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エリート弁護士と蕩甘契約婚〜あなたの全てを僕にください〜

沢上澪羽 / 著
白崎小夜 / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2019/06/28

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内容紹介

意地悪なのはあなたにだけです
「僕と結婚しませんか?」今は小児科医の仕事が楽しく、その上とあるコンプレックスによって恋愛に臆病になってしまった梨代子は、嫌々参加した婚活パーティーで知り合った弁護士の準哉に〝契約結婚〟を持ちかけられ、戸惑いつつも受けることに。スマートで頼りになる準哉との利害関係だけの生活は心地よく、だけどどこか寂しく感じ始めていた矢先――「我慢が効かない。あなたが悪いんですよ」。無害に見えた準哉から獰猛な獣のような欲を向けられ、抗うことはできなくて……? エリートカップルの秘密の甘い結婚生活★

立ち読み

1.結婚なんて望んでいません

 真っ白な壁に青い屋根、まだ新しさの残る建物の壁には『あずまこどもクリニック』の看板が掲(かか)げられている。このクリニックは開院して一年ほど経つが、それから現在に至るまで駐車場はいつも満杯でその人気がうかがえる。
 というのも、院長である東(あずま)真(しん)一(いち)はもともと総合病院の小児科医長を務めた人物で、穏やかな人柄と腕の良さですこぶる評判がいいのだ。その上最近、大学病院で小児科の経験を積んできた真一の一人娘である梨代子(りよこ)がクリニックに勤めだし、混雑も解消されますます評判が上がっている。
「それでは、お薬出しておきますので、また来週来てくださいね。お大事に」
「ありがとうございました」
 丁寧に頭を下げる子供に笑いかけ手を振って見送った後、東梨代子は電子カルテに情報を入力する。
「梨代子先生、午前中はこれで終わりですよ」
「ありがとう。お疲れ様でした」
 そう答えると、梨代子は腕を真上に伸ばし大きく伸びをする。大学病院で勤務していた頃は、処置だなんだと入院病棟を駆けずり回っていることの方が多かった。こちらに来てから半年が経つが、未だに座りっぱなしの仕事は肩がこって仕方がない。
 大学病院時代は座る暇が欲しいと思っていたが、今となっては動き回りたいと思ってしまう。自分でも無い物ねだりだなとは思うのだが。
「お疲れですね。肩でも揉(も)みましょうか?」
 苦笑いを浮かべつつそう尋ねてきたのは、看護師の重(しげ)森(もり)香(か)奈(な)だ。
 香奈は先月二十八歳になった梨代子のひとつ年下だ。見た目はほんわりとした癒やし系の女性だが、真一がこのクリニックを立ち上げる際に、元の職場から勧誘して引き抜いてきたとても有能な看護師だ。
 年齢が近いこともあり、梨代子と香奈は仕事上だけでなく、プライベートでも付き合いがある。仕事が終わった後には、ふたりでよく仕事の愚痴(ぐち)をつまみにお酒を飲んだりもしている。
「大丈夫よ。ちょっと体がなまっているだけだから。そうだ。ねえ、香奈ちゃん。今週末運動不足を解消しにジムに行こうと思ってるんだけど、一緒にどう?」
「ジムですか?」
「そう! 思い切り体を動かして汗をかけば、心身共にリフレッシュすると思うのよね」
 汗を流した後は、冷えたビールで乾杯して——と、脳内で週末の予定を立てていた梨代子だったが、突然割って入ってきた声に、そんな妄想は粉々に打ち砕かれてしまった。
「それは名案だが、梨代子。君がまず行くべきところは、ジムじゃないと思うよ?」
 呆れた響きを隠すことのない声でそう言いながら診察室に入ってきたのは、父である真一だった。
「……お父さん」
 伸びたままの姿勢でちらりと真一を見れば、小脇に厚い束を抱えている。それがなにか咄(とっ)嗟(さ)に理解してしまった梨代子は、口の端っこを引きつらせた。それから大慌てで居住まいを正すと、もうすっかり操作は終わったはずのパソコン画面に視線を向ける。
「最近運動不足ですので、ジムには行くべきだと思います」 
 真一の方は頑として見ることなく、ぶっきらぼうにそう言う。
 だって、父がなんの用事で自分のところにやってきたのか、その理由は聞くまでもなくわかってしまっていたから。
「梨代子……今週末は、父さんのお願いを聞いて欲しいと、何度も言ったはずだよ?」
 そう言いつつ、真一はデスクの上に抱えていた物をバサッと置いた。
「お願いなんてされてましたっけ? 私、今週末はもう予定が入っていますから」
「父さんの顔を潰す気かい? この中の誰かひとりとでいいから、お見合いをするように何か月も前からお願いしているよね?」
 言いながら真一はデスクの上に置いたお見合い写真を、順に開いていく。
「ほら、こちらは外科医長の息子さん。で、こっちはお父さんが勤めていた病院の、小児科医師。ああ、この人は循環器科の医師で、最近論文が雑誌に掲載されていて——そうそう、同業者が嫌ならば、この人は外務省に勤めているエリートだぞ」
 次々に捲(めく)られては説明されるお見合い写真からかたくなに視線をそらし、梨代子は重々しいため息をついた。
「ですから、お父さん。私、まだまだ結婚する気はないです。やっと仕事にも慣れて、これからもっと頑張ろうと思っているんですから。結婚なんてしたら、仕事だってままならないでしょう?」
「まあ、確かに仕事よりも家庭に入って欲しいと言われるかもしれないが……」
「そうでしょう? 私はまだ家庭には入りたくないですから」
 そう、幾度となく「結婚はまだ考えられない」と伝えたはずだというのに、真一はこうして見合い話を持ってくるのをやめようとはしない。
「どうしてそんなに私に結婚をさせたいんです?」
 じろりと睨(ね)め付けると、真一は眉尻を下げてしゅんと小さくなる。
「だって、それはお前……父親としてはいい人のところに嫁いでもらって安心したいだろ? それに一刻も早く、元気なうちに孫を抱きたいんだ! 父さんの仲間内でも、最近は孫の話で持ちきりなんだ。そんな話を聞きながら、父さんつくづく思ったんだよ。可愛い梨代子の子供を一日も早く見てみたいって……!」
 両手を握りしめて力説する父親に、梨代子は再び大きなため息をついた。
「今の女性にとって、結婚だけが幸せの形というわけじゃないんですよ? 私はこうして資格もあるし、自分の力で好きなように生きていくっていうのも、ひとつの選択肢だと思うんですが……」
「じゃあなんだ、梨代子。お前は一生ひとりでいるつもりなのか?」
 その問いに、思わず言葉に詰まる。
 そう、梨代子としては、一生独身でいたいと思っているわけではないのだ。確かに今は仕事も楽しいし、やりがいも感じている。でもいつかは好きな人と結婚して、それこそ真一の望むように子供を産んで——そんな未来予想図を思い描いていないといえば嘘になる。
 いや、正直に言うならそんな未来に憧れさえも持っている。けれどそれを口に出せない事情が、梨代子にはあったのだ。それを真一に話してしまえば、こうも結婚を急(せ)かすのを落ち着かせることができるのかもしれない。でも、やはり言えない。
「どうなんだい、梨代子?」 
 と迫られ、真一の真っ直(す)ぐな視線から逃れるよう、梨代子は更に顔をそむけて明後日の方向を見やった。正直なところ、まともに父親の顔を見られなかったのだが。
「……一生とか、そういうことを言っているんじゃないんです。相手くらい、自分で見つけたい。そう思っているだけです」
 なるべく感情を表に出さないよう、ゆっくりと言葉を吐き出す。真一は、生まれてから二十八年も一緒にいた相手なのだ。きっと僅(わず)かな嘘でさえ、見破られてしまう。そんな気がして怖かった。
「別に結婚をしたくないわけではなく、あくまで自分で見つけたい。そういうことかい?」
「まあ、そういうことです」
 問いかけに咄嗟にそう答えた後、梨代子ははっとして真一を見た。穏やかで優しいと評判の父が、にんまりと企(たくら)んだ笑みを浮かべているのを見て、自分が質問に対する答えをミスってしまったことを察する。
 指先で唇を塞いだが、もう遅い。
「そうか、なら自分で見つけておいで。でも職業柄出会いも少ないだろう? ほら、今週末に婚活パーティーがあるから、とりあえずは参加してみるといい」
 ばん、と重ねられたお見合い写真の上に婚活パーティーの告知プリントが叩(たた)きつけられる。ここでやっと父の真の目的が、梨代子をこの婚活パーティーに送り込むことだったのだと理解した。きっと、お見合い写真を何度持ってきてもはぐらかす梨代子に対して、これまでとは違ったアプローチを仕掛けてきたのだろう。
 そして、梨代子は知らずにすっかり真一の術中にはまっていたらしい。
 一瞬うろたえた梨代子だったが、突きつけられたプリントに視線を走らせた後、にやりと笑ってやっと父を真っ直ぐに見る。
「でもお父さん。もう申し込みの締め切りは過ぎているじゃないですか。これじゃあ無理ですよ?」
「期日が? ……気が付かなかったな。そうか。それなら仕方ない。なあ、梨代子。申し込みが間に合ったら、お前はこのパーティーに行ったかい?」
「そうですね。一度行ってみたいと思っていたので……残念です」
 申し込み期日が過ぎていることに安心しきっていた梨代子は、真一の質問につい、心にもない調子の良い返事をしてしまう。速攻で後悔することとなるとも知らずに。
「そうかそうか。なら、参加してくるといい。申し込みならちゃんと期日前に済ませているから心配ないぞ。ついでに参加費用も入金済みだ」
「……え?」
 思ってもいなかった真一の言葉に、びっくりしたまま表情が固まる。
「行ってみたかったんだろう? 行ってくるといい。ついでに、ひとりじゃ不安だろうから、重森君も一緒についていってくれるから安心だぞ。なあ、重森君?」
 真一が傍(かたわ)らにいた香奈の肩をぽんと叩くと、彼女はにっこりと笑ってうなずいた。
「はい、院長」
「か、香奈ちゃん……!?」
「そういうことだから梨代子、土曜日のパーティー楽しんでくるんだよ。詳しい時間と場所については重森君に伝えてあるからね。申し訳ないがよろしく頼んだよ、重森君」
「大丈夫ですよ、院長。ご心配なく」
「梨代子は頼りになる同僚がいて本当に幸せだな。じゃあ梨代子、昼からの診察もしっかり頼むよ」
 と、真一は満足げな笑い声を上げながら、診察室を後にした。残された梨代子はしばし放心した後、いそいそと診察で使った道具の片付けを始めた香奈を勢いよく振り返った。
「ちょっと、香奈ちゃん! さっきのは一体どういうことっ?」
「さっきのってなんですか?」
 とぼけて道具を手に診察室を出ようとする香奈の前に、梨代子は慌てて立ちふさがった。そして人差し指を突きつけつつ追求を始める。
「婚活パーティーのことよ! いつから知ってたの? どうして黙っていたの? 私がそういうの嫌いだって知ってるよね? 断ってくれたってよかったじゃないっ」
 香奈は一気にまくし立てる梨代子の言葉に眉ひとつ動かさず、最後まで聞き終えると、やれやれといった表情でため息をついた。
「婚活パーティーについては、十日以上前から知っていました。黙っていたのは院長に口止めされていたからです。梨代子先生がそういうの苦手だって知ってますよ。でも断るのは無理です。だって院長命令ですからね! 雇われている身ですからね、院長命令には逆らえません。だから断らなかったし黙っているしかありませんでした。他に質問はあります?」
 問い詰めたつもりが、逆に詰め寄られてしまい、梨代子は「うっ」と小さなうめき声を上げながら後ずさってしまう。『院長命令』と言われてしまえば、とてもそれ以上強く迫ることもできない。
 梨代子だって大学病院で働いていた頃は、どんなに理不尽だと思っても、上司からの命令は絶対だった覚えがある。断るなんて選択肢は存在していなかった。
 そう考えれば、香奈が真一の『お願い』という名の命令を断れるはずがないのだ。それどころか、貴重な休日を自分に付き合わせてしまうことになる。文句を言いたいのは彼女の方なのではないだろうか。
 ——香奈ちゃんは私のせいで巻き込まれてしまったのに、怒るなんてお門(かど)違いもいいところだわ……
 そう思い至ると急激に申し訳なさが湧き上がってきて、梨代子は小さくなって頭を上げる。
「そうよね、ごめんなさい、香奈ちゃん。私のせいで婚活パーティーだなんて、面倒くさいことに巻き込んでしまって……」
「あ、そのことなら全然気にしないでください」
「え?」
 香奈はあっけらかんと、むしろ楽しそうに顔をほころばせている。
「院長の申し込んでくれた婚活パーティーって、それなりの伝手(つて)がないと参加できないらしいんですよ。だから、身元のしっかりしたエリートが集まるらしくて……私としては、巻き込まれたどころかこんな機会をいただけてありがとうございます! って、感じなんですよ?」
 梨代子のことを思って、気を遣ってこんなことを言っている……わけではなさそうだ。普段は小動物を思わせる香奈のくりんとした可愛らしい瞳が、獲物を狙うハンターのそれになっている。
「あ、あれ? でも香奈ちゃん、彼氏がいるって言ってなかったっけ?」
 二週間ほど前、一緒に飲んだ時に付き合っているという彼氏の惚気(のろけ)話を聞かされたのを思い出してそう言ったのだが、当の香奈は口元を歪(ゆが)めてふっと微(ほほ)笑(え)んだ。
「そんなこと言いましたっけ? 全然覚えていませんねえ」
 冷たく吐き捨てるようなその物言いに、聞いてはいけないことだったのだと悟り、梨代子は慌てて口をつぐんだ。
「とにかく、せっかく普通じゃ参加できないパーティーなんですから、絶対に梨代子先生も来てくださいね。じゃないと私……院長にクビにされちゃうかもしれませんからね?」
 上目遣いで可愛らしく見上げられ、つい苦笑いが浮かんでしまった。さっきからころころ変わる香奈の表情に、なんだか女性の魔性を垣(かい)間(ま)見た気がしたのだ。
「まさか。父に限って、こんなことで香奈ちゃんをクビにしたりしないわよ」
「そんなのわかりませんよ? 院長、梨代子先生のこととなると人格が変わっちゃいますから」
「そんなこと……」
 の後は、言葉が続かなかった。思わず腕組みをして首をひねる。
 贔屓(ひいき)目もあるのかもしれないが、普段の真一は患者さんだけでなくその家族からも、本当に信頼されている尊敬すべき医師なのだ。けれど、確かに梨代子のことになると、少々……いや大いに思考回路がおかしくなるのを否定することはできそうもなかった。
 これまでも何度、すぐに結婚をする意思がないことを説明してきたって、納得してくれたことは一度もないのだから。しかも今回は、迷惑も考えずに香奈まで巻き込んでしまっている。彼女がいくら迷惑に思っていないとしても、真一が暴走していることは、否定のしようもない。だから——
「そこまでバカなことをするなんて考えたくもないけれど、はっきりと否定もできないわ……娘として情けない限りだけれど」
 ——お父さんをそうさせてしまっているのは私なんだわ。
 とは、さすがに言えなかった。結婚したくない『本当の理由』と相まって、必要以上に落ち込んでしまいそうだったから。
「じゃあ、私を助けるために、今回は婚活パーティーに参加してくれますね?」
「……そうね、わかったわ。一番悪いのは、親を納得させられない私だものね」
 とうとう諦めて、項(うな)垂(だ)れるように深くうなずく梨代子とは反対に、香奈は破(は)顔(がん)して小さくぴょんと跳ねた。
「やったあ! じゃあ、梨代子先生。当日になってやっぱり嫌だとか言わないでくださいね? ああ、楽しみだわ。新しい服買わなくちゃ」
 鼻歌交じりに診察室を出て行く香奈の背中を見送って、梨代子はがっくりと椅子にその身を投げ出した。
「ああ……もう。どうしてこうなるのかしら。私、これ以上ないってくらい結婚に向いていないっていうのに……」
 うめくように呟く梨代子の脳裏に、思い出したくない嫌な過去が蘇(よみがえ)る。
『お前、料理のひとつもできないの?』
『家のことなにもできないなんて、女として終わってるな。正直がっかりだよ』
 耳の奥にそんなふうに罵(ののし)る声が蘇り、胸がぎゅっと軋(きし)んで思わず身を縮こめた。けれどその瞬間、盛大に空腹を訴える音が鳴り、肩からふっと力が抜けた。
「お腹が空いているから、こんな嫌なこと思い出しちゃうのね。午後からも忙しいんだから、お昼はしっかり食べなくちゃ」
 すくっと立ち上がると、嫌な記憶を振り払うように何度も首を振る。深呼吸をして背筋をしゃんと伸ばすと、梨代子は診察室を後にした。
「あ、梨代子先生、さようなら!」
 会計窓口の前を通りかかった時にそう声を掛けてきたのは、喘息(ぜんそく)があって定期的に通院している幼稚園の男の子だった。先ほど鼻炎で受診した同じ年頃の女の子と長いすに腰掛け、仲良さげに並んで手をつないでいる。
「あら、ふたりは知り合いだったの?」
 足を止め、しゃがみ込んでそう問いかけると、男の子は満面の笑みを浮かべて首を横に振った。
「違うよ。さっき会ったばっかり」
「そうなの。お友達が増えてよかったわね」
 ——このくらいの年の子は、すぐに仲良くなれてうらやましいな。手なんかつないで無邪気でいいな。いつか、これが初恋でした、とかになったりするのかな。
 微(ほほ)笑(え)ましく小さなふたりを見ていた梨代子だったのだが、そんな気持ちは直後に叩き折られることになる。
「お友達じゃないよ! 僕たち、付き合うことにしたんだ。大きくなったら結婚する約束もしたの。ねー?」
「うんっ! 私たち結婚するのっ。それでね、お母さんみたいなセンギョーシュフっていうのになるの!」
「僕はお父さんと同じ公務員!」
 なんだか考えていた以上に可愛げのない答えが返ってきて、梨代子は思わず言葉に詰まる。そこへ男の子が更に追い打ちをかけてきた。
「梨代子先生は? 結婚してないの?」
「え? い、いや、先生はまだ……」
「じゃあ、彼氏は?」
「そ、それも今は……」
「そうなんだ。可哀想だね」
 別に可哀想じゃない! と反論しようとしたが、金魚のようにぱくぱくと口が動くだけで咄嗟に声が出てくれない。
「たっちゃーん、お会計終わったから帰るわよ」
 少し離れたところから、母親が呼びかけているのに気が付き、男の子は女の子の手を握ったままで立ち上がった。
「じゃあ、先生、またね!」
「……ま、またね」
 それだけやっと答えて、走り去っていく小さなふたつの背中を見送った。せっかく過去の嫌な思い出を振り払ったと思ったのに、またしてもなんだかずんと肩が重くなる。
 あんなに小さな子供だって結婚の約束をして、手を取り合っているというのに、ずっと年上の梨代子にはそれを望むことすら難しい。いや、年齢を重ねたからこそ、結婚なんて夢のまた夢だと理解しているのだ。
 体中の息を吐き出さんばかりの深いため息をつきつつ、羽織っていた長白衣をロッカーにしまうと、梨代子はクリニックの奥まった場所にあるドアを開けた。
「ただいま……」
「お帰りなさい、ご苦労様。ほらほら、昼ご飯ができているわよ」
 そう言って明るい声で出迎えてくれたのは、母親の景(けい)子(こ)だ。
 ドアを開けた先は、梨代子の自宅に繋がっている。いつでも急患を受け入れられるようにと、クリニックとドアひとつで繋がっているのだ。
 クリニックが新しく建設された時にこの自宅も新築されて、移り住んだ。梨代子は生まれてから今までずっと家族と一緒に暮らして、ひとり暮らしの経験は一度もない。現在もこうして、実家の一室で暮らしているのだが——
 ダイニングテーブルの自分の席に着くなり、温かいご飯と味噌汁、焼き魚とほうれん草のおひたし、きんぴらごぼうが完璧な配置ですぐさま並べられた。
「はい、お箸(はし)」
「ありがとう。いただきます」
「どうぞ」
 毎日食べているが、景子の料理は本当に美味(おい)しい。必ずおかずは三品以上出てくるし、管理栄養士の資格も持っているため、バランスもばっちりだ。
「はい、お茶どうぞ」
「ありがとう」
 少し喉が渇いたな、という思考を読んでいるかのようなタイミングでお茶まで出てくる。
 小さな頃から食事に限らず、一事が万事この調子なのだ。痒(かゆ)いところに手が届くというよりも、痒くなる前に薬を塗られるというか……いつも景子は全て一足先に、して欲しいことをしてくれる。
 梨代子が小児科医になりたいと思ったのは小学校の頃だった。本気かどうかというと、父親を見てなんとなく格好いいなと思った程度だったのだが、それを伝えた時の両親が本当に嬉しそうで。もっと喜ばせたくて、小児科医になりたいという気持ちが膨らんだ。
 景子はそんな梨代子を徹底的にサポートしてくれた。
 元々景子の家事能力は高かったのだが、梨代子が勉強に打ち込むようになってからは、益々(ますます)それに磨きがかかっていった。
「梨代ちゃんは、夢を叶えることだけ考えていたらいいのよ」
 といつも言っていて、実際身の回りのことを完璧にこなしてくれていた。おかげで勉強に集中することができ、医学部に現役合格できたのだが、そんな母の好意に甘えまくってきた梨代子は、家事スキルがゼロのままいい大人になってしまったのだった。
 それで困ることなんてなかったので、家事を覚えようとしたこともなかった。大学に入る前も入ってからも勉強が忙しかったから、そんなことに割(さ)く時間はなかった。というのは、ただの言い訳だったと今ならわかる。
 そんな梨代子に初めての彼氏ができたのは、大学二年生の時だ。今まで勉強一筋でまったく男っ気のなかった梨代子は、舞い上がってしまった。
 手をつないでデートして、キスして、体を重ねて……そんな初めては全て彼とだった。このままずっと一緒にいて、いつかは結婚するんじゃないかなんて、蜂蜜よりも甘い夢を見たりもした。
 けれど、現実を叩きつけられるまで、それほど時間は掛からなかった。
 付き合って三ヶ月ほどした頃だったろうか。ひとり暮らしの彼の家で過ごしていた時に、「パスタを作って欲しいと」言われたのだ。
 その時の梨代子はどうしてか、簡単に作れると思ってしまった。多分、景子がいつも手際よく、本当に簡単そうに作っていたから、そう思ってしまったのかもしれない。けれど、やったこともない料理ができるはずもなく。
 出来上がったのはとても食べられたものではない物体と、大量の洗い物と、汚れたキッチンだった。
 彼には「こんなこともできないなんて」と罵(ののし)られ。その一件以来、彼とはぎくしゃくしてしまった。というよりも、呆れられてしまったという方が正しいのかもしれない。とにかく連絡がなくなって、でも梨代子から連絡する勇気はなくて——
 最後は『いくら勉強ができても、家事もできない奴を女とは思えない』という感じのメールが届き、彼との短い関係は終わったのだった。しかもその後、その彼があちこちで梨代子が全く家事ができないことを言いふらして笑いものにしていたと聞いた時には、絶望と恥ずかしさと情けなさが大きすぎて、呆然とするばかりで涙も出なかった。
 家事スキルを身につけて見返してやる! なんて気持ちさえも湧いてこず、それからはひたすら勉強に打ち込んだ。おかげさまで成績はその後めきめき上がったが、恋愛に対しては臆病になってしまった。また馬鹿にされ笑われるくらいなら、恋愛も結婚もしたくなんてない。
 ——ああ、結局、思い出したくもないことを全部思い出しちゃったなあ……
 そんなことを考えながら、ひっそりとため息をつく。普段は思い出さないようにしているのだが、今日は週末婚活パーティーへの参加が決まったり、幼稚園の男の子の結婚宣言が身に沁みたりで、閉じ込めていた思い出が刺激されてしまったらしい。
「ねえ、そういえば梨代ちゃん。婚活パーティーに参加することにしたんですって? さっきお父さんから聞いたわよ」
「え? ああ、うん、まあ」
 景子がそう言いながら、目をきらきらさせて向かい側の席に座る。全身から隠しきれない期待感を放出している母とは正反対に、梨代子の気持ちは重くなる。
「やっと梨代ちゃんも、そういうことに目を向けられる余裕ができたのね。素敵な人が見つかるといいわねえ」
「素敵な人……か」
 ぼそっと呟いて梨代子は箸を置いた。
 両親が、娘である自分の結婚を気にしているのは仕方のないことだと思う。一人娘である梨代子が子供を生まなければ、孫の顔も見られないのだから焦るのも仕方のないことかもしれない。
 そういうことはわかっているのだ。できることなら結婚してふたりを安心させてあげたい気持ちだってある。でも。
「……人には向き不向きってものがあるんだよね。私は、向いてないと思う」
「え? なに? 梨代ちゃん、なにか言った?」
 首を傾げてこちらを見ている景子に曖昧(あいまい)な笑みを向けながら、緩(ゆる)く首を振って立ち上がる。
「ごちそうさまでした」
「あら、もういらないの?」
「うん。食べ過ぎたら昼から眠くなっちゃう。じゃあ、診察室に戻るから」
「頑張ってね」
「行ってきます」
 手を振る景子に応えながらも、梨代子はどうしたら結婚しないという選択を親に納得してもらえるだろうか、とそんなことばかり考えていた。
 ——完全に自立した男性が、家事はしなくてもいいから結婚だけして欲しいとか言ってくれないだろうか。そう例えば、結婚という名前が付いただけのルームシェアみたいな。それなら私でもありだと思うんだけど……
「って、そんな都合のいい話があるわけないじゃないの」
 現実逃避としか言いようのない想像に、梨代子は自ら突っ込みを入れた。考えるまでもなく、そんな話があり得ないことくらいわかっている
 妄想するくらいは自由だろうと思いつつも、妄想するほど余計に虚しくなってくる。診察室に戻った梨代子は医学誌を手に取ると、見るともなしにそれをパラパラと捲って邪念を振り払ったのだった。


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