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焦らされ御曹司がストーカーのように求婚してきます

佐木ささめ / 著
駒城ミチヲ / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2019/07/26

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内容紹介

俺を跪かせる事できる唯一のひと
「俺と結婚しないか」ロンドン駐在から帰国した千秋に突然、告白を飛び越え求婚してきたのは、イケメン同僚で実は有名老舗企業の御曹司の枚岡だった。押し切られそうな同棲を断ると、今度は引っ越し先の隣の部屋に先回りして住んでいて!? 社内ではいい相談相手で、何度もトラウマから守ってくれる枚岡に、次第に恋の予感を覚える千秋。「綺麗だよ」極上の美男子の甘い声と熱い腕に、緊張する体を優しく愛撫され、ナカへ埋められて愛される幸福に包まれる。千秋は彼の逞しい体に抱きつくことしか出来なくて!? エリート御曹司の極甘恋愛包囲網☆

立ち読み


第一章 波乱の予感


 お盆休みが明けて、暦の上では晩夏となる八月下旬。
 この日は台風十八号の接近による影響のため、中部国際空港(セントレア)の発着便の一部に欠航が出ていた。
 しかし國(くに)江(え)千(ち)秋(あき)を乗せたブリティッシュ・エアウェイズ便は、ヘルシンキ・ヴァンター空港を経由して、無事セントレアに着陸した。
 千秋は飛行機の座席を立つまで、懐かしい日本(にほん)の風景を窓からじっと眺めていた。
 ――二年程度じゃあ、何も変わらないわね。当たり前か。
 雨による視界不良で故郷の景色は鮮明に見えなかったものの、人工物と緑が混在する景色は記憶にあるものと一致する。
 最後に出国した二年前と同じ空港を歩けば、その想いはさらに増した。
 帰ってきたとの感慨で上機嫌な彼女は、キャリーケースを引きながらターミナル内を移動する。
 長距離フライトのうえ時差も大きいが、貯め込んだマイルでエコノミーチケットをビジネスクラスにアップグレードしたため、空の旅はとても快適でそれほど疲れていなかった。
 目指すは食事処だ。
 二年間、ロンドンに駐在していた千秋は日本の出汁(だし)に飢えている。現地の日本食レストランにはたいへんお世話になったが、やはり帰国したら真っ先に和食を食べたい。
 いい匂いに惹かれて、きしめん専門店の暖簾(のれん)をふらふらとくぐる。白えび入りのかき揚げが乗ったきしめんを注文し、待つこと数分。
 湯気が立ち昇る丼(どんぶり)が供(きょう)され、出汁と天ぷらの香りを吸い込んだ千秋は笑顔で箸をとった。
「いただきます」
 濃いめの汁(つゆ)が胃に染みわたるようで、つるりとしたのど越しの麺とよく合う。
 欧州に滞在していた千秋にとって、「日本に帰ってきた」と心が震えるほど嬉しいシンプルな味わいだった。
 揚げたて熱々のかき揚げを崩してサクサクの食感を楽しみ、ときどき汁に浸しては、柔らかくなった衣からじゅわりと滲(にじ)む出汁と揚げ油のミックスを楽しむ。
 日本食の原点でもある出汁を心ゆくまで堪能し終えると、「よし、働くか」と心の中で気合いを入れて席を立った。
 時刻は午前十一時。だんだんと雨脚が激しさを増しているものの、交通機関はまだ動いているとのこと。早いうちに名古屋(なごや)市内へ入ろうと、千秋は中部国際空港駅へ足を向けた。

 一時間ほどで総合商社九ノ里(くのり)株式会社の本社ビルに入った千秋は、キャリーケースを引きつつ歩きながら社員証ストラップを首にかける。
 そのとき背後から声をかけられた。
「――國江。久しぶり」
 振り向けば、スーツについた水滴をハンカチで拭(ぬぐ)う長身男性が、無表情でこちらを見つめていた。
 千秋はその眉目秀麗な容貌を認め、やや気まずい気持ちを抱きながら笑みを浮かべる。
「久しぶりね、枚(ひら)岡(おか)。元気だった?」
 ああ、と頷く男の容貌は左右均等に整っており、切れ長の瞳が実に色っぽい。イケメンや美男子との言葉が、これほど似合う人物はそういないと思わせる人物だ。
 彼とは同期入社だが所属部門が違うため、ものすごく仲がいいというわけではなかった。が、ある時期から頻繁に飲みに行くようになった。
 ちなみに彼は海外の大学院に進学していたので、三歳年上である。
「おまえ、今日帰国したのか。よく遅(ち)延(えん)にならなかったな」
 枚岡がちらりと背後を見(み)遣(や)る。ガラスで覆われたエントランスの向こう側は、豪雨と呼んでもおかしくないほどの悪天候だ。風も急速に強くなりつつある。
 千秋は名古屋駅で電車を降りるとタクシーに乗り換え、本社の車寄せに横付けしてもらったため、それほど被害は受けていない。が、最寄り駅から歩いてきたらしい枚岡は、スラックスの裾がかなり濡れている。
「セントレアに降りたときはここまで降っていなかったからね。ラッキーだったわ」
 そんなことを話しながら枚岡と共にエレベーターへ乗り込む。彼が階数ボタンのパネルに人差し指を伸ばしつつ尋ねてきた。
「二十三階でいいよな?」
「うん」
 その階にある財務部門が千秋の所属先だ。
 彼の長い指が二十三のボタンと、次いで二十五のボタンに触れる。
 そこで千秋は疑問を抱いた。彼が所属する化学品事業部門は二十階のはず。
「……二十五階って、経営企画部だよね」
「ああ。俺の今の部署」
「え、そうなの!」
 枚岡は化学品事業部門の営業部に所属しており、千秋の海外赴任より少し前に、新興国の現地法人へ出向していた。
 彼の方が帰国命令は早かったものの、元の部署に戻っているものだと思い込んでいた。まさか同じコーポレート部門にいるだなんて驚きだ。
 総合商社には〝背番号制〟なるものが隠(いん)然(ぜん)と存在する。
 新入社員が最初に配属された部署が〝背番号〟となるため、千秋の背番号は財務で、枚岡は化学品だ。通常はその部門を中心として仕事をする。例えば九ノ里の現在の社長は食糧畑出身だ。
 しかし社内公募によって部署の垣根を超えた異動が叶ったりと、人材のローテーションは実施されている。もしかして上層部は、彼に直接部門(フロントオフィス)と管理部門(バックオフィス)をまんべんなく経験させる方針かもしれない。
 枚岡ほど優秀な人材ならそれもありえる。そう納得した千秋は二十三階に着くと、キャリーケースの取っ手(ハンドル)を握り直した。
「じゃあね、枚岡」
「待った。久しぶりに飲みにいかないか?」
 彼を見上げれば、真っすぐで力強い視線が射貫いてきた。言葉にしない男の熱量が含まれているようで、千秋は即答できずに戸惑ってしまう。
 枚岡からは、海外赴任の前に好意らしき感情を向けられていた。とはいっても、はっきり告白されたわけではない。はっきり言われる前に自分が逃げ出してしまったから……
 千秋はある事情から、二十八歳になっても異性と交際する概念が皆無のうえ、結婚願望もない。自分を女として見る男性とは距離を置きたいのが本音だった。
 それでも同期として久しぶりに飲みに行きたいとは思う。
「……いいわよ。今日は報告会があるから、明日以降でお願い」
「週末はどうだ?」
「了解。でもビールとウイスキーはお腹いっぱいなの。できれば日本酒の美味しいお店に行きたい」
「分かった。いくつか店の候補を送る」
 頷いた千秋はエレベーターを出てオフィスへ向かった。
 ……最近、枚岡から個人的な連絡が絶えていたため、とうとう恋人ができたのかと期待していた。が、そのような感触などまったくなかった。
 物理的な距離が開いて二年も経過しているのに、いまだに心をざわめかせる眼差しを向けてくるなんて。
 ――あいかわらず目(め)力(ぢから)が強い。真正面から見つめられるとソワソワするんだけど……
 でも、もしかしたら仕事のことで話したいことでも、あるのかもしれない。もしかしたら愚痴を吐き出したいだけかもしれない。
 帰国したばかりで社内のゴタゴタに関与していない自分なら、彼も話しやすいだろう。
 そう自分に言い聞かせて、汗ばんだ手のひらをスカートにこすりつけた。

 台風の接近にともない早めに退社した社員もいる中、千秋は結局、就業を過ぎた午後十時頃まで残業をしてしまった。
 交通機関の多くは運休となっているため、弟に頼み込んで会社まで迎えに来てもらうことにした。
 地下駐車場で待っていると、やがてシルバーメタリックのコンパクトカーが近づいてくる。千秋のそばで停まった車から、実弟――國江稔(みのる)がしかめっ面で降りてきた。
「おかえり姉貴。帰国当日まで残業かよ」
「帰国当日だから色々とあるのよ。――元気にしてた?」
「ぼちぼち」
 四つ歳(とし)の離れた弟は眠そうな顔をしながら、姉のキャリーケースをトランクにしまって運転席へ乗り込む。
 自宅マンションに着くと千秋は真っ先にバスルームへ直行した。
 弟は烏(からす)の行水だが、自分は大の風呂好きである。稔には帰宅したら風呂に入りたいと、出汁茶漬けを食べたいとメッセージを送っておいたのだ。
 ロンドンでは、こうしてゆったりと風呂に浸かることは少なかった。向こうは硬水なので、日本の入浴とは少し違うということが大きい。
「はあ……気持ちいぃ……」
 もう一時間でも二時間でもお湯を堪能していたい気分である。しかし名残惜しくも湯船から出て部屋着に着替える。
 リビングへ向かうと案の定、稔から「親父たちに挨拶ぐらいしろ」と睨まれた。
 ごめんごめんと反省しつつ、千秋はリビングに設置した小さな仏壇の前に座る。ろうそくと線香に火を灯し、父母の写真と位牌へ合掌した。
 ――お父さんお母さん、おかげさまで無事に帰ってまいりました。長いこと不在にして申し訳ありません。
 理由あって、二年間の赴任中に一度も帰国しなかった。
 それでも日本に帰ってきてホッとしているから、やはり自分は故郷の生活の方が性に合っているかもしれない。
 そんなことを考えながら両親へ親不孝を詫び、ダイニングへ向かう。
 テーブルには大ぶりのご飯茶碗が置かれていた。茶碗から立ち昇る湯気には、昼間食べたきしめんとはまた違った出汁の香りが含まれている。
 千秋の顔が嬉しそうにほころんだ。
「稔のお茶漬け、久しぶりね」
「そりゃあ、二年も帰ってこなかったんだからな」
 苦笑する弟が姉の前の席に座り、すでに食事を済ませた彼は自分のお茶に口をつける。
 箸を取った千秋も、湯気の中でたっぷりの刻み海苔(のり)が踊る出汁茶漬けを食べ始めた。
 弟が作ってくれるお茶漬けは実に美味しい。本人はお茶をかけるものが好きと言うが、千秋は出汁を使ったタイプを好んでいる。
 良質の素材で作られる出汁パックを使っているおかげだろうか、疲れた胃の腑(ふ)を優しい味がじんわりと癒してくれる。
 グリルで焼いた塩鮭を、食べやすいよう骨を外してほぐしてくれる心遣いがありがたい。刻み生姜と三つ葉の香りも意識をさっぱりさせてくれる。
「美味しい……」
 実感のこもった声を漏らせば、稔がケタケタと笑い出した。
「そりゃどーも。ていうか帰国したばっかりなのによく働くよな。時差ボケはどうした」
「平気よ。フライト中はお酒を飲んでガッツリ寝たから」
「ほんと、タフだよな。アラサーのくせに」
「ふふ、体が資本なので」
 とはいえ自分もすでに二十八歳。秋になれば一つ歳をとる。まだまだ若いと思っていても、少しずつ基礎代謝は低下しているはずだ。飲み会好きの職場にいるため、今後を考えると少し怖い。
 もうちょっと食べたいと思う量をぺろりと平らげて食器を洗うと、終わったタイミングで熱い玄米茶が差し出された。
「ありがと。いいお嫁さんになるわよ」
 弟とは、両親を亡くして二人で暮らすようになったときから、家事を一緒にこなしてきた。夫婦共働きが当たり前となっている昨今、自立した男に育ってくれたと千秋は嬉しい。
「アホか。姉貴こそ早く嫁に行け」
「私は、結婚はしない」
 断定の口調で言い切る姉の表情は、弟から見ると玄米茶の湯気で曇っていた。
「……啓(けい)兄(にい)が、姉貴に会いたがってたぞ」
 千秋たち姉弟(きょうだい)と家族同然に育った従弟(いとこ)の名前を出され、彼女はうっすらと口元に苦笑を浮かべる。
「知ってる。今度の休みにここへ来るってメッセージが来た」
 千秋の帰国を稔伝いに知った父方の従兄弟(いとこ)たちは、さっそく週末に酒を持って遊びにくるという。
 それを聞いた稔が気まずそうに首筋をザリザリと撫(な)でる。姉が従兄弟たち――いや、正確にいえば三男の啓(けい)三(ぞう)を避けたい心境を知っているのだ。
 そこで千秋は熱いお茶を飲んで口調を変えた。
「ねえ。嫁に行けって、もしかしてお姉ちゃんを家から追い出したいのかな? お姉ちゃんがいたらこの家で彼女とイチャイチャできないもんね」
 ぎくりと弟の体が揺れて、彼の手にある湯呑みのお茶が跳ねた。
「なっ、なんだよ、それ……っ」
「お風呂に入ったとき、床に長い髪の毛が落ちてたわよ。あと口紅とファンデの試供品が鏡の裏の棚に残ってた。あ、そういえば初めて見る可愛らしいピンクのタオルもあったわ。あんたの趣味とは正反対のやつ。そしてキッチンにはあんたの苦手なハーブ類が揃ってる。これはお泊りというより、なんちゃって同棲とみた」
 急所を突かれた弟はとっさに言い訳が浮かばないのか、動揺を隠しきれず情けないほどうろたえている。
 その蒼(あお)ざめる様子に千秋は思わず噴き出してしまった。
「なに怯えてんのよ。別にいいじゃない、一人暮らしだったんだから。他人を家に入れるなって私は言った覚えもないし」
 ふふ、と千秋が優しい表情で微笑んだため、硬直が解けた稔は大きく息を吐き出した。
「……ごめん」
「謝るってことは、彼女とここで暮らしていたと認めるのね。――稔」
「はいっ」
 普段は飄々(ひょうひょう)としている姉が、いつもより低い声を出すときは決してふざけてはいけないと、弟は身に染みて知っている。
「恋人と暮らすのは本当に構わないわ。けど私が帰るからって、お相手の女性を叩き出して宿なしにしたわけじゃないわよね?」
「そんなわけあるか! 彼女の部屋はちゃんとある!」
「あ、そ。ならいいわ」
 あっさりと引いた千秋は背もたれに体重をかけると、額に汗を浮かべる弟を悠(ゆう)然(ぜん)と眺めた。
 ――もう、保護者は必要ないのね。
 そう気づかされた。
 二年前、英国(ロンドン)への海外勤務の辞令が下ったとき、稔は大学を卒業したばかりの社会人一年生だった。まだまだ子どもだと思っていたが、離れている間に巣立ちを迎えていたらしい。
 彼はとっくの昔に、姉に甘えて泣く幼(おさな)子(ご)ではなくなっていたのだ。
 一(いち)抹(まつ)の寂しさを感じながらも、千秋は玄米茶で温まった息を天井へ向けて吐き出した。
「私、引っ越し先を探すわ。この家はあんたにあげるから、その彼女さんと暮らしなさい」
「ちょ、ちょっと待てよ! この家は姉貴のもんだろ! 出ていくなら俺の方が出ていく!」
「違うわ。マンションの名義はお父さんのままなの。だから私たちのどちらが相続しても構わないのよ」
 両親の死亡時、成人していたのは千秋だけで稔はまだ高校生だったため、遺産の管理はすべて千秋が担(にな)っている。
 それで稔は家の名義も姉に変更していると思い込んでいたようだが、もともと千秋はこの家を出ていく腹積もりだった。
 一人で暮らすには広すぎるから。
 結婚願望のない千秋にとって、ファミリー向け4LDKなど手にあまる。家庭を持つことに憧れる弟の方がふさわしいだろう。家族が増えてもこの間取りならば余裕があるうえ、まだ築二十年しか経過していないため、結婚相手も喜ぶのではないか。
 それを稔に告げると、彼は神妙な顔つきになって唇を引き結ぶ。
「……姉貴は、結婚しないのか?」
 同じことを何度も聞くな、との言葉が喉元までせり上がってきたが、弟の縋(すが)りつくような不安な瞳を見て、かろうじて飲み込んだ。
 家族を独りへと追いやる罪悪感を、最愛の弟に抱かせたくはない。
「そうね、いい人がいたら、考えてみるわ」
 己の異性に対する価値観を壊してくれる人がいれば、お付き合いをしてみたい気も……まあ、ないわけではない。
 けれど今は仕事が恋人だ。出世を望んでいるわけではないが、転職希望もないため九ノ里で長く働くつもりだ。
 そうして気づけば、アラフォー、アラフィフになっているのだろう。
 人並みの幸せというものは、弟が得られれば自分も満足だと心から思っている。甥っ子や姪っ子が誕生したら、お嫁さんにウザがられないよう可愛がってあげたい。
 やがて千秋は話を切り上げると、自室でボーッとメッセージを眺めた。ロンドンからの便りが多く、彼女らと話をしていると自分が今どこにいるのか分からなくなってくる。
 ――でも、海外勤務になることは、もうないだろうな。
 今後は財務部門の中で部署を転々とするはず。
 投資先企業か子会社へ出向という辞令があるかもしれないが、そこで骨をうずめる可能性は低い。
 少し早いが終(つい)の住(すみ)処(か)を探すのもアリかもしれない。
 ありがたいことに資金はあるのだ。一軒家も候補に入れようか、とか、でも一人ならやっぱりマンションかな、とか、新しいことを始める高揚感でわくわくする。
 おかげで弟と離れる寂しさは薄れた気がした。

     §

 数日後の金曜日。枚岡から送られてきた店の候補のうち、千秋が指定したのは日本酒とワインが美味しいと評判の焼鳥屋だ。居酒屋でもよかったのに、彼がピックアップするのは接待でも使えそうなお洒落で高級な店ばかりである。
 さすがは元営業マン。いい店を知っている。
 見目麗しい枚岡と連れ立って会社を出たら悪目立ちするため、少し離れたカフェで待ち合わせにした。互いに約束の時間よりやや早く合流し、店まで一駅分あるけど歩こう、と話してから席を立った。
 今日の日中は昨夜の雨のせいか蒸し暑かったものの、日が落ちると風が吹いて心地いい。こういうときに夏も終わりつつあると肌で感じる。
 それでも暑いことは暑いので、てくてくと歩を進める千秋の口から弱音が漏れた。
「あー……、温泉、入りたい……」
 隣を歩く男から、クスリと囁(ささや)きにも似た笑い声が零される。
「おまえ、よくそのセリフ言ってるよな」
「だって帰国してからまだ一度も行ってないのよ。……ああ、どうせ引っ越すなら温泉施設のそばがいい……」
「引っ越すのか?」
「んー、家を出ようと思ってるの。まだ考え始めたばかりだから、具体的なことは何も考えていないわ」
 そんな他愛のないことを話していたとき、前方の地下鉄入り口から、こちらへ歩いてくるサラリーマンらしき男性と目が合った。
 千秋の体がギクリとこわばって足が止まる。慌てて枚岡の腕をつかんだ。
「ごめん、ちょっと遠回りしようっ」
「え、どうした?」
 方向転換しようとしたものの、千秋の姿を認めた男が近寄る方が早かった。
「千秋さん! 久しぶりですね!」
 中肉中背の若い男が小走りで近づいてくる。しかも千秋の対人距離(パーソナルスペース)へずかずかと入り込んでくるため、彼女は思わず一歩下がった。
「いつ帰国したんですかー? 僕にも教えてくれたらよかったのに。あ、もう帰りですよね? 一緒に飲みにいきましょう!」
 まくし立てる男が許可もなく千秋の腕をつかんだとき、彼の手首が手刀で叩き落とされた。
「いでぇっ!」
「勝手に触るな」
 枚岡が千秋の体を引いて己の背後に隠す。
 男が「何すんだよっ!」と枚岡を睨みつけるが、二十センチほどの身長差に加え、目鼻立ちのはっきりした端整な容姿に睨み返されて仰(の)け反(ぞ)っている。舌打ちをして数歩下がったのは、男として負けを認めたのだろう。
 だがすぐに歪んだ笑みを浮かべ、枚岡の後ろに隠された千秋を覗き見るように体をくねらせた。
「千秋さーん、スマホ替えた? ずっと連絡できないんだけど、番号教えて欲しいなぁ。教えてくれるまで僕、帰れないなぁー」
 猫撫で声の気色の悪さから、縮こまる千秋は耳を塞ぎたい衝動に駆られた。が、逃げたままでは駄目だと思い、申し訳なさを抱きつつも腕を枚岡の体に回して軽く抱き締める。
 細身だと思っていた肉体は意外なほど硬い筋肉に覆われていた。
 男らしい逞(たくま)しさと、かすかに揺れる彼の動揺を感じ取って、千秋の顔が真っ赤に染まる。
 ――むちゃくちゃ恥ずかしい。というかごめん、枚岡。
 好意を向けてくれる相手だからといって、こんな屋外で許可なく抱きつくなど常識の範(はん)疇(ちゅう)外だ。彼に触れている腕が、羞恥と後悔で小刻みに震える。
 すると枚岡の大きな手のひらが、彼の腹部にある千秋の手を、ぽんぽんと軽く叩いた。
「これからデートなんでね。野暮な真似はしないでくれるか」
 とっさに合わせてくれた枚岡の機転に感謝する。振り向いた彼がこちらの肩を抱いて寄り添ったため、大人しく身を任せておいた。
 仏頂面の男の脇を無言で通り過ぎたが何も言われなかった。衆目を集め始めているのも原因だろう。
 千秋は肩を抱かれたまま枚岡と密着して歩いていたが、交差点を左折して背中に突き刺さる視線が途切れたとき、肺を空にするほどの大きな息を吐いた。
「……助かった。ありがとう……」
「どういたしまして。役得だから気にするな」
 すぐに手を離して距離を取ってくれる彼の気遣いが、男の悪意を受けたばかりの身にはありがたかった。ハンカチを取り出して額に滲んだ汗を拭い、目的の焼鳥屋へ入る。
 暖簾(のれん)をくぐってスタッフに予約名を告げると、案内されたのは半個室の座敷だった。
「私、とりあえずビールで……」
「ビールとウイスキーは腹いっぱいじゃなかったのか?」
「前言撤回します。喉が渇きました……」
 会いたくない人物に会ってしまった衝撃と、逃げるためとはいえ同期に抱きついた後悔で体が火照っている。汗もかいたため、おしぼりで顔を拭く男性の気持ちが今はすごくよく分かる。
 枚岡は千秋の心境を察したのか、生ビールを二つ注文して乾杯した。
 キンと冷えたビールにきめ細やかな泡が、干からびた喉を潤してくれる。千秋は出だしから、クーッと半分以上を飲み干してしまった。
「はあ……美味しい……」
 ようやく人心地ついた気分である。
 しかし同じようにビールに口をつけた枚岡が、「さっきの失礼な野郎、おまえの何?」と聞いてきたため視線をテーブルに落とした。
「ごめんね、枚岡を利用しちゃって……」
「だから役得だって言っただろ。それにああいうときは他に男がいるって思わせておいた方がいいんだよ。で、なんなんだあいつ。やたら馴れ馴れしかったけど、おまえより年下だよな」
 今までは千秋のプライバシーに突っ込んでこなかった枚岡だが、今日はおかしな男に絡まれたせいか引く気配がない。
 千秋はもともと自分のことは滅多に話さないけれど、さすがに助けてもらっておいて、だんまりを決め込むほど非常識ではなかった。
「えーっと、さっきの人は、求婚者、かな?」
「はっ!?」
 冷静沈着な枚岡が、珍しく素(す)っ頓(とん)狂(きょう)な声を出して目を見開いている。しかもまじまじと凝視してくるため、気まずすぎる千秋はお品書きで顔を隠し、眼差しをさえぎった。
 その可愛らしい仕草に自分を取り戻したのか、枚岡も慌ててお品書きを開き、「まずは頼もう」と動揺する声を漏らしている。
 二人でああでもないこうでもないと話し合い、結局おすすめコースを頼み、足りなかったら追加ということにした。
 千秋は最初に供された前菜五点盛りを味わいつつ、ビールを飲み干して日本酒へ替えた。もっとアルコールを入れなければ身の上話など話せない。
 千秋が選んだ滋賀県の純米酒は、酒の甘味と酸味が肉の脂に呼応し、うまみを増幅させつつ口の中をクリアにしてくれる逸品だった。
「あー、これは日本でしか味わえない……帰ってきてよかった……」
「日本酒の輸出は増加傾向だけど、まだまだ取扱量は少ないからな。九ノ里(うち)でも扱っていたよな」
「うん。でもロンドンで飲んだら、ちょっと味が変化してたのよね。輸送に問題があったのか、現地の品質管理が下手だったのか……あれじゃあ、お金をかけて海の向こうへ運んだ意味がないわ」
 ワインよりも痛みやすい日本酒の繊細さを、外国人に理解してもらうことは、まだまだ時間がかかりそうだ。
 そんな色気のない話をしながら新たな酒を頼み、運ばれた焼き鳥を頬張る。レアのささみは日本酒の甘味によく合った。
 箸休めの野菜串はやはり赤ワインより日本酒だろう。鴨のようなパワフルな肉に、凝縮感のある山(やま)廃(はい)純米で食べると泣けた。
 互いに旺盛な食欲を見せ、やがて腹が満たされて飲むペースが落ち着いた頃、再び枚岡が同じ問いを投げてきた。
「……そろそろ話す気になったか。俺はすごく気になるんだけど」
 そこそこの量の酒を飲み、いい気分になっていた千秋はようやく観念した。


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