書籍詳細
さようなら、旦那様。市井に隠れて生きることにしたので捜さないでください
ISBNコード | 978-4-86669-716-1 |
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定価 | 1,430円(税込) |
発売日 | 2024/10/30 |
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内容紹介
立ち読み
「北菜館まで送ろう」
睿の言葉で、月鈴は我に返った。
「……わざわざ送ってくださるんですか?」
「こんな時分に一人歩きは危ないからな」
まさか、それで心配して追いかけてきたのだろうか。
いやいやそれはありえないかと首を横に振っていたら、睿がすっと目を逸らす。
「嫌がっても送る。行くぞ」
彼が歩き出してしまったので、月鈴は酒の甕を抱えておそるおそる追いかけた。
「嫌がってはいませんよ」
「首を横に振っていたが」
「あれは、ありえないと思っただけです」
「ありえない?」
「あなたが、わたしを追いかけてきてくださったのかなと」
「麗花に頼まれたんだ。一人歩きが危ないから送ってやってくれと」
ならば、やっぱり月鈴を追いかけてきてくれたのだ。
返す言葉がなくなって会話が途切れたが、見るからに武人と分かる睿がいるお蔭で、酔っ払いや無頼漢は絡んでこない。
しかも、睿が緩やかな足取りで歩いていることにも気づいてしまう。
――わたしに歩幅を合わせてくれているんだわ。
さりげない気遣いをしないでほしいと、俯(うつむ)いて無意識に口を尖(とが)らせてしまった。
「もう近くまで来ましたし、このあたりでいいですよ」
「店の前まで行く」
月明かりのもと、睿が前を見たまま応じる。抑揚のない声色と一瞥もくれない態度。
以前は、それが冷たく感じられたものだが――今はどうだろう。
月鈴は足元に向けていた視線を上げて、先導してくれる睿の背中を見つめる。自然と口火を切っていた。
「あなたは、いつもこんなふうに親切なんですか?」
彼と夫婦だった頃の自分なら、どうせ、そっけなく突き放されるからと話しかける前から諦めていただろうが、今は昔よりもきちんと『対話』ができる気がした。
今日、月鈴が助けを求めたら睿は応じてくれた。切羽詰まった懇願に耳を傾け、氾憂炎を促して雪華楼に来てくれて、麗花の命を救ってくれたのだ。
――わたしが知っている彼は、もっと冷たく無関心な男性だった。……でも、わたしが一方的にそう思っていただけなのかもしれない。
ふと、そんな考えが浮かんだ。もしかしたら馴染みのない気遣いや、この緩やかな足取りのせいだろうか。見上げる背中も冷たく感じられなかった。
「私が親切だと?」
「頼まれたからといって夜道の一人歩きを心配したり、店の前まで送っていくと言ったり。誰に対しても、そういう感じでいらっしゃるのかと」
「いや。ただ放っておけなかっただけだ」
「わたしのことを、ですか?」
「そうだ」
「……ふうん」
特別扱いだと勘違いしそうな言い回しだが、これはおそらく「危なっかしい小動物を保護して家まで送り届けなければ」というような意味合いの「放っておけなかった」であろう。
生返事をしたら、睿が肩越しにちらりと視線をくれた。
「なんだ」
「別に、なんでもありません」
「声に棘(とげ)がある」
「気のせいでしょう」
冷えた両手をさすりながら小声でやり取りをし、なんて不思議な状況だと思う。
かつては夫婦だったはずなのに、こうして遠慮なく会話をするのは初めてだ。
前を歩く睿の大きな背を眺めていたら、彼がおもむろに腕を持ち上げて、寒そうに両手をこすり合わせる。
汪州に比べたら黄陵は寒い。月鈴もここへ来たばかりの頃は、日が落ちたあとの冷えこみに悩まされた。たぶん睿も、昼との寒暖差には慣れていない。
「…………」
「着いたぞ」
「……はい。送ってくださって、ありがとうございました」
「ああ。では、私は帰る」
月鈴は冷たくなった両手を握り締めて、わずかな逡巡(しゅんじゅん)ののちに、足早に去っていこうとする睿を呼び止めた。
「楊隊長」
市井で暮らし始めて、月鈴は物の価値や、自力で生きていく上での考え方をたくさん学んだ。
その中でも、つらい時に手を差し伸べてくれた恩人の言葉は胸に刻まれていた。
『誰かに何かをしてもらった時、当たり前だと思っちゃいけないよ』
相手が元夫で、自分を追ってきている人だというのは間違いないけれど、今宵の睿は危機を助けてくれた。
それはきっと彼の『親切心』からくるもので、見返りを欲しての行為ではないだろう。
不思議そうに振り返る睿に向かって、月鈴は勇気を出して言った。
「もしよければ……一杯だけ、温かいお茶を飲んでいきませんか? 今日、わたしの話を信じて麗花を助けてくれたお礼と、冷える中、夜道をここまで送ってくださったお礼に」
誰かの親切を、当たり前だと思ってはいけない。できる範囲でいいから礼をする。
たとえ相手が誰であれ、その行動は人として大切なことなのだと市井の生活で学んだのだ。
断られるのを覚悟で待っていたら、睿は少し考えるそぶりをする。
「それでは、一杯だけ」
結婚していた頃、お茶に誘うたびに適当な理由をつけて断られたから、頷いてくれた彼はやはり印象が違うなと思った。
睿を店内へ招き入れて、壁際の卓に置かれた燭台(しょくだい)を灯す。
睿が下げた剣を外して座るのを確認し、月鈴は厨房へ向かった。外衣を脱ぎ下ろした髪を慣れた手つきでお団子に結い上げる。静に借りた襦裙は汚さないよう物陰で着替えて、ぎこちない手付きで湯を沸かして茶の支度をする。
店のほうを覗くと、睿は剣を卓に立てかけて燭台を見つめていた。
「よければお酒もありますよ。麗花にもらった蝋梅酒なんですが……」
「酒はいらない。私は下戸だ」
さらりと言われて内心、吃驚(びっくり)する。
氾憂炎と一緒に来る時は酒を頼んでいるし、てっきり睿は酒に強いと思っていたが、確かに厨房からちらちらと様子を窺った際は茶だけ飲んでいた気がする。
――下戸だなんて知らなかった。
月鈴は茶器を準備しながら眉根を寄せた。
舌が痺れるほどの花椒と辛い料理が好きなこと。下戸であること。こちらが話しかけたらきちんと対話をしてくれて、お礼のお茶に誘ったら受け入れてくれること。
どれも今まで知らなかった睿の一面だった。
静に教えてもらったとおり、茶葉を入れた小さな土瓶に沸かした湯を注ぐ。湯呑みと土瓶をお盆にのせて睿のもとまで運び、湯気の立つお茶を淹(い)れた。
「どうぞ。身体が温まると思います」
「頂こう」
卓の脇に立っていたら、睿が怪訝そうに見上げてくる。
「君は飲まないのか」
「あとで頂きます。お客さんの前では飲み食いするなと言われているので」
「私は店の客ではない。君に招かれた」
だから君も飲め、と目線で促される。
――確かに、わたしが招いた客ね。
ならば断るのも失礼かと思い、月鈴は厨房から自分のぶんの湯呑みを持ってきた。寡黙に茶を啜る睿の正面に座ってお茶を飲む。味はだいぶ渋かったが、指先までじんわりと温まった。
――こんなふうに、彼と卓を挟んでお茶を飲んでいるなんて信じられない。
燭台の灯に照らされた睿の顔を見る。淡く優しい光によって彫りの深さが際立っていた。
三年前と変わらぬ秀麗な面立ちを見つめていたら、俯きがちだった睿と目が合う。深みある呂色(ろいろ)の瞳に射貫かれても、やはり冷たいとは思わなかった。
それどころか、いつもより眼差しが柔らかく感じられて、心臓の拍動がとくとくと速くなる。
――さっきまで平気だったのに、なんだか緊張してきたわ。
静謐な店内で二人きり。視線を合わせているだけなのに心が落ち着かない。
何か意識を逸らせるような話題がないかと考えて「あっ」と思い出した。懐に入れておいた謝礼金の皮袋を取り出す。
「それは?」
「麗花にもらったんです。走り回っている時に、落としていなくてよかった」
「笛の演奏の謝礼金か」
そう指摘されて、月鈴は両目をぱちくりさせた。
「花街の舞台で笛を吹いていたのは、君だろう」
「どうして、そう思ったんですか」
「もう着替えたようだが、襦裙が同じだ」
慌ただしくて襦裙のことまで頭が回っていなかった。
お蔭でばれてしまったが、素顔を隠したのは『月鈴』として目立ちたくなかったからで、笛の奏者だと知られたところで彼は美雨だと気づかないだろう。
――でも、わざわざ顔を隠して舞台に立ったのに、こうやって面と向かって指摘されると……少し気まずいし、気恥ずかしいわね。
しかも、よりにもよって笛の練習を始めるきっかけになった元夫に、だ。
「……こんちくしょう、ですね」
「何?」
「素顔を見せないようにしたのに、わたしだとばれてしまったので。こんちくしょうと思って」
こんちくしょう。静の口癖だ。忌々しい時だけでなく、気恥ずかしい時にもよくそうやって悪態をついて誤魔化すのだ。公主の美雨であれば絶対にこんな言葉遣いをしない。
舞台での立ち姿や笛の音色を聞いて、睿がほんのわずかでも彼女が『美雨』ではないかと疑っていたとしても、これを聞けば違うと思うだろう。
睿がぴくりと肩を揺らして、まじまじと見つめてくる。
「今、何と言った?」
「こんちくしょう、です。あなたじゃなく、自分に対してですけど」
「ずいぶん荒々しい悪態だが」
「そうでしょう。日頃から、よく言っているので」
「…………」
「他にも、とっとと食べて帰りな、野郎ども、とか」
「さっさと茶を飲んで帰れ、と言いたいのか」
「そうではなくて、今のは静さんの真似です。いつも怒鳴りながらお客さんと話しているので、それを手本にして、わたしも日頃から悪態をついていると言いたかったんです」
「君が悪態を?」
「はい。笛を吹いたのがわたしだとばれるなんて思っていなかった、こんちくしょう、です」
さぁ、どうだ。これでもう美雨だとは思うまい。
疑いは一気に晴れたなと確信を抱き、胸を張って悪態をついてみせたら、切れ長の目をぱっちりと開けてこちらを凝視していた睿が「なるほど」と呟いた。
「興味深い」
今度は月鈴が、はたと動きを止める。
今、彼は「興味深い」と言ったのか? なんてがさつで品のないやつだと、月鈴への興味が失せてほしかったのに。
睿がお茶を啜って、空になった湯呑みをかたんと置く。
「一つ訊きたい。舞台の上で顔を隠していたのは、何故だ」
「騒がれたくなかっただけです。花街の舞台に立ったら、興味本位で男性にも声をかけられるかもしれませんから。そういうのが煩わしくて」
そうか、と短く相槌を打った睿がまたじっと視線を注いできた。
顔を背けそうになるのを堪えて、月鈴も正面から受け止めたが――。
「あの笛の音は美しかった。久しぶりに、私も吹きたくなった」
「っ……」
「しばらく、笛には触れてもいなかったが」
「……どうしてですか?」
「仕事ばかりで、そんな気になれなかったのと――母が、な」
睿がほんの少し両目を細める。
「笛の名手だったらしい。それを知って、吹かなくなった」
睿は名将、楊将軍の甥だ。実父は楊将軍の弟で、睿が幼少期に死別。母親も亡くなったので楊将軍のもとに引き取られて育ったと周知されていた。
母親の素性は公表されていないが、一時期、後宮である噂が流れたことがあった。
亡くなったと言われている楊睿の実母は、花街の妓女であると。
「どうでもいい話だ。忘れてくれ」
睿がかぶりを振って会話を打ち切ってしまう。
――今のは、どうでもいい話ではないわ。たぶん彼にとって、とても大切な話だった。
氷壁で固められたような心の内がほんの少し垣間見(かい ま み)えた気がする。
月鈴は小さく息を吐いて、睿の手元にある湯呑みに二杯目の茶を注いだ。
「?」
「二杯目は有料にするつもりでしたが、今日は特別にお金を取りません」
「……金を取れる味ではないが」
ぼそりと失礼なことを言われた気がしたけれど、つんと澄まし顔で無視をしたら、睿の表情がわずかに和んだ。
「まぁ、茶の味はするな」
「いらなければ、飲まなくていいですよ」
「頂こう」
「無理しなくてもいいんですからね」
「このあたりは冷えるから、茶は温まる」
やっぱり不思議だなと、月鈴は思う。
卓を挟んで茶を飲みながら雑談なんて一度もしたことがなかったのに、お互い素性を隠して振る舞っている今は、何故かすんなり談話ができている。
それに彼と話していると、少しつんけんとした態度を取りたくなった。
平時、穏やかな月鈴には珍しいことだが、こちらに気づかない元夫に対して意趣返しをしている気分になる。
――彼もわたしだと気づいていたら、こんな態度で接してこないわ。
二杯目のお茶を飲んでいる睿を見つめて、それとなく探ってみるかと口を開いた。
「楊隊長は氾隊長と同僚だと言っていましたが、黄陵へ来られるようになったのは最近ですよね。以前から、国境警備の任務に就いていたんですか?」
「……いや。最近、配属された」
「そうですか。氾隊長と仲がいいんですね。よく二人で大通りの飯店や、花街にいるところを見かけます」
自然な流れで切りこむと、睿が考えこむように黙った。
いったい、どんなふうに誤魔化すのだろうかと窺っていたら――。
「氾憂炎には、人捜しを手伝ってもらっている」
「人捜し?」
「そうだ。情報を集めている。どうしても見つけたい」
「……もしかして、以前、わたしと声が似ていると言っていた人のことですか?」
「ああ。音の記憶は、あてにならないかもしれないが」
「その人に、何か用があるんですか?」
似ていると言われても動揺を出さず、月鈴は質問を重ねた。上官の命令で捜している、とでも答えるのだろうか。
睿が切れ長の双眸を細めた。それだけで目付きが鋭さを帯びる。
「上官の命令で捜している」
想像どおりの答えに口角を歪めそうになるが、彼の言葉には続きがあった。
「だが、私も彼女に会いたい」
「あなたとも関係がある人なんですね」
「私が守るべきだったのに、傷つけてしまった人なんだ。見つけたら、謝って、話がしたい。そして……できれば連れ帰りたい」
睿が囁くように付け加えて、二杯目を飲み終えた湯呑みをかたんと置いた。
無音の店内に硬質な音が響き渡り、耳を澄ませていた月鈴は指をぴくりと動かす。
「少し話しすぎたな」
小声で愚痴るように言い、睿が立てかけていた剣を持って立ち上がった。
「夜も更けてきた。そろそろ帰る」
「……はい」
燭台を持って店の外まで見送りに出ると、彼は振り向きざまに告げる。
「茶をありがとう」
「こちらこそ、色々と話してくださって、ありがとうございました。おやすみなさい」
「おやすみ。きちんと戸締まりはしろよ」
睿が宵闇に溶けこむようにして去っていく。
月鈴はその場に佇み、彼の姿が見えなくなった頃に長々と息を吐いて天を仰いだ。美しい盈月が浮かんでいる。
『私が守るべきだったのに、傷つけてしまった人なんだ。見つけたら、謝って、話がしたい。そして……できれば連れ帰りたい』
「なんなの、それ」
皇太子の命令だから、美雨を捜しに来たのではないのか。
そんなことを考えていたなんて初めて知った……知らないことばかりじゃないか。
かつての冬の雨に打たれている時のような冷たく、静かな睿の目を思い出し、月鈴は悩ましげなため息をついてから店に戻った。
戸締まりをして牀褥に入ったあとも、彼の言葉は耳の奥でこだましていた。
この続きは「さようなら、旦那様。市井に隠れて生きることにしたので捜さないでください」でお楽しみください♪