書籍詳細
おとなしく泣き寝入りするとでも思いましたか?
ISBNコード | 978-4- 86669-069-8 |
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定価 | 1,320円(税込) |
発売日 | 2018/01/27 |
ジャンル | フェアリーキスピュア |
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電子配信書店
内容紹介
立ち読み
拝啓、お父様へ。
こんなこと、とてもお手紙にはかけないので、脳内で語りかけるに留めたいと思います。
うん。言えるはずがない。
——夫を、妹に寝取られただなんて。
あなた方両親が蝶よ花よと甘やかして育てた妹は、十六歳にして姉の夫を寝取るような娘に育ちましたよ。
つきましては私の心の痛みの代償として、あなた方にも慰謝料を請求したい。
私ばかり長女だからって厳しく育てて、どうして妹はわがままで無邪気、天然っぷりが愛らしいとかいって常識もない娘にお育てになったのですか?
姉の夫を寝取ってはいけないなんて、教える必要もないほど当然のことのはず。まずやろうとすら考えないのが普通です。それどころか未婚の娘が姉の夫とはいえ男性と二人で会ってはいけないようなご時世に、どうして最低限の倫理観も植えつけてくださらなかったのですか。
これが妹のことじゃなかったら私は正々堂々と裁判所に訴え出て、ちんけな男爵家なんて妹もろとも没落させたところです。
いいや、本当は実家だからって構いはしない。あなた方もろとも妹を没落させたい。
私は旦那様に尽くしたかった。たとえあの方が私に振り向いて下さらなかったとしても、床を共にしていなくとも。
だって、それが夫婦でしょう?
実家では家族の輪に上手く入れなかった私。でも変わりたかった。旦那様と家族になりたかった。
なのにどうして、妹にまた全てを奪われなければならないの。
いっそのことあなた達を、まとめて断頭台に送りたい。
けれどそれは許されないのです。
世間的に許されることではないのです。
私は家の恥を外へ知らせぬために、妹と夫の密会を守るただの使用人に成り下がる他ないのです。
夫に買い与えられた装飾品を、嬉しげに私に見せびらかす妹。
夜会にだって、妹が私の名前を騙って出席している始末。
馬鹿馬鹿しいですわよね。
結婚することが貴族の娘の務めだからと、私は学校へ通うことも許されなかったのに。
王都の学校へ入学したはずの妹は、勉学などそっちのけで朝夕夫の寝室から出てきません。一体いつ勉学に励んでいるのやら。
夫も妹も、そして父も母も夫の両親も、みんな馬鹿です。
ということで私はその馬鹿どもに飽き飽きしておりまして、つきましては家を出ようと思います。
お前に行き先なんてあるのかって?
大丈夫。
しばらくは妹が放ったらかしにしている、彼女の学校の寮に転がり込むつもりです。
城の近くにある王立学校は少し離れているけれど、ここから見えているのだから歩けば辿り着くわよね。
彼女と私は年が一つしか違いませんし、顔もそこそこ似ているのでどうにかなるでしょう。
それを利用して、彼女は夜会に出席しているわけですし。
そして学校を卒業したら、私は正式に離婚して、自分のお給金で生きていける女性になります。
その時にはもれなくあなた方両親とも縁を切るつもりでおりますので、働く女がはしたないと言われても何も気にならないのです。
厳しく躾けたはずの長女が、婚家から家出するような薄情者でざまーみろです。
第一章 波乱の幕開け
朝が来た。
昨日は忙しかった。
嫁いできて、初めて供もなく外に出たのだ。
親切な人に学校への行き方を聞いて、なんとか辿り着くことができた。
といっても、着いた時にはすっかり夜になっていたのだけれど。
旦那様と妹が私の不在に気付くのはいつかしら。もしかしたらずっと気付かないかもしれない。だって二人とも私に興味なんてないものね。
夜中に転がり込んだ寮の部屋は、ひどく埃っぽくて私を驚かせた。
これでは妹が逃げ出すはずだ。
なんとか言い訳して案内を頼んだ管理人の態度も悪かった。それは真夜中に用事を頼んだ私が悪いのかもしれないけれど。
王立学校に在籍するほとんどの生徒は、学校の敷地内にある寮で生活する。
案内されたのはそんな寮の一角。半地下の、とても好待遇とは言いがたい部屋だ。唯一の窓は東側についているので、朝日が眩しい。
そしてその光によってつまびらかにされた部屋の様子によって、私は更に驚いてしまった。
昨日まで暮らしていた伯爵家の、使用人部屋よりも狭い部屋。
埃っぽいのもさもありなん。
部屋の中には意味不明なものが雑多に置かれていて、更に部屋を狭くしていた。
使っていない絨毯。描き損じらしい壊れたキャンバス数枚。切り裂かれたドレスの残骸。千切れたネックレスのなれの果て。エトセトラエトセトラ。
本当にこの部屋が、あの妹の部屋だというのか。
彼女の無邪気に見えて意外に高いプライドが、この部屋の有様を許せるとはとても思えないのだけれど。
戸惑いつつ、私はまず朝食を食べるため、身支度を整えた。
——いや、整えようとした。
しかし収納されず山積みになった衣服の中からは、制服を発見することができなかった。
王立学校の制服は、町場では憧れの的だ。
私もその例に漏れず、華美ではないが直線を多く用いた先鋭的なデザインに、胸をときめかせていた。
しかし布の山をいくら漁っても、それらしい服は出てこない。
妙だと思っていたら、その奥の奥から隠すように、ある奇妙なものが発見された。
「なに、これ……?」
苦労の末に発掘されたのは、元があのお洒落な制服とは思えないような、切り裂かれた布片だった。かろうじて特殊な染色技術が使われている臙脂色から、そうかもしれないと予想がついた程度だ。ここではなく例えば道ばたに落ちていたら、間違いなくただのゴミだと判断していたところだろう。
「一体、どういうこと?」
どうやら妹と入れ替わるという私の作戦は、そう簡単にはいかないようだった。
埃っぽい床に膝をついて八つ裂きの制服を抱えたまま、私は大きなため息をつく羽目になった。
結局今日は授業に出るのを諦め、ぼろきれに成り果てた制服を、針と糸で縫い合わせる。
幸い、お裁縫は得意だ。運よく、道具は部屋の中にあった。
嫁入り修業として、どこへ出しても恥ずかしくないようにと叩き込まれた。
中でも刺繍は得意で、結婚前にはモチーフの中に何気ない挨拶を隠した刺繍を今の夫に送り続けていたほど。
まあ夫が、その刺繍のある作品を使ってくださっているところなんて一度も見たことがないけれど。
どうやら私との結婚は、彼にとって全く望まぬものであったらしいのだ。
だからといって、私と顔の似た妹に熱を上げている理由は全くの謎だが。
そういうこともあって、結婚してからは、一度も裁縫なんてやらなかった。刺繍もすっかり嫌になってしまって、針と糸からはすっかり縁遠くなっていた。
でも今は憂鬱どころか、チクチクと制服を縫っていく一針一針が、これからの生活への準備のようでわくわくする。
私は寝食を忘れ、制服を縫い続けた。
楽しい仕事は進むのが早い。
夕方頃に縫い上がった制服は、どうしても見つからなかった箇所に同じように破られたドレスの布を拝借したことで、スタイリッシュというよりは少しかわいげのあるデザインになった。
悪くはないが、集団の中では浮いてしまうかもしれない。
(でも、やっとできた。私の制服。妹のためじゃない、私のための制服だわ)
ぎゅっと抱きしめると、温もりはないはずなのに胸が熱くなった。
やっと、学校生活の第一歩が整ったのだ。
早速できたての制服を身に着けてみる。縫いながら微調整したので、サイズだってばっちりだ。
そして一仕事終えた途端、とんでもない空腹を自覚した。ぎゅるるるぅと聞いたこともないような音が、狭い部屋の中に響き渡る。
考えてみれば昨日の昼食以降、まともな物は何も口にしていない。
自覚してしまうとふらふらと目眩までする。とにかく何か口にしようと、私は制服姿のままで部屋を出た。
幸い、食堂は昨日案内される途中に見かけている。
その時は火が落とされて寂しい風情だったが、今頃なら授業を終えた生徒達でごった返しているに違いない。その証拠に、部屋を出た途端遠くでざわざわとたくさんの人のざわめきが聞こえてきた。
ふと、心に不安が過ぎる。
(妹の友達に会ったらどうしよう。上手くごまかせるかしら?)
昨日は勢いで乗り込んでしまったが、いくら顔が似ているからといって、友達にはさすがに妹ではないと気付かれてしまうかもしれない。
それでも、ここまできたらやるしかない。
私は妹の性格を再現できるよう、彼女の言動を思い返した。
無邪気でわがままで自由奔放。でもそれが可愛いと両親には愛されていた。
一方で私は、両親に上手く甘えることができなかった。性格が暗いから、妹を見習えと何度も言われたのに——。
そんなことでは旦那様に愛想を尽かされるぞという、父の軽口が図らずも当たってしまった形だ。ならもっと努力すれば、旦那様の愛情を?ぎ留めることはできていたのだろうか。結婚式の日、初対面で私のことをつまらない女だと断じたあの人の気持ちを。
私にとって妹は、いつも眩しい太陽だった。直視すると目がくらみ、熱さがじりじりと心を苛む。
果たして上手くいくだろうかと緊張に身をこわばらせながら、そろそろと足を進めた。
寮の部屋は半地下。食堂は一階なので、階段を上がって目的地に向かう。
すれ違った幾人かが、珍しいものを見るように振り返った。
やはり、制服が違うのは目立ってしまうのだろう。
何度も戻ろうかと考えたが、空腹には勝てなかった。一歩足を踏み出しているこの瞬間すら、空腹のせいで足がぐらついているのだ。
実際にはたいした距離ではないはずなのに、食堂がやけに遠く思えた。そしてそこに集う生徒達の姿が見えてきた、その時。
「誰だ」
背後からかけられた冷たい声音に、背中がひやりとした。
聞いたことのない、男性の声だ。話しかけられただけで、体がすくんでしまうような声だった。
私は勇気を出して、後ろを振り返る。
そこにいたのは、氷のように冷たい薄藍の目をした青年だった。
すらりと長い足に、鍛えられた上半身を覆う男子学生用の制服。そしてその上には、彫刻のように整った顔がのっている。青みがかった艶やかな黒髪。何もかもがはっとするほどに美しい。
男性に、美しいなんて感想を抱いたのは初めてだ。
そのあまりの迫力に、私は何も言えなくなってしまった。
(でも、なぜかしら。この人とは初めて会ったような気がしない……)
不思議な感慨を覚えつつも、私の体は緊張で震えていた。
言葉を絞り出そうとしても、喉に貼り付いて声にならない。
その眼光のあまりの強さに、私は物陰に隠れたくなった。
けれどこれがもし妹なら、そうはしないはずだ。震えを気取られないように、ゆっくりとスカートをつまむ。
「ごきげんよう。わたくしに何かご用でしょうか?」
久しぶりの、未婚の令嬢がする礼だ。
学校の中とはいえ、ここは貴族子息の集まる場所なのだから、正式な礼をしてもやりすぎということにはならないだろう。
ところが、一向に彼が言葉を返してくる様子はない。
何かおかしかったのだろうか。社交界にすらろくに出ず嫁いでしまった身だ。身につけたマナーが間違っている、あるいは流行から外れていたとしても、それを確かめるすべはない。
じりじりと、永遠とも思える時間が過ぎた。
「お前は……誰だ?」
ぶっきらぼうな質問に、思わず面食らう。
名前を尋ねるにしても、いくらなんでも失礼すぎるのではないだろうか。たとえ彼が貴族の最上位である公爵の息子であろうと、こんな態度を取ることは憚られると思うのだが。
しかし、疑問に思っていても仕方ない。今は、この場をどう上手くやり過ごすかだ。
彼は私のミスを何一つ見逃さないとでも言うように、じっとこちらを凝視している。
背筋に、じっとりと汗をかいた。
対応を少しでも間違えば、私は今すぐにでも学校を追い出されてしまうかもしれない。
「わたくしの名はアリス・ド・ブロイ。父は男爵を拝命しております」
声が震えないように気を付けながら妹の名を名乗ると、男の表情が更に訝しげなものに変わった。
「アリス・ド・ブロイだと? お前が?」
どくどくと、心臓が激しく脈打つ。
(しまった! この方は妹とお知り合いなんだわ)
名前を尋ねられたから、勝手に妹のことも知らないのだろうと都合よく考えていた。
しかしどうやら、彼は妹の顔を知っているらしい。
確かに、美男子を好む妹が放っておかないような相手ではある。知り合いであるという可能性は十分にあったのだ。
なのに私ときたら、まるで初対面のような挨拶をしてしまった。
早くも絶体絶命だ。一体どうすればいい。
◇◇◇◇◇
「先ほどお前達の見極めを行った。この珠を使って」
そう言って彼が取り出したのは、先ほど生徒達の前でかざして見せた丸い珠だ。
「これは個々の能力値や適性を調べるために用いる魔法具だ。分かるのは適性のある魔法の属性などだが、稀にその者の運命が見えることがある」
「さだめ……ですか?」
思わず尋ね返すと、マティアスはまるで射抜くような鋭い視線を私に向けた。
「過去に起こった出来事や、あるいは未来に起こりうる事象をこの珠は映し出す。その未来は確定的で、どう回避しようとしても結局はその結末を迎えるというほどに強制力の強いものだ」
「そんなことが……」
王子が不思議そうに呟く。どうやら珠の特殊な機能については、彼も初耳だったらしい。
肯定するようにマティアスは小さく頷き、言葉を続けた。
「しかしこれは非常に稀なことで、俺自身この目で見たのは今日が初めてだ」
「それが、見えたということですか? さっきの講堂で」
ごくりと息を呑む。
私か、はたまたクロード殿下の未来か。
マティアスは一体何を見たのだろう。そしてどうして私達二人を教官室に呼んだのか。
狭い部屋に沈黙が落ちる。
自分の息遣いの音が耳に届くほどの、重い沈黙。
どれほど時が経ったのだろう。マティアスは静かに重い口を開いた。
「見えたのは——お前達の結婚式だった」
どんな顔をしていいか分からないという顔で、確かに彼はそう言った。
「本当か!?」
殿下が思わずと言ったように立ち上がる。
それとほとんど同時で、私も思わず叫んでいた。
「ふっ、ふざけないでください!!」
だって、そんなことはありえない。私は既婚者で、しかも相手はこの国の第一王子——つまり王太子だ。
身分が違いすぎる。男爵の娘が王太子妃になるなんて、そう短くはない我が国の歴史において一度もないことだ。
何より私は、もう結婚というものに夢も希望も抱けなくなっていた。
伯爵家に嫁いだだけでこんなにも辛いというのに、低い身分で王家に嫁入りなんて死刑宣告も同じに思えた。
身分の釣り合わない結婚は不幸なだけだ。それも愛し合っているのならまだしも、殿下には初対面の時から嫌われているというのに。
(ようやく夫と妹から逃げられたと思ったら、どうしてこんな厄介事ばかり!)
◇◇◇◇◇
「エリスはさっきから、マティアスのことばかりだな」
「それは……」
当たり前だ。
一応上司に当たる彼がいなければ、エリスは今日の予定を決められないのだから。
しかしそれをそのまま言い返してもいいものか。
それに、少しいじけたような言い方が、不覚にも少し可愛いと思えて戸惑う。
「俺は、エリスの話が聞きたい」
「私の?」
「そうだ」
突然の無茶振りだ。
一体クロードはどうしてしまったというのか。
まさかエリスとアリスのように、顔の似た誰かと入れ違っているとでもいうのか。
「私は——ご存じの通り、ブロイ男爵の長女、エリスです」
「そういう話ではなくて、例えば……そうだ。エリスが子供の頃の話を聞きたい」
今日の彼は、随分と饒舌だ。
「子供の頃の話、ですか?」
「ああ」
「私はその、刺繍が好きで……とにかく針を使って何かを作るのが好きな子供でした」
「そうか」
返事は短いのに、不思議と素っ気ないとは思わなかった。
彼が食い入るような目で、ずっとこちらを見ているからだろうか。
それとも、いつもは鋭いその目が、少し優しく見えるからだろうか。
「殿下がお持ちだった、あの手巾は……」
思い切って切り出した言葉に、クロードの肩が強ばるのが分かった。
聞かれたくない。けれど会話を終わらせたくもない。
彼はそういう顔をしていた。
「あれはまだ刺繍を始めたばかりの頃に刺したので、今見ると恥ずかしいです。今はもっと、上手く刺せるんですよ?」
「……きっと、そうなんだろうな」
彼の肩の強ばりが、そっと解けた。
まるで氷上を進んでいるような気分だ。
触れてはいけない話題を口にしたら、一体どうなるのだろう。氷が割れて、私は冷たい水に投げ出されてしまうのかもしれない。
それでもなぜか、口を閉ざす気にはなれなかった。
それはクロードが、もっと聞きたいとばかりに、何かを期待する目でずっとこちらを見ているから。
「特に親しい者は、いたのか?」
彼が舵を切ったのは、思いもよらない方向だった。
「親しい者、ですか?」
「そうだ。友人や、その、親しい異性はいなかったのか?」
どうしてそんなことを知りたがるのだろう。
再び疑問が首をもたげてくる。
(おとりに愛人でもいたら、まずいってこと? なら、アリスの交友関係を答えた方がいいのかしら?)
とは思ったものの、私達姉妹はほとんど一緒に過ごすことがなかったので、彼女の交友関係を聞かれても分からない。
「何人か……いたんだとは思います」
「なに!?」
彼の驚き具合に、こちらの方が驚いてしまった。
「ええ、詳しくは分からないですけれど」
「ちょっと待て。どうして自分のことなのに分からないんだ」
「え? アリスの交友関係をお聞きなんですよね? 恥ずかしながら、妹のことにあまり詳しくなくて」
正直に白状すると、クロードは頭を抱えてしまった。
どうやら私は、また何かミスを犯してしまったらしい。
「そうじゃない。俺はお前のことが聞きたいんだ」
「私……ですか」
「そう言っているだろう」
ふむ。そんなことを知って彼はどうするつもりなのか。
「親しい異性なんて、そんな」
「いないのか」
なぜか彼は、ほっと胸を撫で下ろしていた。
というか、私が既婚者であることを知っているはずなのに、過去の交際を知ろうとするだなんていささか不躾だ。
そう思ったらちょっと意地悪がしたくなって、私はつい、今まで誰にも言ったことのない秘密を彼に話してしまった。
「でも一人だけ、優しくしてくれた男の子がいました」
「男!? どんなやつだ? 年は?」
矢継ぎ早に聞かれ、ちょっと驚いてしまった。でももう引き返せない。
「人間じゃないんです。妖精の男の子でした」
「よう……せい?」
信じられないとばかりに、彼の目が見開かれる。
それはそうだ。他の場所でこんなことを言ったら、妖精なんて絵本の中だけだと笑われることだろう。
でも私と同じように精霊が見えるクロードは、否定することもできず困った顔をして見せた。
「そう。殿下と同じ黒い髪の、とても綺麗な男の子」
彼との思い出は、私にとって大切な大切な宝物だった。
だからその思い出を汚されたくなくて、今まで誰にも言わずずっと胸に仕舞ってきたのだ。
それをクロードに話してしまったのは、どうしてだろうか。
気まぐれだと言う他ない。
「領地の屋敷に、ある日突然現れて、友達のいない私に花をくれたんです」
* * *
あれは、そう。
カントリーハウスに、珍しくたくさんのお客様がいらした日だった。
五歳の私は邪魔にならないよう、部屋を出てはいけないと厳しく言いつけられていた。そんなこと言われなくたって、私が外に出ることなんて滅多にないのに。
子供の頃の私は、体が弱く活発に動き回ることができない子供だった。
そんなところも、両親が私を持て余していた理由の一つなのかもしれない。
ともあれそんな冬の終わり、そろそろ暖かくなろうかという頃に、突然大雪が降った。
備えをしていなかった家人達は大慌てで対応に追われていて、あの日は乳母も側にはいなかったと記憶している。
暖炉のある広間には行けないから、私はずっとベッドの中で丸くなっていた。
何枚服を重ねても、乾いた空気が口の中から潤いを奪っていく。
積もった雪が全ての音を呑み込んでしまい、屋敷の中に一人きりになったような寂しさ。
誰でもいいから、側にいてほしい。
そうお祈りしていたら、その子がやってきたのだ。
最初はそう、コツコツと、窓を叩く音がした。部屋に一つきりの、それほど大きくない窓だ。
最初は風の音かと思ったが、音が何度もするからおそるおそる確かめた。
すると真っ白な顔をした綺麗な男の子が、窓の外に立っていた。
幻かと思った。
だって彼は見たこともない男の子だったし、何より外は雪が降っていて、とても子供が外に出て遊んでいいような天気ではなかったからだ。
私は奇妙だと思いながらも、彼が何度も窓を叩くものだから硝子が割れては大変と、つい窓を開けてしまった。
「さっさと開けろ。寒いじゃないか」
この続きは「おとなしく泣き寝入りするとでも思いましたか?」でお楽しみください♪