
「全部聞かせてくれる?」
「まずは……わたし自身、独身でも全く困らないから。貴族の家の娘が結婚相手を探すのに一生懸命になるのは、女性に相続権がほぼないからでしょう? 他にも世間の風潮とかあるけれど。大きな理由は経済的な問題だと思うの」
貴族の血を次代へ継承させること。代々受け継いだ領地や財産を円滑に次世代へ繫ぐこと。これが貴族の家に課せられた使命である。
そのため生まれた娘たちは、女の幸せは結婚をすることだと言われて育つ。家と家との繫がりが一族を繁栄へと導き、家を存続させることになるからだ。
それ以外にもう一つ。先ほど述べた通り経済的な理由もあった。家を継ぐのは基本的に長男で、娘が行かず後家で実家に居続ければ肩身の狭い思いをする。
男であれば長男でなくとも医者や軍人、官僚など仕事を持つことができる分、将来的な心配は少ない。だが、女は外で働くべきではない、恥であるという風潮が貴族の間では特に強いため、身の振り方が限られてしまう。
もちろん女性であっても親から財産をもらえないというわけではない。結婚時に持参金を持たせてもらえるし、女性親族が娘や孫、姪に自身が持つ債権や現金、宝飾品を譲ることもある。こればかりは各家さまざまだ。
「わたしが生まれたファレンスト家は貴族といっても十数年前に男爵位に叙せられた新興貴族だし、代々守ってきた土地もないわ。あるのは会社の株券と預金や債権、美術品くらいなものかしら。ファレンスト家では、子供が小さな頃から会社の株券などの資産を財産分与として譲渡するのよ」
ファレンスト男爵の三人の子供たちは、毎年同じ金額を分け与えられているのだそうだ。フレアの場合は銀行の投資部門の担当者に運用を任せているとのことだが、数か月に一度は投資内容が記された報告書を読んでいるとのこと。
「わたしの両親は女が働くことに無理解というわけでもなくて、おかげで劇作家を続けることができているわ。今はそちらでの収入もあるから、特に結婚しなくても一人で生きていけるのよね」
フレアが言い切った。
彼女の価値観で言えば、女性が結婚するのは経済的自立が難しいから。だからそこがクリアになっている彼女は結婚に意味を見出すことができないのだという。
(今まで互いの結婚観など話題にしたこともなかったからな……)
そもそも世間では、男女共に適齢期になれば結婚するというのが当たり前という価値観がまかり通っている。
そして結婚適齢期であるリディウスとフレアの間でこの話題を出せば、必ずいいお相手はいないの、などという方向へ会話が進んでいただろう。
そこで万が一にも「あなたの縁談に差し障るといけないから、文通もお出かけもやめましょう」と言われたら泣ける自信しかないため、自ら進んで結婚という単語を出すことはなかった。
(そういえばフレアは恋がしたいと言ってはいたが、結婚がしたいとは言っていなかったな)
認識不足であった。
「それに……わたしってほら、内向的だし社交デビューしてはいるものの、あまり表舞台に立つこともしてこなかったし……。公爵夫人としての振る舞いができるとは思えないの」
フレアがごにょごにょとつけ足した。
彼女曰く、初対面の人を前にすると上手く言葉が出てこない。女性であればまだ何とかなるのだが、男性は余計に苦手で笑顔が引きつってしまう。人前に多く出る機会のあるリディウスの妻がこのようなポンコツでは早晩彼の活動に支障をきたしてしまうことは必至。
「だからね、あなたにはリーヒベルク家の家格に見合った、語学堪能で物怖じしない、あなたの仕事を助けてくれるような貴族令嬢の方がいいと思うの」
フレアがそんな風に締めくくった。これがあなたのためだと信じて疑わないという視線が胸をグサグサと刺してくる。痛い。
察するにファレンスト家が新興男爵家であることを懸念している模様だ。
そんな外部要因に恋心を阻まれてたまるか。フレアに思いとどまってもらうべく口を開く。
「語学ならフレアだってできるだろう? きみは元アルンレイヒ第三王女殿下の話し相手として宮殿に上がることを許されていた。つまりは礼儀作法も宮殿のお墨付きだ」
「確かに子供たちの教育に手を抜かなかった両親のおかげで三か国語は話せるし、お作法の授業も子供心に厳しかったなあと思わなくもなかったけれど」
そういうことではないのだ、とフレアがさらに続ける。
「将来大貴族の跡取りと結婚するという前提で暮らしてきたご令嬢とは違って、わたしはのんびり好きなように生きてきてしまったから……あなたの妻は……ちょっとこう、荷が重くて」
つぅっと視線を外しながらフレアが放った言葉は太い矢となり、リディウスの胸を直撃した。
荷が重い。そうか、彼女にとって公爵の妻というのはマイナス要素にしかならないのか。
息も絶え絶え、瀕死の一歩手前である。
「それで現実的なことに話を戻すのだけれど、アルンレイヒでは基本的に離婚は認められていないじゃない?」
「……そうだね」
話の運び方に嫌な予感しかしない。
「離婚を希望する夫婦は教会に訴え出たのち審議に入るけれど、進捗はひどく緩やかって聞くわ。のっぴきならない事情がある場合は修道院に駆け込む方が有効とされているくらいだとも」
アルンレイヒやフラデニアなど、西大陸で広く信仰されている神は、結婚した男女の離縁を認めていない。これは神の前での誓約は生涯守られるべきものだという教えに由来している。
昔は戸籍の管理は教会が行っていた。赤ん坊が生まれたら教会に届けて洗礼を受け、結婚は神の前で誓い、天に召されれば教会で葬儀を行う。人の生き死にに、教会は密接に関わってきたのである。
時代が下り、王と教会が勢力争いを繰り広げる中、アルンレイヒをはじめ多くの国では教会に届けなくても国の定めた機関、つまりは役所に届ければ戸籍は与えられるし、結婚も認められるようになった。もちろん死亡時には役所への届け出が必要になる。
とはいえ千年以上もの間、教会と共に歩んできた慣習を一気に変えることは難しい。離婚に関しては現在も教会は慎重の姿勢を崩していない。
「でも、わたしたちはフラデニア人よ。アルンレイヒでの離婚は数年がかりの大仕事だけれど、フラデニアでは結婚後六か月が経てば離婚が認められている。リディウスもこのことは知っているわよね?」
「……もちろん。過去の国王が王妃と離婚するために法律を変えて、教会と大喧嘩したからね。歴史書にも記載されている事項だ」
リディウスは未だしくしくと痛む心を抱えたまま答えた。
「結婚後六か月での無条件離婚が認められるのは、夫婦どちらかがフラデニア人であることが条件。わたしたちは夫婦共にフラデニア人よ。結婚契約書を届け出たのはアルンレイヒだけれど、書類の日付から六か月経てば離婚ができるわ」
過去に教会と大喧嘩をして制度化した離婚要件をフラデニアの王たちは維持し続けた。
夫婦どちらかがフラデニア人であること、との条件はのちに付け加えられた。離婚したい夫婦たちが国境を越えてフラデニアに押し寄せ、離婚申し立てを行ったことで、近隣諸国から苦情が来たからだ。
「だからね、リディウス。何事もなければ六か月後に離婚しましょう。そうしたらあなたはわたしよりもよっぽどリーヒベルク公爵家に相応しい夫人を新しく迎えることができるわ」
フレアがにこりと微笑んだ。まるでこの提案がリディウスにとっても最善であると確信しているかのように。
一方、リディウスは全身から血の気が引くのを感じていた。どうにかして結婚を維持できるよう説得しなければ六か月後に捨てられてしまう。
「けれどフレア。離婚をすれば少なからず世間の好奇な目に晒されることになる。私はきみをそのような目に遭わせたくはない」
「人の噂も七十五日っていうじゃない。わたしはあまり社交界に顔を出さないから平気よ。別に独身でも困らないもの」
フレアがあっけらかんと言った。まごうことなき本心であると、その瞳が物語っている。
(最後の最後で理性を吹き飛ばしてしまい、色々な要件をすっ飛ばしてフレアと結婚した私への因果応報というわけか……)
あの日、ドレスを脱いで艶めかしい姿を惜しげもなく晒し、さらには「助けて」と瞳に涙を溜めながら縋りついてきたフレアを前に、リディウスは頭の中で円周率を三桁刻むも無残に散った。
リディウス自身酒が入っており、手を伸ばせば触れられる距離に愛おしい女性がいるという状況に流されてしまったのだ。
彼女に吸い寄せられ、その柔らかな唇に触れた。温かな口腔内をたっぷりと愛でて寝台の上に押し倒し、きめ細やかな肌をまさぐった。
愛おしいフレアに一度触れてしまえば止まることなどできなかった。
ずっと触れたかった。
彼女はどんな風に啼くのだろう。その肌はどこもかしこも甘いに違いない。
そのように夢想していた相手を前に、男の劣情を制御することができず、最後までしてしまった。
翌朝、目覚めた当初こそ少々寝ぼけていたが、しっかり覚醒したあとは己の所業を悔い、取り返しのつかないことをしてしまったと猛省した。
フレアのような階級の娘にとって婚前交渉は忌避すべき行為だ。貞節が求められる女性が嫁入り前に純潔を散らすなどもってのほか。だからこそ男性は常に紳士であれと言われるというのに。
まずは彼女に真摯に謝罪をする。そのあと自分の正直な気持ちを伝え、改めて求婚しよう。責任を取るなどという意味ではない。私はフレアを愛している。きみだから結婚したい。そう伝える。
だがこれから彼女に想いを伝えるまさにその時、メンブラート伯爵に一夜を共にしたことが露見し、結果として先に籍を入れてしまった。
順番は逆になったがフレアを法律上の妻とした今、彼女を手放す選択肢はリディウスの中にない。
できればこのまま夫婦関係を維持したい。
とはいえ、フレアが独身主義者なのだとしたらリディウスの考えと気持ちを押しつけることはできない。それをすれば彼女の心は己から離れていくし嫌われてしまう。
「フレアは独身でも全く困らないって言ったけれど、それは結婚は絶対にしたくないっていう意味? ええと、世間の女性活動家の中には独身主義者もいるって聞いたことがあって」
「うーん……。そこまでの強い意思はないと思う。お母様とお父様のような仲のいい夫婦は素敵だなって思うし……。生涯独身を貫きたいってことはないと……思う」
リディウスは心の中でガッツポーズをした。
結婚に対してある程度明るいイメージは持っている模様だ。仲のいい夫婦に憧れもあるらしい。
(ということはフレアの中では公爵の妻という部分が引っかかっているわけだ)
未知の領域だから二の足を踏む。爵位の高さに腰が引けている。そのような具合なのだろう。
であれば攻勢の仕方も変わってくる。もう己はフレアなしでは生きていけないのだ。ここで逃げられるわけにはいかない。
離婚が認められるまでの六か月が勝負である。
「フレアの結婚に対する考えは分かった。ただ私たちにはまだ六か月も時間があるんだ。将来の離婚について話し合うのではなく、この時間をもっと有意義に使ってみるのはどうかな?」
「有意義って?」
フレアが小さく首を傾げる。
「フレアは今後の創作活動のために恋がしたいって言っていたけれど、恋は一旦脇に置いておいて、まずは結婚生活の疑似体験をしてみるのはどう?」
◇◇◇◇◇
「結婚生活の疑似体験をするにあたって、まずは上流階級の人々の間で流行っている新婚旅行に出かけてみるのはどうだろう」
と提案したのはリディウスである。
いくらリディウス自身が格式や伝統にこだわらないと断言しても、ミュシャレンに住む貴族より数々の催しの招待状を受け取るだろうことは想像に難くない。
そうなればリディウスとの結婚生活を体験する前に、社交界のお付き合いでフレアが疲弊してしまう可能性があった。
ただでさえ結婚式準備に忙殺されていたのだ。疲れ切ったフレアが現実に対応できずに「やっぱり実家に帰ります」と言い出すのを危惧したリディウスは手を打つことにした。
つまりは休息期間としての新婚旅行である。リディウスとしても誰にも邪魔されることなくフレアと二人きりで過ごしたい。
かつて結婚式に参加できなかった親戚や友人を家族と訪ね歩くことが目的だった新婚旅行は、近年では夫婦二人で旅行に行くことを指すようになっていた。
リディウスにとって久しぶりの休暇である。赴任から日は経っていないが、休暇は権利として認められているため取得自体は難しいことではない。ちなみにリディウスの上役である大使は七月に一か月の休暇を取る予定だ。
そのようなわけで二人で旅立った(貴族の移動には使用人も随行するため厳密には二人きりではない)のだが、恋しい女性と二人きりという状況で、日々理性を試されることとなった。
朝、寝ぼけまなこのフレアが「おはよう、リディウス」と言いながらあくびをかみ殺すのも、列車での移動中、うとうとしながらこちらの肩に身を寄せてくるのも、何もかもが新鮮で可愛い。
新婚旅行の最終目的地であるドゥヴネトヴァの街は、リディウスたちが住むアルンレイヒから南へ二つの国を経た先の国、そこにある半島の都市から、さらに船に乗る必要がある。
このように遠く離れた異国へ軽々と赴くことができるようになったのも、蒸気機関の発明と発達により、船や列車での移動速度が格段に上がったおかげだ。
それから上流階級の旅行ブームが中流階級へと広がりを見せたことにより、旅行手続きを代行する旅行代理店が現れたことも大きい。
(毎日フレアが側にいるとか、何なんだこのご褒美。フレアの供給過多で心臓が止まってしまいそうだ)
まだ新婚旅行は始まったばかりだというのに、最終目的地ドゥヴネトヴァへ向かうまでの三日間で息も絶え絶えであった。
ホテルの部屋こそ寝室は別々だが、移動中の列車は一等個室。つまりは密室で。
これまでとは違い妻になった恋しい女性と四六時中二人きり。しかもハプニングとはいえ結婚式で口付けまでしてしまった仲だ。
長距離移動のため、彼女は警戒心などまるで持たずに無防備に寝顔まで晒すのだ。
隣から聞こえる規則正しい呼吸音とたまに発せられる吐息。はっきり言って生殺しである。
そのためリディウスはフレアに触りたいという本能と常に戦うこととなった。髪に触れるくらいなら許されるだろうか。手を握るのはだめだろうか。
そのような衝動に駆られるたびに頭の中で円周率や素数を数えたり、フラデニアの歴代国王の名前を唱えたりして心を無にする羽目になっている。
そんなリディウスの葛藤になどちっとも気付かないフレアは、ドゥヴネトヴァへと向かう船旅を満喫中である。
「ねえ、リディウス。ドゥヴネトヴァの街が見えてきたわ。青い空に赤茶色の屋根が映えるわね。それに海の碧さがとってもきれい! フラデニアの海の色ともまた違うわよね。異国に来たーって感じがするわ!」
半島の対岸へと向かう船に乗ること約十二時間。一夜を船で明かし、早朝辿り着いたのは白亜の城壁と明るい赤茶色の煉瓦屋根の街並みが印象的なドゥヴネトヴァの街だ。
待ちきれないとばかりに個室のバルコニーから目的地を眺めるフレアは今日もとても元気だ。そして可愛い。いつもは寝ぼけまなこなのだが、最終目的地への到着とあって今朝は早くに目が覚めたのだそうだ。
「十日間楽しみだわ。ホテルでのんびりするのもいいけれど、旧市街の街で買い物をしたり城壁に登って歩いてみたり、魚介類をたくさん食べたり。やってみたいことが多すぎるわ」
フレアが観光案内本を胸に瞳を輝かせる。昨日乗船前に対岸の街で買ったそれは、アルンレイヒで手に入るものよりも情報量が豊富で最新情報の掲載も早い。
「リディウスはどこか行きたい場所はある?」
「フレアの好みに任せるよ」
楽しそうにはしゃぐ彼女を特等席で舐めるように眺め倒すのが至上の喜びである。
「もう。そうやってわたしばかり優先させるんだから。今回の行き先だってわたしのリクエストが優先だったじゃない。わたしはリディウスと一緒に楽しみたいのよ」
フレアがぐいっと距離を詰めてくる。胸が触れそうなくらい近い。しかも薄い室内着。
(あれ、今一瞬胸が当たった……? いやいや……考えるな。無心になれ。3.14159265358979323846264338327950288――)
「リディウス、聞いているの?」
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