書籍詳細
傲慢社長の求愛ルール
定価 | 1,320円(税込) |
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発売日 | 2019/06/28 |
電子配信書店
内容紹介
立ち読み
第一章 出会いは雨の中
宮(みや)下(した)沙(さ)織(おり)はホテルのラウンジでコーヒーを飲んでいた。
もう日は暮れている。
窓の外は暗く、沙織は自分の姿が映っているのに気づいた。
仕事帰りで、白いブラウスに膝丈の黒いスカートを身に着け、ベージュのジャケットを羽織っている。背中まである髪は後ろでひとつにまとめ、上品なバレッタで留めているが地味な髪形だ。顔は色白で、大きな瞳が目立っていた。
そう。どこにでもいる、ごく普通の二十四歳の女性だ。普段、一人きりのアパートで淋しく暮らしているが、今は目の前に笑いかけてくれる人がいる。
仕立てのいいスーツを着ている彼の名は茂(も)木(ぎ)亮(りょう)介(すけ)。沙織の母親違いの兄でもある。
中背で、少し痩せ気味で、顔は少し気弱そうに見えるが、優しい性格の持ち主だ。沙織は彼が自分のことを気にかけてくれることがとても嬉しかった。
沙織はほんのりと微笑んだ。
「いつもわたしのことを心配してくれてありがとう。でも、そんなに気にしなくてもいいのよ。わたしは……もう一人でやっていけるから」
亮介は顔をしかめた。
「何を言ってるんだ。沙織のことを気にかけるのは当たり前のことだ。遠慮なんかすることはない」
「でも……よくないわ。亮介さん……」
兄を亮介と呼ぶのは、ほんの二年前に会ったばかりだからだ。兄妹として育ったわけではないせいで、二人の間には少し遠慮がある。
そう。複雑な事情があるのだ。二人の間には。
「君は大事な人だ。本当はこんなところでこそこそ会いたくない。出るところに出て、君のことをみんなに紹介したいのに」
「それはできないわ。わたしは亮介さんと会うことができて……本当によかった。ただ、こんなことを続けてはいけないと思うのよ。わたしより、奥さんのことを考えて」
「僕は……父の言いなりになって結婚したことを後悔しているよ」
「そんなことは言っちゃダメ。もうお子さんができたんでしょ? これからはもうわたしのことは気にしないで」
「できないよ……沙織」
亮介は目を伏せて頭を横に振った。
「いいえ、そうしたほうがいい。わたしに関わらないほうがいいの」
「……君はそれでいいのか?」
「母が病気になって……心細かったときに亮介さんはわたしを助けてくれた。母を元気づけてくれた。でも、もう母が亡くなって半年も経つわ。わたし……もう一人で生きていかなくては」
「一人で生きる必要なんてないじゃないか」
沙織は無理に微笑んだ。
「それなら、スマホで連絡を取り合うだけにしましょう。そこで繋がっているだけでもいい。わたしはそれで充分よ」
「僕には充分ではない。だけど……君が言いたいことも判る。いつかはきっと……」
「ええ。いつかはね」
その『いつか』は実現しても、きっと遠い未来のことだろう。それが判っていても、そんな約束をするしかない。亮介が自分と関わることは、よくないことなのだ。
亮介の父は会社経営をしていて、裕福だった。ずっと昔のことだが、沙織の母はそこで家政婦をしていた。亮介の父は離婚していて、まだ若かった沙織の母を誘惑したのだ。
母は妊娠したが、父は金で追い払った。元家政婦の妻など欲しくなかったのだ。その間にできた子供も。
当時まだ八歳だった亮介は、面倒を見てくれていた沙織の母を本当の母のように慕っていて、大人になってから母と同じ時期に家政婦だった人に偶然会い、真相を聞かされて、母を探そうとした。そして、二年前、母と再会を果たし、沙織とも会うことになった。
母を亡くした沙織にとって、亮介は心の拠り所だった。しかし、自分と会っていることを父が知ったら、どう思うだろう。きっと再び金で追い払おうとするに違いない。そして、亮介は叱責を受けるに違いなかった。
亮介は父に反抗したくても、できないようだった。性格的な弱さがあった。けれども、沙織を妹として堂々と紹介したいという気持ちもあるのだ。
亮介はその板挟みになっている。
だから……もう会わないほうがいい。
優しい人だからこそ、負担をかけたくなかった。
わたしは一人でも大丈夫。
沙織は何度も心の中でそう唱えた。
沙織は亮介とは別々に帰ることにした。
亮介はアパートまで送ろうと言ってくれたが、やはりここで終わりにしたい。それに、一緒に帰ったりすれば、余計に別れがたくなる。
とても淋しいから……。
沙織にだって友人はいる。けれども、淋しいときに誰かを頼ることはよくないと思っていた。友人とはいつでも笑顔で接していたい。沙織は人の悩みを聞くことは苦にならないが、自分から悩みを打ち明けることはできなかった。
きっとプライドが高いのかもしれない。ずっと母一人に育てられてきて、強がることに慣れ過ぎているのかもしれなかった。
父なんかいなくていい。兄弟なんかいないほうがいい。
母にはずっとそう言い続けてきた。
もっとも、父に関しての真実を知ったのは、亮介と会ってからのことだった。実際、生まれる前から自分を捨てた父などいないほうがいいに決まっている。
沙織は亮介が去った後もしばらくラウンジにいたが、ようやく立ち上がった。彼が置いていってくれたお金で精算して、ホテルから出ようとして足を止めた。
雨が降ってる……。
たぶん降り出したばかりだ。亮介が出たときに雨が降り出していたなら、やはり送ろうと言ってくれたに違いないから。
彼の言葉に甘えればよかっただろうか。だが、もう遅い。
タクシーに乗ろうか。
でも、どこまで……?
駅までは近すぎる。アパートまでは遠すぎる。いや、車で行けない距離という意味ではなく、運賃が高くなるからだ。亮介とは違い、沙織は倹約して生活していた。
近くのコンビニまで走ろうか。それなら、ロビーで少し小降りになるまで待っていよう。
ホテルの中へと引き返そうとしたとき、沙織は後ろから来た長身のスーツ姿の男性とぶつかった。
運悪くヒールが滑ってしまい、その場で転んでしまう。
「すみません。大丈夫ですか?」
男性に手を差し出されて、沙織は頬を赤らめた。大人になって転んだことはなかったからだ。
「いいえ、こちらこそ……すみません。大丈夫です」
顔を上げると、沙織はドキッとした。
男性の顔は整っていて、男らしい雰囲気があった。眉はきりりとしていて、目には意志の強さが表れている。鼻は高く、唇は薄い。そして、その唇は軽く微笑んでいた。
こんな人……初めて見たわ。
長身だが、亮介のような細さはない。スマートだが、しっかりとした体形で、全体的に力強さが感じられた。
年齢は三十代半ばくらいだろうか。亮介よりは年上に見える。大人の落ち着きがあって、頼りがいがありそうな男性だった。
沙織は彼の手を借りて立ち上がった。
「怪我はありませんでしたか? どこか痛いところは?」
「い、いいえ……。なんでもありませんから、ご心配なく」
だいたい、彼が悪いわけでもなんでもない。自分が後ろのことを気にせずに振り返ったのがよくないのだ。
ホテルの中に戻ろうとしたところを、彼が引き留めた。
「ちょっと待ってください。もしかして……雨が降っていたから帰れないとか?」
「少し小降りになるのを待とうと思っていたんです」
彼はにっこり笑いかけてきた。
「それなら、どうか僕に送らせてください。もしかしたら、今は判らなくても、どこか怪我をしているかもしれないし。責任を感じますから」
沙織は目を見開いて、まじまじと彼を見てしまった。
彼になんの責任があると言うのだろう。
「あの……あなたには責任はないと思います。どうかお気になさらずに」
「いいえ、ぶつかったのは僕の不注意もありますから。……あ、僕の車が来ました」
車寄せに一台の大きな黒い車がすべるようにやってきて停まった。運転手が車から降りて、後部座席のドアを開ける。
「さあ、乗って」
彼に腕を取られて、あっという間に乗せられていた。
彼は沙織の隣に座り、運転手は元の席に座る。運転手付きの車なんて初めて乗った。彼は一体何者なのだろう。悪気はなく、ただの親切なのかもしれないが、なんだか妙に強引な人だ。
「あなたの家は?」
「JRの駅までで結構です」
「いや、あなたの家まで送る。住所を教えて」
彼は断固として家まで送るつもりらしい。だが、運転するのは彼ではなく、運転手なのだ。少し遠慮しつつも、住所を告げると、運転手はナビにそれを登録した。
車は走りだし、沙織は座り心地のいいシートの上で居住まいを正した。
「あの……本当にいいんですか? わたしはもうどこも痛くないし、そもそもあなたの責任ではなかったのに。ぶつかったのは、どちらかというと、わたしの責任です」
彼はふっと笑って、こちらに目を向けた。
「両方の責任ということにしませんか? 少なくとも、僕はあなたを転ばせてしまったように感じたから」
そう言われて、どちらの責任かなんてことはどうでもいいのかもしれないと思った。少なくとも、お互いに自分の責任だと感じている以上は。
「判りました……。あの、ありがとうございます。本当は困っていたんです。急に雨が降り出して、どうしようって」
「実は僕もあなたの後ろ姿を見て、困っているんじゃないかと思っていたんです。乗せてあげたら、感謝されるかもしれないと」
まるで口説かれているような気がして、沙織の頬は熱くなってくる。いや、頬だけでなく、なんだか身体も熱い。
でも、私なんか口説く人がいるかしら。
沙織は学生のときから目立つ存在ではなく、部屋の隅にひっそりといる地味な人間だった。だから、誰とも付き合ったことはなかった。
社会に出てからは、母の具合が悪くなり、男性に目を向ける余裕もなかった。母が亡くなってからも……。
よく考えると、男性を意識したのは淡い初恋以来かもしれない。
初めて会った人なのに馬鹿みたい。だいたい、彼とは二度と会う機会もないだろう。運転手つきの車に乗るような男性なら尚更だ。彼が自分を載せてくれたのは、恐らく同情心からだろうか。
雨に降られた憐れな小娘が可哀想になっただけなのだ。そうに違いない。
沙織はシンデレラなんて信じない。自分を助けてくれる王子様がいるとも思っていなかった。
ただ……彼はとても紳士的で礼儀正しく、外見も素敵な人だ。もし彼が自分の恋人だったら、どんなにいいだろう。
ほんの束の間、沙織は夢を見た。しかし、すぐに現実に戻る。
わたしなんかに興味を持つ人がいるとは思えない。
「親切な方なんですね。わたし、ラッキーでした」
一瞬、彼が身体を強張らせたような気がした。が。すぐに笑いながら言った。
「僕こそラッキーだったかもしれない。実はあなたのことをラウンジで見かけて、食事に誘いたいと思っていたんですよ」
「えっ、わ、わたしを……? 何故?」
沙織は心底驚いた。
「あなたはどこか儚(はかな)げで……男心をくすぐる人だ。いつもそう言われているんじゃないですか?」
「とんでもない! わたしの周りには男性なんていません」
友人に言わせると、沙織が誰も寄せつけないのだという。そんなつもりはなかったが、女手ひとつで育ててくれている母の手助けになることばかり考えていて、男性に目を向けることはなかったと思う。
「本当に……? 信じられない」
そんなふうに言われて、沙織は当惑した。自分こそ信じられない。彼のように自分を褒めてくれる男性はいなかったからだ。
「でも……嬉しいです。なんだか少し自信が持てたような気がします」
「それならよかった。……じゃあ、付き合っている人はいないんですね?」
「いません。一人も……」
亮介はもちろん恋人ではない。それに、もう会わないことに決めていた。自分が頼るべき人はもうどこにもいない。
だからといって、初めて会ったこの人に何か特別な気持ちを抱くのは間違いのような気がしてならなかった。
まるで、亮介の代わりを求めているようで……。
わたしは誰かに頼りたくて、この男性を意識しているの?
沙織は自分に問いかけてみた。
ううん。そうじゃない。頼りたいというそんな気持ちとは無関係に、なんだかドキドキしてしまうだけだ。
彼はスーツのポケットから何か取り出して、沙織に差し出した。
「僕の名前は須(す)藤(どう)智(さと)史(し)です。ちなみに独身で、恋人もいません」
差し出されたのは名刺のようで、沙織は受け取った。暗くて名刺に何が書いてあるのかはよく見えないが、沙織は慌てて名乗った。
「わたし、名刺は持ってないんですけど、宮下沙織です」
「やっと名前が判った」
お互いに名前を知らずに車に乗り込み、会話を続けていたのだと気がつき、沙織は彼と共に声を合わせて笑った。
「仕事は何を?」
「事務です。小さな会社だから、いろんなことをするんですよ。雑用係みたいなものかもしれません」
「僕は祖父が事業を興した会社を継いでいる」
やはり彼は沙織の手の届かない世界にいる人なのだ。だから、この車を降りたら、もう縁は切れるのだろう。というより、車に乗せてもらったことが何かの縁になるなんて、考えないほうがいい。
「……社長さん?」
「そうとも言う」
その言い方がおかしくて、沙織はまた笑った。彼の一言で、なんだか急にくだけた雰囲気になったのが判った。
「わたしとは違う世界の人なんですね」
確かにそう思っているのに、何故だか自分は彼に好意を感じているようだった。
「そうかな。こうして同じ車に乗って、同じ空気を吸っている。違う世界にいるとは思えないですね」
「でも、本当にそうなんです。あのホテルだって、人と話す予定がなければ、足を踏み入れることもなかったし」
あのホテルはラグジュアリーホテルで、沙織が出入りするような場所ではなかった。亮介に連れてきてもらったことがなければ、恐れ多くて、自分からロビーに近づくこともできなかっただろう。
「ほら、わたしの格好。あのホテルにはふさわしくないでしょう?」
「そんなことはないですよ。ビジネスであのラウンジやレストランを利用している人はいるから。あなたもそうなんでしょう?」
「……ええ、まあ」
母親違いの兄と会っていたなんて話をする必要を感じなかったので、適当に返事をした。
「ところで……宮下さん? 沙織さんと呼んでもいいですか?」
「えっ……はい」
男性から名前で呼ばれることはなかったが、呼んでいいかと言われて、嫌だとは言えない。実際、嫌だという気持ちはなかった。
ただ、初対面で、もう二度と会わないのに、どうして名前を呼んでくるのか判らない。彼は女性に慣れ慣れしい人なのだろうか。
紳士的な態度で、そんなふうには思えないのだが。
「沙織さんは休日にはいつも何をしていますか?」
「え……あの、家事をしてます。他は一人でのんびりとして……」
急に話が変わって驚いたが、きっと沙織の気を楽にしてやろうという心遣いに違いない。
「友達と会ったりしない?」
「たまには……。でも、休日にはそれぞれ予定があると思うんです」
誘われたら出かけていくが、沙織から誘うことはない。一人が好きなわけではないのに、沙織は気がつけばいつも一人だ。
沙織の胸にまた淋しさが過(よ)ぎっていった。
そろそろ新しいことを始めるチャンスなのかもしれない。休日に一人でいても、いいことなど何もない。
「あの……須藤さんは? 休日はどう過ごされていますか?」
彼はくすりと笑った。
「僕が沙織さんと呼んでいるのに。僕の名前は智史だ」
「で、でもっ……慣れ慣れしいかもしれないって……。さ、智史さんはわたしよりずっと年上の方ですよね?」
「三十四です」
「わたしは二十四ですから」
「僕はおじさんかな?」
「そんなことないです! もっと若いように見えます。……あ、こんな言い方は失礼でしたか? おじさんというイメージとは違うと言いたかったんです」
沙織はいつになく落ち着きを失っていた。少なくとも会社ではこんな失敗をしたことはない。物静かで落ち着いていると、いつも言われていた。
「いいんだよ。気にしないで」
彼のほうは余裕がある。沙織との会話を暇潰しとして捉えているのかもしれなかった。
雨の中、まだアパートには着かない。
沙織の暮らしているところは、家賃も安い場所にあるのだ。当然、都心からは遠い。
「やっぱりアパートまで送ってもらうなんて図々しすぎました」
「どうして? 僕が送ると言ったのに」
「でも、よく考えたら、ずいぶん遠回りなんじゃありませんか?」
「そうかもしれないね」
やっぱり!
彼は都心の高級マンションで暮らしているに違いないのだ。
「でも、僕には下心があるから」
「えっ」
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