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王太子殿下の運命の相手は私ではありません

富樫聖夜 / 著
仁藤あかね / イラスト
ISBNコード 978-486669-194-7
定価 1,320円(税込)
発売日 2019/03/27
ジャンル フェアリーキスピュア

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内容紹介

《菓子職人見習いごときが王太子妃とか、絶対ないですから!》
転生先の異世界で、王宮の菓子職人見習いになれたクロエ。その彼女の作るお菓子が何と王太子アルベールのお気に召し、クロエはあれよあれよという間に王太子殿下の「おやつ係」に! そんなある日命じられたのは、王宮の晩餐会に出すパイに魔法の石を仕込むこと。それを引き当てた者こそ王太子殿下の運命の相手という話なのだけど、何度同じ仕掛けをしても石がクロエのもとに戻ってくる!? 私が殿下の結婚相手だなんて、そんなはずないですから!

立ち読み

「殿下が『祝福の子』だって!?」
「おお、なんという吉事。これでこの国も安泰だ!」
 大半の招待客が喜びを露わにする一方、暗い表情を浮かべる者、どこか憐れみの表情を浮かべる者たちがいた。
 彼らは『大地の祝福』がなんであるか、『祝福の子』と呼ばれる王族がどういう役割を果たすのか伝え聞いている者たちだった。
「『大地の祝福』……そんな……」
 国王も王妃も、もちろん王族であるがゆえに『祝福の子』の役割を知らされている立場の人間だった。
「……やはり、そうでしたか。殿下の魔力が高いので、もしやと思いましたが……」
 辛そうに魔術師長が呟く。彼も、そして魔女も決して嬉しそうではなかった。
「あたしも驚いているさ。五十年以上も前、東方にあるヒイラギ国にいた『祝福の子』が亡くなって以来、もう現れることはないだろうと思っていたからね」
「まだ、大地は本当の意味で癒えていないのですな……」 
『大地の祝福』を受けた者は大地に豊かな実りをもたらす——。だがそれはほんの一部の事実でしかなかった。
 王妃はわななく唇を、震える声を抑えることができなかった。
「そんな……、そんなことって……」
『祝福の子』はその役割による負担ゆえに、短命の者が多いとされている。国王に大勢子どもがいればまだしも、アルベールは現在唯一の跡継ぎだ。
「魔女殿! どうにかならないのでしょうか。この子は王位を継ぐ子なのです!」
 国王の口から悲痛な声が漏れる。その声は小さくて、大広間にいる招待客の耳には届かなかった。
けれど、近くにいた王妃や『国守りの魔女』、それに魔術師長の耳にははっきりと聞こえた。
「一度受けた祝福を取り消すことは不可能だ。たとえそれが地脈の流れを整え、大地と人間を?ぐ役割を持ったあたしら魔女にもね」
 淡々と答える魔女の声は、王妃の耳にはとても冷たく響いた。
「……けれど、嘆くことはない。王子は大丈夫さ。ほら、ごらん」
 魔女は揺りかごを覗き込むと、かたく閉じられた赤子の左手にそっと人差し指で触れた。
 するとどうだろう。あれほど頑なに開こうとしなかったアルベールの握りこぶしが解け、そこから小さな石が零れ落ちたのだ。
 それは大人の小指の先ほどの大きさの透明な石だった。
「おお、これは……」
 息を呑む国王と王妃を余所に、魔女は揺りかごの中に落ちた石を摘み上げて、にっこり笑った。
「賢い王子だこと。無意識のうちにこれが自分にとって大切なものだと判断して守っていたんだねぇ。国王、王妃、安心おし。この子は大丈夫だ」
 王妃は、自分を見つめる魔女の水色の瞳が暖かな光をたたえていることに気づいた。
「この石はね、大地から『祝福の子』への贈り物だ。他の人間にとってはただの石に過ぎないが、王子にはとても重要なものになるだろう。大地は確かに私たちに試練を与えるが、同時に救いと施しも与えてくれるもの。王子には数奇な運命が与えられたが、大地は彼の対となる存在をも与えてくれたようだ」
「アルベールと対となる存在を……?」
「もしやそれは運命の相手というやつですかな?」
 魔術師長が口を挟む。魔女は頷いた。
「そうさ。そもそも『祝福の子』が短命なのも、対となる存在を見つけられなかった場合だ。対となる存在は『祝福の子』から欠けたり失われたりしたものを補完する存在だからね。見つけて傍に置けば王子の負担はぐんと軽くなる」
「それでは……どうにかして王子の対となる者を見つけることができれば?」
 王妃と国王の胸に希望の光が灯る。魔女はまた頷いた。
「そうさ。対となる者が見つかれば、王子はその人物と共にいることで普通の人間と同じ長さを生きることができるようになる」
 魔女は摘み上げた小さな石をアルベールの左の手のひらに載せる。するとアルベールは眠っているにもかかわらず、その石をぎゅっと握りしめた。
「いずれ時が経てばこの石が王子の対となる者へと導いてくれる。大切におし」
「はい」
 国王と王妃、それに魔術師長が頷くのを確認し、魔女は満足そうに微笑むと、身を乗り出してアルベールの握りしめた左手にキスを落とした。
「魔女からの祝福だ、王子。国守りの魔女、フローティアの名において予言する。あんたは必ず対となる存在と出会うだろう。だから——それまで男を磨いておくんだよ?」
 それから『国守りの魔女』は子育てについて国王と王妃にいくつか助言をすると、現れた時と同じように大広間に吹き荒れる風とともに姿を消した。
 新たに誕生した『祝福の子』アルベール王子のことは、大広間に招待されていた各国の使者の口から瞬く間に大陸中に知れ渡った。そのことでにわかに騒がれることになり、縁談が殺到したりしたが、国王と王妃は『国守りの魔女』の助言に従い、アルベールの婚約者を定めることはなかった。
 例外はいくつかあるものの、『祝福の子』の対になる者はたいていが異性である。もしアルベールの結婚相手を定めてしまえば、対となる者との間にのちのち大きなトラブルを生む事態になるのは容易に予想できた。
 結局その後、国王と王妃の間に子どもは授からなかったが、一粒種のアルベールは王子としてこの上なく優秀で、性格も温厚で思慮深い青年に育ってくれた。
 ——あとは、アルベールの『対となる者』が現れてくれさえすれば。
 けれど、国王夫妻の願いもむなしく、アルベールの対となる女性は現れる気配はなかった。そのため、年々大きくなる「王太子殿下にそろそろ妃を」という声を無視できなくなってきていた。
「陛下。もはや悠長に構えている場合ではないのかもしれませんわ」
「そうだな。アルベールのもとへ対となる女性が現れるのを待っていたが、そろそろ時間切れだ。こうなっては積極的に私たちが動くべきなのかもしれん」
 アルベールは隠しているが、年々負担になっていく『大地の祝福』のために体調を崩すことも増えていた。
 こうしてアルベールが二十歳を迎えようとする年、国王夫妻はある決断をし、大きく踏み出すことにした。
 城に王太子と近い年齢の独身女性を招待し、その中から例の石に花嫁候補を選ばせるのだ。
「まぁ、都合よく城に招かれてくれるかはともかく、何かのきっかけにはなるかもしれませんな」
 魔術師長を引退し、王家の顧問となっていた老魔術師ゼファールがやや消極的ながらも賛成してくれたこともあって、王子の妃候補を選ぶための晩餐会が開かれることとなった。
 やり方は簡単だ。晩餐の場において出される予定のお菓子の一つに石を忍ばせ、当たりを引いた者を王太子妃候補とするのだ。こうすれば「石が導く」という魔女の言葉にも反しないと国王夫妻は考えた。
 ——そしてアルベール二十歳の誕生日、城の大広間には国内の若い貴族女性たちが大勢集められていた。
 急遽設えた長いテーブルにはあらかじめ食事一式が準備されている。招待客は言われるがままに広間の一角に美しく盛られた一口大のパイを各々選んで、用意された席に着いた。
 もちろん彼らはどのパイの中に石が入っているのか知らないし、アルベールや国王夫妻も知らない。
 招待客をはじめ、見届け人として招かれた高位の貴族たちは、固唾を呑んで見守った。
 アルベール王子が生まれた時に『国守りの魔女』が行った予言は国民に広く知られていたが、彼の持つ『魔法の石』の特性を知る者は少ない。
 そのため、ほとんどの者は必ず誰かのパイに石が入っているものと考えていた。たとえアルベール自身がこの中にはいないと断言したとしても、くじ引きのようなこのやり方なら、誰かが引き当てるに違いないと。
 ところが石は誰のパイの中にも入っていなかった。それではと、余ったパイに一部の女性たちが群がったが、どこにも石はなかった。
「そんな……では石はどこへ?」
 困惑したように王妃が呟く。それは大広間に集っていた誰もが抱いた疑問だった。

 石の行方に大広間中が大騒ぎになっていたのと同じ時刻。
 城の一角にある菓子専用厨房の中で、一人の菓子職人見習いが、疲れ果てながらテーブルに手を伸ばしていた。
 そこには「数はもう足りているから」と持っていってもらえなかった十数個のパイがあり、長時間働いていた彼女にとってはその甘い香りは何よりの誘惑だったのだ。
 ——余ったものだからいいわよね。味見、味見っと。
 菓子職人見習いはパイを一つ手に取り、あーんと大きな口を開けて?張った。
 ドライフルーツをたっぷり入れて作られたミンスミートの香りが口の中いっぱいに広がる。うっとりしながら咀嚼しようとした菓子見習いは、ガチッと歯に当たる石のような感触に固まった。
 彼女はそれがなんであるか知っていた。なぜなら、アルベール王子の花嫁選びのため、パイのフィリングにその石を混ぜ入れたのは彼女自身だったからだ。
 ——な、なんでこれがここに入ってるの!? まずい、わざと出さなかったと勘ぐられてしまうわ……!
 見習いの顔から血の気が引いていった。

 花嫁選びを台無しにしてしまったのかと戦々恐々とする彼女は知らない。
 石が選んだアルベール王子の『対となる者』——それが誰なのか。
 この時点ではまだ誰も知る由はなかった。
◇◇◇◇◇
 今、お菓子の厨房では二人の人物が広い作業台の一角をテーブル代わりにして、皿に盛られた小ぶりのスコーンを争うように食べていた。
「テオ、その最後のオレンジピール入りスコーンは私が食べようと思っていたのに!」
「残念でした、殿下。早いもの勝ちだよ」
「くっ、王子の私に譲るべきだとは思わないかい?」
「思わないでーす。殿下はそっちのプレーン食べてなよ」
 お菓子を巡ってまるで子どものような争いを繰り広げている二人を見つめながら、クロエはここ最近でもうすでに何十回も繰り返している問いかけを心の中で唱える。
 ——解せぬ。なぜこうなった? 
 確かにお友だちも連れてきていいとテオルダートに言ったのはクロエ自身だ。
 ——でもね、そのお友だちがアルベール殿下だなんて、聞いてないわ!
 想像してみてほしい。『友だちを連れてきたよ〜』と言いながらテオルダートと一緒に現れた人物を見た時のクロエの驚愕を。
『やぁ』などと爽やかな笑みを振りまきながら厨房に入ってきた王太子殿下に、クロエは驚きのあまり硬直し、さすがのステラもぎょっと目を?いていたものだ。
 ——アルベール王子が超甘党で、私のお菓子を気に入ってほぼ毎日のようにテオ君と厨房にやってくるようになるだなんて、一体誰が想像できただろう。
『別にいいじゃないか。非公式なんだ、何も凝ったものを作れとは向こうも言わないだろうさ』
 ステラはあっさりアルベールが厨房に出入りすることを許可し、彼らのお菓子作りをクロエに厳命した。
『最高級の食材と道具が使いたい放題だ。あんたの練習にもちょうどいいじゃないか』
 師匠であるステラにこう言われてしまえば、クロエに拒否することはできなかった。
「はぁ……」
 ため息をつきながらクロエは別に取り分けてあったスコーンを棚から取り出して、作業台に置く。
「取り合いをしなくても、まだまだスコーンはありますから」
「わーい、ありがとう。クロエお姉ちゃん!」
「ありがとう、クロエ」
 二人は嬉しそうに笑うと、新しいスコーンの皿にさっそく手を伸ばした。
 一体、どこに入るのかと思うほど食欲旺盛だ。
 もっとも、城での食事は王族とはいえ一日二食なので、夕食の時間までにお腹が減るのも無理はない。そのため、国王一家も時折、料理の厨房に依頼して軽食を用意してもらうこともあるのだという。
 そんな事情もあり、自然とクロエが作るものはホットケーキやスコーンなど、腹持ちのよいメニューが中心になった。
 ——だってあんなことを聞かされたら、どうにかお腹を満たしてあげたいと思うのも無理はないじゃない?
 クロエはブルーベリー入りのスコーンを食べるアルベールを見ながら、彼らが厨房に通い始めたばかりの頃に護衛兵たちに言われた言葉を思い出していた。
 アルベールは王族なので、どこに行くにも護衛兵がついて回る。それはお菓子の厨房でも例外ではなく、今も剣を携えた二人の兵士が厨房の端に立ち、アルベールを見守っている。
 同じ部屋にいるのにテオルダートとアルベールにだけおやつをあげるのは不公平だと思ったクロエは、兵士たちにも『毒見をしてもらう』と称して食べてもらっているのだが、ある日、お皿に盛ったフレンチトーストを手にして近づくと、小さな声で護衛兵たちから感謝の言葉を告げられたのだ。
『私たち近衛の者はあなた方にとても感謝しているんです』
『殿下は最近午後の軽食を召し上がることもなく、食事の量も減っておりました』
 アルベールも以前は公務の合間を縫って料理の厨房で作られた軽食を食べることがよくあったそうだが、それがここ半年ほどまったく口にしなくなっていたのだという。
『体調が悪いのかとお尋ねしても、そうではないと仰るのです。ですが、少しずつお痩せになっていくので、両陛下をはじめ、我々も皆心配しておりました』
 護衛兵たちは、テオルダートとフレンチトーストを奪い合っているアルベールを見て嬉しそうに目を細めた。
『殿下があのように楽しそうに召し上がっている様子を見るのも久しぶりです』
『だから我々は皆あなた方に感謝しているのですよ。どうか、これからも殿下にお菓子を作ってさしあげてください。それを両陛下も望まれております』
 なるほど、とクロエは思う。
 ——道理で殿下が厨房に通っても誰も文句を言わないはずだわ。
 普通なら、一国の王太子がおやつを食べるために厨房に足しげく通うことなど許されるはずがない。最初の時点で護衛兵が止めるだろう。欲しければお菓子を部屋に運ばせればいいのだから。むしろその方が護衛する側も楽なはずだ。
 それが、護衛兵どころか誰一人咎める気配すらないのが、少し不思議だったのだ。
 ——つまり食欲のなかった殿下のために、陛下たちがここへ来ることをお許しになっている上に、周囲もそれを良しとしてるからなのね。
 実はメリルにも護衛兵たちと似たようなことを言われていた。
『ここ最近、殿下の召し上がる量が減っていることを私たちもみんな心配していたのです。クロエ、私たちも協力は惜しみませんから、どうか殿下のことを頼みますね』
 メリルだけでなく、食料貯蔵庫の管理人や、すれ違った兵士たちからも同じような言葉をかけられる。そのたびに、クロエは感心するのだった。
 ——殿下は本当に皆に慕われて愛されているのね。
 そのアルベールにお菓子を提供し続けるクロエは、この一ヶ月の間にすっかり城中の人間に『王子のおやつ係』として認識されていた。
 ——お城みたいなところでおやつ係なんていう言い方はどうかと思うけど……まぁ、いいか。
 スコーンを美味しそうに食べるテオやアルベールを見ながら、クロエは唇を綻ばせた。自分の作ったお菓子を美味しいと言ってもらえるのはやはり嬉しいものだ。
 ——それに殿下のおかげで皆が好意的に私たちを受け入れてくれるのだから、おやつ係をやるのも悪くはないわ。ただ……。


◇◇◇◇◇

「殿下、私の肩に寄りかかってください。今椅子をお持ちしますから」
 どういうわけか、護衛たちはクロエにアルベールを預けるとすっと一歩下がってしまった。おかげでぐったりした身体をクロエ一人が支えなければならなくなり、とっさに背中に手を回して抱きしめる。
 次の瞬間、アルベールが閉じていた目をハッと開け、クロエを至近距離からまじまじと見つめた。
 驚いたのはクロエの方だ。間近で見つめられた上、ぐったりした身体がいきなり力を取り戻したのだから。
「……魔力が戻った……? ああ、やっぱりクロエ、君だったんだ。君が私の『対となる者』だったんだ……!」
 そのままアルベールは、クロエをぎゅっと抱きしめて感極まったように呟いた。
「石なんてなくても分かる。ようやく見つけた。私の花嫁」
 テオルダートと二人の護衛が喜びの声をあげた。
「やっぱりクロエお姉ちゃんだったんだ!」
「おめでとうございます、殿下!」
「そうに違いないと思っておりました。厨房に来られなくなったとたん、殿下の体調が思わしくなくなりましたからね。今までのことを考えたら、クロエ殿以外にはありえないと思っておりました!」
「え? え? え?」
 訳が分からないのはクロエだ。完全に混乱して口をパクパク開け閉めすることしかできない。
 ——はああ? どういうこと? 何が起こって私は殿下に抱きしめられているの!? というか、近い、近いです、殿下!
「はわわわ、あわわわわ!」
「晩餐会が開かれるたびに石が君のもとへ戻っていたのは偶然なんかじゃない。石はとっくに君を選んでいたんだ——私の『対となる者』である君を」
 ——石が選んでいた? 『対となる者』って、まさか……?
 抱きしめられたショックでパニックに陥ったクロエの頭がようやく回転を始める。
 ——私が? 『対となる者』? えええええ?
「ま、待ってください、殿下! 私は違います! 人違いです!」
 慌ててクロエはアルベールの胸を押しのけた。
「石が戻ってきたのは偶然なだけで、私は王太子妃ではありませ——ハッ……」
 叫んでいる途中、いきなり鼻の奥がむずむずし出してクロエは焦る。
 けれど、止める間もなく、もちろん口を押さえる暇もなく、クロエはアルベールの胸に向かって盛大なくしゃみを放った。
「ハッ——クシュン!」
 飛沫と同時に喉の奥から何かが飛び出していく。
 そしてその何かはアルベールの白い礼服にぶつかり、二人の間の床に落ちていく。コツンと、床に硬い物がぶつかる音が響いた。
 シーンと周囲が静まり返る。
 誰も何も言わなかった。……言えなかったのかもしれない。
 クロエはこんな時にアルベールに向かってくしゃみをしてしまったことを嘆くべきか、それともまったく出てくる気配のなかった石が最悪のタイミングで出てきたことを嘆くべきか、迷った。
 沈黙が広がる中、アルベールがゆっくりした動作でクロエから手を離すと、屈んで床に手を伸ばした。おそらくアレを拾おうとしているのだろう。
 ——何か、何か言わないと! 言い訳とか、言い逃れとか!
 けれど、クロエの口から出てきた言葉は自分でも思いもよらないものだった。
「え、えっと、汚いですよ、殿下」
 ——だってそれ、私の口から出てきたし、床に転がったし!
「わ、私が拾いますから。洗いますから、ね?」
「かまわない」
 アルベールはかまわず手を伸ばし、床に落ちたソレを拾い上げて身を起こす。
「さて、これはどういうことか説明してくれるかな、クロエ?」
 透明の石を人差し指と親指で摘んでクロエの目前にかざしながら、アルベールはにっこり笑って問う。けれど、その目はまったく笑っていなかった。
「…………も、申し訳ありませんでしたぁ!!」
 クロエは叫んでその場で土下座した。

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