書籍詳細
あなたにぴったりの靴
ISBNコード | 978-4-86669-041-4 |
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定価 | 1,320円(税込) |
発売日 | 2017/10/27 |
ジャンル | フェアリーキスピュア |
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内容紹介
立ち読み
「今すぐ、その娘から離れろ。そして――貴様らは、どこへなりとも消え失せろ」
抗うことを許さぬ威圧的な声がそう命じる。
その拍子に、薄い唇の隙間からちらりと見えたのは、人間とは思えぬ鋭い牙。
「――失せろ」
そのとたん、三人のならず者は弾かれたように立ち上がり、ランタンもナイフも、もちろんパールもその場に放置したまま逃げ出した。
「ばっ、化け物だぁー!!」
「うわあああ!!」
「助けてくれー!!」
彼らは口々にそう叫びつつ、真っ黒い森の奥へと突っ込んでいく。
その後ろ姿を呆気にとられた様子で見送っていたパールは、すぐ側で聞こえた静かな衣擦れの音に、はっと我に返った。
「やれやれ、騒がしい連中だ……おい、靴屋よ。大事ないか?」
ため息混じりに紡がれた声は、やはり先ほど井戸の底からパールの話に相槌を打っていたもの。そして、彼女を〝靴屋〟と呼んだ時点で、それは確実になった。
あまりの展開に、とっさに返事もできないパールの身体が地面から浮き上がる。
抱き上げられたのだと気付いた時には、男の美しい顔は彼女のすぐ目の前にあった。
ふわりと、ムスクのような甘い香りがする。
「突然お主の気配が側から離れたので、何事かと思ったぞ」
「あ、あの……」
男は片腕一本でパールを軽々と抱き、もう片方の手で彼女の顔に貼り付いた髪を除けた。
さらには、鋭いかぎ爪がついた指を丸め、その背で濡れた目元を拭ってくれる。
あまりに優しい彼の手つきに、パールの涙腺はますます緩んでしまった。
「ああ、よしよし大丈夫だ。恐ろしいことはもう何も起こらぬ。言ったであろう? 今宵一晩、あらゆる厄災から守ってやろう、と。私は約束を違えぬぞ」
「はい……」
大きな掌が、今度は少し慌てた様子で零れる涙を拭ってくれる。
彼の鋭いかぎ爪も、喋る度にちらりと覗く牙だって、パールは少しも怖いと思わなかった。
「助けていただき……ありがとうございました」
しばしの後、やっとのことで礼を言ったパールに、美しい男は「うむ」と満足そうに頷いた。
転んだ際に擦りむいたであろう右膝は、不思議なことに、男の手にするりと撫でられたとたん痛みが消えた。
そうしてようやく彼の腕から下ろされたパールは、ならず者達が置いていったランタンを拾い上げる。
ランタンの光に浮かび上がったのは、やはり真っ黒いマントで全身をすっぽりと包んだ、異様に背の高い――そして恐ろしいほどに美しい男であった。
井戸の底から聞こえた声だけで魅了されそうになっていたパールは、思いがけず姿を現した相手を前に改めて茫然とする。
人間離れした美貌と、パールを軽々と持ち上げた逞しい身体。
カレンシア王国中の人間が集まる首都リリアでも、彼ほど圧倒的な存在感を持つ者に、パールは会ったことがなかった。
ならず者に与えられた恐怖の余韻、そして先ほど恋慕のような思いを覚えた相手との対面――それによって涌き上がった感動。相反する二つの感情がせめぎ合い、パールの心臓はドクドクと大きく脈打っていた。
ただし、すぐさま後者に軍配が上がる。
男の赤い瞳が、じっとパールを見下ろしているのに気付いたからだ。
一瞬ドキリとしたものの、その視線にならず者達に向けたような鋭さはない。
むしろ、こちらの心が落ち着くのを待ってくれているかのような静かな眼差しに、井戸の縁で彼の声を聞いて覚えたのと同じ安堵感が、再びパールの胸に広がった。
気が付けば、パールは慕わしささえ込めて男の赤い瞳を見つめ返していた。
その様子に眦を緩め、彼は「ところで」と口を開く。
「お主、ここまで来る途中、落とし物をしなかったか?」
「えっ……?」
男の言葉に、パールは慌てて荷物を検分する。
背負っていた鞄は無事だ。故郷で靴屋を開く資金とするつもりの全財産も、結局硬貨一枚奪われることはなかった。
パールの下敷きになったが、キャンディが入ったガラス瓶にもヒビ一つ入っていない。
それを確認したパールはほっと安堵しかけたが、しかしもう一つ、大切な荷物があったことを思い出した。
「く、靴っ……、靴を落としてしまいました!」
枯れ井戸の側から離れる直前、咄嗟に上着のポケットに突っ込んだはずの小さな靴が、二つともなくなってしまっていた。
もしかしたら、転んだ拍子にポケットから飛び出してしまったのかもしれない。
パールがおろおろとし始めると、はるか頭上からコホンと一つ咳払いが降ってきた。
「落とした靴とは――もしかしてコレのことか?」
「え? ――あっ」
真っ黒いマントの前を開いてするりと出てきたのは、男の髪と同じ白銀色の毛で覆われた長い足だった。
しかもそれは、どこからどう見ても獣の――先が細くなったシカのような足だった。
けれど、何よりもパールの目が釘付けになったのは、その足先。
彼女が従姉の赤子に贈るために作った小さなベビー靴が、男の足先を包んでいた。
「そ、その靴で間違いありません……」
「やはりそうであったか。まるであつらえたように、この足にぴったりだ」
上機嫌な男の声が降ってくる。さらには……
プキュッ。キュ。キュキュッ。
「歩く度に、何やら愉快な音がするではないか。こんな面白い靴と出会ったのは初めてだ」
「あ、あの……」
乳幼児用靴ではお馴染みの、歩く度に音が鳴る笛入り仕様になっていた。
おかげで、男が足を踏み鳴らせば、足下からはプキュップキュッと可愛らしい音が上がる。
男は、どうやらそれをいたく気に入った様子だった。
「ええっと……よく、お似合いです」
「そうであろう? 私もそう思う」
赤子の繊細な足を包むことを想定した靴は、中に特別柔らかな綿を敷き、上質の牛革で縫い上げたパール渾身の品だ。
上品な煉瓦色の革の上に、白い糸で丁寧に飾り縫いをしてある。
甲には、靴本体と同じく牛革で作ったタッセルを付けた。
飾りはフワフワのぼんぼりにしようかとも悩んだのだが、タッセルを選んだあの時の自分をパールは褒めたい。
とにもかくにも、赤子のためにこしらえたものだというのに、それは確かに、見上げていると首が痛くなりそうなほど長身の男の足にぴったりだった。
「なぁ、靴屋よ。差し支えなければ、この靴を譲ってくれぬか」
「も、もちろん、どうぞ」
従姉の赤子には、また改めて作ればいい。
何より、自分が作った靴をこんなに気に入ってもらえて、パールとしては靴職人冥利に尽きるというものだ。
快く頷いた彼女に、男はその美しい顔に満面の笑みを載せて続けた。
「できれば、いくつか換えのものも欲しい。きちんと対価を支払うゆえ、他にも作ってはくれまいか?」
「あっ、はい。喜んで」
パールがドルス靴工房をクビになって以降初めて作った靴は、獣の足を持つ男のものとなった。
しかも彼は、今後もパールに仕事をくれるというのだ。
つい先ほど、ならず者達の口から辛い話を聞かされて、ぺしゃんこに潰れてしまっていたはずのパールの胸に、再び夢と希望が涌いてくる。
元来た道は、もう振り返るまい。
幸い、そちらには長身の男が立ち塞がっていて、パールが進むべきは未来であると教えてくれているように思えた。
「あの、あなた様は……?」
今更ながらのパールの問いかけに、男は「私か?」と口端を引き上げた。
そして、低く艶やかな美声でもって告げる。
「――私は、この地上と対をなす世界を統べる者だ」
「地上と対なす世界、とは……?」
「魔物が住む世界――いわゆる魔界だな」
「魔界……」
ぽかんとしたパールに向かい、男――いや、魔物の世界の支配者はにこりと笑う。
その拍子に現れた牙を、やはりパールは恐ろしいとは思わなかった。
――枯れ井戸の向こうには魔物がいる。
そうパールに教えた曾祖父の言葉は真実であった。
大昔、神子が張った強固な結界を通り抜けることができるのは、神子をしのぐ力を持つと言われる魔物の長、すなわち〝魔王陛下〟だけ――そう話した曾祖父の神妙な顔を、パールはまた思い出す。
「魔王陛下であらせられましたか……」
「いかにも」
大きな満月を背負った美しい魔王は、立派な体躯を真っ黒なマントで覆っている。
しかし、その足には、プキュップキュッと音を鳴らす可愛らしいベビー靴を履いている――なんて、一体誰が想像できようか。
パールは自国の国王陛下に靴を献上する前に、なんと魔王陛下に献上することになってしまった。
人生とはまったく、どう転ぶか分からないものである。
◇◇◇◇◇
「まおう……さま……?」
「いかにも――しかし、今日に限ってはアルスラン……アルスと呼べ」
「アルス、さま……」
「うむ、〝魔王〟というのは、渾名としても少々物騒であろう?」
そう告げて、にっと笑った魔王の口元には――いつもは覗くはずの鋭い犬歯が見当たらなかった。
それだけではない。
「魔王様……あの、足っ……足が……!?」
魔王の足は、髪と同じ白銀色の毛並みで覆われた獣のような足だ。
人間でいうと常に爪先立ちしたような状態で立つので、ずっと足が長く見える。
それにともない身長も伸びるため、彼の頭はいつも天井に擦りそうなほどの高さにある。
それなのにこの時、魔王は腰を屈めることもなく扉を潜り、いつもよりパールに近い目線で側に立った。
何より、今日はマントで隠れないその足元――二本の足先を包むのは、パールが作った笛入りのベビー靴ではなく、良く磨かれた黒い革靴。
シカに似た足は、黒いズボンを穿いた人間の男性らしいそれへと取って代わっていたのである。
ぽかんとして見上げるパールに、人間の姿となった魔王は苦笑を浮かべる。
「何をそんなに驚いている? 擬態は魔物にとって初歩中の初歩だと教えたはずだがな。そもそも、末妹のククラにできて、長兄の私にできぬ芸当などあるはずがなかろう」
ちなみに、魔王とロブが工房で鉢合わせをした日の翌朝、ククラもその正体をロブに明かしていた。
いきなり百八本の触手と対面して卒倒しそうになりながらも、なんとか気合いで持ちこたえ、「どんな姿をしていても、ククラはもううちの大事な娘だ!」と青い顔をして言い切った父を、パールは心底称えたいと思った。いや、実際褒め称えた。
とにかくこの日の魔王は、コリン家に居候を続けているククラと同様に、人間の足を持ってパールの前に現れたのだ。
その恰好は、先にも述べた通り、下には黒いズボンと黒い革靴。
上はズボンと揃いの黒いジャケットで、中にはウイングカラーの白いシャツ。襟元にはクラバットを結んで、小さな赤い宝石が付いたピンで留めていた。
シンプルな装いであるからこそ、スタイルの良さと美貌がさらに引き立つ。
ルブラ村のような辺境の田舎には不釣り合いなばかりの立派な紳士に、パールはついつい見蕩れてしまう。
擬態は魔物にとって初歩中の初歩だとの言葉通り、その姿には少しの違和感も感じられなかった。
さらには、天井に頭を擦るほどの長身は人間の足を模したことにともなって低くなり、魔王の美貌はいつもよりもずっとパールに近い位置にある。
こんな、とんでもなく麗しい男性に、この後自分はエスコートしてもらうのか……
そう思うと、緊張のあまり足が竦みそうになり、パールは思わず後退った。
それなのに、すかさず伸びてきた手が彼女の腰に回り、今しがた後退った分――いやそれ以上に距離を詰められてしまう。
「あの、魔王様……」
「ふむ、靴屋よ……いや、私も今日はパールと呼ぼう」
魔王と密着するような恰好になったパールは、目の前のタイピンに付いた赤い宝石と、いつもより近くにある赤い目の間で視線をうろうろとさせる。
ドキドキと激しくなる一方の拍動は、背中を抱いた魔王の腕にまで伝わってしまっているのではなかろうか。
パールが魔王と出会ってすでに半年経ったが、着飾った姿を彼に見せるのは初めてのことだった。
何だか照れくさいような恥ずかしいような、とにかく落ち着かない心地になって、パールはもじもじとしてしまう。
加えて魔王のじっくりと観察するような視線を感じるのだから、余計にである。
やがて、魔王は赤い両目を細め、実に満足そうに告げた。
「これは、エスコートのしがいがあるな――よく似合っている」
「……っ」
とたん、パールの頰は赤みを増した。
いまだ魔王の片腕が背中に回ったままの状態で、もう片方の手がその頰に伸びてくる。
鋭く尖っていた魔王の爪先は、丸く短く切り揃えられていた。
「どうした、私に褒められて照れているのか? 何とも初心で可愛らしいな」
「も、勿体ないお言葉でございます……」
魔王はパールの好い色に染まった頰を掌で包むと、淡く紅を引いた彼女の唇の端を親指で軽く撫でた。
親指の腹にほんのりと紅が移る。それに気付いたパールがあっと声を上げかけた、その時だった。
――パチン。
魔王が軽く指を鳴らしたとたん、その手に現れたのは一輪の赤い薔薇。
目を丸くしたパールに悪戯っぽい笑みを向けた魔王は、赤い薔薇を彼女の耳元に飾った。
薔薇の赤、紅の赤、靴の赤――そして、魔王のクラバットを留めた宝石の赤も、みんな彼の瞳の色を模したかのようだ。
魔王は実に満足げな表情をして、パールの手をとった。
「中途半端は嫌いでな。仮初めのパートナーとはいえ、請けたからには今日一日、しかと役目を果たすつもりだ」
「それは、過分なるご芳志をいただき……」
「堅い堅い。今日のお主と私は恋人同士という設定だぞ。もっと砕けた言葉遣いをせねば、周囲に怪しまれてしまうだろう」
「こ、恋人っ!? 私と、魔王様がっ……!?」
素っ頓狂な声を上げるパールに、当然だとばかりに頷く魔王はとにかく機嫌がいい。
千年を超えて生きる偉大なる魔王陛下は、十八になったばかりの人間の小娘との恋人ごっこを全力で楽しむつもりらしい。
余裕がないのは人間ばかりだ。特に、パール本人よりも……
「……お父さま、お気をたしかに」
「……」
ついさっきまで、一人娘の晴れ姿に感泣していたロブだったが、いまやその顔面は蒼白となっている。
着飾って並んだパールと魔王を、一瞬お似合いだと思ってしまったからだった。
◇◇◇◇◇
「あー……やっちゃった……」
成人まで酒を飲めないのはルブラ村だけの慣習で、カレンシア王国自体に飲酒の年齢制限はない。そのため酒に強い者が多く、ベッドサイドに用意されるのは、たいてい水ではなく寝酒である。
少し考えれば分かることだった。しまったと思ったがもう遅い。
強い酩酊感に身体の均衡を失いながらも、中身が残ったグラスを何とかテーブルに戻した自分をパールは褒めたいと思った。
「ああ、どうか……魔王様にバレませんように……」
たった一口しか飲んでいないにもかかわらず、頭がクラクラして座っていられなくなる。
自分が酒に弱いということは、魔王から忠告されて知っていた。父のロブも弱いので、きっと遺伝だろうとパールも納得していたのだ。
魔王には、危なっかしい酔い方をするので、自分の前以外では絶対に酒を飲まないよう言い含められていたのだが、今回は水と間違えただけなので大目に見てもらいたいところだ。
パールはそんなことを考えながら、ベッドの縁に腰掛けた状態からそのまま仰向けに倒れ込んだ。
すると、その時。
――コンコン。
小さく扉をノックする音が聞こえ、かろうじてそれを認識するだけの余力があったパールは何とか応えたつもりだった。
ちゃんと声になっていたかどうかは、怪しいものだが。
扉が開く音がして、誰かが近づいてくる気配がする。
――プキュ、プキュッ。
足音にそんな可愛らしい音が混ざっていたために、パールは訪問者を目で確認する必要も、誰何をする必要もなかった。
「……おい、靴屋よ。何という有様だ」
「あ……まおう、さま……」
ベッドの側までやってきて、呆れた顔でパールを見下ろすのは魔王だった。
その恰好は、ゆったりした白いローブに変わっており、裾から覗く足も白銀色の毛並みをした獣の足に戻っていた。
ベッドサイドのテーブルの上をちらりと見て、魔王が片眉を上げる。
「清酒……これを飲んだのか? ワインよりも強い酒だぞ」
「あの……水だと、思って……」
パールの答えにため息をつく気配がして、プキュ、プキュ、という音が側から離れた。
かと思ったらすぐにそれが戻ってきて、ベッドに仰向けになっていたパールの身体が抱き起こされる。
本物の水は、別の場所にちゃんと用意されていたらしく、魔王はそれを汲んできてくれたようだ。
冷たいグラスを口元に当てられ、水を飲むように促される。
しかし、すでに酔いが回ってぐにゃぐにゃの状態のパールには、儘ならなかった。
「こら、ちゃんと水を飲まぬか。酒が明日に残ったら、困るのはお主だろう?」
パールを窘める声は、相変わらず穏やかで優しい。
自力で座っていられない彼女の背中を、魔王の逞しい腕がしっかりと支えてくれた。
「口を開けろ。さあ、いい子だから……」
幼い子供を諭すようなその言葉に、パールはふいに甘えたな気持ちになって、いやいやと首を横に振る。どんな駄々をこねても我が儘を言っても許してもらえる、そう思えたのだ。
果たして、魔王は聞き分けのないパールに気を悪くすることはなかった。
「――まったく、困った娘だ」
そう言って呆れたようなため息をついたが、その声はたっぷりと甘さを含んでいる。
魔王はパールの背中を小手で支えるようにして、彼女の首の後ろから後頭部にかけてを大きな掌で包み込んだ。
そうして、首を反らすようにぐっと上向かされれば、締まりのなくなったパールの唇は自然と半開きになる。
「ん……?」
パールがとろんとした瞳で眼前に迫った美貌を捉えるのと、唇に柔らかなものが押し当てられるのは同時だった。
そして、自分以外の体温を唇越しに味わうのと、口内に冷たいものが流し込まれるのも同時だった。
「ん……ふ……」
唇を塞いでいるのが魔王のそれであるということを、酩酊した思考の中でもパールは理解していた。
彼女が素面であったならば、魔王に酔っぱらいの介護をさせるなんて恐れ多い、人生初めてのキスが水の口移しだなんて遺憾過ぎる、と頭を抱えていただろう。
けれどこの時は、魔王に与えられる心地よさに大人しく身を委ねる。
パールが唇を少し開けば、水が口内に流れ込みやすくなった。
「……いい子だ」
それを褒める魔王の声は低く掠れていて、妙に色っぽい。
その間にも、冷たく清らかな水がパールの口内を、焼けた喉を、そして食道や胃をも濯いでいく。
攻撃的な酒の味わいとは、まったくの正反対だ。
何度かそうやって水を飲まされた後、やがてうとうととし始めたパールがベッドに寝かされる。水に濡れた彼女の唇を鋭い爪を備えた指が慎重に拭い、火照った頰を大きな掌がそっと撫でた。
それが心地よくてたまらず、パールはふにゃりと顔を緩めて両目を閉じる。
こら、と窘める声は、やはりちっとも恐ろしくはなかった。
「お主は危なっかしくて仕方がない。しっかり見張っておらねば、気が気でないな」
苦笑混じりにそう呟く温もりに、パールが甘えるように擦り寄れば、今度は前髪をといてくれた。
「……靴屋……パールよ」
魔王の声がぐっと近くなる。名で呼ばれ、パールは薄く両目を開いた。
「私の今宵の過ごし方には、三つの選択肢がある」
すぐ側に、赤い瞳があった。
「ひとつは、この宮殿の側にもある枯れ井戸から魔界に戻ること」
ルビーのような魔王の瞳の中に、惚けた自分の顔が映っていて、パールは少しだけ面映い気持ちになる。
「もう一つは、イアンが私のために用意した客室で休むこと」
イアンと聞いて、パールはつい先ほどまで一緒にいたリズを思い出す。
魔王と一緒に酒を酌み交わしていたイアンも、今頃リズの側にいるのだろうか。
そう思うと、この広くて豪華な部屋で、一人ぼっちで一晩を過ごすのがひどく心細くなった。
「最後の一つは――このまま、お主の側で眠ること」
この続きは「あなたにぴったりの靴」でお楽しみください♪