書籍詳細

身代わり悪女の契約結婚 一年で離縁されましたが、元夫がなぜか私を探しているようです
ISBNコード | 978-4-86669-733-8 |
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定価 | 1,430円(税込) |
発売日 | 2025/01/29 |
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内容紹介
立ち読み
そこには粗末なベッドがひとつあって、男性が横たわっていた。
彼が、子どもたちの言うライ様だろうか。
暗くて何も見えなかったので、手元にあった燭台に明かりを灯す。
淡い光が、部屋全体を照らした。
彼は、ベッドに仰向けに横たわっていた。
額には汗が滲み、息も荒い。
白い肌が紅潮しているので、熱が高いのかもしれない。
けれど乱れている金色の髪は輝くほどの美しさで、顔立ちも、こんな状況だというのに思わず見惚れてしまうほどだ。
明らかに、一般人ではない。
これでは、子どもたちがライ様と呼ぶのも当然かもしれない。
(裕福な商人……。いえ、貴族かもしれない)
そんなことを思いながら、とりあえず汗を拭こうと、持ってきた清潔なタオルを額に当てる。
すると、固く閉ざされていた彼の瞳がゆっくりと開かれた。
その瞳を見た途端、リアナは息を呑んだ。
(カーライズ様?)
この深い藍色の瞳は、忘れるはずもない。
けれどキリーナ公爵家の当主であるはずの彼が、こんなところにいるはずがない。
でもよく見るとこの顔立ちも、この瞳も、間違いなく昔、キリーナ公爵家で垣間見たカーライズである。
(カーライズ様……。だから、ライ様?)
信じられない思いで見つめていると、彼の瞳はまた閉じてしまう。
苦しげな様子に、まず看病をするのが先だと、我に返る。
隣の部屋のマルティナのところに戻り、ライ様と思われる人物がいたこと。かなり熱が高く、あまり良い状態ではないことを告げる。
「こっちの子どもも、重症みたい。まずは、看病に専念しましょう」
「わかりました」
修道院から持ってきた熱冷ましや、呼吸を楽にする薬などもあるが、意識のない状態で飲ませるのは難しいし、危険だ。
だからまずは熱を下げようと、何度も外にある井戸でタオルを冷やして額に当てたり、汗を拭いたりした。
「この人が、ライ様?」
あとからこちらの様子を見に来たマルティナは、カーライズを見て驚いたようだ。
「すごいね。こんな綺麗な人は初めて見たよ。裕福な商人、程度ではないね。もしかしたら、貴族かもしれない。そんな人が、どうしてこの町に……」
「わかりません。ただ、ここにいる子どもたちは彼に救われたようです」
病に罹ってしまったところを見ると、予防薬は飲んでいなかったのだろう。たしかにあの薬は、町に出ることはない貴族たちには出回っていなかった。
それなのに、ここに留まって子どもたちを助けていたのか。
その行動の理由はわからない。でも、多くの子どもの命が救われたことはたしかである。
子どもたちに状況を伝え、そちらの面倒も見ながら、マルティナと手分けをして、重症の子どもとカーライズの看病を続ける。
一晩中、ほぼ寝ないで看病を続けていた。すると翌朝になって、ようやく少し熱が下がってきたようだ。
彼は再び目を開き、深い藍色の瞳でリアナを見つめる。
「……君、は?」
声を掛けられてどきりとしたが、カーライズはリアナの顔を知らないはずだ。
しかもリアナは、修道女の格好をしていて、目立つ銀色の髪もきっちりとまとめて、ベールの下だ。
だから、穏やかな声でこう告げる。
「隣町の修道院から来ました。熱は少し下がりましたので、この薬を……」
「私のことはいい。子どもたちから治療してほしい。まだ向こうに、意識の戻らない子どもがいる」
そう言って起き上がろうとする彼を、慌てて押しとどめる。
「大丈夫です。向こうで別の修道女が面倒を見ています。意識も戻りました。あなたが一番、重症ですよ」
そう言うと、安堵したようにベッドに崩れ落ちる。
「そうか。助かったのか。よかった……」
そう言う彼の瞳の穏やかさに、泣き出したいような気持ちになる。
あれほど昏い瞳をして、すべてを恨んでいたかのような人が、子どもを守ろうと、自らの危険も顧みず、こんなところにいる。
いったい彼に、何があったのだろう。
「……上流階級の方かと思いますが、どうしてここに?」
薬を差し出しながらそう尋ねてみると、カーライズは何かを思い出すように、目を細める。
「私も、かつて親に捨てられたことがある」
そう言って、リアナを見上げた。
深い藍色の瞳に宿るのは、怒りではなく悲しみだった。
「だから、あの子たちを見てしまったら放っておけなかった」
カーライズは、キリーナ公爵家の当主である。
だから親から捨てられたといっても、ここの子どもたちとはまた、状況がまったく違うだろう。
でも、本来ならば庇護してくれるはずの親から、見放されて放置されたという事実は同じ。
傷付いた心も、きっと同じだろう。
「そうだったのですね」
リアナは、彼の気持ちに寄り添うように、静かに頷いた。
「教会の裏口近くにいる子どもたちは、ほとんど回復しておりました。ライ様のことを、とても心配していましたよ」
そう言うと、彼の表情も柔らかくなる。
「そうか。すまないが、あの子たちのこともよろしく頼む」
彼の、こんな穏やかな表情は初めて見た。
リアナも思わず笑みを浮かべていた。
「こんな地方に、何かご用だったのですか?」
リアナの知るカーライズは、公爵家の当主で、いつも多忙であった。
それが、王都から遠く離れた土地に、しかもたったひとりでいたことに疑問を覚えて、つい尋ねてしまう。
「人を、探していた」
カーライズはそう答えた。
どきりとしたが、彼が自分を探しているはずがない。
「彼女の姉に、必ず探し出すと約束したのに、手がかりさえ掴めない」
まだ熱があってぼんやりとしているのか、カーライズはひとりごとのように、そう呟いた。
(姉……)
二年前、別れたきりの姉の顔が浮かんだ。
カーライズは本当に自分を探しているのだろうか。姉に約束したと言っていた。もしかして、姉に何かあったのではないか。
そう思うと不安になるが、それを彼に尋ねることはできない。
「顔も知らない相手を、探せるはずもないか……」
小さく呟いたカーライズは、そう言いながらリアナを見上げた。
「……っ」
まっすぐに見つめられて、どきりとする。
「だが君の声は、私が探している人によく似ている気がする」
そう言われて、息を呑んだ。
でもカーライズが、自分の声を知っているはずがない。
「……そう、なんですね」
何とかそう答えて、視線を逸らした。
動揺を悟られないように、平静を装う。
でも彼が探しているという、顔も知らない相手というのは、自分である可能性が高い。
姉に何かあったのかと思ったが、新薬は姉の体によく合って、もう元気になったはずである。
ならば、姉は女性医師のアマーリアに、事情を聞いてしまったのだろうか。
彼女は患者本人に病気のことを話さないのを、あまり良く思っていない様子があった。だから、完治した際にすべてを話してしまったのかもしれない。
そうだとしても、姉には罪悪感など持ってほしくない。
ただしあわせになってくれたら、それでいいのだ。
「君は……」
そんなことを考えていたリアナに、カーライズは声を掛ける。
「は、はい」
「君たちは、大丈夫なのか? 病が移るといけない。私はもう大丈夫だから、この部屋から出た方がいい」
まだ体調が優れないだろうに、カーライズはリアナたちのことまで気遣ってくれた。
「私たちなら、大丈夫です。修道院の院長先生が、流行病の予防薬を手に入れてくださったのです。それを飲んでいますから」
「予防薬……。そんなものがあるのか。ならば、子どもたちを捨てるよりも、その予防薬を手に入れた方がいいだろうに」
カーライズはそう言ったが、彼はこの薬が町の人たちにとってどんなに高額か知らないのだろう。
「薬はとても高価なもので、裕福な方しか買えません。私たちの予防薬も、院長先生が昔の伝手を駆使して、ようやく手に入れてくださったのです」
「そうなのか。たしかに、薬はかなり高価なものだったな」
カーライズはそう言うと、目を閉じる。
「まだ体力が回復しておりません。もう少しお休みください」
「……ああ、ありがとう」
彼が眠ったことを確かめて、リアナは部屋を出た。
隣の部屋を覗くと、マルティナが子どもの頭を優しく撫でて、小さな声で子守歌を歌っていた。
こうやって、自分の子どもにも歌ってあげていたのだろう。
その穏やかで優しい声を聞いていると、胸が痛くなる。
リアナは裏口近くの部屋に戻り、ここにいる子どもたちの様子を見て回る。
「お姉ちゃん」
最初にこの教会を訪れた際、話を聞かせてくれた黒髪の少女が、リアナを見つけて走り寄ってきた。
彼女は、自分の名前をエミリーだと教えてくれた。
「エミリー、具合はどう?」
「わたしはもう大丈夫。ライ様はどう?」
「まだ熱が下がりきらないの。でも、最初に比べたら元気になってきたわ」
そう言うと、エミリーはほっとしたようだ。
「捨てられたわたしたちを、ライ様だけは見捨てずに一緒にいてくれたの。だから、ライ様が元気になってよかった」
体調が回復した子どもたちは、不思議と親のことを話さなかった。
親に会いたい、家族が恋しいと泣くだろうと思っていたリアナは、少し拍子抜けしたくらいだ。
「元気になれば、またお父さんとお母さんに会えるからね」
きっと我慢をしているだけだろう。
そう思って子どもたちに声を掛けたリアナだったが、彼女たちは無言で首を横に振る。
「エミリー?」
「もうわたしは死んだことにするって、お母さんに言われたの。生き残っても、自分たちのもとに来てはいけないって」
リアナはその言葉に衝撃を受けて、思わず周囲を見渡した。
どの子どもも、エミリーと同じような暗い顔をしている。
この子たちの親は、子どもを捨てるときに、そんなひどい言葉を告げたのか。
「流行病って、そういうものなんだよ」
マルティナのところに戻ってそのことを伝えると、彼女は子どもたちの頭を優しく撫でながら、そう言った。
「病人を出した家は、たとえ完治しても爪弾きにされる。お前の子が病気を持ち込んだせいで、家族が死んだ。恋人が死んだと言って、憎まれる。私もそうだった」
マルティナは、まるで目の前にそう言った相手がいるかのように、空を睨む。
「たしかに私の夫と子どもは、流行病で亡くなってしまった。でも、店は綺麗にしたし、私は病気にはならなかった。それなのに、あの店のパンを買うと病気になるぞ、と噂されてしまって。そうなったら、もうどうにもならなかったよ」
「そんな……」
以前、夫ほど上手くパンが作れなかったから潰れてしまったと、マルティナは語っていた。
でも、そうではなかったのだ。
たとえ回復しても、あの家から流行病の病人が出たと噂されてしまうと、そこで暮らしていくことができなくなってしまう。
だから、子どもたちに回復しても戻ってくるな、もう死んだことにすると言って、捨てていったのか。
リアナは何も言えなくなって、両手をきつく握りしめた。
ここにいる子どもは、全部で十五人。
それだけの子どもたちが、もし完全に回復しても、帰る場所もなく待っている人もいないのだ。
そんな状況で、自分の身も顧みずに助けてくれたカーライズを、子どもたちが慕うのは当然かもしれない。
それからは、洗濯や掃除などの家事をして過ごしていたが、どうしても気持ちが落ち着かない。
子どもたちのことばかり考えてしまう。
夕方になると、パンの焼ける良い匂いが漂ってきた。
「まずは元気にならないとね。さあ、食事にしよう。具合の悪い子はいないかい?」
マルティナが明るくそう言って、子どもたちに焼きたてのパンを配っている。
リアナも慌てて給仕を手伝った。
修道院で置き去りにされた子どもたちの話を聞いたときから、マルティナはこの子たちに帰る場所がないことを知っていたのだ。
だからこそ、余計に放っておけなかったのだろう。
「リアナは、ライ様に食事を持っていっておくれ」
「はい」
トレーを渡されて、リアナはそれを持ってカーライズの部屋に向かう。
まだ眠っているかもしれないが、食事をして薬を飲まないと、なかなか回復しないだろう。
「お食事をお持ちしました。食べられますか?」
椅子に座りそっと声を掛けると、カーライズはゆっくりと目を開ける。
「子どもたちは」
「向こうで、同じ修道女のマルティナさんが見てくれています。だから安心してください」
「そうか。よかった」
そう言うと、カーライズは安堵したように頷いた。
親にも捨てられた子どもたち。
でもカーライズのように、自分の身よりも子どもたちを心配し、常に気に掛けている人もいる。
そう思うと、少し救われたような気持ちになる。
「何かあったのか?」
そんなことを思っていると、カーライズがリアナを心配そうに見ていることに気が付いた。
「い、いえ。あの……」
彼とは一年間、同じ屋敷で夫婦として暮らしておきながら、一度も顔を合わせることなく、話すこともなかった。
そんな相手と、こんな至近距離で話をしている。
それを不思議に思いながら、カーライズの気遣うような視線に、思わず先ほどのことを話してしまっていた。
「あの子たちが、自分の親にそんなことを言われたと思うと、つらくなってしまって……」
「ああ。私も、それを聞いたときは怒りを覚えたよ」
カーライズもその話を知っていたらしく、リアナの言葉に同意するように頷いた。
「私がこの町に辿り着いたときは、生きる気力をなくしてしまっている子どももいた。こんな子どもたちが、ひとりで生きていけるはずがない」
「はい……」
せめてここにいる子どもたちだけでも、何とかできないだろうか。
リアナには何もない。
ただの修道女でしかないのだ。
何もできないことに、罪悪感を覚えてしまう。
「心配するな。ここの子どもたちのことは、私が引き受けよう」
カーライズは、不安そうなリアナにそう言ってくれた。
「え?」
「ここまで関わったからには、最後まで責任を持つ。だから、そんな顔をするな」
優しく頭を撫でられて、リアナは慌てた。
「あっ……、ありがとう、ございます」
温かい、大きな手。
その手に触れられた瞬間、胸がどきりとした。
たしかにカーライズなら、それだけの資金も権力もある。
彼は、キリーナ公爵家の当主なのだ。
子どもたちは、もう大丈夫だ。
そう思った途端に、涙が溢れてきた。
「……ごめんなさい。泣くつもりは……」
今まで流してきたのは、悲しみの涙だった。
でも、この涙は違う。
安心しても涙が出るのだと、リアナは初めて知った。
「君も、きっと苦労してきたのだろうね」
そう言ったカーライズの声は、優しかった。
「だから子どもたちの境遇を心配して、共感することができる。そういえば、まだ君の名前を聞いていなかったね。私は、カーライズという。子どもたちはライと呼んでいるから、そう呼んでほしい」
「は、はい。私は……」
名前を答えようとして、躊躇う。
彼の前で、ラーナと名乗っても良いだろうか。
でもマルティナはリアナのことをラーナと呼んでいるし、今さら違う名前を名乗るわけにはいかない。
それに本名を名乗る勇気も、まだなかった。
「ラーナと、申します」
震える声でそう告げると、さすがにカーライズは少し驚いたような顔をした。
けれど、それをすぐに押し隠し、穏やかな笑みを浮かべる。
「ラーナか。よろしく頼む」
かつて、誰からも嫌悪されていた名前を優しく呼ばれた。
不思議と胸が高鳴る。
どうしたらいいのかわからない感情に陥って、リアナは胸を押さえた。
(そんなに優しい声で、名前を呼ばないで……)
自分の感情なのに、どうしたらいいのかわからなくなって、戸惑ってしまう。
「あの、食事をどうぞ」
本来の目的を思い出し、気持ちを切り替えてそう言った。
食欲はあまりなさそうだったが、子どもたちのためにも早く元気になってほしいと言うと、何とか食べてくれた。
それから熱冷ましと、呼吸が楽になる薬を飲んでもらう。
「この薬も、高価なのか?」
「いえ、これは修道院で作っている薬です。山から薬草を摘んできて、それを煎じて作ります」
「そうなのか。私にはまだ、知らないことがたくさんあるな」
そう言って興味深そうに、薬の瓶を眺めている。
彼の瞳には、以前のような昏い影はなく、その濃い藍色の瞳は、興味深そうに輝いていた。
以前とは、まったく別人のようだ。
カーライズは、人を探していると言っていた。
その人の姉にも頼まれているが、顔も知らない相手だという。
きっと自分のことだろうと、リアナは思っていた。
けれど、それを確かめる勇気がない。
姉にはもう、自分のことは忘れてしあわせになってほしい。
それに、カーライズに自分が『悪女ラーナ』だと知ってほしくない。
自分が元妻で契約結婚の相手であったと知れば、きっとこんなに優しく名前を呼んでくれないだろう。
「ラーナ、どうした?」
俯いたリアナを心配して、カーライズがそう尋ねる。
最初から敵意のある相手に蔑まれても、何とも思わなかった。
つらいことがあっても、姉のためだと思うと頑張れた。
でも、こんなに優しく名前を呼ばれたあとに、彼に蔑むような視線で見られたら、疎ましく思われてしまったら、きっと耐えられない。
「まさか、熱が?」
「だ、大丈夫です!」
額に触れられそうになって、慌てて身を引く。
「少し顔が赤いようだが……」
「元気ですから、ご心配なく」
そう言って勢いよく立ち上がってみせると、カーライズはそんなリアナを見て笑う。
「そうか。でも無理はしないように」
「……はい」
優しく微笑みかけてくれる姿に、こんなに切ない感情を抱くなんて思わなかった。
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