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猫かぶりは淑女(レディ)の嗜み〜見せかけ放蕩王子にひらかれて〜

白石まと / 著
さばるどろ / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2019/07/26

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内容紹介

もっと乱れて自分を明け渡せ
「俺たちは猫かぶり同士だな」母の遺言を守り、溌剌な性格を押し込めて社交界随一の貴婦人になった公爵令嬢のジュリアは、身分を隠して参加した仮面パーティでDと名乗る青年に出会う。自ら貿易を営む果断な彼も、ある理由で放蕩息子の猫をかぶっていると言う。王宮の男性とは違うDの快活さに惹かれるジュリアだったが、放蕩者と噂の第二王子の頭文字が『D』だと知って……? 「俺だけが知っているおまえの姿だ」熱く身体をひらかれ、被っていた猫が暴かれていくようで!?

立ち読み

【序章】


 ガデリア王国の王宮で催された初秋の大舞踏会は、夜半を過ぎて最高潮に達した。
 大広間の中心ではダンスを楽しむ老(ろう)若(にゃく)男(なん)女(にょ)が犇(ひし)めいていたが、一組のカップルが中央へ出てくると、ほとんどの者は壁際へ引いて眺める体勢になる。小規模なオーケストラが演奏を始め、注目の二人は滑るようにして踊り始めた。
 所々でグループを作り社交に勤(いそ)しんでいた者たちも、そのカップルに気が付くとすぐさま話題をそちらへ転換する。
「ため息が出ますわね。お二人があまりにお似合いで」
「物静かで端麗な王子殿下の隣にここまで無理なくお立ちになれるのは、やはりジュリア様しかおられませんなぁ」
「ほら、他の者たちも引いてしまいましたわ。ジュリア様と比べられては堪(たま)りませんものね。気持ちは分かりますけど、王子殿下の花嫁の座を狙うならもう少し頑張られませんと」
 彼らの視線の先では、バーンズ公爵の一人娘で今年二十歳になったばかりのジュリア・バーンズと、二十八歳の第一王子が優雅にワルツを踊っている。
 誰もが興味津々といった体で、優しい色合いのクリーミーブロンドと緑の瞳を持つ令嬢の動きを目で追った。
 二人が最後のポーズを決め、周囲に対してお辞儀をすれば、あちらこちらから拍手が沸き起こる。ジュリアは口元に笑みを湛(たた)え、四方へ向かって優雅なお辞儀をし終えてから大広間を退出していった。
「相変わらずお早いお帰りですな」
「屋敷の奥で刺繍ばかりなさっている社交界きっての淑(しゅく)女(じょ)ですもの。騒がしい場所は苦手なのではありません? 致し方ありませんわ」
「人の目に長く姿を晒(さら)さないのは、バーンズ公爵様の戦略でしょうね。ぼろがでる前に隠してしまうというのは、なかなか良い手ですわ」
 ジュリアに関しては、褒め称える者と同じくらい足を引っ張ろうとする輩(やから)がいる。意地悪なことを囁(ささや)く婦人連中は大概、妙齢の娘を持つ方々だ。娘を王子殿下に近づけたいという心持ちも顕(あらわ)にジュリアに対して批判めいた言葉を繰り返す。
 年齢が高めの紳士が先の夫人に顔を向けた。
「戦略など練って娘を売り込まなくても、バーンズ家は貴族界でも有数な財産持ちですからな。嫁ぎ先など、より取り見取りでしょう。おまけに、ご当人の美貌もさることながら、立ち居振る舞いなど貴婦人の中の貴婦人と言われていますからねぇ。それこそ、王子殿下でさえもご結婚相手としては候補の一人にすぎないと思いますよ」
 全体的に、ジュリアの評判はすこぶる良い。『物静かでも無口ではなく、機知にとんだ会話ができる上に笑みを絶やさない。控えめで優しげで……』と、これでもかと美(び)辞(じ)麗(れい)句(く)が並ぶ。
「いやはや、よくぞここまで完璧なレディが存在するものです」
「そうですわね。外見ばかりか中身までなんて。まるで作られた人形のようですわ」
 この夫人の意見はなかなか的を射ていたが、当人は気付いていない。
 ジュリアの姿が見えなくなっても話題が尽きないのは、彼女の後ろ姿を名残(なごり)惜しそうに見つめる第一王子の姿があるからだ。傍(はた)目(め)からも切ない恋心が透けて見える。
 ジュリアは気が付いているだろうかと噂が飛び交う中で、いまの状況ではこれ以上の進展は難しいというのが大方の見方だった。
「公爵様は王子殿下が王太子の指名を受けるまでは、掌中(しょうちゅう)の珠(たま)を手放さないでしょうね」
「王太子殿下になられるのは、まだまだ難しいでしょうな。国王陛下は先日も、自分と同じ血気盛んで勇猛果敢な者でなければ王位は譲れないと話しておられた」
 そこにいた者たちは皆で顔を見合わせる。
 第一王子は争いごとを好まない読書好きだった。一度決めたことは完遂するまでやめることはなく、歩き始めれば確実に前へ進むが、勢いに任せてすべてを薙(な)ぎ払うような力はないと、国王は判断している。
 自分と同じタイプを求めているから、長子であってもお気に召さないというわけだ。
 一人の婦人が皆を見回して尋ねた。
「そういえば第二王子殿下が五年の留学から戻ってこられるそうですけど。あの方、たしか国王陛下と気性が似ておられたのではありませんこと? えぇ……と、お名前は、デューイ様でしたよね」
「デューイ・フォルス・ガデリア殿下ですよ。今年の春で二十四歳になられましたか」
 名前が出れば顔も付いてくる感じだが、十九歳で国を出て以来になるので、どう成長したのか想像しにくい。しかもこの場には、最近の彼を知る者はいなかった。
「……これは、王宮内でひと波乱ありそうですな」
 王宮社交界は貴族たちの権力闘争の場でもある。誰もが同感と頷(うなず)く傍(かたわ)らで、二人の王子のどちらに付くのか、戦々恐々として互いの動向を窺(うかが)った。

 王宮の正面出入り口へと続く廊下があまりに長くて、ジュリアはいまにも早足になりそうだった。
 落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせながら歩いてゆく。
 いかに早く王宮から出たくても、貴婦人は走らないという基本を忘れてはならない。
 ようやく辿(たど)り着いた正面扉から外へ出て、バーンズ家の馬車に素早く乗り込む。すぐさま四歳上になる侍女のエルミも入ってきて、馬車はゆっくり動き出した。
 正門から王宮を出ると、王都を横切るために大通りを抜けてゆく。ジュリアは、緊張で強(こわ)張(ば)っていた肩からようやく力を抜いた。
 天に召された母に向かってそっと呟(つぶや)く。
「お母様、今日も貴婦人として、淑女として、きちんとできたようです」
 母親の遺言は『王宮で一番の貴婦人になってほしい』だった。そして、大人しくて優しい『淑女』であるようにと、死出の旅路の前に幼い彼女に伝えた。
 それを心に置いて頑張ってきたが、本来の気質との差が大きくなりすぎて、このところ自分で作り上げた理想の姿が重荷になっている。
 人に自慢できるくらいの体力があっても、常に緊張しているせいか、今までに増して精神的な疲労が溜まっていた。
 ため息を吐(つ)くと、対面に座るエルミが心配そうに訊(き)いてくる。
「お疲れのようですね。大丈夫ですか?」
「なんとかね。猫かぶりも楽じゃないわ。被っている猫は年々重くなってゆくし」
 苦笑する侍女へ笑いかけてから、ジュリアは目を閉じて明日の予定を思い巡らせた。
 ——公式の予定はなにもなかったわ。《ビーグルメ亭》へ行きたいわね。そういえば、前に行ったとき、仮面パーティがあるって招待状をもらったんじゃないかしら。
 時折、気晴らしのために変装までして王都へ出る。それは彼女にとって欠くべからざる息抜きになっていた。
 王都にあるあちらこちらのレストランでの食べ歩きも大好きだ。
 美味(おい)しい料理を食べ、人の顔を真正面から見て自分の考えを口にできる機会は、姿を偽ってでも離せないものになっていた。
「お嬢様? 眠られたのですか?」
 彼女を気遣うエルミの声を子守唄代わりにしながら、ジュリアは眠りに落ちていった。
?


【第一章 猫かぶり令嬢の事情】


 バーンズ公爵の一人娘ジュリアは、陽(ひ)が昇ってからとはいえかなり早い時間に起き上がった。ナイトドレスを脱ぐと、急いで着替え始める。
 本当はもっと早く起きたかったが、昨夜は王宮で秋の大舞踏会があったので早朝は無理だった。大抵の貴族はこういうとき午(ご)餐(さん)の直前に起床するので、これでもかなり早い方だ。
 彼女付きの侍女は三人いるが、変装して町へ出るためにはエルミの協力が不可欠なので、今朝は彼女だけを呼ぶ。
 エルミは、ジュリアが《王都へ来たばかりの地方豪商の娘》という仮の姿に扮(ふん)するために、服装もそれに合ったものを用意してくれる。
 ただジュリアには、姿は誤魔化(ごまか)せても身に付いた動作によって完全な町娘を装うのは難しいらしい。だから、《地方から出てきた》《豪商の娘》のふりをして王都を歩く。
 この頃どんどん勢力を伸ばしている地方商人の娘たちは、王都へ出てくると、華やかさに憧れて羽を伸ばしたがるそうだ。
 それに便乗してなんとか誤魔化している。
「お嬢様、これでいかがですか? 仮面パーティらしくなっていると思いますが」
 今夜は《ビーグルメ亭》で開かれる仮面パーティに出る。
 大通りから一本外れたところにある《ビーグルメ亭》は、二階から四階が中級クラスの宿泊施設になっている。奥まったところにあるとはいえ老舗(しにせ)のホテルなので、一階のレストランもそれに見合うだけの上質感があった。
 価格が高めなので、富裕層とまで言えなくてもそれに近い客層になる。不(ふ)埒(らち)な乱暴者や、酒が入ると大声で騒ぐ者などはマスターが入店させないし、少しでも問題行動を起こせば、店の者たちがそそくさと追い出していた。
 大通り沿いの店では身元が分かってしまうし、これ以上下町に近づくと治安が悪いため、かろうじて安全に過ごせる範囲として、ジュリアの町での行動はそこが主体になっている。
 公爵の娘と分かると、危険もさることながら、本来の気質を抑えこんでまで長年築き上げてきた淑女という外面が一気に崩れてしまう。《ふしだら》とか《放蕩(ほうとう)娘》の汚名を被(こうむ)ることになり、当然、結婚相手もバーンズ家に相応(ふさわ)しい相手は見つからなくなってしまう。
 ——そこまで分かっていても、どこかで心を解放できないと病んでしまいそうなのよね。
 ジュリアは、姿見に映る自分の格好をしみじみと眺めた。
 季節は初秋とはいえ、まだかなり暖かいので、袖は肩のところで小さく膨らんで肘(ひじ)まで下り、その先をフリルが飾っている。高価すぎるレースはほんのわずかなアクセント程度しかない。首回りは開いているが、それなりに節度を保っている感じだった。
 胸当てには、リボンが縦並びに付いていて、スカートは透かしの柄入りだ。下に穿いたパニエは段々になったフリルだけなのであまり広がらない。
 全体的にすっきりとして軽いのが、とても彼女の趣向に合っている。
 間違った着方をしないようエルミに手伝ってもらうが、貴婦人のドレスと違って、着脱も一人でできる服だ。
「とってもいいわ。今日の服はなんだか可愛いわね」
「仮面パーティらしく、おとぎ話に出てくる少女を想定しています」
 王宮社交界では仮面舞踏会というものがあるが、そういうときはとにかく派手に装うのが通常だ。重くて動きにくい貴婦人のドレスとは、仮装としてもずいぶん違う。
 ジュリアは軽い動作でくるりと一回りした。
 横髪は三つ編みにして後頭部で纏(まと)めてあるが後ろ髪は背中に下ろしているので、豊かに広がって頭の動きに沿って舞う。髪は、町中では珍しいくらいのカスタードクリームのようなブロンドで、しかもウェーブが深いので下ろしていると豪奢(ごうしゃ)な印象になった。
 だから町へ出始めたころに染めた方がいいのではないかとジュリアは言ったが、エルミに大反対されたのだ。
『こんなに柔らかできらめく美しさなのに、染料を使用しては髪が傷(いた)んでくすんでしまいます。毎晩しっかり御(お)髪(ぐし)を梳(す)いている身だしなみ係の侍女は、お嬢様の髪の美しさを誇りに思っております。どうぞそればかりは……』
 ジュリアはそのとき、働く者への配慮が足りなかったと詫(わ)びた。
 こういう心配りを家庭教師は教えてくれない。母親がいない彼女は体験しながら学んでゆくほかなかったので、指摘してくれるエルミは彼女にとってとても貴重な侍女だった。
 椅子に座れば、後ろに回ったエルミが、三つ編みのものも残りの髪も合せて一つに括(くく)った。広げていると目立つから纏める方がいいらしい。ただ、結いあげることはしない。
 王宮では結い上げることが多いので、同じような形にするのはまずいという判断だ。
「あとは仮面を用意していますので、ビーグルメ亭に入る前に装着しましょう」
「楽しみだわ」
 ふふふ……と笑う。町中の仮面パーティ。どんなだろうと想像が走れば心も高揚する。
 彼女はスカートを少しだけ摘(つま)んで椅子から立った。こういう動作は無意識なものなので、ドレスの裳(も)裾(すそ)を捌(さば)くのと同じになる。
 エルミは、貴族的な雰囲気は隠し切れないから、知っている者が見れば分かるかもしれないと注意をする。しかし大通りに面していないレストランへ来る貴族などいないから、ジュリアは大丈夫だと考えていた。
「スカートの丈が短いのがいいわね。外を歩いても地面に付かないもの」
 ぱっと足を上げて靴(くつ)を顕にする。これは、町へ出るときには必ず履いている編み上げ短ブーツだ。
 なんでも他国の女王陛下が好んで履いていらっしゃるものだそうだが、ガデリア王国の社交界ではヒールの高いパンプス以外は野蛮だと言われてしまう。
 彼女にしてみれば歩きやすくて格別に好きな靴だった。走ることもできるし、ジャンプも可能だ。
「お嬢様、お行儀が悪いですよ」
 エルミの指摘に対して、ジュリアはくすくすと笑いながら、町用の服で屋敷の廊下を歩くときのいつものマントを羽織る。服を隠す目的で使用しているが、真夏と違って、そろそろ暑さも感じなくなっているので助かる。
「じゃ、出かけましょう。エルミ、悪いけど今夜もお願いね」
 独りで出掛けることを考えたこともあるが、そこはエルミに『絶対に反対します』と主張された。
 エルミは己の同行を条件にジュリアの行動を止めないばかりか、協力者になってくれる。
 できるだけ人がいない廊下を選んで歩き、裏口から出て、素早く乗り込んだ簡素な馬車を操る御(ぎょ)者(しゃ)のセバスチャンも協力者の一人だ。
 確認したことはないが、エルミとセバスチャンは恋人同士ではないかと思う。
 ——二人を共犯者にしているわね。ごめんなさい。もしも事が表に出るようなときは、絶対に二人が咎(とが)められないようにするから。
 馬車の座席には、料理長がそっと忍ばせてくれたお菓子の袋がある。
 料理長は協力者というわけではないが、『小さな袋に詰めたお菓子を幾つかほしいの』というジュリアの望みを、なにも言わずに叶えてくれていた。
 ——私のわがままだわ。みんなごめんね。あと少しだけ見逃して。結婚相手が決まれば、もうこういうこともできなくなるでしょうから。
 誰も彼も、ジュリアがストレスで倒れてしまうよりはマシという、微妙な判断の末だろう。
 ジュリアは三年ほど前に、屋敷で倒れたことがある。医師が告げたところによれば、ストレスと緊張による疲労が原因らしいが、ジュリア本人もその通りだと思った。
 動き出した馬車の中でコートを脱いで寛(くつろ)ぐ。向かいではエルミが、狭いところでぱぱっと町娘の付添人らしい服に着替えていた。この早業(はやわざ)には、いつもすごいと見惚れる。
 天気の良さもあって町中はとても賑(にぎ)わっていた。
 馬車も人も行き交う大通りを何度か曲がって到着した先は、王都に一つだけある修道院だ。ここには良家の子女が教育のために入れられている。
 教育の内容は、いかに素晴らしい貴婦人になるかであって、家のために尽くすこと、自己主張をせずおとなしくして、刺繍をしながら毎日を美しく着飾って過ごすことなど、淑女の見本になるよう指導される。
 文字の読み書きも習うが、全般的に屋敷の家庭教師が教えてくれる内容と大差はない。
 町へ出るようになってから豪商の娘という仮の姿で、修道院で数回教えを受けたが、すぐに飽きてしまった。
 彼女は、隣接して建てられていた孤児院の方に、より強く意識が引かれた。初めのうちは覗(のぞ)いていただけだが、いまはしっかり中へ通してもらっている。
 今日も、修道院へは少し顔を出しただけで隣へ行く。
 修道院は、万が一彼女の行動が他に知られた場合の隠れ蓑(みの)だったが、さすがにそれは言っていない。献金を渡せば大歓迎してもらえるからといって、動機が不純なのは確かだ。
 毎回お菓子を持って行くので、孤児院でも歓迎される。
「お姉ちゃん、今日もご本読んでくれる? 文字を教えてくれるんでしょ」
 小さな子はお菓子が第一だったが、少し大きな子たちは別なものを望む。自分たちがいずれ独り立ちするときに必要なもの——読み書きだ。
 ジュリアを取り巻く子供たちに向かって、彼女は笑顔で告げる。
「今日は天気がいいから外でやりましょう」
「はーい」
 皆一緒にばらばらと外へ出て、エルミとセバスチャンが用意してくれた白板の前に座る。白板の横に立ったジュリアは子供たちの先生になった。
 元々は、たまに来る彼女に孤児院の院長が頼んできたことから始まったことだ。
『貧しさから抜けられないのは、学校へ行けないからです。せめて読み書きができないと、自分で本も読めません。新聞も読めないのです』
 学校は、高い授業料を払える豊かな家の男児のものだった。ジュリアは、女の子にも男の子と同じような教育があればいいのにと思うし、なにより誰もが通える学校があればと考える。
「こらっ、ジェミニ。ちゃんと聞きなさいっ」
 ここでは、青空の下で大きな声も出せる。走り出した子供を追いかけてジュリアも走ることができた。
 彼女にとっても、ここでの時間は大切なものとなっている。エルミもセバスチャンも、ジュリアの助手をしながら、見守ってくれていた。
 公爵家の財力があれば学校の一つや二つ建てられそうだが、個人の力で永続させるのはどう考えても無理がある。第一、莫大と言われるバーンズ家の財産は、父親の代になってから減る方へ向かっていた。
 この時代、収入以上にお金を使う貴族階級がやせ細ってゆくのは当然の流れだ。
 国王陛下からの高位の貴族家への手当も年々減っているらしい。
 自分の荘園やワイン蔵を大きくしてゆく商(あきな)いができない者は、現在持っているものを使うしかなかった。ジュリアが見るに、人の良い父親にそういった商才はない。
 ——それに、自分で築き上げた財産ではないもの。学校とはいえ、自分の勝手で使うわけにはいかないわよね……。
 国の事業ならどうだろうかと思うが、まさか政務に口など出せるわけがない。公爵の娘というだけで、二十歳の貴族の娘には何の力もなかった。
「今日はこれくらいにしましょう。本を置いてゆくから、読んでみてね。また来るから」
「いつ来るの?」
「……うーん、そのうち、かな」
 ジュリアは、ぶーぶー言われながら困った笑みで子供たちの顔を見回していたが、ふと強い視線を感じて顔を上げた。
 孤児院の庭は狭い。それを隣の修道院の建物や木立がぐるりと囲んでいるので、通りから覗くことはできないはずだ。だからこそ人目をはばからず外で勉強などということをしていた。


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