書籍詳細
人質として嫁ぎましたが、この国でも見捨てられそうです
ISBNコード | 978-4-86669-714-7 |
---|---|
定価 | 1,430円(税込) |
発売日 | 2024/10/30 |
お取り扱い店
電子配信書店
内容紹介
立ち読み
リュシオルの庭は、マリエットが生活しているコライユ塔からほど近くにあった。
イネスが静かだと言った通り、高い木々が林立するそこは、小鳥の声と風のざわめきしか聞こえない。木々の隙間から注ぐ光はほどよい明るさで、夏は涼しく過ごせそうだった。
一歩先を歩くアランの後ろで、マリエットは空を仰いで胸いっぱいに空気を吸う。
――不思議。故郷と変わらず、私は城に住んでいるのに、以前よりずっと気持ちは晴れているわ。
折檻する人がいないからだろうか。
ほんのりと笑みを浮かべていると、アランがマリエットを振り返り、尋ねた。
「こちらの気候はどうだ。ウラガン大帝国は、西側諸国よりも風がよく吹く。空気も乾燥しているから、肌が乾くとアニエス姫は話していたが」
アニエスの名を聞いた途端、マリエットは目の色を変えてアランに近づいた。
「アニエス様にお会いされたのですか? どのようにお過ごしでしょう? お元気そうでいらっしゃいましたか?」
マリエットは会いたくても会えない。少しでも彼女の様子が知りたくて、つい食いついて矢継ぎ早に尋ねると、アランは若干身を引いた。
「……そういえば、アニエス姫とは旧知の仲だったな。クロードから、君は“アニエス姫との関係は誰にも知られぬようにしていた”と話していたと聞いたが、理由を聞いても?」
マリエットはぎくっとする。皇帝達と対面する直前だったので、繕う余裕がなく、クロードに真実を答えてしまっていた。
マリエットは目を泳がせ、迷い迷い答える。
「ええっと……それは、人目があると、こう、気も休まらないので……内緒で会う方が楽しかったといいますか……」
子供特有の悪戯心で、特に意味もなく内緒で会っていた。
咄嗟に思いついた理由を並べると、アランは額に汗まで滲ませているマリエットをじっと見つめ、「ふうん」と言った。
硬い雰囲気の彼から放たれたにしては、やけに軽い返事だ。違和感を覚えて視線を上げると、彼は安心したように僅かに口の端を持ち上げた。
「随分な環境で生活していたように見受けるが……気の置けない仲の者がいたなら、良かった」
「……」
マリエットは小さく口を開け、言葉もなくアランを見つめる。鼓動は一気に乱れ、頬に朱が上っていくのを感じた。
――この方……ものすごくお優しい人なのだわ。
真実はとても話せず、口から出まかせを言ったのに――彼は不機嫌そうに見せていた顔を緩め、マリエットの細やかな幸せを喜んでくれたのだ。
あまりに思いやり深い態度に、マリエットは堪えられず、瞳にじわっと涙を滲ませる。
ウラガン大帝国に移住してからというもの、誰も彼もが優しくて、信じられなかった。まるでおとぎ話の世界にでも迷い込んだようだ。
慣れない状況は落ち着かず、しかし居心地はよくて、マリエットは両手で顔を覆う。
震える息を吐くと、アランが狼狽する気配がした。
「どうした……? 何か、気に障る話をしたか? それとも体調が悪いのか?」
彼はおろおろとマリエットの顔を覗き、誰かいないか周囲を見渡す。けれど護衛のクロードは庭園に入ったところで下がっていて、ここにはマリエットと彼しかいなかった。
困らせてはいけないと、マリエットは涙を零さぬよう歯を食いしばる。指先で瞼を押さえ、口元は笑って答えた。
「いいえ、なんでもありません。こちらの国の人達が、皆優しいものだから……驚いてしまったのです。急に俯いてしまって、ごめんなさい」
だが声を出すとかえって感情は乱れ、涙は余計に込み上げた。
――情けないわ。自力で生きていけると気づいた日から、どんなにひもじくたって、鞭打たれて血が出たって、泣かなかったのに。
父王に見捨てられた三歳当時こそ、しばらく泣き暮らした。けれど自分の世話を自分で見るようになってからは、泣かなかったのだ。
だから辛く当たられても、平気でいる自信はあった。しかし優しくされるのには慣れていなくて、あっという間に心が安定を欠いてしまった。
マリエットは深く息を吸って気持ちを落ち着かせ、手を下ろす。なんとか涙は零さずに済み、瞬いて濡れた睫を乾かして、困惑しているアランに笑いかけた。
「甘えた態度を取ってしまい、申し訳ありません。どんなに親切にされようと、私が罪を負う一族であることに変わりありません。どうぞ気にせず、冷たくして頂いて大丈夫です」
婚姻した日から彼の表情が硬いのは、娶った妻に命を狙われる可能性があるからだけではない。彼はきっと、戦を起こし、多くの命を奪った敵国の王族に怒りを抱いているのだ。
だというのに彼は、命を狙うかもしれない敵国の姫を無意識に気遣う。
根の優しい人なのだと思う。でも芯の部分でマリエットを嫌悪しているなら、徹頭徹尾冷たくしてほしかった。
優しさに慣れた頃、不意に拒絶されたら、どんなに戦を起こした罪深さを自覚していようと心は折れる。
そう言うと、アランは目を瞬かせ、眉根を寄せた。
「……いや。……罪は忘れてはいけないが……別に、君を冷遇する気はない。俺と結婚して、君はもうウラガン大帝国の者になったのだ。俺の妻でいる間は、ウラガン大帝国民の幸福を願い、そのために生きてくれたら、それでいい」
マリエットは意外に感じ、首を傾げる。
「……私も、ウラガン大帝国の者として生きて良いのですか? 図々しいと、怒ったりしませんか?」
ラシェルは、離宮に住まうだけでも図々しいと怒り、鞭打ったものだ。そういう真似はしないのかと思って聞き返すと、アランは軽く眉尻を下げた。
「姫を寄越せと命じたのは、こちらだ。そんな無茶苦茶な真似はしない。……俺はどんな男に見えているんだ……」
最後は独り言らしく、彼は悩ましげに髪を掻き上げる。
「警戒しないといけない妻をもらって、嫌なのだろうなあ……と、お見受けしておりますが」
思ったままを言うと、彼はぴくっと肩を揺らした。図星らしく、大仰にため息を吐いて背を向ける。
「それは失礼した。そんな気持ちは全くない」
その物言いは実に空々しく、再び庭園の奥へ歩みを進める彼の背中を見つめ、マリエットはふふっと笑った。内心を隠しきれない態度も、彼の人の好い性格を表しているように感じた。
「まあ。お気遣いあるお言葉、ありがとうございます。私も、貴方を害そうなんて気持ちは全然ありません。終戦間もなくから食事の面倒を見て頂いた上、こちらに来たら衣服まで贈ってくださった優しい方ですもの。恩に報いられればいいなと思っております」
後ろをついていきながらずっと言いたかった気持ちを伝えると、アランは足をとめた。こちらを振り返り、手を差し出す。
「それなら、安心だな」
マリエットは、目の前に突き出された手を見下ろし、きょとんとする。衣服と色が揃っていたから気づいていなかったが、彼は黒革の手袋をはめていた。手の甲だけを覆った、指先の見える変わったデザインだ。
「俺のエスコートはいらないか?」
手袋に意識を持っていかれていたマリエットは、思わぬ問いかけをもらい、目を瞠る。
「え、あ……っ、いいえ!」
誰かにエスコートをされた経験がほぼなく、意図を汲めていなかった。
多分、敵意がないなら触れても大丈夫だと判断されたのだ。
慌てて彼と手を重ねると、そっと握り返され、マリエットの胸はドキドキと高鳴った。
「……男性の手のひらは、大きいですね。こちらへ移る際に初めてエスコートして頂いたのですが、クロード様の手も大きくて驚きました」
「……初めて?」
アランが訝しげに聞き返し、マリエットはヒヤッとする。愛されて育った姫なら、父王や臣下の誰かにエスコートされた経験があるはずだ。
「えっと……私は十六歳になったばかりで、まだ社交界にも出ていなかったので……」
慌てて言い訳をすると、彼は無言でマリエットを見つめ、それ以上追及はしなかった。マリエットはほっと安堵し、共に歩きだしてしばらく、繋いだ手から彼の体温を感じて口元を緩める。
「……アラン様は、お優しい方ですね。貴方のもとに嫁げた私は、とても幸運です」
端々から情の深さを感じる彼なら、母国で過ごしたような過酷な日々をマリエットに課しはしないだろう。
感謝と喜びを感じて呟くと、アランがまたこちらを見る気配がした。けれどマリエットは正面に現れた景色に目を奪われる。
背の高い木々で構成された庭園の中に、ぽっかりと木々のない場所があった。明るい光が注ぐそこには、豊かに水を湛えた泉があり、水面が風に揺れるたびに眩く煌めく。
「……なんて綺麗な泉……」
マリエットは思わずアランの手を離し、泉に駆けていった。泉のほとりに膝をついて覗き込むと、まるで何もないかのように底まで見える。
「……すごい。こんなに澄んだ水、初めて見た」
後から歩いてきたアランは、傍らに立って笑みを浮かべた。
「気に入ってくれたなら、良かった。ここはこの城ができた当時からある泉で、魔法装置でろ過せずともずっと清い水を保っているんだ」
自慢の泉らしい。水の底に魚影まで見つけ、潜れば獲れるのかしら、とマリエットは邪な考えを巡らせる。故郷の離宮脇にあった泉もそこそこ綺麗だったが、魚はいなかった。
「こんなに綺麗なら、お水もお魚もおいしいでしょうね」
思わず零すと、アランはしばし黙り込み、ぼそっと答える。
「……飲食のためには、使っていないかな」
「そうなのですか。あんなに立派なお魚なのに……」
絶対に焼いたらおいしい――と、生活を切り詰めていた名残で呟くと、アランがふっと笑った気配がした。
何か面白かったかしらと振り仰いだマリエットは、首を傾げる。
笑ったと思ったアランが、訝しそうに眉を顰めてこちらを凝視していた。
「どうかされましたか?」
尋ねると、彼は顎を撫で、戸惑った調子で言う。
「いや……君が魚を見ておいしそうと話すのを、以前も聞いたような気がして……。ネージュ王国で会った際、そんな話をしただろうか?」
マリエットは首を振った。
「いいえ、謁見の間でお会いした時は、そんな話はしませんでした」
「そうか……そうだな」
別の記憶と混同したのか、アランは頷いて話を切り上げ、改めてやんわりと左目を細めた。
「何か頼みごとがあるのだろう? そろそろ言えそうか?」
マリエットは目を瞬かせ、そういえばと思い出す。
イネスが“マリエットは奥ゆかしいので、気持ちが落ち着かないと頼みごとが言い出せない”と、いい加減な話をしたのだった。
「あ、そうですね。その、お願いといいますのは、私に講師を……」
あっさり答えかけたマリエットは、途中で口を噤む。
よく考えると、一国の姫が正しい所作も知らないなど、あり得なかった。そんな話をすれば、愛されていないどころか、見放されていた姫だと気づかれてしまう。
「……い、いいえ。やっぱり、大丈夫です。お願いごとは、また今度申し上げます」
焦って別の機会にすると言うと、アランはまたマリエットを見つめ、「そうか」と考え込むように顎を撫でた。
マリエットは俯き、小さくため息を吐く。
――イネスには迷惑をかけるけれど、作法は彼女にできる範囲で教えてもらおう。
妃としてこのままでいるわけにもいかず、代替方法を考えていると、アランが隣に腰を下ろした。
彼を見返そうとしたマリエットは、その先の空に大きな鳥を見つける。鳥はぐんぐん近づいてきて、茶色い羽を持つフクロウだとわかった。
「あの鳥、こちらへ来るのでしょうか」
よくわからず聞くと、アランはマリエットの視線を追って上空を見上げ、腕を持ち上げる。
「ああ、王城の使用人達が使う使い魔だ。茶を持ってきたのだろう」
使い魔は、動物に魔力を与え、寿命を延ばす代わりに使役する。基本的に強い魔力を持つ者しか所持できず、マリエットは当然持っていないが、父王は蛇の使い魔を飼っていた。
父王はよく使い魔を地中に隠して使い、母が存命だった頃は、いきなり床から巨大な蛇が顔を出して恐ろしかったものだ。
それ以外の使い魔を見たことがなかったマリエットは、目を瞬かせる。
「使用人の皆が使役している使い魔、という意味ですか?」
通常使い魔とは、一人の魔法使いに一匹だ。複数人で同じ使い魔を所有する方法なんて、魔法学の本には書かれていなかった。
アランは降下してきたフクロウを右腕にとまらせ、その足が掴んでいた小さな箱を受け取る。
「ああ、俺が開発した魔法だから、他国ではないだろうが……皇室から許しを得た者には、王城で飼っている使い魔を使役できる魔法札を渡しているんだ。それを使えば、魔力が弱い者でも使い魔を使えるようになっている」
「へえ……それはとても便利そうですね」
アランは強大な魔力を持つと言われているが、禁忌魔法だけでなく、人々がより働きやすくなる魔法も開発しているらしい。
アランはフクロウを再び空へ返し、箱の蓋を外す。するとポンッと音を立てて、二人の間に茶器と湯気を立てた紅茶が入ったカップ、それに焼き菓子入りの籐籠が現れた。ご丁寧にそれらの下には、大きなハンカチまで敷かれている。
マリエットは驚き、表情を明るくした。
――本物の生活魔法を、初めて間近で見られたわ!
母国でマリエットにつけられていた侍女達は、皆魔法使いではなく、いつも手で食事を運んでいた。侍女や使用人としか関わりがなかったマリエットは、たまに父王やラシェルが使う姿を遠目に見るだけで、魔法に触れる機会はほぼなかったのだ。
アランは平然とティーカップを手に取り、口をつける。マリエットもティーカップを両手で持ち上げて一口飲み、香り高さに目を閉じた。
「おいしい……」
ポロリと零すと、アランは一度カップを持つマリエットの手に視線を注いでから、薄く笑う。
「そうか。こちらの食事はどうだろう。気に入ってくれているか?」
マリエットは嬉しそうに笑い返した。
「はい。お食事もお菓子も、毎日おいしいものばかりで、本当に夢のような日々です」
「それなら、良かった」
居室で同じ返事をした時、彼はマリエットの答えが信じがたいような、もの言いたげな雰囲気を漂わせていた。しかし今はほっとした表情をしていて、マリエットはあの時と今で何か違ったかしら――と記憶を辿った。そしてはたと気づき、指先で口を押さえる。
居室で答えた際、マリエットはアランと冷えきった夫婦関係になる未来を想像し、気落ちしていた。きっと浮かない表情をしていただろう。
彼はその顔色を見て、何か問題があるのかとでも考えたのかもしれない。
だからマリエットが落ち着いて話せると思われるここで改めて確認し、表情からようやく本心だと判断して、安心した。
――アラン様は、お優しすぎるくらいの人なのね……。
当初の印象とかなり違ういい人ぶりに、もはや敬服していると、彼が言いにくそうにしつつも切り出した。
「……その、先ほど君は、お願いごとはまた今度にすると言っていたが……」
マリエットはギクッとする。ここにきて再び尋ねられるのは、予想外だ。
講師をつけてほしいとはとても言えないし、かといって別のお願いも特にない。
マリエットは全身を強張らせ、聞かないでほしいと願いながら、にこっと笑った。
「はい。お願いごとはまた今度で、大丈夫です」
念押しが如く同じ返答をすると、彼は眉尻を下げ、苦笑した。
「そうか。では俺から一つ、頼みごとをしよう」
「……? はい」
アランからどんな頼みがあるのか想像もできず、マリエットはきょとんとする。
その表情に彼は目を柔らかく細め、穏やかな口調で言った。
「国によって、美しいとされる所作や振る舞いに若干の違いがあるんだ。ネージュ王国とウラガン大帝国でも差異がある。だからすまないが、講師をつけるのでダンスや所作の勉強を改めてしてもらいたいと思うのだが、どうだろう?」
諦めていた作法の講師をアランの方からつけたいと提案され、マリエットは瞳を輝かせた。これほどありがたい提案はない。
「はい、もちろんです……! 喜んで勉強致します!」
嬉しさを抑えきれず、マリエットは笑み崩れてしまう口元を手のひらで押さえ、隠す。
――良かった……! 日陰者になる予定だけれど、アラン様の妻として、お茶会や宴に出席する日もあるかもしれないもの。彼に恥をかかせないように、よく勉強しよう。
マリエットの反応をしばし見つめたアランは、手のひらで目を覆い隠し、天を仰いだ。
「……まずい……可愛いな……」
――何がおいしくなくて、何が可愛いのかしら。
訝しく思って見返した彼は、マリエットの視線を感じたようで、手を下ろす。目が合うと、先ほどまでよりも一層甘く微笑んで首を傾げた。
「どうかした?」
輝きでも放っていそうな笑みで問いかけられ、マリエットは気恥ずかしくなって首を振る。
「……い、いいえ。その、何か苦手な味のものが入っていたのかな、と思って……」
籐籠の中のお菓子に文句を言っているのかと思ったと答えると、彼はふっと笑った。
「いいや。どれも味はいいはずだから、好きなだけ食べていいよ」
表情どころか言い回しまで甘くなっている気がして、マリエットは妙にどぎまぎする。注がれる視線には熱が籠もっている気もして、マリエットは頬が熱くなるのを感じながらクッキーを取った。
この続きは「人質として嫁ぎましたが、この国でも見捨てられそうです」でお楽しみください♪