書籍詳細
救国の乙女の秘密〜永劫の愛に堕ちて〜
定価 | 1,320円(税込) |
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発売日 | 2019/07/26 |
電子配信書店
内容紹介
立ち読み
序章
最後の夜が、明ける──。
薄もやのなか、ヴァイオラ・デュメリーは将校用の白い軍幕を出た。歩(ほ)哨(しょう)と行き会うのを避け、軍営の外れの木立から白みゆく東の空をじっと見つめる。
冷えた微風が青白い頬を撫で、白銀の髪がわずかにそよいだ。空が明るさを増すにつれ、澄んだアイスブルーの瞳は逆に翳(かげ)りをおびてゆく。
「これが見納め……か」
ふと洩(も)らした呟きに、笑みをふくんだ声が応える。
「そうとも限らん。うまくすればもう一回くらいは見られるかもしれないぞ」
いつのまにか傍らにひとりの青年が立っていた。ヴァイオラは表情も変えず彼を見た。黒髪に真紅の瞳をした、恐ろしいほどの美青年だ。
洗練された貴族の服装に身を包んだ青年は、ヴァイオラと並び立つと袖口から紅く熟(う)れた林檎(りんご)を取り出した。
「食べるか?」
「遠慮する。〈死神〉の差し出すものを迂闊に口にするわけにはいかない」
「疑り深いな。ただの林檎だぞ?」
青年は肩をすくめ、林檎にかぶりついた。皓(こう)歯(し)がシャクッと涼しげな音をたてる。微苦笑してヴァイオラは地平線に視線を戻した。
大地と接する空がどんどん明るくなる。やがて、ゆるやかな起伏をえがく丘陵地の向こうから、きらめく光の輻(や)が現れた。
今まで平坦に見えていた地形が、影をおびて立ち上がる。曙(しょ)光(こう)がヴァイオラの白銀の髪や磨かれた甲(かっ)冑(ちゅう)に反射して荘厳に照り輝いた。
太陽が世界を照らしながらゆっくりと昇ってゆくさまを、ふたりはしばし黙って見つめていた。
やがて〈死神〉が呟いた。
「……光がなければ影もない。闇は平等だ。そうは思わぬか?」
ヴァイオラはゆるくかぶりを振った。
「それでも人は光を求める。薄明を漂(ただよ)うだけでは生きているとは言えない」
「奴がおまえの光だと?」
頷くヴァイオラに〈死神〉が溜息をつく。
「とんでもなくゆがみ狂った光としか思えんが……。ま、確かに強烈ではあるな。なにしろおまえだけをまっすぐに照らす光だ。ふむ、結局目が眩(くら)んだか」
「かもな」
ふっ、とヴァイオラは微笑んだ。いっそあの強烈な光に包まれ、目を灼(や)かれてしまえば楽だったのに。他には何も見えなくなって。
溺(おぼ)れるほどに注がれる愛に盲(めし)いたまま、あの腕に抱かれて最後の日を迎えられたら、きっと『幸せ』だった。
「……わたしはいつまで生きられる?」
「最長でも夜明けまでだな」
淡々と〈死神〉は答えた。
「ということは、おまえがわたしの元を訪れて今日でまる一年か」
感慨深くヴァイオラは呟いた。一年前の今日、自分は年老い、病床にあって歯噛みしていた。若ければ、あの頃のような力があれば……かつてのように敵を蹴散らせたのに……!
……そんな埒(らち)もない妄想が、まさか現実になるなんて。想像だにしなかった。
「愚者(イディオ)。おまえには礼を言う」
向き直って微笑むと、〈死神〉は面食らってヴァイオラを見返した。
「俺は命令に従っただけだぞ? 契約上そうせざるを得なくてな。大体、おまえはそのことで奴を詰(なじ)り、罵(ののし)っていたのではないか?」
「そう、文句は全部彼に言った。だからおまえには礼を言いたい」
「……わけがわからん」
〈死神〉は半分かじった林檎をヴァイオラに投げ、腕を組んで嘆息した。反射的に受け止めた林檎をヴァイオラが見るともなしに眺めていると、不機嫌そうに〈死神〉は言葉を継いだ。
「奴の元に辿り着く前に手間取るのも面倒だろう。それを食っておけばいくらか力が増すはずだ」
「……そうか。ならばいただいておく」
ヴァイオラは頷き、林檎をかじった。爽(さわ)やかな甘みと酸味が口中に広がる。さくさくと林檎を食(は)んでいると、背後から自分を呼ぶ声が聞こえてきた。
「大元帥閣下──!」
肩ごしに振り向くと、従卒を務める少年兵が走ってくる。ヴァイオラは林檎の芯を無造作に投げ捨て、少年に向き直った。
「トマ。何かあったのか?」
「い、いえ。起こしにまいりましたらお姿が見えなかったものですから、心配になって……。お、おはようございます」
眩しそうな顔で敬礼する従卒にヴァイオラは苦笑した。
「逃げたとでも思った?」
「とんでもない! 閣下が心配で……、また敵方に拉致(らち)されたのではと」
「ここは軍営の真ん中だ。あのときとは状況が違う」
「そ、そうですよね。──あ、朝食を用意しましたので温かいうちにお召し上がりください」
「ありがとう。食事が済んだら軍議を行なう。今日の手(て)筈(はず)を再確認しておきたい」
「かしこまりました!」
純白のマントをひるがえして大股に歩きだすヴァイオラの後にトマがいそいそと従う。〈死神〉はいつのまにか消えていた。最初から誰もいなかったかのように。
ざっ……と光をはらんだ涼やかな風が吹く。建ち並ぶ軍幕の天辺で、リュドヴェール王国の蒼と金の軍旗が無数にひるがえっていた。
?
第一章 永劫の罪と罰
「──あなたとは結婚できないわ」
決意を込めて切り出すと、それまで新生活について嬉しそうに語っていた青年がぽかんとした。
ギル・ド・レディウス。戦友であり、親友であり、恋人でもあった彼の整った容貌がこわばってゆくさまを、ヴァイオラは針を呑(の)む心地で見つめた。
「な……何を言ってるんだ? オリー」
彼だけが呼ぶ、秘密の愛称が鼓膜に突き刺さるかのよう。もう二度と、この名で優しく呼ばれることはない。
そう思うだけで胸が潰れそうだった。でも彼の妻にはなれない。いくら彼を愛していようとも、絶対に。
「や、やだなぁ、変な冗談を言わないでくれよ。心臓が止まるかと思ったじゃないか」
いっそわたしの心臓が止まってしまえばいい。彼に愛されたまま死ねるのなら、そのほうがずっと、ずっと──。
そんな心の叫びを押し殺し、すべての感情に蓋をして無表情にヴァイオラは繰り返した。
「冗談ではないわ。あなたとは結婚できないの」
まじまじと見返したギルが、テーブル越しにぎゅっとヴァイオラの手を掴む。
ふたりは聖堂の街ドゥニゼルの中央市場にほど近い、こざっぱりとした食堂の屋外席で昼食を取っていた。皿はすでに空になっていたが、何を食べたのかも覚えていない。これから彼に告(つ)げなければならないことを思えば料理を味わうどころではなく、ただ口に詰め込み、飲み下しただけだ。
ギルは金緑の瞳で真剣にヴァイオラを見つめた。
「不満があるなら言って」
「特に不満はないわ」
「僕が年下だから?」
確かに彼はふたつ年下だが、気にしたことなど一度もない。意識したことすらなかった。そこをあえて頷く。
「そうね。どうしたって頼りない気がしてしまうもの」
嘘だ。いつだって彼を頼りにしていた。側にいてくれるだけで心を強く保てた。
ギルの瞳が傷ついたように揺れ、罪悪感が胸を刺す。その痛みに耐えながらそっけなくヴァイオラは告げた。
「ともかくあなたと結婚するわけにはいかないの。婚約は解消するわ。安心して、発表してないからあなたの名誉は傷つかない」
「そんなことどうでもいい! どうしてだよ? 僕が嫌いになったのか?」
「別に」
淡々と答え、ひそかに唇を噛む。嫌いになったと言ってしまえばいいのに。好きじゃなくなったから結婚しない。ただそう告げればすむことなのに。どうしても彼を『嫌い』だと口にできない。だって本当に、誰より愛しているのだもの。
どうしたら、嫌いだと言わずに諦めてもらえる……?
「……あなたのことは好きよ、ギル。でもそれは違うって気付いたの」
「何が違うんだ?」
「わたしにとってあなたは……『家族』なのよ。大切な家族。誰より大事な、わたしの『弟』……。『弟』とは結婚できないでしょう?」
「馬鹿にしないでくれ!」
「馬鹿になんてしてない。本当に、ただあなたが大切なの」
こわばった頬を無理に動かして笑みのかたちを作る。本当よ。本当にあなたが大事。あなたが好き。あなたと一緒に幸せになりたかった。それが無理ならせめてあなただけでも幸せになってほしい。
わたしのことは、どうか忘れて──。
くしゃくしゃと天使のごとき美貌がゆがむ。そうすると十九歳という実年齢よりも稚(いとけな)く見え、思わず手を伸ばしてその頬を包みたくなる衝動を、掌に爪を食い込ませて押しとどめた。
「……ひどいよ、オリー」
ええ、本当ね。本当にひどいわ。
「僕が頼りないと言うなら、頼れる男になるよ。絶対なる。貴女のためならいくらだって努力するし、なんだってする。きっと強くなるよ。貴女が望むなら、貴女よりも強くなってみせるよ」
「あなたはとうにわたしよりずっと強いわ。本気を出したあなたにはきっともう敵(かな)わない」
「だったら! 僕に頼ってよ。うんと幸せにするから!」
「……無理なのよ。わたしたち、一緒になっても幸せにはなれない。けっして」
「僕が好きだと言ってくれたのは、嘘だったのか……?」
「嘘じゃないわ。でも違う『好き』だったの」
「キスしたじゃないか」
「間違いだったわ」
「間違ってなんかいない!」
ギルが怒鳴り、屋外席の他の客や通行人が驚いたように振り向く。ヴァイオラはうつむいた。今は平凡な町娘の恰好をしているし、特徴的な白銀の髪はまとめて帽子に押し込んでいるから正体を見破られることはないはず。
それでもあまり人目を引いてはまずい。ギルは侯(こう)爵(しゃく)令息にもかかわらず気さくで、貴(き)賤(せん)を問わず知り合いがたくさんいる。顔を知っている人がそこらを通りかからないとも限らない。
ひときわ強く拳を握りしめ、ヴァイオラは必死で小馬鹿にしたような表情を繕(つくろ)った。
「やっぱりお子様ね。戦場ではいくら勇敢でも平時にこれでは先が思いやられる。戦争は終わったのよ。王太子殿下は無事戴冠式を済ませ、リュドヴェールの正式な国王となられた。敵軍が退けば、わたしの役目は終わり。これからはごくふつうの女として生きるつもりよ」
低い声で言い聞かせるように囁(ささや)く。
「だから僕が幸せに──」
「言ったでしょう。あなたとでは無理なの」
「どうしてだめなのさ? 僕が跡取りじゃないから?」
「……そうね」
ギルはますます傷ついた貌(かお)になり、ヴァイオラの心から新たな鮮血が噴き上がる。
いいのよ、それで。わたしに幻滅して、嫌いになって。あさましい女だと軽蔑して。
「わからない? 今のわたしには強力な庇護者が必要だってことが。わたしをよく思っていない貴族は大勢いる。特に陛下の側近には多いわ。彼らの声は日に日に高まっている。即位したばかりの陛下の立場はまだ安定していない。彼らの意向を無下にはできないわ。わたしは王国大元帥の名誉称号をいただいたとはいえ、実質的な兵権はすべて取り上げられて引退を迫られている。今後どうなるか、すごく不安なの」
「僕では支えられない、と……?」
答えずに微笑んだ。哀れむように口の端をゆがめて。
彼の指から力が抜けるのが伝わり、ヴァイオラはそっと手を引いた。そのまま立ち上がり、彼の傍らに歩み寄って囁いた。
「さよなら、ギル。わたしを忘れて、どうか幸せになって」
彼は答えなかった。向かいの席をただ呆然と眺めている。そこにヴァイオラが座っているかのように。
彼を抱きしめ、青ざめた頬に唇を押し当てたい衝動を必死でこらえて踵(きびす)を返した。
雑踏にまぎれて石畳を歩きだす。足どりは次第に速くなった。気がつくとヴァイオラは泣きながら走っていた。
(神様……! ああ、神様、あんまりです! 初めて好きになった人なのに。あれほどわたしを愛し、大切にし、いつだって傍らに寄り添ってくれていた人なのに……)
求婚されたときは嬉しかった。天にも昇る心地だった。戦いが終わったら彼の妻となって新たな人生を始めるのだという希望は、我らが王太子を敵に先んじて王位につけるという大義名分よりもいつのまにかずっと大きくなっていた。
それを神は不実と見做(みな)されたのか……。
戦いを生き延びたふたりの義兄に、ギルと密かに交わした結婚の約束を打ち明けると、義兄たちは絶句して顔を見合せた。そしていかにも言いづらそうに、気の毒そうに告げたのだ。
それは無理だよ……と。
身分差でも財産の多寡でもなく、いくらふたりが愛し合っていようともけっして許されないのだ、と。
理由を聞いてヴァイオラは呆然とした。嘘よと叫んだ。信じたくなかった。だがそのことは養父の遺言書にもはっきりと書かれており、養父に先立って亡くなった母が頼んだことでもあったのだ。
数日は食事も喉を通らず、ぼんやりと泣き暮らした。どうしていいかわからなかった。ただひとつはっきりしていたのは、ただちにギルと別れなければならないということ。
だから、そうした。ナイフを呑むような心地で彼と会い、別れを告げた。それは想像よりもずっとつらく、悲しく、心が切り裂かれるように痛かった。
とめどなくあふれる涙をぬぐいながら賑わう市場を駆け抜け、反対側の道端に停まっていた馬車にヴァイオラは乗り込んだ。
馬車のなかには白い髭を口許にたくわえた、威厳と風格を兼ね備えたひとりの老人が座っていた。彼は気づかわしげにヴァイオラを見やり、白いハンカチをそっと差し出した。
「……すみません」
ハンカチを目許に押し当て、鼻声でヴァイオラは呟いた。
「大丈夫かね」
「ええ……いいえ……」
声を詰まらせるヴァイオラに、老人は慈愛のまなざしを向ける。
「無理しなくていいのだよ」
「すみません、もう大丈夫です」
ヴァイオラは鼻をすすり、しゃんと身を起こした。
「本当にいいのかね?」
「ええ。お願いします」
老人は溜息をついた。
「彼に恨まれるな」
「すみません……」
「それはいいが、やはり本当のことを告げたほうがよくはないかね? つらいことだが、事実を知れば、彼とて納得するだろう」
ヴァイオラは弱々しくかぶりを振った。
「納得してくれないかもしれません。信じずに暴挙に及ぶのではないかと心配なんです」
「まぁ確かに、な。心根が純粋なぶん、気性も激しい」
ヴァイオラは涙で湿ったハンカチを握りしめた。
言い訳だと自分でもわかっている。忘れて、と告げながら本当は忘れてほしくなどなかった。
永遠に、彼の心を占めていたい。愛が許されないなら、憎しみで。いつか彼が他の誰かを愛するなら、その愛を凌(りょう)駕(が)するほどの強い憎悪で憎まれたい。
(勝手だわ)
矛盾もいいとこ。彼に幸せになってほしいのに、忘れてほしくない。自分のあさましさを突きつけられて反吐(へど)が出そう。
「……やはり修道院に入れないでしょうか」
「陛下がお許しにならない。そこまで認めてしまえば諸侯の圧力に屈したと思われるやもしれぬ。貴族たちは今まで同様国王を軽んじて我が物顔にふるまい、王権強化の道が遠のいてしまう。そうなればふたたびヴィルブラントに付け入る隙を与えることになりかねない。退いたとはいえ、奴らは我がリュドヴェールの王位継承権を主張し続けている」
「そうですね……」
小声で呟き、ヴァイオラはうなだれた。国王の立場が磐(ばん)石(じゃく)となるまでは、ただのお飾りであっても引っ込むわけにはいかないのだ。
修道院に入りたい、と跪(ひざまず)いて申し出たヴァイオラの手を取って引き起した国王の額には、長年の流浪生活で刻まれたしわがくっきりと浮かんでいた。国王はすがるようにヴァイオラを見つめて訴えた。
『そなたは救国の乙女だ。余の王位を守れるのはそなたしかおらぬ』
……と。
「巻き込んでしまってすみません」
「なぁに。誰にも文句のつけられない相手となれば、この私くらいだからな」
元気づけようとわざとおどけてくれたのを察し、ヴァイオラは無理に笑みを浮かべた。老人が背後の壁を叩き、馬車がゆっくりと動き出す。
うつむいていたヴァイオラは気付かなかったが、その馬車を憑(つ)かれたようなまなざしで凝視している青年がいた。ギル・ド・レディウスは遠ざかる馬車を食い入るように見つめながらぽつりと呟いた。
「ひどいよ、オリー。こんなことならいっそ、僕を殺してくれればよかったのに──」
それから数日後。リュドヴェール王国陸軍元帥ジャン=ジャック・ド・レイナール侯爵と、このたびの対ヴィルブラント戦役において獅(し)子(し)奮(ふん)迅(じん)の働きをした通称〈乙女将軍〉、王国大元帥の称号を授与された女騎士ヴァイオラ・デュメリーの婚約が大々的に発表された。
直後はふたりの親子ほどの年齢差にとまどう声も大きかったが、これもヴァイオラの働きに対する褒(ほう)賞(しょう)のひとつであろうと、皆すぐに納得した。ヴァイオラは軍人の子女とはいえ貴族ではないからだ。
国王は彼女の功績に報いようと爵位と領地を与えることを図ったものの、周囲を固める大貴族たちの反対にあって果たせず、申し分のない地位と財産のある男に嫁がせることで貴族奥方という地位を与えてやるしかなかったのだ、と。
レイナール侯爵はヴァイオラにとって恩人でもあった。彼女を最初に取り立て、強力な後ろ楯となったのは他ならぬ彼だったのだ。
元帥は奥方を早くに亡くし、以来やもめを通してきた。息子とその嫁は病気で相次いで亡くなり、家族といえば幼い孫がひとりだけという、家庭的にはあまり恵まれていないが、武人としても司令官としても非常に有能で人徳のある人物として知られていた。
よって、国王が〈乙女将軍〉の嫁入り先に選んだのはもっともだという意見が大半を占めた。ヴァイオラのカリスマ性を苦々しく思っている貴族たちからすれば不満ではあるが、大元帥とはいえ実質的な指揮権を持たない名誉職だ。
結婚して人妻となったからには現役の陸軍元帥である夫を押し退けてしゃしゃり出てくることもあるまい。とりあえずはそう安堵した。
婚約発表から十日後、戴冠式の行なわれたドゥニゼル大聖堂で国王臨席のもと盛大な結婚式が挙げられた。
挙式後、外に出て階段の上に並び立って人々の喝采を浴びながらぎこちなく微笑んでいたヴァイオラは、高揚した顔で歓呼の声を上げる群衆に混じってじっと自分を凝視しているギルを見いだした。
凍った手で心臓を鷲掴みされたかのような感覚に襲われる。ギルはガラス玉めいた瞳でヴァイオラを見つめていた。かつては生命力に満ちあふれ、いきいきと輝いていた瞳は今やすっかり暗く澱(よど)んでいた。
ショックで目を逸らせずにいると、隣に佇(たたず)むジャン=ジャックがいぶかしげに呼んだ。
「ヴァイオラ? どうしたね」
ハッ、と瞬きして夫を見上げる。
「あ……。こんなにたくさん人が集まるとは思ってなくて……」
「『救国の乙女』の婚礼だ。当然だよ」
ぎくしゃくとヴァイオラは微笑んだ。促されて歩きだしながらさりげなく視線を向けたが、すでにギルの姿は群衆にまぎれていた。
(ごめんなさい……)
心のなかで幾重にも詫びながら、ヴァイオラは大聖堂を後にした。
結婚後のヴァイオラは外出することも稀(まれ)になり、広い城館でひっそりと暮らし始めた。本当は夫の領地に引っ込むはずだったのだが、未だ不安のぬぐえない国王が、いつでも召しだせるよう近くにいてほしいと言い張ったため、王都に屋敷を構えたのだ。
習慣となっている武芸の鍛練は欠かさないものの、それ以外は上流夫人らしく豪華なドレスを身にまとい、刺繍や絵画をたしなみ、読書をしたり、夫の孫と遊んでやったりして穏やかに過ごしていた。
ただひとつ、気にかかるのはギルのこと。
彼はヴァイオラがドゥニゼルを去ると同時に勝手に軍を辞め、行方をくらました。挙式のときに見かけた虚ろな瞳が気になって仕方ない。ただ暗いだけでなく、沈みゆく太陽を覆い隠す黒雲のごとく、それは奇妙に不安と焦燥感を掻き立てる目付きだった。
彼を探してくれるようかつての戦友たちに頼んだが、杳(よう)として行方は知れない。どこでどうしているのかと気を揉んでいると、数カ月たっていきなり彼は王都に現れた。
ホッとしたのもつかのま、ギルは別人と成り果てていた。
以前は気の合う仲間とたしなむ程度だった酒や賭博にのめり込み、悪所に入り浸り、毎晩のように深酒をしては喧嘩騒ぎを起こした。憲兵隊にしょっぴかれて留置所に放り込まれたのも一度や二度ではない。
レディウス侯爵家の当主である兄がいくら諫(いさ)めても聞く耳持たず、来る日も来る日も賭博と喧嘩に明け暮れた。
ついにはイカサマをしたのしないのという諍(いさか)いから乱闘となり、裏路地で冷たくなっているのを夜警に発見された。脇腹を刺された傷が内臓にまで達していたという。
夫から知らせを聞いたとたん、ヴァイオラは目の前が真っ暗になった。卒倒したのだと悟ったのは意識を取り戻してからだ。生まれて初めての失神だった。
夫に支えられてとるものもとりあえず葬儀に赴(おもむ)くと、飛び出してきたギルの妹にいきなり平手を見舞われた。彼女は凄まじい剣幕でヴァイオラを罵った。
「あんたのせいよ! 兄さんが死んだのはあんたのせいだわ! 兄さんは身を挺(てい)してあんたを守ってきたのに、自分ひとり幸せになって兄さんの悩みも苦しみも聞いてあげようとしなかった。知ってるんだから! 兄さんに会って、諭してやってくれってみんなが頼んだのにあんたは断ったって」
わめき散らす妹を叱りつけ、レディウス侯爵が幾重にも詫びる。謝罪の言葉も、慎(つつし)めと妹に怒鳴る声も、遠いどこかでぼんやりと響いているかのようだ。
ヴァイオラはふらふらと柩(ひつぎ)に歩み寄った。白いユリの花に包まれて、ギルが横たわっていた。
「ギル……?」
血の気の失せた頬に、指先で触れる。冷たい。まるで石のようにぬくもりが感じられない。
(──嘘よ)
いつだって彼はあたたかかった。なめらかなその頬も、唇も、まなざしも。何もかもがあたたかく、愛情にあふれていた。
その彼が冷たくなって柩のなかに横たわっている。
「嘘でしょ……?」
ヴァイオラは囁いた。
「ギル……、起きて。謝るから。全部わたしが悪かったの。お願いよ、機嫌を直して……」
「今さら遅いわよ!」
もがきながら妹が怒鳴る。憎しみと悲憤に満ちたその声に鞭打たれたようにヴァイオラはよろめき、柩の縁をぎゅっと掴んだ。
「やめないかっ」
兄のレディウス侯爵に叱(しっ)咤(た)されても彼女は叫び続けた。
「兄さんは……兄さんは強くて優しい人だった! どんなに忙しくても、疲れていても、人の話を親身に聞いて、助けてあげられる人だった。あなたに出会ってからは、まるで神様みたいにあんたを崇め、尽くしてた。誰より勇猛果敢に戦ってきた! たくさんの手柄を立てた。兄さんは英雄よ! 王国大元帥の称号は兄さんのものだったのよ!」
「いいかげんにしろ!」
レディウス侯爵が眉を吊り上げて怒鳴っても彼女はひるまなかった。
「なのにあんたは兄さんの手柄を全部横取りして知らんぷり! 貴族の奥方に納まりかえってのうのうと暮らしてる。兄さんがもがき苦しんでいても手をさしのべようともしなかった。兄さんがどこで死んでたと思う? 薄汚い場末の路地裏よ? 冷たい石畳の上で、ひとりで死んでたのよ! たったひとりで……誰にも看取られずに……! あんまりだわ! あんまりじゃないのよぉっ……!」
嗚(お)咽(えつ)で声が続かなくなる。泣き咽(むせ)ぶ妹を、苦悶に顔をゆがめて兄が抱きしめた。ヴァイオラは立っていられなくなり、がくりと床に膝をついた。
すぐ目の前にギルの横顔がある。やつれてもなお端整さを失わないその横顔が、涙でゆがんだ。
「ごめんなさい……。ごめんなさい……ギル……許して……」
ふっ、と彼が微笑んだ気がした。甘い声が耳元で囁く。
『だめだよ、許さない』
愛を囁いたのと同じ口調で、幻が囁く。
『オリー。僕はけっして貴女を許さないよ』
(……そう、そうよね……。許されるはずがないわ)
瞬きすると溜まった涙が頬を伝い、顎から黒いドレスに滴り落ちる。
たとえ彼が許してくれたって、自分が許せない。別れを告げながら、忘れられたくないと願った身勝手な自分を。そのせいで彼は死んだ。孤独の内に。
こんな死に方をすべきではなかった。家族や友人に囲まれて、穏やかに、安らかに大往生を遂げるべき人だった。
妹の言うとおり、彼こそが真の英雄だったのだ。わたしが戦えたのは彼に守られていたから。いつだって彼が守ってくれたから、それが当然であるかのように信じきっていたから。だから何物をも恐れることなく目の前の敵に集中できたのだ。
ギルがいなかったら、我らが王太子を王位につけることも、敵の支配下にあったあまたの町を奪還することもかなわなかった。歓呼の声も称賛も、すべては彼のものだった。彼にこそ大元帥の称号が授けられるべきだったのに……!
その名誉を横取りしたうえに、こんな酷い死に方をさせた。
すべてはわたしのせい。わたしの罪。
『許さないよ、オリー』
彼の幻がやわらかく微笑む。甘い声で囁きかける。
『絶対に許さないからね』
愛を囁いたのと同じ声音で、繰り返し、繰り返し。
(ええ、ギル。わたしを許さないで)
永遠に、わたしを許さないで。
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