書籍詳細
召喚ミスから始まる後宮スパイ生活 冷酷上司の過保護はご無用です
ISBNコード | 978-4-86669-723-9 |
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定価 | 1,430円(税込) |
発売日 | 2024/11/27 |
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内容紹介
立ち読み
「その子は猫じゃないね。多分、神獣の虎だよ」
「神獣の虎? この子が?」
白銀色の毛並みといい丸い耳といい、ちょっと変わった猫だなと思っていたけれど……神の使いと言われるあの神獣?
膝の上にいる愛らしい子をじっと見つめると、おとなしく見つめ返してくれる。
普通の猫が流千を回復させられるわけがない。それはわかるが、いきなり神獣と言われても実感がなかった。
「仁蘭様も同じ見立てでしょうか?」
困った私は、斜め前に座っている仁蘭様を見た。
彼は少し悩んだ後で静かに答える。
「そうだろうな。もとより違和感はあったが、あの力を目の当たりにした後では猫より神獣だと言われた方が納得できる」
皆の視線を集めている神獣様は、ご機嫌な様子だった。
「私のために流千を助けてくれたの?」
「みゃ」
そうだよと言っているかのような返事だった。
「ありがとうございます」
もしかして水と食事を与えたお礼? おつりが多すぎる気がするけれど、いいのだろうか?
戸惑いながらも、私は感謝の気持ちを込めてその背を撫でる。
「まさか神獣様が存在しているなんて……! でも、言い伝えでは『神獣様は神々の力が宿る山や森で暮らしている』って言われていますよね? どうしてこの子は後宮にいたんでしょう?」
人が住むところに神獣が現れたなんて、噂にも聞いたことがない。
しかもこの子に出会ったとき、可哀想なほどに痩せていて衰弱していた。
「もしかして、誰かに攫われてきたの?」
「みゃあ? みぁあ、みぁう」
うん、なんて言っているかわからない。神獣様はこちらの話がわかっているみたいなのに、こちらは残念ながら神獣語が理解できなかった。
「飼い猫ならぬ飼い虎にでもするつもりで攫ったのかな? あれ、後宮って生き物を飼っていいんでしたっけ?」
流千が首を傾げながらそう言った。
仁蘭様は「禁止されてはいない」と答える。
「管理局に申請さえすれば基本的に許可は下りる」
「そうなんですか? 喜凰妃様の宮には動物はいませんでしたが……」
「四妃の中では二人だな。豊賢妃は三毛猫を、栄竜妃はタイヨウチョウを飼っている。その二人のほかにも、猫や犬、蛇を飼っている妃もいる」
専属の世話係を雇えるだけの財力があれば、自分の宮の中で飼う分には問題ないというのが管理局の見解だそうだ。
ただし神獣については別である。
「神獣を飼うなどもってのほかだ。人が手を出していい存在ではない」
仁蘭様のおっしゃることはもっともだった。
この子を攫ってきた上に衰弱させるなんて……!
犯人への怒りが込み上げる。
「神獣といってもまだ子どもで、人間に抵抗する力はないのだろう。森から攫われてきて後宮へ連れてこられ、逃げ出したときに采華に拾われたのでは?」
「それなら、この子を連れて宮廷へ行ったときに武官に追われたのは……」
「逃げ出した神獣を捜していた、と考えるのが妥当だな」
この子を虐げたのはあいつか! 許せない!
私は思わず顔を顰めた。
「そういえば、ヤモリとか芋とか、それに薬草も……干してあったものが全部きれいになくなってるね? もしかして神獣様が食べちゃった?」
流千は苦笑いだった。まさかあんなものを神獣が食べるとは、と呆れているみたいだ。
「お腹がいっぱいになって元気になったから、流千に神力を分けられたのかなぁ」
私の膝の上で丸くなっているこの子は、体の大きさの数倍もの食事を取っていた。今は満腹なのか、何にも興味を示さずただゴロゴロしている。
「かわいい……」
見ているだけで心が和んですべてを忘れそうになるけれど、流千の言葉で一気に現実に引き戻される。
「う~ん、確かにかわいいんだけれど、神獣を攫ってきて愛玩動物として飼うっていうのは普通じゃないよね。僕を一瞬で回復させられるくらいの神力を宿していることを考えれば、もっと別のことに使うつもりで攫ってきたんじゃないかな?」
「別のことって」
「生け贄……とか?」
「っ!!」
おぞましい話に背筋がぞくりとする。
生け贄を捧げることで願いを叶える仙術があるのは知っているが、まさかこの子を犠牲にしようと?
恐ろしくなった私は、無意識のうちに神獣様をぎゅっと抱き締めた。
「采華が神獣を見つけたのは喜凰妃の宮にある裏庭だったな」
「はい。でも、これまで一度も鳴き声なんて聞こえてきませんでした」
どれほど記憶を辿ってもあの宮で猫の気配を感じたことはない。抜け毛も見なかったし臭いもなく、いくら広いといってもこの子をずっと宮の中に閉じ込めていたならさすがにわかるはず……と私は首を傾げる。
「後宮内には妃の宮以外にも小屋や蔵が複数ある。護衛武官や宦官しか出入りできない建物もあるしな。檻に入れて、密かに飼うことはできると思う」
仁蘭様は、すでにいくつか可能性のある場所が思い浮かんでいるみたいだった。
私が閉じ込められた蔵もそうだったように、しばらく使われていなさそうな古い建物はあちこちにあり、誰かがそこに神獣を閉じ込めていてもそうそう見つからない気がする。
「もしかして、神獣を攫ってきたのも僕に呪いの罠を仕掛けたのも同じ人物だったりして?」
閃いたといった風に流千が仁蘭様を見る。
「やましいことがなければいくら僕に後宮内を探られても問題ないわけですし、罠が張ってあったってことはそれこそ『人に言えないことをやっています』と宣言しているようなもんじゃないですか? 今、神獣が見つかるなんてやっぱり禅楼がすべての元凶なんですよ!」
私はそれを聞いて「ん?」と疑問に思った。
流千は私と違い、後宮や宮廷で占いをして副業に励んでいただけなのでは……? 後宮内を探っていたの……?
しかも禅楼様って?
一体どういうことなのかと流千を見つめるけれど、流千の目は仁蘭様に向かっていて、私が問いかける前に話は進んでいく。
「よかったですね、仁蘭様。喜凰妃様の宮に踏み込む理由ができたんじゃないです?」
流千はにやりと笑って言った。
しかし仁蘭様はいつも通りそっけない。
「まだ弱い。証拠が必要だ」
「ええっ!? 将来有望な仙術士の僕が殺されかけたんですよ!? 国の損失です!」
自分が呪われたことが何よりの証拠だと訴える流千だったが、仁蘭様は「すでに解かれた呪いが証拠になるわけないだろう」と呆れた声音で答えた。
「禅楼が罠を張ったという物的証拠が出てこなければ、喜凰妃の宮に踏み込むことなどできない。しかも単に盗みを警戒していたと言われればそれで話は終わる。現時点ではおまえは呪われ損だ」
「うわっ、さすが後宮。人の命を何だと思ってるんだよ……! 死にかけたのに!」
拳を握り締め、悔しそうに卓を何度も叩く流千。ガタガタと食器が鳴り、仁蘭様は迷惑そうな顔をした。
二人のやりとりを聞いている間にも、どんどん疑念が膨らんでいく。
仁蘭様は後宮に直接手が出せないから、私を女官として潜入させたんじゃなかったの?
流千が呪われたのは後宮内を調べていたせいなの?
どうして私にそれを教えてくれなかったの?
神獣様を抱き締めながら、私は叫んだ。
「二人で何を企んでいたんですか!? 呪われるような危ない仕事をしていたなんて、聞いてなかったんですけれど!?」
突然怒り出した私を見て、流千が身振り手振りを交えながら慌てて弁解し始める。
「いや、別に企んでいたわけじゃないよ! 采華が女官をしている間に、僕は僕でお金を稼ごうかなって!」
「占いって言ってたじゃない!」
「それもやってたよ? でも、こちらにいらっしゃる金づる様……じゃなかった資金力のある方にせっかく出会ったんだから、もっと稼げる仕事が欲しいなぁって思ってさ? そんな難しい仕事じゃなくて、後宮のあちこちにある仙術士が作った呪符を調べていただけでね? 四妃様の宮の中でも喜凰妃様のところは特に強力な術で守られていたから、これは怪しいだろうって」
言うまでもないと思ったんだ……と流千は困ったように笑っていた。
仁蘭様は私の剣幕に少し驚いた様子でこちらを見ている。
流千の性格からすると、仁蘭様から一方的に命じられたわけではないと思う。それはわかる。
でも危険が伴うんだから、事前に話しておいてくれたらよかったのでは?
私が頼りないから話せなかったのか。そんな風に感じられて、自分が情けなくなる。
「私は何も知らずに……流千を失いそうになって……」
「采華、落ち着いて」
二人に怒りをぶつけるのは間違っているとわかっている。だって、私が早く美明さんの居場所を見つけられていれば、こんなことにならなかったのだから。だとしても、何も知らされなかったのは悲しかった。
「ごめん。すぐに終わらせるつもりだったから言わなくていいと思ったんだ。心配かけたくなかったし……説明するのが面倒だったし……ごめんね、采華」
「本音が漏れすぎなのよ」
私はじとりとした目で隣を睨む。
すると、流千は左手を私の背中に当てて宥めてきた。
「これからはちゃんと話します。ごめんなさい」
「…………」
謝った。
召喚術を使ったときすら仁蘭様に謝らなかった流千が、私に二回も謝った。
本当に悪かったと思っているらしい。それに驚いていると、仁蘭様がふいに立ち上がって流千の手を叩いてさらにびっくりした。
「痛っ!」
「気安く触るな。品位を守れ」
「何でそんなに怒っているんですか? 今さらでしょうに」
「今からでも改めろ。采華は妃、おまえは仙術士だ。ここにいる以上、品位を保って正しい距離を心がけろ」
仁蘭様は流千をきつく睨み、相当にご立腹だった。
「品位、品位って……本当にそれだけですか?」
流千がからかうように笑ってそう言った。あまりに気安い態度に、見ているこっちの方がハラハラする。
本当にそれだけも何も、紅家はそういうことにこだわるお家柄なのだろう。庶民と貴族の常識は違うのだから。
仁蘭様は何も答えなかった。相手にするのも馬鹿らしいと思っていそうだ。
そのとき、私の膝の上に座っていた神獣様が流千の肩によじ登っていった。
「にゃっ」
「あら、流千が気に入ったの?」
爪を立ててがんばっている姿が堪らなくかわいい。
流千は登ってくる神獣様に左手を添え、毛並みを整えるようにして何度も撫でている。
「あなたのお名前は何ですか?」
「みゃう」
「神獣様はいつどこで誰に捕まったんですか? 犯人は禅楼ですか? どこかに証拠はありませんか?」
「にゃっ」
神獣様は足と尻尾をジタバタして、流千の手から逃れた。
この子に尋ねても答えが返ってくることはない……と呆れ交じりに笑ったとき、白銀色の尻尾が私の袖にちょんちょんと二度触れた。
そして素早い動きで廊下に出て、立ち止まるとこちらを振り返ってじっと見つめてくる。
「もしかして、ついてこいってこと?」
青色の目がそう訴えかけている気がした。
この子がただの猫ではなく神獣なら、本当にそう言っているのかもしれない。
私たちは立ち上がり、三人で神獣様の後をついていく。
「一体どこへ……?」
仁蘭様が呟くように言った。
神獣様はときおりこちらを振り返りながら、後宮の奥にある祈祷殿の近くまで私たちを導いた。
厳かな黒い建物は妃たちが病を患ったときに祈祷するための場所で、人の出入りはほとんどない。手入れは行き届いているものの、ひっそりと寂しい雰囲気だった。
案内されて辿り着いたのは、祈祷殿の裏側にある古い小屋。鬱蒼とした茂みに囲まれていて、幽霊でも出そうな不気味さだ。
「僕が呪いにかかった場所だ」
「ここが!?」
確かにここは喜凰妃様の宮からも近く、それでいて人がほとんど通らないから、何かするにはうってつけの場所だ。
それにしても、この小屋はちょっと狭すぎない?
いくらこの子が小さいとはいえ、これでは鳴き声が外に漏れて誰かに見つかりそうだ。
「本当にここ?」
「みゃあ」
つぶらな瞳は、ここで間違いないと訴えているように感じられた。
流千は小屋に近づき、扉に手を翳して目を閉じる。
「もう何の仕掛けもなくなっている……。僕が呪いを受けたから効果が切れたんだろうね」
「つまり、中に入れるってこと?」
そう尋ねると、流千は「あぁ」と言って頷いた。
扉は取っ手を横に動かすとあっさり開き、中は木箱や小さな樽、薪などが少し積んであるだけだった。動物が飼われていた形跡は一切なく、臭いもない。
「特に何もないけれど……?」
ここで神獣様を閉じ込めていたようには思えなかった。
ところが仁蘭様が床を鞘でコンコンと二度突くと、やけに鈍く響いた気がした。
「下に何かある?」
目を丸くする私に対し、仁蘭様は床を見つめたまま言った。
「違法なものを運んでいる者たちは床下にそれらを隠すのが常套手段だ。地下は物が腐りにくく、見つかりにくい」
「なるほど」
扉はすんなり開いたのに、床にはよく見ると傷に見せかけて文字が彫ってある。
それを見た流千はにやりと笑い、すぐさまその文字に右手の人差し指を這わせて神力を流し込んだ。
床の一部が白く光ったと思ったら、カタッと小さく音がして地下へと続く入り口が現れる。
「階段? 地下室があるってこと?」
こんな古い小屋に仙術で仕掛けをしてわざわざ作ってあるなんて……。
驚く私を振り返り、流千は言った。
「本来なら通行証になる呪符が必要だったのを、誰でも入れるように上書きしておいた」
「そんなことできるの!?」
「それほど複雑な術じゃないよ」
平然と言ってのけるけれど、私みたいな普通の人間には考えられないことだった。
床下に現れた階段を覗き込めば、薄暗くて不気味に感じる。
「地下には何が……?」
こんなところでまともなことが行われているとは到底思えない。
「では、仁蘭様ちょっと中を見てきてください」
「おまえも行くに決まっているだろうが」
流千は面倒事の気配を感じ取り、仁蘭様に任せるつもりだった。
しかし仁蘭様がそれを許すはずはなく、流千の襟を摑み強引に地下へ繫がる階段に押し込もうとする。
「ありがたく働け」
「人使いが荒い! 病み上がりなんですけど!?」
「あれだけ食べたらもう平気だろう」
私は当然一緒に行くつもりで神獣様を抱き上げる。
それなのに仁蘭様はこちらを振り向き言った。
「采華は戻れ」
「え……?」
その眼差しの強さに一瞬怯んでしまう。
調査するのに私は邪魔だと言いたいんだろうか?
でもこのままおとなしく従うのは嫌だった。
「私も行きます。何か手伝えることがあるかもしれま……」
「ない」
「即断ですか」
仁蘭様はきっぱり言い切る。
検討の余地もないといった様子に、私は自分がそんなに役立たずなのかと肩を落とした。
「ここに美明さんがいるかもしれないじゃないですか? これも仕事の一環だと思うんですけれど」
「おまえに何をさせるかは俺が決める。ここには入らなくていい」
「それを言われると……」
確かに、雇い主は仁蘭様だ。決定権は彼にある。
だとしても私はすぐに引き下がれなかった。
「心配なんですよ、二人が」
「……」
せめて一緒にいさせてほしい。
昨夜みたいに、自分の知らないところで二人が恐ろしい目に遭うかも……と思うと不安だった。
仁蘭様は私の気持ちを感じ取ってくれたのか、少し困った風に眉を顰める。
「采華のことが心配なんですよね、仁蘭様は」
「は?」
流千はうんうんと大げさに頷いて「わかりますよ」と一人で納得している。
「僕より采華の方が大事なんですよね? 僕には一緒に来いと言うのに采華には戻れって……それはちょっと悲しいんですけど、でもまぁ僕だって仁蘭様より采華の方が大事なんでお気持ちはわかります」
「……」
「そう、心配なのはわかるんですけれど! でも今ここで采華を一人帰して、もしもそれを誰かに見られたら余計に危ないんじゃないかなって。一緒にいた方が守れると思います」
だから皆で行きましょう、と流千は提案した。
仁蘭様は険しい顔をする。その目からは迷いが感じられた。
普段の仁蘭様だったら「心配なんてしていない」と否定しそうなものなのに、今日は何も言わないんだ。私が邪魔だから戻れって言っているんじゃなくて、本当に心配してくれているの……?
そういえば、昨夜も私が身投げしようとしていると勘違いして焦っていたような?
急に胸がそわそわし始めて、心配されて嬉しいと思ってしまっている自分に気がつく。
「采華」
「は、はい?」
急に話しかけられて、私はびくりと肩を揺らす。
仁蘭様はじっと私を見下ろし、神獣様のことを一瞥した後で言った。
「くれぐれも無茶はするな。俺が逃げろと言ったら神獣を連れてすぐに宮へ戻ると約束しろ」
「はい! わかりました!」
「みゃっ」
私は背筋を正して返事をする。
本当に大丈夫なのかと疑いの目を向けていた仁蘭様だったけれど、今は先を急ごうと決めたらしく、すぐに踵を返して地下へと向かった。
流千、仁蘭様、私の順番で階段を下りていくと、石造りの壁には等間隔で灯籠が取りつけてあり、埃や砂はさほど落ちていない。
人の出入りがあるのが感じられる。
下へ行くほどだんだんと冷気と生臭さが漂ってきて、鳴き声こそ聞こえないものの何か動物を飼っているような雰囲気があった。
私は右腕に神獣様を抱き、左手の袖で鼻を覆いながら一歩ずつ下りていく。
「ここって最近造られたものではないですよね……?」
小さめの声で仁蘭様の背中に尋ねる。
彼は前を向いたまま、声量を抑えて答えた。
「昔のものだろうな。戦で王都が落ちたときに備え、地下通路や避難場所を造っていたという話は聞いたことがある。宮廷だけでなく後宮にもあったとは思わなかったが」
「皇帝陛下は、この地下の存在をご存じなのでしょうか?」
「いや、おそらく何代も前の遺産だ。ご存じならば、美明が行方知れずになった際にまずここを探せと命じられたはず」
「そうですね……」
ここなら神獣どころか、隠したいものは何だって隠せる。
一歩一歩進むにつれて、緊張感が高まっていく。
階段を一番下まで下りると、そこには石造りの廊下や扉が見えた。想像していたよりもずっと広く、ここで暮らせるのではと思うくらいだった。
耳を澄ませば、かすかに水が流れる音が聞こえてくる。
誰かに出くわさないか警戒しながら廊下を歩き始めたとき、流千が石の壁に手で触れて言った。
「かなり頑丈に造られていますね。これなら王都が落ちても本当に助かりそうだ。――兵部を率いる孫大臣ならここの存在を知っているのでは?」
兵部は、有事の際には宮廷を守る役目を負っている。皇帝陛下が代替わりしても、そこには情報が残っていてもおかしくない。そしてそれを、皇帝陛下をよく思わない孫大臣が秘匿することも十分に考えられた。
喜凰妃様に会いに来た孫大臣は、娘に強く出られない父親といった雰囲気だったけれど……。
「孫大臣ならやりかねない。尚書省の役人たちでも後宮には強引に踏み込めないとわかった上で、ここに都合の悪いものを隠していると考えるのが当然だろうな」
仁蘭様は少し悔しげな声でそう言った。
何年も欺かれていたとあれば、皇帝陛下の側近として許せない事態である。
「喜凰妃様もこのことをご存じなのでしょうか?」
父親の悪事についてどこまで把握しているのか?
四妃をまとめようとする喜凰妃様のひたむきなお姿を思い出して胸が痛んだ。
「父親が何をしているか知らずとも、ここの存在を認識していて黙っていれば、それは皇帝陛下への背信行為にあたる。何らかの処罰は免れない」
「……」
「とはいえ、すべてはこれからここを調べてからだ。俺たちはここが何に使われているのか調べなければ」
私は無言で頷く。
仁蘭様は小窓のついていた扉を見つけ、それを少し覗いてから流千に仙術で鍵を開けさせた。
中へ入ると水を張った巨大な平たい桶があり、中には無数の亀がおとなしく入れられているのが見えた。その光景から「臭いの原因はここだったのか」と察する。
「首に黄色い線ってことはクサガメかな。地下で陽に当たっていないだろうに、状態は悪くない。ここでずっと飼育されているっていうわけじゃなさそうだ」
「どこかから連れてこられたってこと?」
「うん、王都でも亀は気軽に仕入れられるからね」
流千は桶に近づき、躊躇いなく亀の甲羅を摑んで持ち上げる。
私も流千の隣に並び、亀をじっと見つめる。薬屋でも素材として亀を仕入れるけれど、生きている状態で見ることはほとんどなかった。
物珍しさから、流千が持ち上げている亀の甲羅を人差し指でつんと突いてみる。神獣様も興味津々といった様子で亀を見ていた。
「神獣様がいたのはこの部屋ではなさそうね。でも、この亀たちはなぜこんなに……?」
「仙術の贄として使うんじゃないかな? 亀は昔から贄の定番だし。それに食用としても体にいいしね」
「うちの店でも薬の材料にしていたものね。腹甲を薬にするのか、それとも調理して味わうのか……」
「うん、僕が持って帰りたいくらいだよ」
私たちが亀に気を取られている間に、仁蘭様は隣の部屋と向かい側の部屋も調べていた。鍵はかかっておらず、がらんとした空き部屋だったらしい。
私も廊下に出て、ほかに入れそうな部屋はないかときょろきょろと辺りを見回す。
曲がり角の前の扉に目を向け、小窓から中を覗こうとしたところで後ろから腕を摑まれてぐいっと引っ張られた。
「ひゃっ」
「おまえはじっとしていろ」
仁蘭様が困り顔でそう言った。
今はまだ危ないことは何一つ起きていないのに、心配そうにする仁蘭様の態度に戸惑う。
どうしてそこまで……?
不思議に思い、彼の顔をまじまじと見つめてしまった。
「何だ?」
じっくり見すぎて、仁蘭様が不機嫌そうに尋ねてくる。
私は気まずさから目を逸らし逃げようとしたが、腕を摑まれていて逃げられない。
「仁蘭様、放してください……!」
鼓動が速くなり、落ち着かない。
仁蘭様の手が気になって仕方がなくて、でも動揺を悟られたくなくて苦笑いでごまかした。
「こんな風にしなくても大丈夫ですって」
「おまえは危なっかしい。ここでは不用意に部屋を覗かない、物に触れないと約束しろ。歩くときは俺か流千のそばに張りついて離れるな」
「私が一体何をすると思っているんですか!?」
目を離したら問題を起こす危険人物と思われているの!?
仁蘭様は鋭い目で私を見つめ続けていて、これは「はい」と言うまで本気で放さないつもりだと理解した。
「わかりました、約束します」
自分の信用のなさに悲しくなり、やや投げやりに返事をする。
私が本当に危ないことをしたのは神獣様を抱えて飛び降りたときくらいで、あとは井戸に身投げしようとしたというのも仁蘭様の勘違いだったし、生命力を神力に換える首飾りを使おうとしたのもほかに方法がなかったから……で、しかも結局は使っていないのに。
仁蘭様の手は離れていったものの、まだ疑っていそうな顔をしていた。
ここまで信頼されていないとは。自分で自分に呆れて無言になる。
「……怒っているのか?」
「え?」
まさかそんなことを聞かれるとは思わなかった。
仁蘭様は私の顔を見つめながら、こちらの顔色を窺っているように見える。
私は少し驚き、目を瞬かせる。
「怒ってなんていません」
「本当に?」
「はい」
私はただの部下なのだ。機嫌を伺う必要なんてないはずで。
実は心配性なの? そういえば、流千のことも自分の神力を分け与えてまで助けようとしてくれたし、地下へ入るときも私には来るなと言っていたし……本当は繊細な人なのかもしれない。
だとしたら悪いことをしたなと思い始める。
私は気まずい空気の中、おずおずと口にする。
「あの、すみませんでした。ご心配をおかけして」
「…………」
「重ね重ね本当に申し訳ありません」
「違う、謝ってほしいわけじゃない」
仁蘭様はますます困った風に眉根を寄せる。
「俺はただおまえが気になって、勝手にどこかへ行かないようにと……今度はおまえが呪われたり、苦しんだりするのは困ると思った。……なぜだ?」
「私に聞かれても」
一体どうしたんだろう。
仁蘭様は自分でもおかしなことを言っているとわかっていて、最後は首を傾げていた。
「あんまり見ないでください……」
答えを探すかのように、仁蘭様はじっと私を見つめてくる。
私はどうしていいかわからなくなり、すっと目を逸らした。
こんな風に見つめられると胸が詰まって、心臓がどきどきと速く鳴り始めて落ち着かないからやめてほしい。
「先へ急ぎましょう。ここは広そうですし!」
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